2008年06月03日

福沢諭吉その1

今日は新書より。一気に読めるお勧め本です。

「知られざる福沢諭吉」平凡社新書、礫川全次(こいしがわぜんじ)著。

「下級武士からなりあがった男」と副題がついています。
「こんな諭吉は見たことない!」と帯が赤字で煽っています。

自分としては、この本に書かれていた諭吉像こそが、自分の抱いていたイメージそのものでした。

私はもともと、福沢諭吉が好きです。
それは、日本を導いた先見の明のある人格者だとか、西洋文明を日本に導入した啓蒙思想家としてとか、そういった仰々しいラベルを伴った先人としてではありません。

器用で世渡りが上手くて、自分を棚に上げる卓越した技術があり、現行不一致で、自覚的に偽悪趣味で、自信家で、面の皮が厚くて、何事にもしぶとい現実家で、こんな風に生きられたら人生楽しくて良さそうだなと思います。競争社会にさらされ人生の荒波を渡る上で、あの図太さや要領の良さは、学ぶところがあるが多々あると思います。そういう意味で、好きです。

本では、明治30年に福沢が大阪慶応義塾同窓会での演説が、まず引用されています。

「大阪人士には精神が乏しい。精神が乏しきがゆえに高尚な気品がない。高尚な気品がないゆえに大なる事ができぬ。金を儲けるにしても高尚なる気品がなければ大なる金ができるわけがない」

著者は、この言に対して、福沢はおよそ「気品」や「高尚」とは縁がなく、終始「拝金主義者」と呼ばれていたことを指摘します。節のタイトルに「福沢屋諭吉」とまで挙げています。そして、「節操のない文筆家」、「機を見るのに敏で、自らの知識とアイデアを巨万の富に結びつけるのに成功」したとして、絵草子屋の似顔絵に「法螺をふく沢、うそをいふ吉」と囃し立てられたことまで引用しています。

著者は「『変節漢』『拝金主義』といった批判について、それが適切なのかどうかを検証してゆきたい」と本書の目的を掲げています。検証というか、渡辺修次郎の「学商福沢諭吉」や内村鑑三の「萬朝報」など明治当時の批判を紐解きながら、その評価を確信に持っていく方向に論を展開しています。

とは言っても、著者は決して福沢に嫌悪の念を抱いているわけではありません。むしろ、著者は福沢が好きで仕方がないのだと感じます。ただ、素直に賛美するには照れくさい、といいますか。そういう評価を受けてなお、いやそういう評価を受けるからこその魅力があるのだと主張されているように思います。いわば著者は、尋常ではないツンデレなのではないかと思います。文章のそこかしこに、そうした愛を感じます。素直じゃない愛です。「この人本当、しょうがないんですよ、あはは」という感じが行間から読み取れます。なので、私怨めいた不快さとは縁がなく、読んでいていっそ爽快です。

そうした姿勢なので、福沢の「品格とは無縁」なエピソードが、これでもかと楽しげに語られます。引用されているのがほかならぬ福沢自身の「福翁自伝」をはじめとした福沢の自筆が主なので、説得力があります。

まず、福沢の出自を紹介するには必ず出てくる、明治11年の「旧藩情」を紐解きます。「門閥は親の敵」というのは福沢の有名な言葉ですが。下士(下級武士)出身で、上士(上級武士)とは超えられない身分差の元で育ったことが、福沢の根本にあると著者は説きます。下士と上士では言葉遣いが違う、縁組もない、貧富も違う、教育も違う、風俗も違う、誇り高さが違う。下士は禄が少なく食べていけないので内職をし、下駄も雪駄も傘も作る。よっておのずから賎しい商工の風がある。これが、福沢が金銭感覚を養い、理財の道に目覚め、封権的な既得権や体面への反発、実力主義・向上主義・勤勉主義を志すのに繋がった。下士ならではの感覚で、近代を迎えることができたとしています。

確かに上士・下士の差は、下士と商工の差よりもよほど大きく超えられないものだったと言うのは、幕臣や土佐など他藩でもよく言われていることです。幼少期から体面にこだわっているゆとりがなかったからこその現実性と逞しさ、というのは、確かにあるでしょう。そして、明治になって士族が武士のプライドに拘って軒並み商売に失敗していったのは、福沢からしてみればそれみたことかというシニシズムを刺激してやまないことだったでしょう。福沢は、育ちが悪いほうが生命力があるという、典型的な例かもしれません。

さて、著者は「築城書百爾之記」という明治14年に書かれた福沢の備忘の書について紹介しています。(百爾=ペル) これは安政三年に福沢が大阪にいるとき、中津藩の重臣の奥平壱岐から原本を借りて、持ち主に無断で盗写したときのエピソードを、福沢が記したものです。洋書は高価で貴重だったので、写す際には持ち主に謝礼を支払う必要があったのですが、福沢は無断で筆写した。しかもこの写本を持って、緒方洪庵の塾に食客として入り込んだ。その後福沢はこの写本を元に翻訳します。

いわば福沢の知識人としての登竜門的な書ですが、これが人様に褒められたものではない、盗写という行いでした。

そこに市場価値があるものを、対価を払わず利益だけ得るというのは犯罪ですが。一方で、貧乏な学生が己の向学のためにやったのだから、そこまで咎めるようなことでもないという感じもある。
福沢が自伝で、黙っていれば良いのにわざわざこの盗写を述べているのは、そうした一般人の感覚をよくわかっているからこそのことではないかと思います。そして、福沢の実績があるからこそできることかなと。これをのうのうとされると、咎めるほうが狭量だという感じもする。そういうことをあえてやって世論を試すようなことをするのが、福沢の独自のユーモアではないかと思います。

「築城書百爾之記」の最後には「貧は人を不善に導き、究は人をして活発ならしむ」とのまとめがあるそうです。このいけしゃあしゃあぶりは、ある意味尊敬です。

ちなみに、同じ本を翻訳して、平民から幕臣取立ての出世階段を駆け上がり、諸藩に知れ渡り一躍有名になった人がいます。大鳥圭介です。この本の別の和名を「築城典刑」と言います。大鳥と福沢は、適塾にいた時期は全く重なっていないので、福沢の盗写を大鳥が使った可能性は無いと思います。

適塾を舞台にした福沢が主役の小説で、福沢と大鳥が悪タレコンビを組んでいて、最後に大鳥が福沢の百爾築城書を譲り受けて翻訳して、大鳥が一生福沢に恩を来たという下りのものがありました。それは有り得ないですが、話としては面白いです。

この「築城典刑」は、当時の野戦技術総合マニュアルと言うべき、洋式の戦い方イロハです。「築城」は、城ではなく、胸壁や保塁などの陣地構築のこと。町、街道、森林、山岳などあらゆる地形における戦闘方法、防御方法、ゲリラ的行動、そしてそのための錬兵方法のハウツーが記載されています。
そうした時代のニーズをかぎ分けて価値あるものを掴み、適塾という出世街道の入り口に入り込んだ福沢の鼻の利きようは、お見事と言えるかと思います。

