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沖縄県警察本部のホームページには、沖縄県内の暴力団について以下のような記述がある。
「沖縄県の暴力団は、第二次世界大戦後の混乱期から復興の兆しが現れた昭和27年頃、不良者等が集団化したのが始まりで、伝統やしきたり、掟というのはなく、 腕力の強い者がリーダーとなり、そのうち那覇市を活動拠点とする那覇派(約70名)とコザ市(現沖縄市)を活動拠点とするコザ派(約70名)の不良グループが組織化されたものが沖縄県の組織暴力団の起こりとなっている。 昭和47年5月15日、沖縄の本土復帰が決定したことを契機として、数次に渡る対立抗争を繰り返しながら生き残ってきた「那覇派」と「山原派」は、本土暴力団の沖縄進出阻止を図るため、大同団結し昭和45年12月8日「沖縄連合旭琉会」を結成した。しかし、その後も組織内の争いは絶えず、組織の統廃合を繰り返していった。 昭和58年5月10日「三代目旭琉会」を結成し、構成員1,000名余を擁する県内最大の組織暴力団となるが、内部の主導権争いから理事長派が分裂し、平成2年10月11日「沖縄旭琉会」を結成し、現在に至っている。」 県警の記述の中で興味を惹くのは、まず「伝統やしきたり、掟というのはなく、 腕力の強い者がリーダーとなり・・・」という部分。 次に「沖縄の本土復帰が決定したことを契機として、数次に渡る対立抗争を繰り返しながら生き残ってきた「那覇派」と「山原派」は、本土暴力団の沖縄進出阻止を図るため、大同団結し昭和45年12月8日「沖縄連合旭琉会」を結成した。」という部分である。 なお県内の指定暴力団構成員の比率は人口1万人あたり、九州平均3.3人、全国平均3.5人をはるかに上回る5.1人。 月間「記録」編集長というブログによると、 「沖縄の2団体は戦後のアメリカ占領下という特殊な環境によって誕生したとされ戦前には本土でいうような意味での暴力団はいなかったとされる」という。 この記事はとても面白いのでもう少し紹介すると、日本の指定暴力団に関して、 ・博徒系が圧倒的に多い ・空白地帯がある(北海道と東北、甲信越、北陸にいない) ・山口組は独特である(もとは港湾荷役の労働者のまとめ役として登場し、共済組織の色彩が強かった) ・中国地方と福岡が異様に多い といった指摘をしている。 [指定暴力団の定義] 暴力団のうち暴力団対策法に基づき、各都道府県公安委員会が国家公安委員会の確認を受け、指定暴力団として指定した暴力団で、同法に基づき、現在、全国で山口組や稲川会等24団体が指定されている。 (図:県内指定暴力団組事務所所在地<平成15年末現在>)
ほぼ一年前、当時のオンライン日記にこんなふうに書いた。
「ニッポン放送株買収が大きな話題になっている。ライブドアの経営者の若さに期待する声が大きいようであり、守る側は政治家や官僚も含めて今や守旧派呼ばわりされている。 しかしこれは単なる企業買収であり、制度にいくらか抜け道があったということに過ぎない。合法的な抜け道を探して利を得るのは事業としては当然のことだ。フジサンケイグループはニッポン放送という絡め手を放置していた責任があるわけで、いわば自業自得である。 一方ライブドアが時代を変えるかといえば特に新しい思考・新しいスタイルがあるとは思えない。その意味で「守旧派」との違いはほとんどない。 なにより浅薄に感じられるのはインターネットについての認識だ。インターネットはただのメディアにすぎず、インターネットが他を飲み込むというような古色蒼然とした主張を繰り返す堀江は古いというのが私の印象だ。」 もちろんこの時点ではホリエモンの正体には気づいていなかったわけだ。 ホリエモンの危うさをいくらかでもつかんでいたメディアが皆無だったとは思えない。 さまざまな理由でホリエモンを恨んでいる人物はいくらでもいたはずだし、彼らの一部はマスコミにリークしていたに違いない。しかし糾弾記事を書くマスコミは現れなかった。 これは不思議なことだ。なぜ書かなかったのかが知りたい。 一方、検察にとってはマスコミが動かなかったことは幸いだったに違いない。 それがいまやどこでもホリエモン全否定の合唱ばかりでうんざりする。事業も私生活も過去もなにもかも丸裸にしようという勢いである。人間は他人の凋落と不幸が大好きなのだ。 ホリエモンを見ているとオウムの麻原やポル・ポトを思い出してしまう。 裸の王様の系譜だ。力に魅入られたという一点で構造的な相似を感じるのだ。 ライブドアの新経営陣の記者会見は組織の革新と過去との決別を訴える点で麻原逮捕後のオウム新体制の記者会見にそっくりだった。 ホリエモン、麻原、ポル・ポトに共通するのは本人が思いもしなかった力を持ってしまい、さらに力が力を呼んで巨大な力の渦を作り出していったことだ。優秀な側近に恵まれていた(らしい)ことも共通している。 ただのひとだった彼らはやがて普通の人ではなくなってゆき、権力と革命の幻想の中に生きるようになってゆく。麻原やポル・ポトの名を持ち出さなくとも、ある人物が"想定外"の巨大な力を付与されたときに起きるこのような現象はケースとしておそらく無数に存在するに違いない。 個人的にはホリエモンには何のシンパシーも感じないし、どうなってもかまわない。彼が時代の象徴かどうかも怪しい。しかしちらっと思うのは、自分がホリエモンの立場だったらどうだろうということだ。 