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日章旗



占守シュムシュ 島の戦い


貴方はご存知ですか!語られることのない占守島の戦いを そして終戦後に日本を守った兵士達を



占守島戦車と白い墓標

今も残る戦車の残骸と、その後ろに立つ『北千島関係戦没者の霊』の白い墓標


終戦三日後の攻防・・・占守島の戦い・北千島北の島での日ソ両軍の激しい戦闘の意義とは!






占守島の戦いとは

  千島列島の最先端にある占守島の防衛隊は終戦を知り、 日本の敗北に涙したものの、これでやっと帰れる。家族に会えると、 その顔は希望に満ちたものになっていました。しかし 日本が終戦を迎えた昭和二十年八月十五日から三日経った八月十八日に、 天皇の詔勅に従い武装解除を進めていた、千島列島最北端の島『占守島』 の日本軍に対し、ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた戦 いのことです。

  日本軍は一度解除準備を進めていた武装を改めて行い、 戦闘を再開したのであった。その正体は戦争が終わったにも関わらず、 戦後の混乱に乗じて日本から千島列島、南樺太、そして北海道北部まで を奪おうとするソ連の火事場泥棒的な国際犯罪でした。これに直面した 占守島の守備隊は終戦を守り無条件降伏するか、国土の防衛の為戦うか の選択を迫られました。

  しかし彼らは故郷に帰れるという望みを捨て、 断固として戦う道を選び、武装解除の準備の為満足とはいえない兵力の中、 多くの死者を出しながら大奮戦しました。ソ連側は三〇〇〇人以上の死者を出 し完全に足止めされましたが、守備隊は八月二十三日に上層部から武装解除の命 を受け、ソ連軍の蹂躙を許すこととなりました。その時守備隊は泣いて 悔しがったと言います。

  その後彼らは日本に帰ると騙されてシベリアへ 送られ、極寒の地で強制労働を強要され、故郷へ帰るという望みはかな うことなく多くの人が命を落としました。 しかしこの占守島で苦戦したソ 連は北海道まで到達できず、北海道北部がソ連に占領されることはなかったのです。

  峻烈(しゅんれつ)な激戦の末にソ連軍を水際に追いつめ、まさに殲滅し ようとした時に「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との方面軍命令 があり、日本軍は命令に従い、軍使(ぐんし)の派遣・停戦交渉・武器 引渡し交渉の末、再度の武装解除を行い、戦いは二十一日に終結し、 ソ連軍の南下は二十四日以降になりました。

  ソ連は日本のポツダム宣言受諾、 降伏を知りながら、なぜ終戦後三日も経ってから戦争を仕掛けてきたので しょうか?それは当時のソ連の首相であったスターリンの領土拡張方針に 基づく北海道北部の占領計画上にあったと思われます。「占守島は一日で 占領する」と豪語していたソ連軍を占守島の日本軍は一週間も足止めし、 ソ連軍の南下を遅らせ北海道北部の占領計画を阻止した結果にもつながっ たのである。わたしたちは、家族と国を思う純粋な心と信念をもって、 終戦三日後に戦って逝った占守島の若者たちのご冥福を祈るとともに、 彼らのことを決して忘れることは出来ません。


占守島位置図

占守島位置図




占守島の戦いの経過


 卑劣にもソ連軍は日ソ中立条約を破り、一九四五年八月九日、満州国に侵攻したのであった。 戦車五〇〇〇輌・兵員百五十七万人の圧倒的戦力で満州国に攻め入ったのである。 満州を守備していた日本軍は多勢に無勢で侵攻を許してしまう。 満州に移住していた百万を超す日本人居留民はその後、凄惨な逃避行の始まりであった。  これが戦後、シベリア抑留や中国残留孤児の 問題を生むことになる。

 なお、宣戦布告書はモスクワ時間八月八日午後五時 (日本時間同日午後十一時)、ソ連外務委員モロトフから佐藤大使に対して 手交され、大使は直ちに東京に打電したが、この公電は日本に到着していない。 この内容を、日本政府がソ連側から正式に言い渡されたのは、八月十日午前 十一時十五分から十二時四十分。ソ連マリク大使から、東郷茂徳外務大臣に対 して言い渡されたのであった。

  「幌莚(ぱらむしる)海峡周辺地区及び占守島の要域確保」を命じられていた 第五方面軍第九十一師団は、数倍の米軍を想定し、かの敵に強靭・執勧な戦闘 を挑むべく、陸海軍あわせて二万五千名の配備を行っていました。占守島の電 波状態は極めて悪く、八月十五日の天皇陛下の終戦の詔勅を多くの部隊では聞 くことは出来ませんでしたが、翌十六日に師団参謀立会いの下に終戦が伝えら れ、十七日から日本軍は武装解除の準備に取りかかっていました。

 戦車部隊でも車載銃砲や無線機の取り外し、爆砕と車両の海没の準備まで進め ていた。しかし八月十八日の未明に、対岸のロパトカ岬のソ連軍から長射程重 砲の砲撃が始まり、国端崎の監視所からも「海上にエンジン音聞ゆ」と至急の 連絡も入ってきました。降伏に関する軍使(ぐんし)ならば夜中に来ることは ありません。「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた 中、急ぎ戦闘配備を整えました。

 その間にも「敵輸送船団らしきものを発見」 「敵上陸用舟艇を発見」「敵上陸、兵力数千人」と相次いで急報が入ってきま した。米軍ではなくソ連軍が竹田浜に強襲上陸をして来ました。敵の上陸を察 知した日本軍は国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎(こどまりみさき)の速射砲・ 大隊砲が協力して反撃し、叉陸海軍航空機の決死の反撃および重砲の活躍など によりソ連軍の指揮系統は大混乱に陥りました。

  しかしソ連軍の一部は艦砲射 撃の支援を受けながら十八日の六時ごろには四嶺山(しれいざん)に進出して、 激しい戦闘が展開されました。日本軍は戦車連隊の参加もあり、次第に敵ソ連 軍を圧迫し海岸付近に釘付けして、一歩も内陸に前進させず、一挙にソ連軍を殲滅 (せんめつ)する体制を整えました。しかしこの戦闘のなかで戦車連隊長、同 連隊指揮班長をはじめとして各中隊長以下多くの戦死者も出ました。その頃に 「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との第五方面軍からの命令が届き、占守島 の第九十一師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いていましたが軍使派遣、停戦交渉 と進め、八月二十一月に漸く戦いは終わったのである。

  その後、武装解除が 二十三日と二十四日に行われました。この激闘で一説には日本軍の死傷者は 七百名〜八百名におよび、ソ連軍は三千名以上の死傷者を出したと伝えられ、 ロシア研究者のボリス・スラヴィンスキーの著書によれば日本側死傷者は一、 〇一八名、ソ連側死傷者は一、五百六十七名となっています。ソ連政府機関紙 のイズベスチアは「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに 損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べているのです。

 しかし、これはソ連側の一方的な言い分で、この行為は国際法上の違反行為なのである。 日ソ不可侵条約を破り、しかも終戦を迎えた三日後に 攻め込んでくるとは何と卑劣な行為なのでしょうか。昭和二〇(一九四五)年八月九日、 ソ連は降伏五日前の日本に対して、宣戦布告をした。これは翌年四月まで有効であった日ソ中 立条約の完全な侵犯行為であった。

  ソ連としては一刻も早く攻め込んで終戦後の 領土分配をいかに有利に運ぶかが第一の目的であった事は隠しようの無い事実ではあるのですが、 八月十四日、日本がポツダム宣言を受諾すると、スターリンは全千島列島、および、 北海道の北半分をソ連領とすることを要求しのであった。トルーマン米大統領は千島については 同意したが、北海道については断固拒否した。 スターリンの命令により、八月十五日の停戦成立以降も、ソ 連軍による千島列島侵攻が進められ、北方四島は八月二十八日から九月五日までに占領された。

 しかしこの後も占守島日本軍守備隊のこの猛反撃にソ連側は多大な被害を被り惨敗したのである。この結果、足止めされた 数日間進行も出来ず、日本本土までは到達出来なかったのであった。ポツダム宣言受諾後に このような行為に及んだソ連は、日本固有の北方四島を占領地として日本から奪う資格は全く無いのであるが、 ソ連側は北方四島領有の根拠として、ルーズヴルト大統領とのヤルタ協定を上げていたが、わが国が参加していない協定が わが国の領土を取り決める権限を持ち得ないのは、国際常識である。また当事国アメリカも、同協定は首脳どうしの方針を述 べた文書に過ぎず、領土移転のいかなる法律的効果も持っていないと、宣言している。

  時を去ること江戸時代、一八五五(安政元)年日露間の国境を画定した史上最初の条約は、 一八五五(安政元)年 の日露和親通好条約(通称、下田条約)で、当時の実効支配の 状況から、上記北方四島は日本領とし、それより北はロシア領と取り決 められた。樺太(サハリン)はこれまでのとおり境界を設けずに、日露共有の地と 定められた。これ以降、この四島はスターリンに奪われるまでは日本 固有の領土であり、ソ連(現ロシア)の領土となったことは一度もないのである。 いまだこの問題は解決されず、島民のそして日本の悲願となっている。    




占守島第九一師団の心遣い


  終戦の時に、占守島には日魯(にちろ)漁業の従業員の方が二千五百人ほどいました。 この人たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、 その中には約四百人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎え の船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃 でした。参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱(りょうじょく) される被害者がでる。

  なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、 当時島にあっ、た独航船二十数隻に約四百人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道 に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死 の援護を行い無事に出港させることが出来たのです。「全員、無事に北海道に着いた」 との電報が島に届いたのは、それから5日後でした。停戦後に上陸してきたソ連軍は女性 を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。もし、彼女たちがいち早く島を出ることが 出来なかったことを想像すると、占守島の第九一師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。

  終戦を迎えた後にも、身を持って卑劣なソ連の進行を妨げ、ソ連軍占領予定地点の北海度中部まで 本土上陸を阻止し、多くの婦女子を占守島より脱出させてソ連軍より守り通し、上陸しようとするソ連軍を 水際から一歩も踏み入れさせず、勇敢に戦って亡くなった英霊に、そしてソ連軍の捕虜になってシベリア に抑留された日本軍六十五万ともそれ以上ともいわれる数の日本人が戦後シベリア等に抑留され、 多くの人が命を落としたシベリア抑留事件という戦後のソ連の国家犯罪も、我々日本人が忘れ てはいけない歴史の一つではないでしょうか、その英雄に敬意を称す。


國神社境内で配布
東京都大田区東糀谷四-三-四・士魂会事務局編より



(更新/2005/03/08)   Homepage Owner kanno


参考文献 
青木 磐・著マンガ版『占守島の戦い!!』
中公文庫・中山隆志・著『一九四五年夏 最後のソ連戦』
ボリス・スラヴィンスキー・著 
加藤幸廣・訳『千島占領 一九四五年夏』
(共同通信社・一九九三年)

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