維新前の福沢と大鳥に付き合いがあったかどうかは、よく判りません。せいぜい洪庵先生のお葬式に顔合わせしたかどうか、というぐらいかと思います。明治以降は、ウィリアム・ホイットニーの商業学校関係やクララ付き合い、交詢社や丸善の出版関係などで何かと関連があります。福沢の、この育ちの悪い神経の太さ、大鳥にとっては同類なので、少なくとも大鳥は福沢を悪くは思っていなかったのではないかと思います。


えぇと、「痩我慢の説」の前フリで簡単に紹介できればと思ったのですが。書きたいことが増えてしまいました。続きます。
5月は仕事で休みも寝る間もなくネットアクセスも悪くて、こちらはサボっていたのですが、6月はもう少し頻繁にポストできればと思います。
タグ:福沢諭吉
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2008年06月05日

福沢諭吉 その2 小野友五郎と幕府瓦解

諭吉、続きです。同じく平凡社新書、礫川全次著「知られざる福沢諭吉」を主に引用しています。

福沢は元治元年(1864年)に翻訳方として、幕臣に登用されます。そして、三度の洋行を経ることになります。

この幕臣時代の福沢の上官であり、共に渡米した小野友五郎について、本書で紹介されています。
小野友五郎は、福澤諭吉とは正反対の、実直な実務官僚として紹介されています。福澤の所業を明らかにする引き合いだけでは、到底終わらせられない方です。

小野友五郎については、藤井哲博著「咸臨丸公開長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」という新書が詳しく、「知られざる〜」でも頻繁に引用されています。著者はもと海軍中尉で零戦搭乗員、かつ理学部物理学科で原子炉技術者という異色な経歴だけあり、技術の中身や測量の原理も十分踏まえた上で、小野についての記述と評価をして下さっています。著者自身も日本の技術を支えた方であり、テクノクラートの実質的貢献を技術的側面から明らかにした素晴らしい著作です。

東都アロエさんが、すでにわかりやすくご紹介して下さっています。このエピソードは自分も黙っていられなかったということで、二番煎じで申し訳ないですが、触れさせてください。

小野友五郎は、笠間藩士。家は一代限りの下級藩士でした。藩の算術世話役甲斐駒蔵に入門したことから日本の数学史に残る和算家に。代数学や微積分など西洋数学も習得していました。その後、数学の腕により嘉永五年に幕府天文方出役。安政二年長崎海軍伝習に一期生として参加し、西洋式の海底深浅測量を習得。矢田掘鴻らと長崎港を測量しています。文久元年幕臣に登用。小十人格で軍艦頭取。この年の5月に、荒井郁之助、甲賀源吾と共に江戸湾の湾口部の測量を行っています。また、ボーリング機を作成して海底の岩盤調査まで行っている。さらに砲台と小型蒸気砲艦の連携による総合的江戸湾海防策も策定しています。

咸臨丸の航海に先立っては、恒星と月との角距離を測定することで、正確な時刻と経度を算出する月距法を完璧にマスターしていて、ブルック海尉を驚かせたというエピソードの持ち主です。実質的な専門技術の持ち主です。

新政府では工部省に出仕。鉄道調査にその測量の腕を生かします。その後は製塩事業に人生を捧げました。

友五郎さんは、そうした絵に描いたような苦労人で、幕末を科学技術から支えた地に足の着いた技術者。じっくり時間をかけて追いかけたい方です。

さて、小野は、幕臣取立てに先立って、日米就航通商条約批准書交換のために米国艦と共に派遣された咸臨丸の米国派遣に、測量方・運用方として従事。このときの同行者には松岡磐吉や小杉雅之進など箱館戦争の海軍の面々が見えます。
その後、ストーンウォール号買い付けのために、今度は正使(団長)として再度渡米します。

このときに、外国方の調役次席・翻訳御用(書記官・翻訳係)として参加したのが福沢諭吉。
藤井氏によると、この福沢が、大変なお荷物だった。彼は前二回の洋行経験から採用されたのだが、彼の英語力は観光レベルでとても仕事を任せられる状態ではなかった。和訳はまだしも英訳はてんで駄目で、公文として使えるレベルではない。翻訳や通訳は他の能力のある団員に任せ、周囲の負担を増やさざるを得なかった。福沢は、任された為替が現金化できない、雇った現地人に公金を持ち逃げされる、荷物の荷揚げ高尚に手間取り将軍から大統領への贈り物が間に合わない、などなど、まともに事務のできなかった。

このころ福沢は、もちろん幕臣。であるのに、団の使命も責任も自覚しておらず、私的な物品書籍の購入ばかりしていた。小野は福沢に、幕府の公的な必要書籍の購入を命じる。彼は幕府の公共物と自分の私物を一緒にして、卸値で購入する。そして卸値と小売の差額を手数料として自分のものにしたいと小野に申し出る。もちろん公務なのに手数料など払えるものではないと小野は拒否する。しかし福沢はひそかにこれを実行した。さらに悪いことに、私用の書籍代まで、公用の代金に含ませた。

そして運賃も。小野は私物の運賃は個人払いにするよう指示していた。他の随員はよく理解し会計は皆厳密に処理していた。小野自身ももちろんそうした。けれども福沢一人は、購入した私物の書籍の運賃を幕府の公金として処理した。書籍は重い。国際運送料はいつの時代も高い。今も出張に出るごとにエクセス(航空の超過運賃)の悩みの種です。

福沢が本来自分の身銭を切って払わねばならない私物やその運賃を公金から落とした、つまり横領した額は、書籍物品と運賃を含めると、なんと一万五千ドル。現在価値換算して1.5億円〜2億円です。税金でまかなわれている公金の横領は、現在では会社の屋台骨が揺らぎかねない著しい信頼の欠損になります。たとえば最近、ODA案件で国からの受託事業で国に水増し請求をしたP社が、ODA事業からの撤退と該当部門の解散・他社への吸収を余儀なくされました。この時の水増し額は1.4億円でした。

小野は、運賃表を船会社から取り寄せて、福沢に自分の荷物の運送料を勘定するよう指示。しかし日本に着く際に小野が福沢に確認したところ、運賃表を紛失したなどとのたまう。

小野はこれら福沢の行状に流石に堪忍袋の緒が切れて、福沢の荷物を神奈川奉行に差し押さえさせた。そして福沢を告発し、自分らも部下取締り不備ということで進退伺いまで出した。小野は部下のコンプライアンスを指示し続けていたのに、それが徹底できなかったとして職を賭けるほどの覚悟に小野は至った。