小さな渦が次第に大きくなるのを見つめる幸福は急速に不安に変わるに違いないが、やがて自分が自分でなくなってゆく快感のようなものを知ることだろう。神がかりのような意識、神か悪魔かわからないが自分でもコントロールできないほど大きな力が自分に味方しているという自覚。 想像しただけでゾクゾクする。 社内の権力構造が明らかになってくると、ホリエモンが真の権力者だったのかどうか、多少の疑問が浮かんでくる。ポル・ポトは実はナンバーワンではなかったんだ、というウワサに似ている。私の憶測によれば、ホリエモンはナンバーワンの権力者であると同時に社内で操られていた。そういう二面性を持っていたと思う。これは大きな力を持った者によく見られる属性に思われる。 いくつかの証言は彼が途中から変化していったことを匂わせている。凡人が怪物に変貌してゆくのだ。それはもちろんその人物の内部で起きる変化だが、一方で時代がこういう人物に託して何かを語ろうとしているという解釈もできる。 ホリエモンが本物かニセモノかはまだわからないが、どっちにせよ、時代に操られた人形のように見える。 「ポル・ポト政権下の性暴力を生きぬいて」という日本語タイトルがついている。 ポル・ポト時代にレイプを体験した女性のドキュメンタリー作品で、30分ほどの小品だがいい作品だと思った。監督は女性のラチャナ・パット。 ポル・ポト時代に起こったレイプは、被害者のほとんどがレイプの直後に殺害されたためにその実態はよくわかっていない。この作品に登場する女性、Tang Kimは殺害を免れた稀な例だといえるだろう。 彼女は数人の女性と共に水田のあぜのようなところでレイプされ、彼女以外は殺されてしまう。そのときの状況を語るのは彼女の故郷であるコンポン・チュナン州の、レイプの現場にそっくりの水田地帯のどこか。あまりにも美しい水田の光景だ。 この作品のそこここに、こういうカンボジアの田園の光景が挿入されている。それを見る私は自分の肉体にカンボジアの記憶が刻み込まれていることを生々しく思い出す。それはたとえば砂糖椰子の林だったり、広がる水田だったり、赤土の田舎道だったり、茶色に濁った小川だったり、あるいはそういう風景を吹き抜けるなまぬる微風だったりする。 印象的だったのは、彼女の証言の中でレイプの現場から逃げて他の村に行き、名前を変えて隠れていた主人公をクメール・ルージュが探す下りだ。レイプの現場から逃走したにすぎない若い女性ひとりをも執拗に捜索する様子にクメール・ルージュのおぞましさを改めて思い知る。 クメール・ルージュを許さないという彼女のことばを通じて、こういう意識がポル・ポト時代を生きた人の中にいまだに生きていることが確認できる。 一方で多くの人々が当時を忘れたいと思い、今の政権は昔よりはまだマシだと思い、クメール・ルージュは復活するかもしれないと本気で恐れている。事実、タン・キム以外に当時のレイプ被害について証言する人は現れていないという。 レイプ体験を話すというのは過酷な試練だ。しかもその記憶は多くの肉親の死、多くの殺人の目撃の記憶と結びついている。彼女の場合、語り始めるまでに28年の時間が過ぎている。しかも映画を撮るという目的のために説得を重ねた結果としての告白であって、まったくの自発的な告白ではない。彼女の中には告白した結果クメール・ルージュに殺されるかもしれないという恐怖が生きていた。最終的に彼女は出家して尼僧となるが、映画の中での告白が彼女を尼僧への道に導いた一因であるような気がしてならない。 2006年1月29日、青山学院大学にて。会場は偶然にも模擬法廷だった。 主催はアジア女性センター。 (写真上:同作品のDVDパッケージ写真 写真下:監督のRachana Phat) Documentation Center of Cambodia アジア女性資料センター 1950年初版。住民の側から見た沖縄戦の記録としてもっとも早い時期に世に出た。歴史的な書物といっていいだろう。 執筆したのは沖縄タイムスの記者だった牧港篤三と伊佐良博。書名である「鉄の暴風」はその後沖縄戦を表現することばとして定着していった。 「沖縄戦と民衆」の乾いた記述に比べて「鉄の暴風」は文学的であると感じる。もちろん研究書である「沖縄戦と民衆と一般向けのジャーナリズムである「鉄の暴風」は別のカテゴリーに属するが、「沖縄戦と民衆」のあとで「鉄の暴風」を読み始めると、抑えた筆致であるにせよ、"文学の香り"を感じないわけにいかない。 しかしそれは戦争終結から61年目の今という時代から見てのことだ。この本が出た1950年というと戦争が終わってわずか5年。沖縄全土は米軍政下にあり、一部を除けば復興は遅々として進んでいなかったにちがいない。そういう状況を思うと、私の感想は一転してこれだけ冷静に客観的に書くことのすごさを思うことになる。 執筆者のひとり、牧港篤三氏は一昨年亡くなったが、戦時中に新聞人として活動していたことに加害者としての意識を持ちつづけ、新聞社退職後には沖縄戦の記録フィルムを買い取る「1フィート運動の会」の代表を務めるなど平和運動に関わった。 (写真:「鉄の暴風」初版表紙) 米軍は沖縄作戦をアイスバーグ作戦(Operation Iceberg)と呼んだ。米軍の戦力は艦艇1,500、兵員55万人で、うち上陸部隊は18万だった。 1945年3月26日、まず慶良間諸島を占領した。4月1日、米軍は読谷村から北谷町へと続く海岸に対して上陸作戦を開始した。 