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秋葉原事件と時代の感性:識者座談会/上

 秋葉原の17人殺傷事件からはや2カ月。事件で見えた時代の性格、世代の感性、格差などはまだまだ論じ尽くされていない。90年代から大事件について発言してきた大澤真幸・京大教授、オタク文化やネット社会に詳しい批評家の東浩紀さん、若年層の労働問題を論じる批評家の大澤信亮さん。識者3人の議論を上下2回で掲載する。【構成・鈴木英生、写真・川田雅浩】

 ◇メディア上の議論少ない--大澤真幸さん

 ◇「誰でもいい」が共感呼ぶ--東浩紀さん

 ◇労働運動の言葉届くか--大澤信亮さん

 大澤真幸さん(以下、真幸) 今回の秋葉原事件は、マスメディア上での議論が比較的少なかったですね。90年代のオウム事件や酒鬼薔薇(さかきばら)事件では、事件の不可解さから、メディアがなぜ事件が起きたのか一生懸命に考えた。ところが、2000年前後から、犯罪者への関心が急速に下がって、おおむね「変な人はいるものだ。それよりセキュリティーだ」となってきました。一方ネットなどには、ものすごい量の議論があり、事件への少なからぬ共感があります。

 東浩紀さん(以下、東) マスコミの言論が社会的包摂の機能を失っているのでは。事件の意味を見いだし、それに社会全体が共感して「異常者」を包摂する構図が、信頼されなくなってきた。

 他方で今回、ネットでは加害者への幅広い不定形の共感がみられました。でも、共感した若者が全員、派遣労働者で非モテ(異性にもてない)ではない。もう少し緩やかな共感があります。最近、通り魔事件のキーワードは「誰でもよかった」ですが、精神科医の斎藤環氏が言うように、被害者だけでなく加害者すら誰でもよかったのではないか。

 「敵は貧困を生み出した経団連なりであるはずが、間違えて秋葉原に行った」という話ではない。むしろ匿名の誰でもいい加害者が匿名の誰でもいい被害者を殺すことでしか、今の怒りは表現できない。その匿名性、あるいは無名性が共感された。アキバもネットで一番目立つ場所だから選んだに過ぎない。加藤智大容疑者のネットの書き込みは、派遣問題や非モテ問題すら演出していたふしがある。彼自身は女性の友人もいたらしいし、極端に搾取されていたわけでもない、とも聞きます。

 大澤信亮さん(以下、信亮) 評論家の解釈が社会的な意味を持たない、という話はよくわかります。ただ、わかりやすい原因探しはもちろん、「原因を貧困に求めるな」とか「彼はオタクではなかった」という一見「冷静」な判断も一種の思考停止に見えてしまいます。必要なのは語る側の内省ではないか。

 たとえば、僕はフリーター運動のあり方について考えさせられました。彼は「内なる自己責任」を背負わされていた。『反貧困』の湯浅誠さんが言う、五重の排除があった。教育、企業、家族、公的福祉から排除され、最終的に自分自身からも排除されて、自己責任論にとらわれてしまう。そのがんじがらめの解除を目指してきたのが、プレカリアート運動(フリーターや派遣など若年層の労働運動)でしょう。責任は自分ではなく社会にある、と。

 ところが、彼のネットでの書き込みは、自分の状況を社会問題としてとらえる回路がまったくない。モテないとか、電車で人が横に座ってくれなかったというレベルの話ばかり。これはどういうことか。単純に量的な問題で、運動がもっと拡大すれば彼にも届いたのか。違うと思う。いくら「あなたのせいじゃない」と主張しても届かない人がいる。彼は今のフリーター運動にとって「他者」だったと思うんです。しかも彼は不安定就労の典型的な当事者でした。つまりもっとも届けるべき人に届かなかった。これは深刻です。

 僕がかかわっている『フリーターズフリー』という雑誌は、「当事者の声」を届けるために創刊しました。でも、僕が感じている当事者性とは、そもそも「自分は被害者だ」「誰かのせいにしたい」ではない。一方で被害者であり、同時に、他方で加害者でもある、という二重性こそが当事者性だと思うんですね。

 現在のフリーター運動は一般に、自分たちは被害者だとアピールし、敵を外に見いだすことで共感を求める運動だと考えられています。この現状を内と外の両方から変える必要を感じます。