それなのに、「小野といふ人は頑固な官僚的人物であつたらしく、自分は外国の事情を知らぬ癖に長官風を吹かせるので、(福沢)先生はこれにたまり兼ねて事ごとに衝突するやうになつたのである」などと「時事新報」主筆で慶應義塾評議員の石河幹明が「福沢諭吉伝」で一方的に小野を非難している。(ちなみに私的なはき違え手紙のはずの「痩我慢の説」をわざわざ新聞に掲載したのもこの人) 。福沢には、当時の新聞メディアや慶応大学関係にシンパが多いので、こうしたネガティブな行状が余り世間や現代に伝えられておらず、一方、周辺の職務真面目な方がいわれのない中傷を受けていることがある。

さらに福地源一郎が、同僚のよしみで事件の解決に奔走した。福沢は「不都合の次第あり」ということで外国奉行より謹慎処分を言い渡される。福沢はこの謹慎も堪えず、ちょうど良いから西洋紹介のパンフレットを作って自慢していた。そして幕府崩壊のドサクサで罪を免れてしまった。荷物は年末に戻ったとの由。幕府の瓦解は福沢にとってはラッキーだったと言えます。

ちなみに、福沢はこの米国で買い入れた書籍を教材とし、視察して回った米国の教育施設のノウハウを用いて、慶応義塾を開設したのでありました…。

鳥羽伏見の戦いの際は、小野は、大阪表駐在の勘定奉行並として大阪に在りました、これは兵庫開港に備え商社設立や貿易取引の下地を整える重職のためでしたが、戦乱勃発となってしまいます。小野は戦いの兵站を整え、淀の本営にいました。徳川慶喜が大阪城を脱出し、幕軍が戦闘で敗北した際は、軍用金の十八万両を江戸へ緊急輸送する処置に関わります。榎本武揚にこれを依頼しました。

その後、慶喜の退隠が決まり、役目御免=クビとなりました。そして鳥羽伏見の戦いの主犯の一人にスケープゴードとして仕立てられあげてしまい、罪を被って、伝馬町の揚屋敷に投獄されます。このためこの後の戊辰戦争には関与せず、牢の中で上野彰義隊戦争の砲声を聞くこととなりました。徳川の駿府への封が決まった際に、六月に主家預けと言う形で出獄しています。

小野が牢獄に監禁されている頃。

福沢は、慶応義塾で、後世に残る「感動的」なエピソードを作っています。
明治29年の慶応義塾旧友会での福沢の演説より。

「兵馬騒擾の前後に旧幕府の洋学校は無論、他の私塾家塾も、疾くすでに廃して跡を留めず、新政府の学事も容易に興るべきにあらず。いやしくも洋学といえば日本国中ただ一処の慶応義塾すなわち東京の新銭座塾あるのみ。余人はこれを目して孤立と云うも、我は自負して独立と称し(略)日本の学脈を維持するものなり」

慶応4年5月15日。上野で彰義隊が、官軍のアームストロング砲にボコボコにされている際。「上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んでくる気遣いはない」と、塾のある場所までは砲は飛んでこないと高をくくって福沢は慶應義塾で授業を行い、日課のウェーランド経済書を口述していた。

幕臣が、思いはそれぞれあれ、あるいは脱走しあるいは上野に篭り、気炎を上げて新政府軍に徳川に殉じよう、徳川の再興を志そうとしているときに。
一人日和見して、戦争で塾が廃れたニッチを利用して、一人塾を開いて一人勝ちして学を売って利益を得ていた人間が、福沢です。

福澤諭吉は、れっきとした幕臣です。

幕臣に取り立てられたのは1864年。大鳥よりも1年早い。少なくとも4年は幕府の禄をバクバク食み、しかも公金を横領して自分の塾という事業の基盤を整えた。教材も教育機関運営のノウハウも幕府の金で渡米した公務から得た。

それで、あっさり幕府を見捨てて、血道をあげて戦う同胞をせせら笑い、明治では言論を以って「啓蒙家」という肩書きの元、新政府の体制に諂いヨイショ上げに終始した。福沢が、新政府から出仕を求められても応じなかったのは、旧幕府への忠節のためでは無論なく、幕臣時代の役人生活の堅苦しさに、官僚という職に愛想が尽きたからに過ぎない。

よくもまあそれで自分の塾に「義」の一文字を用いられたものだと思います。

「慶應義塾」の名前の由来は、慶應義塾の開設に伴って福沢が示した慶応義塾之記 に、以下の通りあります。(本文は青空文庫でもデジタルライブラリでも参照可)

「吾が党、この学(洋学)に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩澣、つねに望洋の嘆を免れず。実に一大事業と称すべし。然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りて、かりに慶応義塾と名づく」

一体どの面で「報国の義」などとほざけるのか。福沢の面の皮の厚さには、本当に感心します。

今の慶応大の在籍の方や卒業生の方には大変申し訳ないですが、「慶應義塾大学」の「義」の文字を見るたびに、「義」とは何ぞやと、しょっぱい顔をしたい気分になります。

なお、慶應義塾大学が「ウェーランド経済書後述記念日」として、5月15日に毎年講演など催しを開いて記念しているとのことですが。この美談化は、内幕を見ていると、むしろ恥を誇っているのではないかと、体中の骨がむず痒くなる感じがします。

福沢の行状を見るたびに、「痩我慢の説」なぞ、誰がどの口を持って言えた代物かと思います。それを云った福沢自身が、我慢どころか無節操の塊ではなかったかと思います。

福沢自身は、自分の行動の棚上げぶりは、十分自覚していたのではないかと思います。福澤が小人物ではなく偉いと思うところは、これらの倫理的に問題のある行動を、一切隠蔽せず、のうのうと自分の口からのたまっているところです。米国渡航の件も、福地源一郎に自分の所業を自分で述べています。自分の行動について自覚的で、いわば確信犯です。これは、福沢は、窃盗犯的な自分の行動は、その後の自分が社会になした役割の大きさで十分正当化できる、あるいは吹き飛ばせると思う自信があったことによるかと、自分には思えます。こうした逸話を自分で明らかにすることで、福沢は自分を美化する世間を冷笑していたのかもしれません。

いずれにしても、この、機を見て敏を知るふてぶてしい強さは、いっそ羨ましいです。
私は友五郎さんの不器用な実直さのほうが、よほど共感しますが。

えぇと、現在の慶応大学は、貴重な研究を行い未来の日本の人材を輩出し続けている、日本を代表する先端の教育機関のひとつだと思います。
福沢のエピソードの記述を以って、慶応大学の名誉を損なう意図は、決してありません。
posted by 入潮 at 07:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月14日

福沢諭吉その3 拝金主義者

福澤諭吉の横領事件について。前回は悪く言って終わってしまったのですが、弁護がましい事も言ってみたいと思います。
諭吉は一応、反省というか、我が身は振り返っています。