村の南部の東シナ海に面した海岸は遠浅の砂浜であり、上陸用舟艇による部隊や物資の揚陸に向いていた。米軍はの海岸の砂質を調べた上で上陸用舟艇を設計したという。 日本軍はこの海岸線への米軍上陸の可能性が低いと見ていたために配備された兵力は少なく、また首里北方での戦闘を計画していたために反撃はごくわずかだった。 読谷村のウェブサイトに「読谷村史」というコンテンツがある。 ここを読むと、たとえば読谷村史第五巻資料編4『戦時記録下巻』の解説には、 「読谷村では1988年から住民への本格的な聞き取り調査を開始した。村民215人が各字ごとの調査にあたり19,133人、3,709世帯の「戦災実態調査」がなされた。そして読谷村での戦没者が4,000人近くに及ぶということなど、様々な実態が明らかになった。 本書には100人余の村民の証言、日米両軍の資料、読谷村役場行政文書などから多角的に戦時の読谷村が描かれている。」 と書かれている。これだけの事業が村という行政単位で行われた。 (写真上:読谷村の海岸に殺到する米軍の上陸用舟艇 写真中:読谷村の字界[拡大可能] 写真下:読谷村史<読谷村ウェブサイトより>)
沖縄戦の記録を読んでいると、ガマの中で多くの悲劇が起きたことがわかる。
ガマとは沖縄の方言で自然洞窟・鍾乳洞(横穴)、岩の窪み等を意味する。また縦穴洞穴または窪みの場合はアブ、内部に湧水がある場合はガーと呼ばれる。ガマは琉球石灰岩の広く分布する地域、たとえば沖縄本島南部に多い。 ガマは戦闘でで逃げ場を失った住民の避難場所となった。また日本軍も軍事上重要な防御拠点として位置づけていたようである。 沖縄戦の舞台となったガマについては以下のウェブサイトに実に詳細な情報がある。 沖縄戦とガマ(壕) 沖縄のガマ情報館 ガマ~命の宿~ ガマは米軍の攻撃からの避難所となったが、住民にとって悲劇だったのは日本軍兵士と同居だったケースが少なくなかったことだ。 日本軍はガマに隠れた住民が投降するのを許さず、投降しようとする人を殺害したし、敵が迫ってくると手りゅう弾などでの集団自決を強要した。またガマから住民を追い出したりもした。 米軍はガマの内部にいる人々を火炎放射器などで殺したし、入口をふさいだり手りゅう弾を投げ込んだりもした。ガマのひとつひとつがそれぞれ別の顔を持つ悲劇の舞台となった。 ガマは狭くて暗い閉鎖的な空間である。逃げ道はない。そこに人がひしめき、自暴自棄になった兵士が武器をかざして住民を恐怖で支配する。生死を分けるのは小数の人たちの間の心理的な交換、集団としての心理、ちょっとしたことばや行動、ひとの組み合わせ、そして重要なのは持ちえた情報の多寡だったにちがいない。 ガマは戦前までは飲料水の水源地(ガーの場合)、洗濯場、食料倉庫、拝所、ゴミ捨て場などとして使われたという。身近な存在、生活と密接に関わっている場所だったわけだ。 それが沖縄戦では避難壕、野戦病院、陣地、軍隊の食料倉庫・弾薬庫・資材倉庫、住民の食料庫などに使われることになる。 日常の風景の一部であった場所が殺人や集団自殺の場へと変貌してゆく。戦争の持つ"場を変転させる力"によって死の影を帯びてしまった場を浄化し、かつての共同体の幸福な記憶の一部へと組み変えてゆくための努力がどれほど大きなものか、あるいは不可能なのか、想像もつかない。 (参考) 轟ガマ、沖縄師範健児の壕のQuickTimeVR画像 (このページには旧海軍司令部壕(幕僚室)のQuickTimeVR画像もある) 中国から沖縄に現在の製糖法が伝わったのは17世紀のことだという。島津支配が始まったあとということになる。 砂糖は当初は輸入品だったが、交換品として金銀が流出するのを防ぐため島津藩は沖縄における国内生産に力を入れるようになったという。 現在の沖縄県内ではサトウキビを栽培している農家数は約18,000戸で全農家数の約7割、栽培面積は約20,000ヘクタールで全耕地面積の約5割を占める。 さとうきびの生産は手間がかかる。10アールあたりの労働時間は稲作農家の39時間に対して129時間。特に収穫に時間がかかっている。 価格から見ると国際競争力はなく、サトウキビ買上価格は「甘味資源特別措置法」に基づき政府により毎年決められている。さらに2005年には従来の最低生産者価格制度の廃止が打ち出された。大規模生産者以外は採算割れとなっている。 1970年代に以降、キビ栽培は高齢化・過疎化によって労働力が不足、一方で1985年以降きび価格の据置き、値下げにより相対的に収益性や賃金が低下したことでさらにキビ離れが進んでいる。一方で肉牛、花卉、野菜などへの転換が進んでいる。沖縄本島では法人化による大規模化・機械化の試みも始まっている。 沖縄で生産される砂糖は黒糖約1万トン、原料糖約17万トン。国内需要の約8%を占めている。 ちなみに黒糖とは さとうきびの汁を煮詰めたもの。加熱すると黒くなる。原料糖はサトウキビから糖分を搾り出して結晶化させたものだ。 県経済全体にとってさとうきび依存度は0.36%と推定される (県経済に占める農業の比重1.7%×農業粗生産額に占めるさとうきびの比重21%)。農業粗生産額に占めるさとうきびの比重は、沖縄本島では8.5%、離島では36.9%を占める。 さとうきびは作目別で1位だが、1985年をピークに減少傾向にある。 参考:さとうきび産業の発展方向と地域経済 (その2) (写真下:さとうきびの花)
