一六 米軍機を迎撃
沖縄での戦闘が終結したことにより、米軍は沖縄方面に展開していた海軍を北上させ、直接本土を攻撃するフリー・ハンドを持つことになった。
ハルゼー提督の率いる高速航空母艦群を主力とする第三艦隊は、沖縄からいったん、フィリピンに南下して、休養と、新たな作戦準備を整え、七月上旬に行動を起こし、日本本土を目指して北上を開始した。
海軍軍令部(陸軍の参謀本部にあたる)は早くもこの動きを捉え、その目標は、日本の北方方面であろうと予測した。その根拠は、第一に、この方面が、サイパン、フィリピンから飛来する長距離戦略爆撃機B−29の攻撃圏外にあって、無傷の状態にあったので、これを叩いておく必要があったことである。第二は、国際的な戦略体制からであった。
ドイツの降伏後あたりから米英とソ連(ロシア)との対立が厳しさを増していたので、ソ連が日本側の防衛の手薄な北方方面に奇襲攻撃を始めたら、ソ連の勢力圏が広くなり過ぎるとの懸念があったからだ。
既に、この年の二月、クリミア半島のヤルタで、米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、ソ連(スターリン)会談があったとき、米側はソ連に千島列島北部・南樺太の譲渡、旧満州の権益の回復を認める旨の約束がされていた。しかし、このあと米国は、原子爆弾の開発に成功したことで、ソ連の対日参戦を望まなくなっていた。
いっぽう、ソ連は、この機に乗じて、日本からとれるだけ取っておこうと大軍を集結させはじめていた。米は、苦戦の末、沖縄を手中にしたのは六月末のこと、ソ連は、五月八日にドイツが降伏して極東に兵力を増強しはじめたのであるから、約二ヶ月間はソ連が有利な立場にあったことになる。
米国が、こうした情況にあせって、海軍を日本の北部に向けようとしたのは当然のことであった。
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沖縄の戦闘が終結に向かおうとするとき、北方の風雲がにわかになりはじめ、北東空では司令の交代があった。
大橋恭三という新しい司令(大佐)は有能な指揮官であった。私はこの時から、大橋司令と、敗戦後にいたるまでの長いお付き合いが始まった。
大橋司令は、連合艦隊の航海参謀として、山本五十六元帥の下に居たこともあり、北東空の司令として着任されたのは、既に、敗戦が必至の情勢になり、やがて、この方面で展開されるであろうと予想される、米ソの対立のなかで、どのようにしてこの地域の国益を守るかにあったようだ。
軍令部もこの情報をとるため、千歳基地にソ連の信号傍受、暗号解読のための特別通信室(通称・特信班)を設置した。また、北太平洋方面に展開する米軍の情報もここで分析していた。
かくして、ドイツの降伏と、沖縄戦の終了に伴って米軍の北方への関心の増大とが相侯って、この方面の情勢はにわかに活発となってきた。
しかし、米軍は、沖縄で日本軍の抵抗に手こずったため、ソ連がドイツに勝って極東方面に展開し始めるより、遅れて体制を整えはじめることになったのだ。
大橋司令は、千歳基地に着任して以来、情報の分析と対策に奔走された。なにしろ、管轄が北海道全域と千島列島、(カムチャツカ半島の南の占守島まで)南樺太と広大な地域に亘っていたため、これを掌握することは容易ではなかった。
この頃、わが北東空の千歳基地には、九州方面から沖縄に向けて出撃し、かろうじて帰還した各種の攻撃機をはじめ、輸送機まで集まっていた。これを飛行場周辺の原始林を迷彩に使って巧みに隠す作業に懸命であった。
米軍が本土に上陸をして来た時、残存している飛行機をすべて爆装して水際で突入させ、米軍の艦船を撃破しようとする計画であった。これを「天一号作戦」と名付けていた。
私は、飛行士として北海道・千島・樺太にある航空機の数を、毎月、東京の海軍省と軍令部に報告していたが、この頃、まだ約五〇〇機はあった。しかし、それは寄せ集めのもので、組織的な戦闘能力ではなかった。
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千歳基地を離陸する日本海軍の攻撃機 昭和20年 夏
