特設航空母艦「雲鷹」/旧特設航空母艦「八幡丸」【護送空母】
テーマ:特設航空母艦特設航空母艦「雲鷹」/旧特設航空母艦「八幡丸」【護送空母】
商船「八幡丸」(北アメリカ航路用の豪華客船)を改造。
【同型艦:「海鷹」「冲鷹」】
【竣工】
昭和15年7月31日 日本郵船 客船「八幡丸」
【徴傭】
昭和16年10月21日 特設航空母艦に類別
【改装開始】
昭和17年1月 呉工廠
【改装完成】
昭和17年5月31日
【基準排水量】
17,830トン
【速力】
21.0ノット
【航続力】
8,500浬(18ノット)
【発着甲板】
長さ172.0メートル(のち180メートル〈19年大規模修理時に改装〉に延長)、幅23.5メートル
【兵装】
12.7センチ単装高角砲門、25ミリ連装機銃4基8挺
【搭載機数】
27機 [常用23機、補用4機]
【所属】
海上護衛総隊 18年12月15日付~
第一海上護衛隊 19年8月15日付~
【艤装員長】
湊 慶譲 大佐 (海兵44期) 〔兵備局第二課長より〕16年12月10日~
【艦長】
湊 慶譲 大佐 (海兵44期) 17年5月31日~18年1月28日〔横須賀鎮守府附へ〕
相徳一郎 大佐 (海兵45期/海大29期) 18年1月28日~4月14日〔重巡洋艦「最上」艦長へ〕
関 郁平 大佐 (海兵43期) 〔海軍航海学校教頭より〕18年4月14日~19年3月1日〔海軍航海学校教頭へ〕
平塚四郎 大佐 (海兵40期) 〔応召〕19年3月1日~7月1日〔横須賀鎮守府附へ〕
木村行蔵 大佐 (海兵49期/航海専攻) 〔軽巡洋艦「鹿島」副長より〕19年7月1日~
【副長】
志柿謙吉 中佐 (海兵50期) 18年8月18日~
【機関長】
堀江國行 中佐 (海機31期) 17年10月10日~
檜垣謙次郎 中佐 (海機32期) 18年9月1日~
【飛行隊長】
高橋 定 少佐 (海兵61期) 19年7月~9月
昭和16年11月
徴用
昭和17年1月
呉工廠にて航空母艦への改造に入る。
昭和17年5月31日付
竣工
特設航空母艦「八幡丸」として、固有の飛行隊を所属させた。
昭和17年7月14日
トラックに進出する第二航空戦隊の輸送命令を受ける。
昭和17年7月29日~8月13日
ラバウルに進出する第二航空戦隊の機材、基地員をカロリン諸島トラック島へ輸送。
昭和17年8月31日付
正式に軍艦籍に入り、航空母艦「雲鷹」となる。
その後、固有の飛行隊を収容、内海西部で発着艦訓練を行う。
昭和17年9月4日~18日
横須賀~サイパン~トラック~呉のコースで、飛行機の輸送を行った。
昭和17年9月25日
第二次ソロモン海戦後の損害を補充するため、飛行機と搭乗員を載せ、呉を出港、トラックに向かう。
昭和17年10月
固有の飛行機隊を解隊。
昭和17年11月
陸軍の第六飛行師団・飛行第十一戦隊の一式戦闘機「隼」37機を輸送するためスラバヤに向かう事になった。
トラックよりパラオに向け出港。
パラオからミンダナオ島ダバオを経由してスラバヤに向かった。
昭和17年12月5日
十一戦隊を搭載、スラバヤを出港。
昭和17年12月13日
トラックに入港。
昭和18年1月
横須賀に帰港。
入渠整備に入る。
昭和18年2月1日
航空母艦「大鷹」とともに、横須賀を出港。
昭和18年2月7日
トラックに入港。
昭和18年4月25日~5月13日
「冲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。〔第二五航空戦隊・第二五一海軍航空隊用の零戦60機〕
昭和18年5月24日~6月9日
「冲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。