「沖縄戦と民衆」の残りの部分、「Ⅱ 戦場のなかの民衆」と「Ⅲ 沖縄戦のなかの日本軍」を読んだ。ここでも簡単なメモを記しておく。
[集団自決の背景] 沖縄戦における集団自決の多くは離島で起きた。 集団自決の原因の背景には皇民教育、日本軍の宣伝・教育(米軍は残虐である)、軍人や地域のリーダーなどの権威による命令。誘導、県民の中に中国戦経験者がいてその見聞(日本軍が中国人を虐待し、虐殺を行ったこと)を語ったこと(この情報は同じことを米軍が行うというふうに展開される)、投降しようとする住民に対する日本軍による脅迫・処刑、ガマの中や離島そのものの閉鎖状況及びそれに起因する情報の欠如などがある。 住民は米軍につかまると殺されると信じていた。小グループが孤立し、生きているのは自分たちだけだと思い込んだ場合、集団自決にいたるケースが少なくなかった。 軍民が雑居の状態だったのも住民の犠牲者が増えた一因。 集団自決ではまず子どもや老人などの弱者が殺された。軍は住民に自決用の手りゅう弾を与える場合が多かった。手りゅう弾は不発が多く、それで助かった事例もある。 沖縄本島では集団自決は相対的に少なかった。本島南部では逃げてきた家族や小グループによる自決が多い。 [集団自決を回避したケース] 米軍は住民を殺さないことが分かった場合、また日本軍がいなかった場合、自決は行われなかったケースが多い。ハワイなどへの移民経験を持つ人が周囲を説得して米軍と交渉して投降し、集団自決を回避できたケースも多くあった。将校や正規軍の兵士が自決しないよう説得したケース、老人が投降を主導したケースもある。 [リーダーの重要性] 集団自決も投降も集団のリーダーの考え方が大きく影響した。特に離島では当時の指導者層(村長、組合長、巡査、学校長など)の判断が集団の運命を決めた。 集団はこうした指導者層に加えて元軍人・防衛隊員などの戦争経験者、警防団などに組織された少年、一般のおとな(ほとんどは女性)、老人、子どもなどのグループに分けられる。すなわち青年・壮年の男は招集されているために極めて少なかった。 [防衛隊] 18才以上の男が召集されたあと、13才~60才の男22,000名~25,000名が県内で防衛隊として召集された。妻帯者が多かった。うち13,000名が戦死した。 防衛隊は当初建設工事などに従事するがほとんど武器が支給されないにもかかわらず次第に危険な任務を負わされ、主力を温存するための捨石としての消耗戦や斬り込み・爆雷攻撃などに使われる。 防衛隊員は戦線離脱者が極めて多い。離脱したものはほとんどは家族の元に帰ろうとしていた。 [軍と沖縄の人々] 住民スパイ視、投降阻止、自決強要、壕追い出し、食料強奪。沖縄出身の兵士は差別されていた。全体として軍は規律が乱れ、士気が低かった。朝鮮人の犠牲者は不明(数千ないし1万と推定)。本土出身兵士の9割が戦死した。 [学徒隊] 男女あわせて約5,000名。うち3,000名以上が死亡した。特に女生徒には皇民化教育が徹底していた。 * 「沖縄戦と民衆」はなかなかの大著で読むのに骨が折れたが、沖縄戦の実相をいくらかイメージできるようになったと思える。 たとえば私は「沖縄勉強ノート」の(5)「伊江島と沖縄戦」、(9)「沖縄戦と東京大空襲」で沖縄戦に言及しているが、ここでの記述はいわゆる戦史の視点で書かれた情報であり戦争の現場をイメージできていない。 「沖縄戦と民衆」は分析的な書物だが最大の収穫は戦場で無数に起きたエピソードの織りなす多面体としての沖縄戦の姿をいくらかでも知ったことだ。 もうひとつはこれらのエピソードを通じて、私の訪れたことのある場所でなにが起きたかをいくらか詳しく知ることができたことだ。 沖縄戦の構造そのものは限りなく複雑だということはなく、知る努力さえ怠らなければいずれ見えてくるものがあるに違いない。
「沖縄戦と民衆」(林博史著、大月書店)を読んでいる。
本文は次のような構成になっている。 Ⅰ 沖縄戦への道 1 第三二軍の編成と飛行場建設 2 戦争準備下の日本軍 3 緊迫化する軍民関係 4 根こそぎの戦場動員 Ⅱ 戦場のなかの民衆 5 「集団自決」の構造 6 生き残ろうとする人々 7 「玉砕」を拒否した防衛隊 8 学徒と教師たち Ⅲ 沖縄戦のなかの日本軍 9 軍紀の崩壊と日本軍の構造変化 10 米軍から見た日本軍と住民 さいごに―沖縄戦の体験と戦後 この中で「Ⅰ 沖縄戦への道」の部分を読み終えたので、内容に関してごくわずかだがメモしておく。 <まず沖縄には第二次大戦開戦後も事実上日本軍が存在しなかったことに驚く。> 南西諸島の防衛を任務とする三二軍が創設されるのは沖縄の地上戦が始まるわずか一年前の1944年3月。実際に飛行場建設を任務とする部隊の一部が到着するのは4月下旬である。 <つまりそれまでの沖縄は日本軍を知らず、沖縄の人々は日本軍に接触した経験を持たなかったわけだ。> また奇妙なことに沖縄には郷土部隊がなかった。日本陸軍は県ごとに部隊を持っていたが沖縄だけはそれがなかった。<沖縄は軍隊というものを意識しにくい土地だったといえるだろう。> 住民は軍が自分たちを守ってくれると思っていたし、軍は住民に一定の配慮をしていた。 しかし軍の内部には根本的な問題として沖縄に対する差別意識があった。<こうした軍の意識はもちろん当時の日本における沖縄差別の意識を反映しているだろう。