「福翁自伝」より。福沢は、船の中で同行の尺振八と気があったのか、酒を飲みながら壮語快談していました。船のなかの酒は高価なのですが、これを公費で飲む。

「ソリャもう官費の酒だから、船中のことで安くはないが、なに構うものか、ドシドシ飲み次第食い次第で、颯々と酒を注文して部屋にとって飲む。サアそれからいろいろなことを語り出して、『ドウしたってこの幕府というものは潰さなくてはならぬ。(略)開国論を唱えていながら、その実を叩いてみると攘夷論の帳本だ、あの品川の海鼠台場、マダあれでも足りないと言ってこしらえ掛けているではないか。そんな政府なら叩き潰してしまうがいいじゃないか』」

この人、公務員の分際で、公務の出張中に、公費で船室で酒を飲み、しかもその政府を叩き潰せと高吟していました。幕臣として公に仕える者の倫理観が欠落している、困った人です。

というか、ことさら悪ブルって、自分がやったやんちゃな内容を格好良いことと勘違いして喧伝する、反抗期中学生に似た精神性を感じないこともない。

それにしてもこの時は、甲鉄艦受け取りのための渡航なので、時期は慶応3年。幕府の陸軍は英式、蘭式を経て陸軍仏式伝習も開始し、海軍は長崎の伝習所でオランダから学び、フランスからの借款で横須賀造船所のドックも着工している。

文久以前ならまだしも、慶応も後期、すでにお雇い外国人ありきで改革が進んでいる真っ只中で、幕府のどこに攘夷の影があるというのだろうか。外国方の幕臣(=外務省官僚)である福沢は、一体幕府の何を見ていたのだろうか。福沢の見方はまったく不思議です。この人は時々、世の中をとてつもなく的外れに捉えているところがあると思います。

さらにその幕府を、誤解しまくった挙句に潰してしまえと、アナーキーになる。

さらに。

「『全体今の幕府の気が知れない、攘夷鎖国とは何の極意だ、これがために品川の台場の増築とは何の戯れだ、その台場を築いた者はこのテーブルの中にも居るではないか、こんなことで日本国が保てると思うか、日本は大切な国だぞ』」などと公衆の前で公言した」

品川台場を設計したのは、上司の小野友五郎さんです。福沢は小野の前で、この的外れな批判を繰り広げていた。

これで終わっていたら、福沢という人物も底が浅いなぁ、という感じで終わるのですが。福沢が福沢たる所以は、次の発言です。

「このようなことは、私のほうこそ気違いの沙汰である。なるほど小野は頑固な人に違いない、けれども私の不従順ということも十分であるから、始終嫌われたのは尤も至極、少しも怨むところはない」

ここまで自分の行状を自分で繰り広げておいて、自分を「気違いの沙汰」と評しているのですから、これはもう確信犯です。誰もに覚えのあるような若気の至りを演じたかったのでしょう。そして、自伝を面白おかしくするために、多少の誇張も入れたのでしょう。

福沢の言動に時々ある的外しも、判っていながら、「幕府は因循固陋」というような世の中が望むようなレッテルをあえて強めるため、すなわち世の中に迎合するためにわざわざ外しているような感じもします。そのあたり、福沢は、階級や組織には反抗期なのに、世の中や世論には従順です。

この福沢の性質は、今のマスコミのありかたを彷彿とさせます。

それにしても、少しも怨むところはない、ですが、一見寛容な言い様にも見えるのですが。
「怨まれるべきはお前だ」と突っ込みたい。
この男の心臓にはよほどの剛毛が生い繁っていると思います。

良く言えば独立不羈、悪く言えば厚顔無恥。
部下にしたくない男ナンバーワン。

友五郎さんが、月代おでこに青筋を浮かべながら、ふるふる耐えている姿が、目に浮かぶようです。

なお、一方で福沢は、きわめて臆病な性質を持っていたりします。攘夷主義者の洋学者への攻撃を恐れるために、文久年間は夜道で武士に会うと逃げ出し、明治初年ごろは家の押入れに揚げ板を作って逃げ道を設け、明治5年ごろまで夜は出歩けなかった、ということも述べています。「上野から弾は飛んでこないさ」と堂々授業をやって同僚を嘲笑していたいた人間の、裏の姿です。

さて、「知られざる福沢諭吉」に戻ります。

明治に至って、福沢はしばしば、拝金主義ということで批判を受けます。著者は渡辺修次郎による「学商福沢諭吉」という著作を取り上げています。

福沢は、出版事業による利益を執拗なまでに確保しようとしていた。自分の著作の偽版に目を光らせていた。安政2年、福山藩の学校に立ち寄った際、学校施設よりもそこにあった自分の著訳書を主にチェックしていた。明治3年、帰省途中に大阪で「西洋事情」の偽版を、訴訟の証拠とするために買い集めた。

また、それら出版事業を慶応義塾の名を高めるのに利用し、塾生を獲得した。

これは、慶応義塾を、学問の権威とすることで、自分の出版物に権威を与えて後ろ盾としたことに繋がるでしょう。

福沢の拝金主義は若いころからだったようです。というか、金銭を卑しむ武士の出自で、金を有難がることにより世の中より一歩進んだ合理的な自分を振舞いたかったようにも見えます。福翁自伝より。

「あるとき兄が『お前はこれから先、何になる積りか』と言うから、私が答えて『左様さ、まず日本一の大金持ちになって思うさま金を使うてみようと思います』というと、兄が苦い顔をして叱ったから、私が反問して『兄さんは如何なさる』とたずねると、真面目に『死に至るまで考悌忠信だ』とただ一言で、私は『ヘーイ』と言ったきりそのままになったことがある」

これは適塾に入るより前の話のようですが。この頃から福沢は数学を学んでいたと自慢しています。単なる反抗期というか、悪ぶっているようにも見えます。このあたり、上士ではなく、日々の生活にかつかつな下士に生まれたために経済感覚が必要だったということで、自分の生まれの悪さを強調しているようです。

福沢は、自分の出自の低さをことさら示すことで、そのビハインドをものともせず自分はのし上がったのだということを誇りたかったのではないかと思います。

特に印象的なのが、著者の挙げている、明治6年に自分の家系を記した「福沢氏記念之碑」の撰文です。ここに「福沢氏の先祖は必ず寒族の一小民なり」という文を記しています。普通、源氏の平氏の桓武天皇のという、胡散臭い家系を皆作り上げるわけですが。わざわざ石碑に、自分は貧しい一介の民だとしているのは、それが福沢なりの「自慢」なのでしょう。