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既に述べたように、千歳基地は半恒久的な頑強な建築で、現在でも航空自衛隊の北の要衝として使われているほどである。
高い作りの三階建の屋上の中央に指揮所がある。大橋司令は、この指揮所の長に私がなることを指名した。この指揮所で服務するのは、見張、通信連絡を専らにする下士官と兵の約一〇名である。
本来は、砲術、通信、陸戦(海兵隊)関係の者があたるのである。航空科の私に、この任務にあたるようにと指名された。
多くの士官がいるのをさしおいて、私が指名されたことを、私はたいへん名誉に思った。早速、私なりに準備をはじめた。なにしろこの場所は、正面の入口の真上にあたる見晴らしのきくところで屋上なので、上空からはいちばん目標にされ易い。周囲に土嚢は積んであるものの、ロケット弾で上空から直撃されたら、屋根がないので、ひとたまりもない。この建物が出来たときここが空襲されるとは考えなかったようだ。
この狭い場所で、私の部下が士気高く服務できるようにするのには、まず、敵の攻撃から被害を局限しながら任務を果たせるようにすることである。
早速、関係部門にかけ合って、土嚢を補強し、ロケット弾の直撃にもある程度、耐えることが出来るように鉄板を張り巡らした。
いずれもはじめての部下であったが、こうしたことで、私への信頼が深まるようになったようであり、お互いの親近感も高まっていった。一心同体で任務にあたる決意と雰囲気が出来ることになった。
さらに、私は米軍の最新の飛行機の性能を詳細に分析したものを図表にして、いつも首にぶら下げて持っているようにした。これがあると、わが方の電波探知機(既に海軍では、完成品を装備していた)で、どの方向から米軍機が移動しているとの連絡が入ると、あとどの程度の時間にこちらの視界に入ってくることになるということが、すぐに分かるというものである。
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七月はじめに、フィリピンを出航したとの情報以来、杏として行方が分からなくなっていた米海軍の第三艦隊は、わが方の予測の通り、七月一四日になって、ようやく姿を現した。
青森県下北半島の東からわずか一〇〇キロの地点に進出し、航空母艦からグラマンF六F、ヴォートシコルスキーF4Uを中心に相次いで発進させ、北海道、青森方面の主要都市を空爆した。
このとき、航空機による反撃がなかったことから、米軍はこの作戦は一方的勝利に終ると見たのか、翌一五日は、わが千歳基地への威力偵察を兼ねた、空中からの攻撃を仕掛ける作戦でやって来た。ここに私は、初めて米空軍機と相対することとなった。
一方、大胆にも米軍は、軍艦を室蘭、苫小牧沖に集結させ、軍需工場を標的にして艦砲射撃を加えてきた。
これを指揮したのは、バドガー海軍少将であった。参加したのは、あと横須賀沖で降伏文書の調印式に使われた戦艦ミゾリーをはじめ、ウイスコンシン、アイオワ、マサチューセッツ、インディアナ、サウスダコタ、巡洋艦のシカゴ、クインシー、これを護街する駆逐艦群が加わっていた。
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この日、午前九時ごろ、基地の近くの原始林のなかにあった電波探知機隊は、南方海上に航空機の機影を認めた。
直ちに、配置についた。地上にいるのは屋上の指揮所にいる我々と、基地の周辺に展開する高射砲陣地部隊のみである。本部勤務員はすべて地下壕に避難した。
私は、急いで双眼鏡と例の図表を持ってかけつけた。同時に部下も現れて、持ち場に着いて、静かに敵機の来襲を待ち構えた。
七月中旬といえば本州方面は暑い盛りであるが、ここは、やや薄曇りの空模様で、無風ではあるが、涼しい気候、眼下の広い飛行場には芝生が緑を増し、周辺の原始林も静けさをたたえ、これから始まろうとする動きに、全く関係がないと言いたげな風情であった。
我々は静かに、これから始まるであろう動きに備えて無言で待機していた。嵐の前の静けさである。
こうした時には、心の安定が大事である。このとき、私の後ろの方で、声高く話している、見かけない下土官が三人いることを知った。
「ミッドウェー海戦のときは、敵はこうやって来た…」
とか、
「ソロモン群島で軍艦が沈んだときはどうだった…」
とか、これまでの海戦での話をやっているのである。
