地域の産科を1人で担っていた医師が逮捕され、医療界に激震をもたらした福島県立大野病院の医療事故。20日の福島地裁の結論は無罪だったが、事件は医療行為に刑事捜査を持ち込むことの難しさや、一つの事件が「医療崩壊」を引き起こす医療現場のもろさを浮き彫りにした。事件を教訓に、患者に信頼される安全な医療をどう構築していくか。関係者に重い課題が突き付けられている。
「不当逮捕で無罪は当然。医療崩壊を招いたことを、捜査機関は反省すべきだ」。この日、加藤克彦被告(40)を支援する医師らが福島市内で開いたシンポジウムでは、厳しい捜査批判が相次いだ。
批判が特に強かったのは事故から1年以上たっての逮捕だった。病院は「過誤ではない」と判断、解剖や胎盤の保存をしなかったが、県は事故から3カ月後の05年3月、医師の過失を認める報告書を公表し、県警の捜査につながった。
捜査幹部は「既に証拠がほとんどなく関係者の証言が頼りで、口裏合わせの恐れもあった」と逮捕の妥当性を強調する。だが、これまで医師が逮捕されたのは01年の東京女子医大病院事件など悪質な事故隠ぺいの疑いがあった場合が多く、検察内部にも「なぜ身柄を拘束したのか」と疑問の声がある。警察庁によると、医療事故捜査の着手件数は年間100件近いが、起訴に至るのは数件だけ。検察当局も専門家の意見を踏まえ慎重に判断しているのが実態だ。
一方、「真相を知りたい」という患者側の思いは当然、強い。死亡した女性の父親の渡辺好男さん(58)にとって、病院の説明や県の報告書は不十分だったが、刑事裁判の公判の中で、助産師が手術前に加藤医師に転院を助言していたことなどを初めて知ることができ、「スタッフの声が聞けてよかった」と話す。
厚生労働省は、医療死亡事故の原因究明に当たる中立機関として、医師を中心とした「医療安全調査委員会」の設置を急いでいる。舛添要一厚労相は20日、今秋の臨時国会に関連法案を提出する考えを示した。医療問題弁護団代表の鈴木利広弁護士は「今回の事件は、病理や産科の専門家が捜査協力を拒むなど医療界にも問題があった。刑事手続きとは別の事故報告や調査制度があれば逮捕や起訴は回避できたはずだ」と訴える。
調査委を巡っては大半の医師団体や学会が設置を求める一方で、警察への通報制度が盛り込まれ刑事責任追及の余地が残されることに一部医師らが反対しており、民主党も賛同していない。今回の無罪判決に現場からは「医療の萎縮(いしゅく)に一定の歯止めがかかる」と安堵(あんど)の声も漏れるが、厚労省の幹部は「医療界から『医療事故に捜査機関を介入させるな』との声が強まれば、調査委の議論も止まってしまう」と複雑な表情だ。【清水健二、松本惇】
大野病院は加藤克彦医師の起訴直後、産婦人科を休診にした。町内には他に分娩(ぶんべん)施設はない。近くに住む妊娠5カ月の女性(22)は10キロ以上離れた診療所に車で通う。診療所は健診のみで、出産はさらに25キロ離れた公立病院でしなければならない。女性は「近くに産科がないのは怖い」と漏らす。
福島県では06年度末に31カ所あった分娩施設が1年で21カ所に激減した。日本産婦人科医会によると、06年に出産を扱う施設は全国で2983あったが、08年は6・5%減の2788施設、医師数も146人減って7181人になった。
民事訴訟リスクの高さと過酷な労働が、産科医減少と施設閉鎖をもたらしている。厚生労働省によると、産科医1000人あたりの医療訴訟件数(06年の終結分)は16・8件で診療科別で最も多い。過酷さを象徴するのは分娩を扱う常勤医が1人しかいない「1人医長」の存在だ。全国の病院の約15%を占め、加藤医師も1人医長だった。休みがなく訴訟も多い現実が医師の産科離れを起こし大野病院事件で加速した。木村正・大阪大教授(産婦人科)は「欧米では病院の集約化が進む。日本のように少人数で対応するのは世界の常識から外れている」と指摘する。
また、若い産科医は他科に比べ、女性の割合が高く、20代では約7割を占める。しかし自分の出産などを機に仕事から離れることが多く、日本産科婦人科学会によると、産科医歴2~16年目の分娩実施率は男性83%に対し女性66%。女性は11年目で46%に落ち込む。
同学会は昨年9月、医療事故で医師の過失を免責しつつ真相究明を行う制度整備などを厚労相に要望した。学会の桑江千鶴子・都立府中病院部長は「医師が安心して働く環境を用意することが良質な医療を提供する」と訴える。【河内敏康、奥野敦史】
医療事故で刑事責任が問われることに医療界に不安や反発の声があり、その中で冷静で率直な同僚間の評価(ピアレビュー)は期待しにくい。しかし、再発防止のための教訓はあるはずで、司法手続きが確定した後、しっかり検証作業をしてみるべきではないか。また、無罪判決が出たからといって産科医療の未来が明るくなったわけではない。国は産科医等が安全で質の高い医療を提供できる環境を早急に整備すべきだ。
非常に悲しい事件で、遺族の思いは察するに余りある。しかし実地の医療の難しさを理解できない警察、検察がこの問題を調べたことは問題だった。亡くならずに済む方法はなかったのかという遺族の疑問は、専門家中心の第三者機関でなければ晴らすことはできない。ネット上では一部の医師が遺族の方を中傷する心ない発言をした。誤った行為であり、学会を含め多くの医師の見解ではない。
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◆刑事裁判になった主な医療事故◆
発生年月 医療機関 起訴事実 処分 判決
99年 1月 横浜市大病院 心臓と肺疾患の患者を取り違えて手術 6人在宅起訴 全員有罪
99年 2月 都立広尾病院 消毒液の誤点滴で患者を死なせ、事故を隠す 4人在宅起訴 3人有罪 1人無罪
99年 7月 杏林大病院 男児の割りばし死亡事故で適切な処置を怠る 1人在宅起訴 ※無罪
00年10月 埼玉医大病院 抗がん剤を過剰投与し患者を死亡させる 3人在宅起訴 全員有罪
01年 3月 東京女子医大病院 心臓手術ミスで患者を死なせ、記録を改ざん 2人逮捕、起訴 1人有罪 ※1人無罪
02年11月 東京慈恵会医大青戸病院 経験のない手術方法を選択し患者を死なせる 3人逮捕、起訴 全員有罪
04年12月 福島県立大野病院 帝王切開のミスで妊婦死亡、警察に届け出ず 1人逮捕、起訴 1審無罪
※は控訴中
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■ことば
04年12月、帝王切開手術中に女性が死亡。県警が06年2月に執刀医の加藤克彦医師を業務上過失致死と医師法(異状死届け出義務)違反容疑で逮捕、福島地検が3月に起訴した。リスクの高い医療行為が刑事罰に問われたことで、全国の産科医減少に拍車がかかったと言われる。裁判では、加藤医師が行った癒着胎盤の剥離(はくり)の妥当性が最大の争点になった。
毎日新聞 2008年8月21日 東京朝刊