ここまで書いて、いまさら云うのもしらじらしいかもしれませんが。こうした福沢は、私は好きです。自分も生まれは悪いので、福沢が「自慢」したい気持ちはよく分かります。そして、福沢には、ただの小人物ではない、開き直った偽悪者の感性と、それゆえのしぶとさと動じなさがあります。それには何かと学ぶところが大きいです。

そして、福沢の好ましからぬ行状を明らかにしてきた著者も、同じように、福沢に好感を感じているのではないかと思います。それは、以下の文に明らかです。

「総じて言えば、福沢は、『商売』に徹し、営利を追求し、あえて『拝金主義』を実践することで、時代をリードしようとしたのではないだろうか。みずから『士族の商法』の模範となろうとしたのではないだろうか」

確かに全ての士族に福沢のような経済感覚があれば、士族の没落はずっと少なく、佐賀の乱や西南戦争といった悲しい事件も起こらずにすみ、士族授産の為に貧乏日本政府が余計な金をつぎ込むことは無かったのではないかと思います。ただ一方で、皆が福沢のように唯我独尊だったら、バブルの中国も真っ青な、血で血を洗うすさまじい経済闘争に突入したのではないかという気もしないでもないです。

福沢は人を惹きつけるタイプの人間だったということも著者は認めています。また、著者は福沢の文章はスラスラと読めるということにも着目しています。高校生の頃に福沢の文を読んでこのことに気づき、畏るべし福沢と思ったことを述べています。

確かに、福沢が福沢を明治の文壇の第一人者たらしめたのは、なによりこの文章のわかりやすさであると思います。福沢はこの極意を福沢に叩き込み恩恵を施してくれた洪庵先生を、「一旦文事に臨むときは、大胆とも磊落とも譬へ難き放胆家」と評して、非常に尊敬しています。福沢は、出版するものは下女に読ませて彼女が分かる文を作った、というエピソードを持っています。文章は、一般人にわかり易いものを、というのは緒方洪庵と彼の薫陶を受けた者たちの心するところでした。

ちなみに、大鳥はじめ、洪庵門下生に現代に通じる有名人が多いのも、この「分かりやすく文を作る」という特殊スキルを塾生が習得していたからではないかと思います。世の中、文書によって物事は進みます。説明でき、説得力のある文章を編める方が、出世するのです。福沢はそのスキルを、学を売って財を成す金儲けに用いたのでした。

ただ、福沢は、私利私欲の権化というわけでもありません。

著者は、明治24年の「士尊商卑」という福沢の文章を引用します。今の大商人は、金は持っていても志が低く国際社会に貢献していないということを嘆いているものです。

「我輩は国の生産のため、またその一身の利益のために、今の日本の資産家が大いに心事を改め、みずからその地位を高むるの覚悟あらんことを望むものなり」

これも棚上げだという気もしないでもないですが。福沢は、自分の行いが世評でどう受け止められるか、そんなことは百も承知だったと思います。それで自分の行いが、人々が利に聡くなり利益を得ようとするきっかけとなればいいという思いはあった。偽悪者じみているというか、悪びれない。単なるお綺麗な自己犠牲ではない、自分もしっかり利を確保し、かつ国の全体の利益をも追求した上でのことだから、好感がもてるのです。

福沢自身は聖人君子として歴史に残ろうなど、毛頭も考えていなかったのではないかと思います。


そして、最後に著者は、「福沢研究のかんどころは、主体的に云ってみて、福沢惚れによって福沢の真実には到底到達できないということである」と、歴史家の服部之総氏の言葉を引用しています。そして、「どういうわけか今日出回っている福沢諭吉の研究所は、ほとんどが『福沢惚れ』の方々による福沢礼賛タイプのもの」と、著者は指摘します。

「福沢惚れ」の主体者は、言うまでもなく、慶応大学のお歴々の方々ではないかと思います。創業者の社会的評価を高めることにより、大学の格と知名度を上げる。なので、慶応大学の研究者は「近代の偉人福沢諭吉」の像を飾り、イメージを作り上げて来た。そして、慶応大学にとっては福沢はいわば聖域なので、貶すことはタブーとされていたでしょう。これにより福沢は死後も自分のプレゼンスを高めつづけることができた。

さらに、福沢が時事新報というメディア手段を持っていたことも大きいでしょう。メディアが言えば日本人全ての認識を作り上げることができるのは、今も昔も同じ。福沢は、メディアと学閥という、近代社会を動かす二大要素を牛耳っていたといっても過言ではありません。

なお、現在は、慶応大学の生協書籍部は、この「知られざる福沢諭吉」を注目書籍として採り上げたそうです。学生を相手にする商売の目は、180度違う方向を向いているようです。


そうして、現在、福沢は日本国の最高額紙幣に、でーんとのさばっているわけです。

普通、一国の最高額の紙幣に採用される人物は、建国の王や革命の英雄や独立の父などといった、国の成立に無くてはならなかった重要人物が採用されます。米ドルのベンジャミン・フランクリンしかり、中国人民元の毛沢東しかり、インドルピーのマハトマ・ガンジーしかり、ベトナムドンのホー・チ・ミンしかり、タイバーツのプミポン国王しかり、ブータンニュルタムのウゲン・ワンチュック建国王しかり。

それで、日本円は何故福沢諭吉なのだろうかと、長い間疑問でした。

もしかして、拝金主義者福沢諭吉を最高紙幣に採用することにより、金と商業を崇めよという、日本国民へのメッセージを込めた、日銀と大蔵省(今は財務省)のジョークなのかしらと思ったりもします。

そうすると、一万円札を見るたびに、なんだか妙な闘志が沸いてきます。

いずれにしても、不必要に美しく作られてしまった福沢の姿を、より現実的な方向へ修正するきっかけを、この本はもたらしてくれたと思います。
そして、私は、偉人としての福沢より、拝金主義者で臆病者で偽悪者で自分の権益に敏感な、ありのままの福沢のほうが、ずっと魅力的であるし、学ぶところが大きいのではないかと思います。
タグ:福沢諭吉
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2008年06月24日

愚痴を言う日々

岩手・宮城内陸地震のニュースが伝わるたびに、痛ましく思います。
栗駒温泉駒の湯は、大学時代に何度もツーリングで訪れました。野趣あふれる思い出深い湯でした。犠牲者の方々には心からお悔やみ申し上げます。被災地の復旧に携わる方々、雨の中大変ですが、二次災害にお気をつけて頑張って下さい。

地震の不安と戦っている方々に比べれば全く何でもないことですが。
16時間/日の労働が続いています。今年に入って片手の数も休みがない。災害救助の支援なら、ぶっ倒れても行い続ける甲斐はあるのだけれども。今追われていたのは、さもしい入札でした。しかも連敗中。今回も競争が厳しいのですが、今度は絶対に勝てと、上からオーダーが出ています。