彼等は、この危険な場所での勤務を命ぜられたのでもないのに、自ら「助っ人」を買って出て、防空壕から飛び出して応援にかけつけてくれたのである。
私は心の中で、こちらで頼みもしないのにやってくるとは仲々のものだなと感心した。彼等も、久しぶりの戦闘に血が騒いで、防空壕から駆け付けて来たのである。これで指揮所内の緊張もすぐにとけて、和やかなものになった。
そんなゆとりもわずかのあいだのこと、「助っ人」の下士官の一人が、
「敵機現る。機数三十なん機」
と、忽ちピタリと言い当てて、私に報らせる。
こうしたことでは新米の悲しさ、私は急いで双眼鏡を調整して、幾らひねくりまわしても、すぐにとらえることが出来ないのである。
やっと、まるで秋の野原の蚊のようなのが南のやや明るい中空に浮かんでいるのが見えた。こちらに向かって直進してくる。私は、確認して通信兵に地下壕の指令室に報告を指示するのであるが、その表現が、学生時代の言葉そのままで、さっぱり軍隊用語になっていないものだから、くだんの歴戦の下十官にうしろでクスクスと笑われる始末、なにしろ、こうしたことは航空科では教わっていないので仕方がない。それでも、かえって、その場の緊張をほぐす効果はあって、敵機の接近の状況を的確に高射砲陣地に連絡してやることが出来た。
米軍機グラマンF6F型戦闘機であつた。基地に接近すると、二編隊に分かれたと見るや、先ずそのうちの一隊の約一〇機が本隊建物に向かって、やや左側から接近して来た。滑走路の近くには高射砲陣地があると判断してそれを避けたのである。
やがて、肉眼でもはっきりと見えるくらいになって来た。そのうち先頭を飛んでいた隊長機らしいのが高度を下げて、本部の建物の中央を目ざしてやって来た。その中央部の屋上に我々の指揮所がある。照準をつけて発射準備にかかろうとしている様子がはっきりと見えた。やがて、操縦士の姿まで見えるほどになり、そのままの体勢で接近してくると思われた。
ロケット砲を発射する直前と見たので指揮所の全貝に、「伏せッ!!」と、命じようとしたその時、飛行機の真下にある、高射砲が息づまるようななかにあった静寂を破って射撃の轟音を響かせた。砲口から出る白煙が緑の草原の上をスレスレに横に流れて行くのが見えた。これは角度が悪い位置にあったので、至近距離で接近してくる飛行機を正確に照準できず、命中させることが出来なかった。高度はもう五〇〇メートルそこそこのところであったが、敵機は、すぐにこれを回避し、左側に、あたかも蝶が舞うかのように旋回して、飛び去って行った。
いま回想しても、危い瞬間であった。時折このことを思い出すのであるが、あの時、下からの射撃が、ほんの一秒くらい遅れていたら、あそこで部下と共に吹き飛ばされていたことであろうと思った。
向かって来たのは、編隊の先頭の機であったので、隊長機と思われたが、あの低空まで接近して、照準を定めて、必殺の発射の姿勢に入るとは、仲々よい度胸の持ち主、敵ながらあっぱれなものであったと思う。
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昭和20年夏 千歳にて
(筆者が手に持っているのは北海道の夏の草)
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米軍機の来襲が終わったので、ひと息ついて、ふと南の海の方角を見ると、遥か彼方の室蘭と覚しきところで、黒煙が上がっているのを認めた。
軍艦による艦砲射撃である。あとで知ったところによれば、軍需工場の日本製鉄と日本製鋼に、約一時間、集中攻撃を加え、一六インチ砲で、一トン爆弾をうち込んだとのことであった。一発の砲弾で、直径一〇メートル以上、深さ数メートルの穴があくという強力なもので、弾片は一面に焼けて飛び散り、多くの死傷者を出したとのことであった。
米軍側の記録によれば、この日、航空母艦を飛び立った艦載機は、約一、二〇〇機であったとある。
この方面で最大の航空基地である千歳に、どうして、集中的攻撃を仕掛けなかったのか、この日は不思議な思いがした。これは、約一ヶ月後に日本が降伏したあとですぐ分かったのであるが、米軍側には、この頃すでに千歳基地を米軍の対ソ作戦の重要拠点にするため、温存しておくようにするとの方針があったからである。