> また米の自給ができず他の地域(主として台湾)からの移入に頼っていた沖縄にとって多数の軍隊の要求する食料を供出することは事実上無理だった。 沖縄にやってきた部隊がそれ以前にいたのは中国戦線だが、そこで部隊は住民の虐待や女性への性的暴行が日常化するような環境の中にいた。<おそらく軍の内部には厭戦気分がくすぶっていたにちがいない。更に転戦した沖縄では玉砕の運命が待っていることを兵士たちは鋭く感じ取っていたにちがいない。> こうした要因が戦況の悪化にともなって顕在化してゆく。軍は中国でやってきたことを沖縄で再現したということもできる。 軍が住民と混在していたことも悲劇を深めた。軍は一般住民の住宅を接収して兵士の宿舎にあてた。住民と軍が触れ合って生活するような状況が生まれ、その結果多くの性的暴行が起きた。 軍は住民に労働を要求し、これに対して初期には賃金が支払われたがやがてそれもなくなり、労働は強制的になり、地上戦闘への参加、自爆攻撃、そして最終的には「自決」強要へとエスカレートしてゆく。こうした背景には戦力の不足があった。戦力の不足は戦略を「沖縄での決戦」から「国体護持のための時間かせぎの持久戦」へと変換させる。 地上戦が始まる前の段階で軍と住民の関係を悪化させる大きなきっかけは1944年10月10日の那覇空襲だった。この空襲で那覇の9割が焼失した。<軍は町も人も守ることが出来ず、住民は落胆し、兵士は自暴自棄になってゆく> ※<>で囲まれた部分は私の感想だ。本当は感想を混在させるべきではないが、書いてしまった。 [沖縄戦の死者] 本書には沖縄戦の死者について沖縄県援護課の作成した以下のような数字が示されている。 県外出身日本兵 65,908 沖縄県出身 軍人・軍属 28,228 戦闘参加者(準軍属) 55,246 一般住民 38,754(推定) 日本側戦死者計 188,136 (うち沖縄県出身者) 122,228 米軍 12,520 沖縄戦の戦没者総数 200,656 (注)男子生徒は軍人、女子生徒は軍属に含まれる。朝鮮人は不明。一般住民の戦闘参加者は準軍属扱い。 これまでの国の調査が軍人の戦死者調査に偏り、それに対して沖縄県内の自治体が住民の被害について徹底した調査を行った事実を忘れないようにしたい。 ごく一部の都道府県(東京、千葉、埼玉、茨城など)を除けばどの県でも地元紙のシェアは最大である場合が多いが、それにしても沖縄の地元紙は強い。 沖縄占領後、日本の敗戦前の段階で米軍は住民懐柔のために沖縄における"民主的な"新聞発刊を画策する。その結果生まれたのが「ウルマ新報」、その後の琉球新報だが、その発刊に際して米軍は戦前戦中に新聞に関わっていたひとびとを徹底的に排除したという。 今現在の沖縄の新聞がジャーナリズムとして全国紙及びその地方版よりも真摯に活動していると言い切る自信はないが、私に内在する沖縄幻想の一角に"沖縄のジャーナリズム"に対する過大評価と期待が棲んでいるのはたしかだ。 一方で沖縄における全国紙の不振が日本のジャーナリズムに対する批判と抗議であると感じるのも同様の理由からだ。私のジャーナリズム(あるいはマスメディア)不信はもともとカンボジア報道への批判にはじまり、根深いのだがこれ以上書かない。 沖縄のジャーナリズムとひとくくりにできないことは分かっているが、それでも沖縄のジャーナリズムは負うべきものを自覚せざるをえないという点で曖昧模糊とした幻想国家日本のジャーナリズムよりも"幸せ"だといえるかもしれない。沖縄にあってジャーナリストでいるということは日々試され、問われているということに他ならない。 たとえば琉球新報の沖縄戦新聞は優れた企画であると同時に沖縄のジャーナリズムの置かれている立場を象徴的に表現していると思える。 沖縄戦に関する報道がどうなされるべきだったかというジャーナリズムにとって根源的な問いに答えようとする果敢な試みだ。 自分のことばが発せられたあとでそれが大衆の面前で点検され検証される経験をいったいどれほどの日本のジャーナリストがしたというのか。あるいは自己点検、自己検証したというのか。 ジャーナリズムにとって移り気であることは自己を守るための本能でもあるが、沖縄のジャーナリズムはちょっと違う気がする。誠実にこだわると負うべきものが増えすぎないか?また、これは地方紙の誇りでもあるのだが、沖縄に関する情報に特化することは自閉につながらないか? ともあれ沖縄そのものが黙示的であることの結果としてそのジャーナリズムもまた黙示的だ。 沖縄タイムスのウェブサイトにはかなりの量の記事のバックナンバーが蓄積されているが、これは私にとってはなかなか貴重な教材だ。 [沖縄タイムス] 創刊は1948年7月1日。 [琉球新報] 1893年 (明治26)、沖縄最初の新聞として創刊。隔日だった。 明治39年、日刊となる。 昭和15年 (1940)12月20日 政府指導により「琉球新報」は沖縄朝日新聞、沖縄日報と統合、新たに「沖縄新報」を設立。沖縄戦中も発行を続ける。 昭和20年 (1945) 5月25日、首里城陥落とともに終刊。 同年7月26日、「ウルマ新報」(のち「うるま新報」と社名変更)が発刊。 1951年、サンフランシスコ平和条約締結を機に社名を「琉球新報」に改める。 沖縄タイムス 琉球新報
奄美の歴史に関するメモ。