 真幸 一般には、共感する人が少ないなら、社会がそれを包摂する必要性も小さくなります。しかし、今回の事件では、意味的には包摂されなくとも感覚的に幅広い共鳴がある。

 ちょうど40年前の永山則夫事件と、今回の事件と比較してみるとよい。永山も加藤容疑者と同じく、青森から東京に出てきた。永山は4人を連続で射殺した。彼はまともに教育を受けられない状態で育って事件を起こし、獄中で勉強した。そして、貧困による無知が自分の事件を生んだとの結論に達した。

 加藤容疑者は永山ほど単純に無知だったとは言えない。永山が見当外れな人を殺したのは、まさに無知による。加藤容疑者も「本当の敵を間違えた」のでしょうか。

 僕の恩師である見田(みた)宗介さんが、かつて展開した「疎外」についての議論を援用します。疎外の概念は、普通、労働疎外みたいに「~から疎外されている」と使う。しかし、見田さんは「~からの疎外」の前提に「~への疎外」を置いた。貧困は富から疎外された状態だけど、「富からの疎外」の前提には「富への疎外」がある。つまり、富があるのは幸せの証しとされていて、みんながそれを欲望している。これが「富への疎外」です。で、得られないのが、「富から疎外」された貧困だと。

 結論を言えば、永山には「~への疎外」があったが、加藤容疑者はそれからも疎外されていたのでしょう。「~への疎外」があれば、まだマシ。

 たとえば、甲子園で優勝を目指す野球部は、見田風に言えば「優勝の喜びへと疎外」されている。そのチームでは、ずっと球拾いの人も、自分は甲子園優勝という崇高な目標を持つ部の球拾いだと思えば、少しは救われる。

 「~への疎外」の中にいれば、資本家を狙ってテロをする構図にもなるが、加藤容疑者にはそれすら成り立たない。つまり彼の事件は、テロとして失敗しているという意味でテロになっているんです。

 東 自分が誰であってもいいからこそ、誰でもいい人物と共感する。今の若者は、地縁も血縁も意識せず、「自分が選べないもの」をあきらめて受容するという経験が少ない。今は、「おれは誰でもいいんだ感」や「おれは何にでもなれるんだぞ感」が広く醸成されている。だから、その人たちの共感は、たとえばペンキ屋さんの息子がペンキ屋を継ぐしかなかったから、似た境遇の家具屋さんの息子に共感するという感情とは違う。

 これは、ネオリベラリズムによって社会の流動性が高まった結果です。今の競争社会は、いわばギャンブル社会。スタートは同じだけど、後は「がらがらがっしゃーん」で何人か抜けて、残りが負け組になる。こういう社会では、無名性、匿名性の感覚が強くなるから、今回のような事件が共感される。この状態は変える必要がある。でも、これはかなり抽象的な視点でようやく指摘できる話。今回の事件を、単純に労働問題とは結びつけにくい。

 あと、マスメディアの若者像は、90年代半ば、援交少女の時代から凍結されている気がします。テレビで若者の街として映るのは今も渋谷です。週刊誌で仕事をすると「中高年の読者に分かる書き方で」と言われますが、僕はもう37歳です。でも、いまだに若者扱いです。

 社会的に事件を包摂できない背景には、そういうマスコミの事情もあると思います。就職氷河期などで世代交代が進まなかった時期にネットが普及したから、ネットと従来のメディアとの関係が、世代間格差に重ね合わされている。

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 ■人物略歴

 ◇おおさわ・まさち

 1958年生まれ。東大大学院博士課程修了。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞。今春『<自由>の条件』『不可能性の時代』『逆説の民主主義』を立て続けに刊行。

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 ■人物略歴

 ◇あずま・ひろき

 1971年生まれ。東大大学院博士課程修了。東工大特任教授。批評誌『思想地図』編集委員。『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞。ほかに『ゲーム的リアリズムの誕生』など。

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 ■人物略歴

 ◇おおさわ・のぶあき

 1976生まれ。慶応大大学院修士課程修了。若年層労働問題の雑誌『フリーターズフリー』『ロスジェネ』編集委員。「宮沢賢治の暴力」で新潮新人賞。

毎日新聞 2008年8月20日 東京夕刊

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