3.海との出会いとすれちがい
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承前)オートジャイロという冒険的な機体は、アメリカ人の好みにあったようです。前述の通り、ケレットとピトケアンの二社が動き出しました。当初は、独自開発を目指したようですが、すぐにシエルバからの技術ライセンスに切り替えられました。
ケレットK-3は、7機(6機?)が生産され、4機が民間の広告や新聞航空に用いられました。1機は、
リチャード・バードRichard Evelyn Byrd南極探検隊に装備され、「ペップ・ボーイズ・スノーマンPep Boys Snowman号」として1933年に南極で使用されました。残り2機は、なんと日本陸軍が献納機として調達し、「愛国81号」「82号」となっています。
もう一方のピトケアン社も、PCA-2シリーズを20機以上生産します。
このPCA-2に、アメリカ海軍が目を付けました。3機をXOP-1試作観測機として購入したのです。このXOP-1が、1931年に史上初の艦載回転翼機の栄誉に輝くことになります。
これ以前、急速に発展した飛行機械は、空を制したばかりか、すでに海の上にも進出していました。早くもアメリカ南北戦争で、係留気球を積んだ船が登場していますし、1903年のライト兄弟初飛行から7年後、飛行機も米軽巡「バーミンガム
Birmingham」からの発進を成功させています。1912年には、世界初の水上機母艦「フードル
Foudre」を、フランス海軍が完成させていました。
この「航空母艦」というアイディアは、飛行機械の完成よりも前から、存在したと言われます。人によっては、ライト兄弟の成功直前に、水上家屋からの飛行実験を行って失敗したラングレーSamuel Langley教授の例を、「世界初の空母」とも呼ぶとか。
1931年9月23日、米海軍最初の空母「ラングレー」で、オートジャイロの実用試験が行われました。(余談ですが、この「ラングレー」は、上述のラングレー教授の名をもらった艦です。さらに言えばライト兄弟のほうも、米海軍最初の水上機母艦に名を残しています)
陸上の飛行場を飛び立ったXOP-1初号機は、あやうく転落しそうになりながらも、洋上で待つ「ラングレー」への着艦に成功しました。

着艦に続き、発艦にも成功。数度の発着を繰り返しました。滑走距離は、60mほどで済んだといいます。
ところが、海軍が下した判断は、不採用というものでした。
このとき対照実験として飛んだ、複葉観測機ヴォートO2U-1「コルセア」に完敗したのです。「コルセア」は、同じ60mの滑走距離で、4倍の物資を搭載することができました。
考えてみれば、当然の結果です。正規の航空母艦で使用するならば、基本性能で優る普通の飛行機が使えます。無理にオートジャイロを使う意味は乏しいのです。
また、写真を見てわかるとおり、XOP-1は、オートジャイロとしても初期のレベルで、普通の飛行機に近い固定翼がありました。まだ60mも滑走する必要があっては、空母以外での運用もできません。
空中静止(ホバリングhovering)能力もありませんでした。
残り2機のXOP-1のうち、2号機は水上機に改装されましたが、こちらも不採用となります。
興味を失った海軍本店に代わって、オートジャイロに取り組んだのは、支店の海兵隊でした。XOP-1の3号機を受領すると、1932年6月、ニカラグア内戦への介入で実地試験を試みます。現地では、「七面鳥」と呼ばれて面白がられたようです。
観測任務のほか、短距離発着STOL性能を生かした負傷者救出に用いることが検討され、一定の評価は得ましたが、結局は採用見送りでした。
ただその後も、海軍と異なり、海兵隊及び陸軍は一定の興味を持ち続け、試作研究を続けたようです。新型のケレットKD-1Aは、海兵隊により5機がメキシコ国境の監視任務に実戦投入されたと言います。陸軍もYG-1の名で試験採用し、さらに数種の改良型を試作させています。(KD-1Aは日本にも1機輸出され、萱場製作所により
コピー機「カ号」が生産されています)
しかし、最終的には、シコルスキー・ヘリコプターの成功を受けて、アメリカでの軍用研究は中止となりました。
ケレット社とピトケアン社も、ヘリコプター事業に移っていったのでした。(
つづく)