昭和18年6月16日~7月2日
「冲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。
昭和18年2月1日~9月10日
「航空機輸送」
内地~トラックを6往復した。
昭和18年9月30日
昭和18年11月30日~12月5日
軽空母「瑞鳳」、護送空母「冲鷹」、重巡「摩耶」、駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」とトラック拍地を出港し、横須賀に向かう。
この際、駆逐艦「山雲」により撃沈された、米潜水艦「スカルピン」の生存者41名が捕虜として「雲鷹」に21名、「冲鷹」に20名便乗、大船収容所に向かった。
夜、米潜水艦「スケイト」より雷撃を受けるが、艦隊に被害無し。
昭和18年12月4日
同型艦の護送空母「冲鷹」が、雷撃により沈没。
昭和18年12月15日付
連合艦隊所属より、新たに設置された海上護衛総司令部の所属となる。
第九三一海軍航空隊の九七式艦上攻撃機12機を搭載。
昭和18年10月14日~年末
「航空機輸送」
トラックへ3往復した。
昭和19年1月14日
横須賀を出港。
トラックへの輸送任務。
昭和19年1月19日
トラックよりの帰途、サイパン島東方で米潜水艦「ハドック」の魚雷2本が命中、中破したが自力航行で横須賀に帰着。
修理に約半年かかった。
その際、防空兵備強化のため機銃を74挺に増備した。
昭和19年8月15日付
第一海上護衛隊(担当地区:九州~沖縄~台湾~シンガポール航路)に配属。
昭和19年8月24日~9月5日
「門司~シンガポール/『ヒ七三船団』」
『ヒ七三船団』のタンカー9隻(「東邦丸」ほか)、貨物船4隻(「讃岐丸〈元特設水上機母艦」、「護国丸〈元特設巡洋艦〉」、「吉備丸〈元陸軍上陸用舟艇母艦〉」ほか)、給糧艦1隻を、練習巡洋艦「香椎」、海防艦「千振」、第一三号、第一九号、第二一号、第二七号とともに護衛。
昭和19年9月1日
台湾~フィリピン間のルソン海峡にて、九七式艦攻が米潜水艦「タニー」を発見。
1435 60㌔対潜爆弾2発を潜航して深度33㍍の「タニー」に対して投下。爆弾は左舷後方直上方で爆発。
船体の後部発射管室前方左側の耐圧船体が変形し、発射管のジャイロ設定機器の大半が損傷。
海防艦「千振」、二一号が爆雷を投下。
特設運送艦「讃岐丸」が爆雷6発を投下。
「タニー」は故障続発と浸水のため、ただちにハワイ基地に帰投した。
【戦果】
撃沈:潜水艦1隻
《米軍記録》
撃破:潜水艦「タニー」(中破)
昭和19年9月6日
シンガポール入港。
昭和19年9月10日~
「シンガポール~門司/『ヒ七四船団』」
『ヒ七四船団』の5隻を、艦艇6隻とともに護衛。
昭和19年9月17日
0050 ルソン島北西にて米潜水艦「バーブ」の魚雷を受け、油送船「あずさ丸」が沈没。
「雲鷹」にも魚雷1本が右舷艦尾の舵機室に命中。
続いて、右舷中央部主機室に2本目が命中。
0730 沈没。乗組員約750名、便乗者約1,000名のうち、艦長:木村行蔵大佐と約900名が艦と運命を共にした。
生存者761名は海防艦「千振」と「二十七号」に救助され、台湾・高雄に移送された。
*筆者の別ブログ『航空戦史雑想ノート』にも併載しております。
【参考文献】
テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。
[筆者注:調査未完につき、今後大幅に加筆・改訂を予定しております]
初稿 2005-05-24
第2稿 2005-05-28
第3稿 2007-06-16 大幅加筆