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吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草

徒然なるままにひぐらしパソコンに向かい、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなくかき綴って参りたいと思います。さまざまな分野に関心を持って人生を送ってきていますので、話題も多方面に飛ぶかと思いますが、何卒、お付き合いください。

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「北」の国境

[2007年03月10日(土)]









 写真は上から、北方地域を探検した間宮林蔵(1775〜1844)、19世紀末、サハリンにおけるロシアの囚人たち。日本時代(1905〜45)に建てられた博物館はいまでも郷土博物館として利用されている。





 日露平和条約交渉は今はいわば「水入り」の状態にある。日本側の一部には、「もう一度、全千島なりを要求して、妥協点としての四島で話をつけよ」「そのためには千島を放棄したサンフランシスコ講和会議三カ国全部と個別にでも話し合え」という意見もある。

 しかし、ロシアとてそれが最初に売値を高く吹っかける「バザール商法」であることは先刻、折込済みであるし、何よりも、1991年4月のゴルバチョフ訪日のときの「共同声明」や、93年10月のエリツィン訪日時の「東京宣言」で、両国は四島に限定して交渉することを決めてしまっているのであるから、それを自らくつがえしてしまう不利益を思うとき、私は賛同できない。

 ところで、「北」の国境はどう変わってきたのか。
 
 最初に日ロ両国間で国境が定められたのは1855(安政元)年の日魯通好条約である。川路聖莫とプチャーチンにより下田で締結されたこの条約では、両国の国境は、択捉島と得撫島(ウルップとう)の間に決められ、それより南の島々(択捉、国後、色丹の3島と歯舞群島)は日本の領土、それ以北の千島列島はロシア領ということで国境が画定された。この時、サハリンは両国民混住の地(雑居地)と決められた。

 ちなみに、日魯通好条約が締結された2月7日は、日本政府により「北方領土の日」と定められ、毎年、東京で総理をはじめ、自民党から共産党まで全政党の代表が参加して北方領土返還要求全国大会が開かれているほか、その前後に全国各地で県民大会などが開かれている。

 その後20年経った1875(明治8)年、榎本武揚公使の奔走もあって政府はロシアと「樺太千島交換条約」を締結し、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、サハリン全島がロシア領になった。石炭採掘などのため樺太にロシア人の入植者が増大してロシア側の勢力が伸展していた時期である。政治犯や刑法犯が次々に送られても来た。

 文豪・チェーホフがこの時期にサハリンを訪れ、流刑者たちの悲惨な様子を『サハリン島』の一作にまとめて報告した。

 1875年の条約では、日本に譲渡される千島列島として18島の島名が1つひとつ挙げられているが、北方4島の名はもちろんこれに入っていない。北方4島はこれ以前から日本固有の領土であり、1855年の条約で日本の領土であることがはっきりしていたから当然である。

 日露戦争の結果、1905(明治38)年9月のポーツマス条約で、サハリンの北緯50度線を両国の国境とした。この時点で、地理的な千島列島すべてとサハリンの南半分が日本の領土となった。ちなみに、アメリカとカナダの国境は49度線である。

 大東亜戦争の最終段階で、ソ連は1946年4月まで有効であった日ソ中立条約を破棄し、45年8月9日、満州(中国東北部)と樺太で国境を侵犯、日本軍と激戦になった。

 日本政府は8月15日に「ポツダム宣言」の受諾を発表して終戦としたが、ソ連軍は、同18日になって、千島列島の最北端占守島に空爆と艦砲射撃を加えた。

 対するは第91師団(師団長=堤不夾貴中将)、艦砲射撃と空爆の後に「敵前上陸」を受けたがソ連側に約2千の犠牲を強いた(日本側は約6百の死者)。およそ3日後、札幌からの命令で停戦した。

 以後、カムチャツカ半島から占守島に向かい、島伝いに南下したソ連軍の部隊は、得撫島まで進出して引き返し、南樺太を武力制圧した、ソ連の別の部隊が8月28日に択捉島に無血上陸、以後9月5日までかけて、択捉、国後、色丹の3島と歯舞群島を征圧した。

 爾来、今日まで60余年、わが国固有の北方4島が不法占拠されたまま、両国は正常な外交関係を樹立していない。

 1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約(ソ連は不参加)で、日本は千島列島・南サハリンの権利・権原及び請求権を放棄した。この条約では、放棄した地域をどこの国の領土に編入するかについては触れられていない。また、権利を放棄した千島列島に北方4島は含まれていない。

 水面下ではいろいろ模索し、努力と工夫と忍耐で、時を待つことが、世界に評価される日本外交となるのである。

 


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