奄美に人が住み始めたのは旧石器時代(約2万年前)といわれる。 すでに縄文時代から九州との交流が行われていた。 日本の記録に奄美の名があらわれるのは、7世紀後半から8世紀。 日本書記に奄美の名が現れる。 奄美(海見、菴美などとも書かれる)は大和朝廷に地方の産物を献上したりしている。この頃から朝廷は沖縄を含む南の島々の経営にのりだす。 遣唐使(7世紀の中頃から8世紀後半にかけて)は新羅との国交が悪化したため一時奄美を経由していた。 沖縄の歴史書によると1266年、奄美は琉球王に入貢した。その後奄美と琉球は対等の関係を続けるが、琉球に統一王朝が成立すると関係は服従関係に変わっていく。 1609年、薩摩藩は琉球を支配下におく。以後奄美は薩摩藩の領土となる。1830年、藩の財政立て直しが始まり、大島・徳之島・喜界島の三島の黒糖は藩が総買い上げを行なようになるう。農民は増産を強いられ、苦しい生活をすることとなった。 薩摩藩支配下では流刑地とされていた。 第二次世界大戦では地上戦闘はなかった。 戦争終結とともに米国の支配下に入り、日本本土と分離される。 1950年、奄美群島政府が統治。1951年、奄美大島日本復帰協議会結成。日米講和条約締結後、1952年奄美群島政府廃止、琉球政府発足。奄美地方庁開庁。 1953年、奄美群島返還日米協定調印。日本復帰。 南海日日新聞 中野栄夫氏(「国際日本学2」所載「『日本の中の異文化』研究のために」より) (前略)「日本学」というとき、まず何よりも先に問題となるのが、「日本」とは何かという点である。「日本」を明確に定義することなしに、「日本学」を語ることは無謀であろう。 その場合、私は「日本」を所与のもの、単一なものと見てはならないと考える。これは、今までの歴史観がヤマト中心、稲作中心すぎたことへの反省である。私は仮に「日本」をヤマト、蝦夷・アイヌ、琉球・沖縄に分けて考えたい。」(後略) 以下は中野氏が紹介している作家・島尾敏雄のことばである。 「誤解をおそれずにいえば、この島々(琉球列島=引用者注)には近代の文明に毒されない、中世もしくは古代の人間まるごとの生活が息づいていた。」 「琉球列島の島々から受け取れるものは日本のすがた以外のなにものでもない。ただ本土でも東北とか九州とかが区別されるように、この島嶼群は本土に対して個性的な地方差をきわだたせていることはまちがいはない。その場合地方差としてあらわれるものは、この地方の特異さというものではなく、その根をさぐっていくと、本土ではすでにひそみきえてしまったものにつながる場合が少なくないのである。」 「つまり奄美諸島と沖縄島を中心にした沖縄諸島、宮古諸島、それに石垣島を主島にした八重山諸島などをひっくるめて私は琉球弧と言いたいのです。沖縄と言うと、どうも奄美が落ちてしまうし、宮古や八重山も、時によっては含まれてきません。琉球とだけ言った場合には、奄美を含めるかどうかに難点が出てくるので、地理学上での琉球弧ということばが包括的でもあり適切だと思うのです。」 ※この部分は上記の中野栄夫氏の文中の引用。 日本とはなにかという問いは沖縄に興味を持った時点で私の中にあった。直接的には沖縄に対する興味に始まっているが、沖縄を知るということはおそらく日本とはなにかという問いに対する答を引き出すことだ。 ただし中野氏の指摘が妥当なものであるかどうかについてはこちらがさらに勉強しなければならない。島尾敏雄のことばはまず心情的に受け入れられる。 中野氏の文は奄美のことを調べていて見つけたものだ。沖縄を考えていると奄美が気になってきたのだ。地味な存在に見える奄美を理解することで沖縄が分かるということがあるのではないか。 少し奄美を勉強してみたい。 別の話だが、台湾から先島、さらには沖縄本島はどのように見えているのだろうか?台湾と沖縄の交流の歴史はどのようなものなのだろうか? 奄美大島探検マップ 奄美大島観光ガイド 奄美海風荘 作家島尾敏雄・奄美の足跡 奄美島唄の世界 (写真:奄美大島[拡大可能])
2000年1月のサイト開設以来、7年目に入った私のサイト、アンコール遺跡群フォトギャラリーの最新のアクセス傾向を分析してみる。
月間アクセスが1,000を越えたのは開設から5ヶ月目の2000年5月。5,000を越えたのが丸2年経った2002年1月。10,000を越えたのが翌2003年1月。2004年8月に20,000、2005年1月に30,000を越えた。昨年7月には一時的ではあるが月間40,000を越えている。その後は35,000前後で推移してきた。 累計アクセス数でいうと、累計50,000を越えたのが22ヶ月目の2001年10月。100,000を越えたのが32ヶ月目の2002年8月。翌2003年9月に累計200,000、2004年3月には300,000、2005年1月に累計500,000、同年8月には700,000を越えた。 また最近の月間ページビューは200,000PV前後、月間ダウンロード量は15GB程度になっている。 この間大きな変化というものはなく、毎月すこしづつアクセス量が伸びてきた。ということは今後も伸びていくかもしれないということで、このようなコンテンツのサイトにいったいどれくらいのニーズがあるのか、なかなか興味のあるところだ。 考えてみるとちょっと前には毎日1000人が来ることなど想像もできなかったし、そもそも月間で2000人を越えるまでに実に10ヶ月もかかっていたのだ。 こうしてみると、少しづつではあるがアクセスが伸びる余地はあるようだ。 