仕事が取れたら夏が無い。取れなかったら居場所が無い。

どちらに転んでも、ろくな道ではない感じです。
とりあえず、今さっき原稿を印刷に出してきて、帰宅して一息つくことができました。

はぁ、ビールがうまい。
この達成感が良いです。

そして、明日からまた次の山に上ります。

相変わらず見苦しくてすみません。

自分の忙しさを誇示する愚痴というのは、「こんなに必要とされている私」という自慢であり、同時に「大変だね、無理しないで」という労わり文句を欲する自己愛だ、といいます。

人間誰でも、いたわられたい、いやされたい、という欲求は持っているものです。そして、生きている限り不満のない人はいません。
ただ、それを恥ずかしげもなく羅列するか、慎むかの違いかということかと思います。

なので、愚痴や忙しさ誇示というのは、確かに品の良いことではなく、やらないに越したことはない類のことかと思います。

そういうことを考えると、自分の言動は、なんつぅ恥ずかしいことを、と赤面することしきりです。こうしたことは、自分の心の中やPCのローカルディスクの中に留めておけばよいのですが。ブログや友人相手など、外に向けるものがあるからこそ、ついやってしまうのです。

いろんな分野の方のブログを拝見しても、「愚痴で汚したくないけれど」とか「愚痴でごめんなさい」とか、よくないとわかっていても、ついつい吐き出すことですっきりする、という感じで書いている方が多いようです。


もともと「愚痴」という言葉は、三毒「貪」「瞋」「癡」の一つという、仏語用語だそうです。

貪:貪欲、貪り求める心
瞋:瞋恚、怒りの心
癡:愚癡、真理に対する無知。心性が愚かで、一切の道理にくらいこと。

愚痴というのは、元をたどると、真理を知らず心性が愚かだから、出てくるのだそうです。
仏教も、きっついことを仰います。

たしかに、愚痴の内容は、真理を知らないとまで言うと言いすぎですが、本質からは遠い瑣末なことであることが多いです。
そして、言ってもせんのないことを、ぐだぐだと周囲に聞かせるのは、確かに周りも気持ちよいものではないでしょう。

そして、大抵は、その時間が過ぎてしまえばなんでもないこと。あるいは、自分が心持を変えて本気で行動を起こせば変えられることです。

そういうわけで、愚痴を言う時間があったら、その分楽しいこと意義のあることを行うのが、やはり格好は良いようです。

特にこういう趣味のブログは、趣味の内容に共通しているものがあり、書き手のその趣味に関する姿勢や考え方や行動や情報に関心があるから、読み手の方が読んでくださるわけで。
読み手の方の興味の度合いは、書き手の日常よりも趣味の内容そのもののほうが、ずっと大きいのではないかと思います。

なので、愚痴を言うぐらいなら、楽しい趣味の話題を、というあり方を目指したいと思います。

そんなわけで、先週は日曜日を休んで、横浜で、戊辰戦争をコアに研究されているOさんにお会いしてきました。ここ数ヶ月、仕事と銭湯以外でろくに人とコミュニケーションしていなかった分、思う存分喋ってきました。楽しかった。久しぶりに仕事以外のことに集中できました。
色々と収穫もありましたので、またご紹介させていただければと思います。


さて、小腹がすいたので何ぞつまみでも、と台所を見たら、買い置きのせんべいと切干大根とレトルトカレーが、全部ネズミにやられていました。

寝る前にモノを食うな、と。
メタボ対策への協力までしてくれる、いじましい同居の連中です。

しかしながら、晩酌の相手は人間良い、腹減った、という愚痴で、本日は閉めたいと思います。
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2008年06月28日

江川家文書目録

「伊豆韮山江川家文書」の目録が、国文学研究資料館に公開されていました。

江川文庫については、以前に韮山の江川亭に訪問したときに、こちらでご紹介させていただきました。
江川家文書は、代々の代官だった江川家に伝わる、幕府勘定所との往復文書、近世以降の幕領関係文書、江川英龍らの幕政関係文書、明治初期の韮山県・足柄県文書などが含まれた、数万点におよぶ膨大な文書群です。

http://archives.nijl.ac.jp/db/internal/EGAWA-FNDN/egawa-DB_top.htm

約2万点の目録が、上のサイトに掲載されています。
なにせ2万点ですから、膨大なデータです。HTMLで開こうとしたら、ブラウザが凍りました。ネットが光ファイバーでメモリが数Gないと開けないと思います。ローカルに一旦ダウンロードしてようやく開けました。

この2万点分が公開されているのは、目録だけです。
マイクロに保管されている文書もあるのですが、マイクロは現在件数 1,531 件ということで、ごくごく一部のようです。画像も一部がWebのに掲載されていますが、公開されているものの中には、大鳥関連のものは見当たりませんでした。

本物は、まだ総合調査中であるため、公開体制が整うまで当分の間、残念ながら閲覧はできないとのことです。

そして、研究員さんからは約4万点とお伺いしていましたので、目録にあるのはまだ半分、ということになります。

それでも、目録の一文だけでも、十分以上の情報量です。
むしろ、具体的な中身がどうなっているのか、見出しから想像力を掻き立てられます。

以下、大鳥関係で目を引いたものです。


○慶応期 差出: 陸軍所調役、受取: 柏木荘造。
報告書1点試料の包1点添付。書状中には『大鳥圭介より請判有之』とあり」


柏木氏は江川塾の代表的な教師で、英武を助けて江川塾を盛り立て、戊辰戦争においては江川を恭順に導いた方。陸軍所から報告書と試料を受け取っています。「請判」は保証のために押す判のこと。「試料」ということは大砲の薬品か何かでしょうか。大鳥が何らかの研究を陸軍所において行って、その結果を江川塾に送付したということが伺えます。


○ 明治5年1月2日、差出: 韮山雨宮貞幹東京雨宮貞道、受取: 正六位様御執事御中(江川英武様閣下)
「年賀・大鳥圭介赦免の件等」


差出人の雨宮貞幹、雨宮貞道という両名は、誰なのかわかりません。大鳥たちが釈放されたのは1月5日のこと。「死生の境」の大鳥談では、大鳥たちは赦免されるその瞬間まで自分たちの命の行方は知りませんでした。しかしながら、1月2日にはすでに赦免が決定されていたことが伺えます。その情報を知り英武に伝えた雨宮氏が何者なのかは気になります。


○ 明治5年1月20日、差出: 柏木忠俊、受取: 正六位様.  
「永井玄蕃松平太郎大鳥圭介より無御構開拓司召出の件等」


「無御構」は、江戸時代の裁判で、お上から罪に問われず不問に付されること。無罪放免になり開拓使に出仕したことが、柏木から英武に書状でしたためられています。さぞ喜んでくださったことと思います。


