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2008年7月12日 (土)

事実でないことを言っても、目的があれば嘘でない、という論理の不思議

 昨晩、「今、なぜ、榎本武揚か」というシンポジウムがありました。その後、慶応義塾大学専任講師の某法学博士と話す機会がありました。福澤が咸臨丸でサンフランシクコへの航海が日本人だけの手で行われたという時事新報の記事は大衆を啓蒙するという目的があって福澤が書いたのだから嘘にならないと主張を繰り返し発言を続けられました。

 小生には理解できない意見でした。事実と違うことを言えばそれは嘘なのです。どんな学問の世界でも共通の認識です。某先生は、福澤が存命の時代は、慶応はまだ大学になっていなかったから大学人としての責任は無いのだそうです。では義塾で福澤はなにをしていたのですかと質問したら、学問をしていたのだそうです。そして、時事新報に記事を書くときは学問をしている福澤でない福澤が書いていたのだそうです。人格が立場によって変わるからだそうです。

 非常に不思議です。福澤が記事を書けば慶応義塾の福澤が書いているという認識が前提にあるわけですから。福澤がそのような詭弁を言うなら、まぁ福澤だからと済まされますが、現代の慶応義塾の教員がそれを強弁するなら、慶応義塾には正常な感覚は無い、ということになります。法人格が当時、大学だったろうか否だろうが、学問をしていたということは何を意味しているのか。法廷に立たされた福澤諭吉の弁護を聞かされてもなんの意義もありません。

 さらに、小野友五郎が甲鉄艦買い付けに米国へ渡米したときに福澤の公金横領の件についても、なんら犯罪ではないという見解を某先生は示しました。目的達成のためなのだからなにが問題なのか分からないそうです。

 今、一万円札に福澤諭吉の顔があること自体、国民が明治以来、福澤諭吉にばかにされているというしるしなのでしょう。そういえば、小泉元首相、竹中元大臣ともに出身校は別として、慶応義塾の人ですね。その政策のルーツは足尾鉱毒事件で国家の国際状況に貢献が無い農民のことはどうでもいいと発言した福澤諭吉の考え方にあると言えます。

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