2000ページ以上のコンテンツを用意したにもかかわらず、おそらく大半は見られていない。訪問者の大半はたぶんビギナーで、訪問前の情報収集にやってくる。その結果、いわゆる入門的なコンテンツや著名な遺跡にアクセスが集中する。こうしたニーズに応えるようなコンテンツ提供をする必要があるだろう。 私がカンボジアとのかかわりの中でやりたいことのひとつは日本とカンボジアのインターフェース的機能を果たすことで、それは遺跡に関する情報の枠組みをはるかに越える。これを実現するには別サイトを立ち上げることになるのかもしれない。 日本列島は千島列島弧、狭義の日本列島弧、南西諸島弧、伊豆小笠原諸島弧の四つの列島弧からなる。 千島列島弧の北東端は占守(しゅむしゅ)島という面積230平方キロメートルほどの小島で、千島海峡を隔てたその先はカムチャツカ半島である。 1875年の樺太・千島交換条約で樺太と交換に占守(しゅむしゅ)島をふくむ千島全体が日本領となったが、第二次世界大戦での日本降伏後にソ連軍が侵攻し、千島における唯一の激戦地となった。日本はサンフランシスコ講和条約でこの島の領有権を放棄。現在はロシアが実効支配している。 しかしここでは千島列島の帰属に関して領土問題を云々するつもりはない。 日本列島が地理的に見て占守島に始まり、与那国島に至る長大な列島弧によって形成されているという事実を確認したいだけだ。 子どもの頃、占守島のことを聞かされた覚えがある。風が強く気温が低いために樹木が育たず、一面草原のようであったこと。そこに壕を掘って陣地を作り生活していたこと。高射砲で米軍機を撃墜すると救助にきた飛行艇がいつまでも捜索を続けていたこと。撃墜した米軍機のパイロットを尋問すると彼は実に毅然としていたこと。島の司令官が(父親は司令付きだった)「この戦争は負けるよ」と淡々と語っていたこと。島を去って内地に戻る途中、長大な昆布が海面を無数に流れていたこと。 私自身はもちろん占守島を知らない。 しかし父親のことばを通じてその北方の小島のイメージは私の中でかなり具合的になっている。 この極寒の小島から日本列島弧に沿って約4000キロもの距離を下ってゆくと、台湾が見えるほどの近さに日本最西端の与那国島が、その南に最南端の波照間島がある。 これらの島にも私は行ったことがない。それで自分のわずかな沖縄経験を演繹してこれらの島々のイメージをふくらませる。 そして最も気になるのが、これらの島々を含む先島諸島、すなわち沖縄本島とその付近の島嶼のはるか南西に島影もない広大な海原を隔てて浮かぶ島々が沖縄本島とはかなり違った歴史と文化を持っているという事実である。 占守島からはじまる4000キロという距離自体はロシアやアメリカ合衆国の大きさ、チリの長さを考えれば驚くには当たらないかもしれないが、それでも政治的な国境は別にして、日本列島弧が驚くべき空間的ひろがりを持っていることを改めて感じる。 沖縄を知ろうとするとき、占守島を頭の隅に置いておこうと思ったのは、今述べたように極私的な記憶によるものだ。 (写真:占守島の風景)
タイトル通り。
いわゆるブログジャーナリズム、あるいはブロガー的生き方とかいうようなのはどうもピンと来ないが、トレーニングとして時評的アーティクルを書くのはありだろう。
このblogはSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)であるmixiの外部リンクとしても機能している。mixiからは一見、mixi内の日記に見えているわけだ。
で、mixi内のコミュニケーションの一部に「バトン」という習慣(ないしは流行)がある。定型的な質問のセットを知り合いに回し、受け取った人は自分の日記に答を書いた上で次に回す人を指定する。こうしてさまざまな質問セットがぐるぐるとmixi内の個人の日記を徘徊することになる。 私にも「ブックバトン」が回ってきたので、外部リンクであることを容赦してもらってここで回答してみる。 ○持ってる本の数 たくさんとは言えないが数百冊?本はほとんどが平積みなので探しにくいことこの上ない。 ○今読みかけの本または読もうとおもってる本 最近は沖縄関係の本を読んでいる。 「那覇の都市空間」(沖縄タイムス社)「沖縄の歴史と文化」(中公新書)など。沖縄は興味深く、示唆的・暗示的な存在だ。 カンボジア関係では「アンコール・ワットを読む」(連合出版)を読み始めたところ。 またクメール・ルージュの時代、それからその後のベトナム占領期間に何が起きたのかを知ることのできる本を探して読むことは、ライフワークといえないまでもずっとテーマであるつづけるだろう。 小説は最近はほとんど読んでいなかったが、「ラジオ・エチオピア」をきっかけに蓮見圭一の恋愛小説をまとめて読んだ。いずれ恋愛小説を書いてみたいかも・・・。 ところで、読みたいと思っているのは、実は自分の書いた本だ。明石屋さんまは自分の出演した番組を見るのが楽しみだそうだが、それと同じように私は自分の書いた文章の愛読者である。だから自分は自分自身を納得させ、楽しませる本を書かなければならない。それにしては生産される文章が少ないので、私はいまひとつ満足することができない。 もうひとつ、読みたいのは知識の載せていくための土台となる本だ。何を載せるにしても土台が弱いと崩れてしまう。ことばを用いるとき、そのことばの正しい意味や定義を理解していないと書かれることばは空虚で恣意的で無意味なものになってしまう。