○ ?年 ( ←明治5年) 差出 : 柏木忠俊(横浜津久井屋)受取 : 御手元江  
「俄ニ大鳥本多等之米行・大鳥に者別而五ヶ年振り云々」


柏木忠俊から江川英武への書簡。文中の「本多」は、幸七ではなく、彰義隊の本多晋です。
「大鳥には別して5年ぶり云々」ということは、脱走し投獄され釈放されて米国行きが決まった大鳥が、5年ぶりに柏木さんのところに挨拶に来たいうことかと思います。釈放を喜び合ったことと思います。旧友達が久闊を叙する様子が目に浮かびます。「云々」の中身が知りたいです。


○ 明治6年 7月3日、差出:(米州新約克)江川英武、受取:(大日本豆州韮山)両御叔母様玉机下
「大鳥本多両氏と面会の件等」


英武は、海軍省の官費留学生として、米国にいました。明治4年の11月の岩倉具視使節団に同行して日本を出発し、明治12年までアメリカで学んでいました。
ニューヨークに滞在していた英武が、外債発行で渡航した大鳥・本多と会ったことを知らせる手紙です。大鳥もこの宛先の「叔母様」と面識があったのではないでしょうか。


○ 明治6年7月25日、 差出:(米州)江川英武. 受取:両御叔母様
「大鳥圭介本多晋者吉田大蔵少輔ト共ニ公務相終り英国論敦ヲ出帆云々」


英武が叔母に、大鳥・本多・吉田の、外債発行公務が終わり、英国を出発した、ということを伝えています。
本多晋も江川塾とは何か関連があったようです。


○ 明治14年11月22日:差出:幹事総代肥田浜五郎、河瀬秀治、会長大鳥圭介、受取:江川英武殿
「万年会終身会員加入金落手」


万年会は、詳しくは判らないのですが、報告の内容を見ると殖産興業のための研究・情報交換会のようなものだったかと思います。明治34年ごろまで、「萬年会報告」という雑誌が刊行されていました。宇都宮三郎、渡辺洪基なども属しています。 なお、大鳥は明治17年の万年会で、「本邦諸芸術の秘伝は容易に他人に洩らすべからず説」として、特許について講演しています。萬年会は農業や蔗糖といった幅広い分野まで出掛けていたようです。
総代の肥田浜五郎は江川塾教授。
河瀬秀治は、内務大丞兼勧業寮の方。工部省と兼務していた大鳥と同僚でした。内国勧業博覧会も担当していました。その繋がりかと思います。


○ 明治15年10月15日差出:圭介拝、受取: 江川様侍史.  
「米国留学生秋季懇話会開催の案内」


大鳥は、開拓使のアメリカ留学生の監督もしていたので、その関連かと。大鳥は、留学生同士の横の繋がりを維持する活動にも関わっていたようです。


○ 年不明 (明治17年?)
「江川様御縁談につき高峰譲吉親断りの件」 差出:圭介、受取 : 隈川(宗悦)  
「高峰方よりの一報云々」 差出 : 圭介、受取: 江川英武
「高峰・江川破談の件」 差出 : 金子精一、受取 : 大鳥先生閣下  


この一連の書簡が謎。あの高峰譲吉の婚礼を、大鳥が相手を江川の家の人から世話か仲立ちをして、高峰の親から断られて破談になった、ということなのでしょうか。後の松楓殿のエピソードにあるように、高峰は大鳥を慕っていたようだけれども。結婚相手を世話するほどだったとは思いませんでした。
この件には、金子精一や隈川宗悦が関わっていた模様。隈川氏は洋学者、幕府海軍軍医で、明治では東京共立病院創立に関わっています。


○ 明治36年11月14日 差出:東京麻布大鳥圭介、受取:伊豆韮山江川英武殿
「先代(祖父)贈位に関する手紙」


これは、大鳥圭介傳で英武が語っている、江川太郎左衛門の贈位の件かと思います。

「大鳥男は維新後は順調にて大に立身出世せられたが、昔の恩義を忘れぬので、常に江川家の為め直接または間接に心を注がれたことは枚挙に暇ない位です、坦庵の贈位の事に就ても、余は別段進んで希望した訳でもなかつたのですが、大鳥男が黒田伯と連名で上申するから承諾して貰いたいとの事であつたから、別に拒む必要も無いから承諾した位です。要するに世の中には自分が立身出世すれば昔恩誼になつた人が如何に零落して居つても顧みないが、大鳥男は此の点丈でも青年の鑑とするに足るべき人格の人であると信じます」

大鳥が、黒田と一緒に、江川坦庵の贈位を上申した。大鳥は、立身出世のためだけではなく、脱走中投獄中もみちさんたち妻子を世話してもらったりで、江川には頭が上がらなかったのではないかと思います。(そもそも大鳥とみちさんの縁を取り持ったのも江川でしたし)
その義理堅さを英武が理解してくれていたのも嬉しいところです。なお英武は、大鳥が死去した際、霊前に詩を贈っています。


…と、そんな感じで。一つ一つ挙げていくとキリがありません。
そのほか、「昼飯差上げたきところ用意なく不本意の旨」と、お昼ご飯用意してなくてごめんなさいと謝っていたり、「明九日午後なれハ在宅云々」明日は午後でしたら家に居ますよとお知らせしていたり。大鳥から英武への書簡には、二人の親密な付き合いを伺わせるものが多いです。


こうした生の資料により、大鳥たちが生きていた証が、こういうところにも色濃く残っているのが確認できる。それが嬉しいです。

資料が残されているということは奇跡なのだと、しみじみ思います。

目録だけでも色々なことが分かって来るのですが、こうなるとやはり生のものが見たいところ。せめて全文を知りたいと思う心は抑えられません。

また、さらに残っている二万点余も、何が含まれているのか、気になります。
山崎さんは史談会速記録第弐百六拾五輯で、大鳥が脱走の際のことを語っています。

「跡の諸道具色々大切な物は自分の身体に附けることが出来ぬから残らず江川の家に送つた、江川英武氏の話に、大鳥家の品物を私の処で預かつた、只今大鳥男爵家に掛けてある山陽の額があるがあれ抔も一時私の家に預かつて居たということを話されました」

大鳥は、幕府陸軍時代も毎日日記をつけていたと言っていたので、この江川家に送られた荷物の中に含まれていなかったかと淡い期待をしています。ただ、額が大鳥家に戻ったということは、大鳥家に返されてそのまま散逸してしまったということも、可能性が大きいかと思いますが。


江川文庫の整理保全事業。予算手当てなど継続するだけでも大変かと思い、気楽に言うのも憚られるものがありますが、今後も継続して進めてくださり、いつか公開され、目にすることが叶う日が来ることを願ってやみません。
posted by 入潮 at 03:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

身長体重、萬年會

午前中に国会図書館に行ってきました。午後から出社したので3時間ぐらいしか居られませんでしたが。収穫大でした。ホクホク。

○ 奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(明治三十五年五月八日)