ことばが変遷することはもちろん理解しているが、それでも正確なことばがこういう時代にはことさら求められていると勝手に思っているのだが。 ○最後に買った本 「沖縄イメージの誕生」(東洋経済) ○特別な思い入れのある本、心に残っている本(五冊まで) 本ではなく作品だけど・・・開高健の短編「玉、砕ける」は私の書きたい文章の最終的なゴールである。こういうのが書きたいのだ。 その理由は米軍基地の存在に対する抗議を明確に打ち出していること、乱暴にいえば沖縄の基地を容認する日本の政策への批判がふくまれていることにある。 那覇市に限らず、沖縄の地方自治体は声高に反政府を叫んでいるわけではないが、基地を抱える自治体は静かな抗議を続けているように見える。こうした自治体の武器のひとつは情報だ。もともと自治体にはさまざまな情報が集まるしくみになっているが、沖縄の自治体は基地に関して自らの持つ情報をできるかぎり生かそうとしているようだ。 たとえば普天間基地を"内蔵"する(基地は宜野湾市のまさに中心部を占めている)宜野湾市のウェブサイトは普天間基地に関する詳細な情報を提供している。こうした姿勢は宜野湾市においては基地政策部という名の部署の存在に集約されるが、ウェブサイト上には基地のの歴史に始まり、地権者問題(沖縄では基地の大半は民有地を占拠している)、返還後の将来計画など、過去から未来にわたる情報が集積されている。 こうした自治体の立ち位置は私にはちょっとした驚きであると同時にある種の感動を覚えさせるものだ。それだけ沖縄における基地の存在が住民にとって重大な問題となっていること、それが日常と一体化していることを自治体のウェブサイトは語っている。 その現実化と拡大の努力が営々として続けられていることを私は知っているが、労働、消費、居住、さまざまな生活要素の広域化の中で人々の地方自治なるものへの愛着と参加が強化されてゆくものかどうか。 沖縄における地方自治体の存在感、自治体に対する住民の見方、距離感、批判、共感。そういった心理のひだを知りたいものだ。 (参考) 沖縄県 那覇市 宜野湾市 沖縄市 北谷町 (写真上:普天間基地の航空写真[拡大可能] 下:宜野湾市役所庁舎屋上に掲げられたメッセージ いずれも宜野湾市ウェブサイトより転載)
月並みに今年の抱負(というか計画)を考えてみる。
・まず、「カンボジア・ノート」(仮題)をハードカバーで出すこと。出すこと自体はどうやら実現しそうだが、ハードカバーにできるかどうか。そして内容を人に見せられるまでに持ってゆくのが課題だ。ハードカバーの本には単純に憧れている。 ・「カンボジア・ノート」の次の本を書き、それを年内に出すこと。その本が断続的な旅の日々から生まれることを期待する。いまのところ遅筆の極みであって、今後はある程度楽に書けるようになりたいものだ。要するに本をたくさん出し、物書きと呼ばれるようになりたいに違いない。 ・インターネット上で何か新しい自己表現をしてみたい。これは不断の願望だ。 ・それと同時に今やっている「アンコール遺跡群フォトギャラリー」を次の段階に持っていきたい。量ではなく質的な変化。どっちに行こうか? ・自分のこれまでのキャリアからなんらかのスモールビジネスを生み出したい。もやっとしたイメージはあるが具体化できずに何年か過ぎてしまった。ちょっとやってみよう。 ・写真を少しマジメにやってみたい。将来はささやかな写真集が出したいものだ。 ・どこかの国に少し長く、できれば数ヶ月滞在してみたい。これは今年は無理だが近い将来には実現したい夢だ。住むのではなく旅をつづけたい。 もうひとつ。勉強をしてみたいと思い始めている。 もはや伝統的な教育を受けられるとは思っていない。もともと勉強から脱落して人生が始まったのだ。しかしこの歳になって勉強が楽しいと思い始めているのはたしかだ。 これまでの人生に沿って我流でやるほかないだろうが、なんらかの学習を体験に重ねることができるならば新しい世界が開けるかもしれないと真面目に考えている自分がいる。 私はこれまでの生涯でいったいどれほどの時間を喫茶店のイスで過ごしてきたか。 読書、思考、原稿書き、出会いと別れ。喫茶店は人生そのものだといってもいいくらいだ。 STARBUCKSのコーヒーはうまいとは思えないがそれでもよく行くコーヒーショップのひとつになった。 (参考) Starbucks coffeeが最初の店舗をシアトルにオープンしたのは1971年。その名はメルヴィルの「白鯨」に登場するコーヒー好きの人物の名からとったという。創業者のひとりが「白鯨」の愛読者だったらしい。ロゴマークはギリシャ神話に登場するセイレーン(Siren)を意味するが、最初のバージョンがいくらかセクシュアルであったために改変され、胸と尾を隠した現在のバージョンは3つ目となる。日本上陸は1996年。 (写真下:オリジナルのロゴ)
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mail: hatano_naoki@nifty.com website: アンコール遺跡群 フォトギャラリー もうひとつのブログ: カンボジア・フォトブログ [最新刊] 詳細 『アンコール文明への旅』 『キリングフィールドへの旅』 カテゴリ
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