(最初、明治三十一年と誤って記しておりました。訂正しました。ご迷惑おかけしました)

「仙台 明治の断片」様に紹介されていた記事です。大鳥や榎本、伊藤博文や渋沢栄一といった有名人の身長体重を記載してくださっていたので、喜び勇んでソースを見てきました。

「年春季の取調に依ると本邦朝野紳士の年齢体重身丈左の如しと云ふ」ということで、
毎年身長体重年齢が調べられて、公表されるとは。個人情報という概念もなく、市販されている官員録には自宅住所が掲載されている時代のこととはいえ。紳士方々も、うっかりメタボにもなれません。

一部の方を下表にまとめました。

hightweight.GIF

斜めフォントの宇都宮三郎は、新聞からではなく、「豊田市近代の産業とくらし発見館」さんが展示してくださっていた生命保険加入時の身体検査結果からです。(もしかして、明治生命には明治の加入者のデータがあるのかしら)
比較のために入れてみたのですが。宇都宮のスレンダーさが際立っています。

大鳥は、孫の蘭三郎氏が、歴史読本で「五尺足らず」と仰っていました。確かに、四尺九寸=148.5cm。小柄なことで有名な山田顕義でも151cmはあったとのことなので、やはり当時としても大鳥はかなり小さいほうだったことが確認されました。このデータで見ても一人だけ頭が下にある感じです。

ちなみに、こちらによると、ドイツのお雇い外国人医学者ベルツによる明治13年ごろの調査では、男性の平均身長は158cmだったとのこと。

ついでに、余計な御世話ながら、BMI (Body Mass Index, 体重(kg)/身長(m)^2)も附けてみました。

榎本さんは、BMIが22、健康に理想的とされている値にぴったりです。スマートさがこんなところにも現れている感じです。一方、BMIが19の宇都宮さんは、どこのモデルさんだという感じです。あと、成人病が気になる値に達している方々もいらっしゃいますが、今とは食生活も運動量も違うので、あまり問題にはなっていなかったかと思います。

こうしたデータは、まとまっていそうで、あまり無かった気がします。自分が知らないだけなのかもしれませんけれども。人物紹介は、写真はまずあれば載せられるから顔はわかりますが、体格はなかなかわからなかったりします。

身体が大きかろうが小さかろうが、太っていようが痩せていようが、歴史の流れにはなんら関与するところはないかもしれませんが。場面を絵的に想像しようとすると、体格は顔以上に影響するので、こうしたデータがもっと集まるといいなと思います。


○ 萬年會報告

萬年會(万年会)とは何ぞや?
というのが、しばらく疑問でした。

「渡邊洪基が主となり大鳥や私達が愛宕下の萬年山青松寺に集合して、産業奨励の會を開催した、寺に因んで萬年會と名付けた。今は古市公威博士が會長であるが、渡邊や私や大鳥達が交々會長になつた。当時自分は氏(大鳥)が化学工芸(工業)に造詣の深かつたのを能く知つた」

と、花房義質が「大鳥圭介傳」で述べていました。
それで、産業育成分野の同好の会で、たまに機関紙を発行していたようなものだったのかしら、と今まで思っていました。

「萬年會報告」の一部が図書館に所蔵されていたので見てまいりました。

今まで見落としていたのを、悔いました。

これは同好会などというような生易しい規模では到底なかったです。

萬年會は、日本最初の、民間における殖産興業団体。日本の在来の農業工業商業を育成改善し、産業を振興させ、対外貿易の赤字を解消させて富の流出を防ぐことを目的としたのは官の政策と同じ。これを、官主導だけではなく民間から底上げを図った、まさに明治日本の殖産興業を民の土台から盛り立てるものでした。

会員は、渡辺洪基、肥田濱五郎、赤松則良、津田仙、宇都宮三郎、金子精一、小柳津要人、古市公威、佐々木長淳、渡瀬寅治朗など、各界の面々。榎本武揚も出席者の名前に入っている時があります。

さらに、高嶺譲吉、志田林三郎、辰野金吾、三好晋六郎、藤岡市助、中野初音、井口在屋、中村貞吉、妻木頼黄、などなどの工部大学校の綺羅星たちも、競うように演説寄稿しています。大鳥が卒業要件にでもしたのではないかというぐらいの、工部大生たちの関わりぶりです。
会員は、明治11年には30人だったのが、10年後の明治21年年には349人にもなっています。

そして、毎月、会合を開いては、その協議された内容を雑誌にまとめて発行しています。講演の質疑応答の議事録も毎回のようにあります。
ちなみに、出席者も参加者も毎回異なるので、そのときによって雰囲気が違います。榎本さんや宇都宮さんがガンガン突っ込んでいて、講演者が気の毒なぐらいだった回もありました。

自分が見たのは明治16年以降からだったのですが。大鳥は初期から参加していた模様。工部省から元老院に所属が移って、第一線から退いて多少余裕があった頃だったからか、毎月出席し、質疑応答し、時に会長副会長になって、会を盛り立てています。明治23年以降は名前を見なくなりますが、これは外交官として出張が多かった為かと思います。

大鳥は、公務においては工部省という官の最前線のトップダウンから、そして私事として民のボトムアップからと、双方向から産業を育成しようとしていた姿勢が伺えます。

内容についても、面白い記事がてんこ盛りです。後ほど中身をご紹介できればと思います。

この萬年會の、産・官・学の垣根を取り払った民間ネットワークの繋がりが面白い。萬年會を深く掘り下げたら、明治の殖産興業の違った姿が見えてくるのではないかと思います。
今までほとんど参照されている文献を見なかったのが、不思議です。
世の中、価値あるものが埋もれているものだと思いました。

萬年會は設立が明治11年からである一方、国会図書館の所蔵は明治16年の第五輯以降しかなく、しかも途中の抜けも多かったのが、残念でした。というか、残りを見ずには居られないです。特に創刊号は重要。

Webで所在を漁ってみた所、第一号が宮城県立図書館にある。
これのために仙台に行く価値は、かなりあるなぁ。何とか休みをもぎ取りたい。うぉぉ。

あと、東大大学院の法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターにも、国会図書館に欠けていたうちのいくつかがあったけれども、平日のみ、閲覧のみ、複写不可あるいは業者による写真撮影、所属機関の紹介書が必要。このバリアが高さに涙です。公立大学にも私立大学にも、補助金としての税金が投入されているのだから、大学生研究者だけだなんて意地悪をせずに、納税者への敷居を低くしてほしいと、切に願います。


そのほか、河瀬秀治関係、東京学士会院関係、江戸雑誌など、色々とネタがあります。横浜の収穫物も。時間を捻り出して、少しずつまとめていきたいと思います。
posted by 入潮 at 06:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする