「知られざる福沢諭吉」平凡社新書、礫川全次(こいしがわぜんじ)著。
「下級武士からなりあがった男」と副題がついています。
「こんな諭吉は見たことない!」と帯が赤字で煽っています。
自分としては、この本に書かれていた諭吉像こそが、自分の抱いていたイメージそのものでした。
私はもともと、福沢諭吉が好きです。
それは、日本を導いた先見の明のある人格者だとか、西洋文明を日本に導入した啓蒙思想家としてとか、そういった仰々しいラベルを伴った先人としてではありません。
器用で世渡りが上手くて、自分を棚に上げる卓越した技術があり、現行不一致で、自覚的に偽悪趣味で、自信家で、面の皮が厚くて、何事にもしぶとい現実家で、こんな風に生きられたら人生楽しくて良さそうだなと思います。競争社会にさらされ人生の荒波を渡る上で、あの図太さや要領の良さは、学ぶところがあるが多々あると思います。そういう意味で、好きです。
本では、明治30年に福沢が大阪慶応義塾同窓会での演説が、まず引用されています。
「大阪人士には精神が乏しい。精神が乏しきがゆえに高尚な気品がない。高尚な気品がないゆえに大なる事ができぬ。金を儲けるにしても高尚なる気品がなければ大なる金ができるわけがない」
著者は、この言に対して、福沢はおよそ「気品」や「高尚」とは縁がなく、終始「拝金主義者」と呼ばれていたことを指摘します。節のタイトルに「福沢屋諭吉」とまで挙げています。そして、「節操のない文筆家」、「機を見るのに敏で、自らの知識とアイデアを巨万の富に結びつけるのに成功」したとして、絵草子屋の似顔絵に「法螺をふく沢、うそをいふ吉」と囃し立てられたことまで引用しています。
著者は「『変節漢』『拝金主義』といった批判について、それが適切なのかどうかを検証してゆきたい」と本書の目的を掲げています。検証というか、渡辺修次郎の「学商福沢諭吉」や内村鑑三の「萬朝報」など明治当時の批判を紐解きながら、その評価を確信に持っていく方向に論を展開しています。
とは言っても、著者は決して福沢に嫌悪の念を抱いているわけではありません。むしろ、著者は福沢が好きで仕方がないのだと感じます。ただ、素直に賛美するには照れくさい、といいますか。そういう評価を受けてなお、いやそういう評価を受けるからこその魅力があるのだと主張されているように思います。いわば著者は、尋常ではないツンデレなのではないかと思います。文章のそこかしこに、そうした愛を感じます。素直じゃない愛です。「この人本当、しょうがないんですよ、あはは」という感じが行間から読み取れます。なので、私怨めいた不快さとは縁がなく、読んでいていっそ爽快です。
そうした姿勢なので、福沢の「品格とは無縁」なエピソードが、これでもかと楽しげに語られます。引用されているのがほかならぬ福沢自身の「福翁自伝」をはじめとした福沢の自筆が主なので、説得力があります。
まず、福沢の出自を紹介するには必ず出てくる、明治11年の「旧藩情」を紐解きます。「門閥は親の敵」というのは福沢の有名な言葉ですが。下士(下級武士)出身で、上士(上級武士)とは超えられない身分差の元で育ったことが、福沢の根本にあると著者は説きます。下士と上士では言葉遣いが違う、縁組もない、貧富も違う、教育も違う、風俗も違う、誇り高さが違う。下士は禄が少なく食べていけないので内職をし、下駄も雪駄も傘も作る。よっておのずから賎しい商工の風がある。これが、福沢が金銭感覚を養い、理財の道に目覚め、封権的な既得権や体面への反発、実力主義・向上主義・勤勉主義を志すのに繋がった。下士ならではの感覚で、近代を迎えることができたとしています。
確かに上士・下士の差は、下士と商工の差よりもよほど大きく超えられないものだったと言うのは、幕臣や土佐など他藩でもよく言われていることです。幼少期から体面にこだわっているゆとりがなかったからこその現実性と逞しさ、というのは、確かにあるでしょう。そして、明治になって士族が武士のプライドに拘って軒並み商売に失敗していったのは、福沢からしてみればそれみたことかというシニシズムを刺激してやまないことだったでしょう。福沢は、育ちが悪いほうが生命力があるという、典型的な例かもしれません。
さて、著者は「築城書百爾之記」という明治14年に書かれた福沢の備忘の書について紹介しています。(百爾=ペル) これは安政三年に福沢が大阪にいるとき、中津藩の重臣の奥平壱岐から原本を借りて、持ち主に無断で盗写したときのエピソードを、福沢が記したものです。洋書は高価で貴重だったので、写す際には持ち主に謝礼を支払う必要があったのですが、福沢は無断で筆写した。しかもこの写本を持って、緒方洪庵の塾に食客として入り込んだ。その後福沢はこの写本を元に翻訳します。
いわば福沢の知識人としての登竜門的な書ですが、これが人様に褒められたものではない、盗写という行いでした。
そこに市場価値があるものを、対価を払わず利益だけ得るというのは犯罪ですが。一方で、貧乏な学生が己の向学のためにやったのだから、そこまで咎めるようなことでもないという感じもある。
福沢が自伝で、黙っていれば良いのにわざわざこの盗写を述べているのは、そうした一般人の感覚をよくわかっているからこそのことではないかと思います。そして、福沢の実績があるからこそできることかなと。これをのうのうとされると、咎めるほうが狭量だという感じもする。そういうことをあえてやって世論を試すようなことをするのが、福沢の独自のユーモアではないかと思います。
「築城書百爾之記」の最後には「貧は人を不善に導き、究は人をして活発ならしむ」とのまとめがあるそうです。このいけしゃあしゃあぶりは、ある意味尊敬です。
ちなみに、同じ本を翻訳して、平民から幕臣取立ての出世階段を駆け上がり、諸藩に知れ渡り一躍有名になった人がいます。大鳥圭介です。この本の別の和名を「築城典刑」と言います。大鳥と福沢は、適塾にいた時期は全く重なっていないので、福沢の盗写を大鳥が使った可能性は無いと思います。
適塾を舞台にした福沢が主役の小説で、福沢と大鳥が悪タレコンビを組んでいて、最後に大鳥が福沢の百爾築城書を譲り受けて翻訳して、大鳥が一生福沢に恩を来たという下りのものがありました。それは有り得ないですが、話としては面白いです。
この「築城典刑」は、当時の野戦技術総合マニュアルと言うべき、洋式の戦い方イロハです。「築城」は、城ではなく、胸壁や保塁などの陣地構築のこと。町、街道、森林、山岳などあらゆる地形における戦闘方法、防御方法、ゲリラ的行動、そしてそのための錬兵方法のハウツーが記載されています。
そうした時代のニーズをかぎ分けて価値あるものを掴み、適塾という出世街道の入り口に入り込んだ福沢の鼻の利きようは、お見事と言えるかと思います。
維新前の福沢と大鳥に付き合いがあったかどうかは、よく判りません。せいぜい洪庵先生のお葬式に顔合わせしたかどうか、というぐらいかと思います。明治以降は、ウィリアム・ホイットニーの商業学校関係やクララ付き合い、交詢社や丸善の出版関係などで何かと関連があります。福沢の、この育ちの悪い神経の太さ、大鳥にとっては同類なので、少なくとも大鳥は福沢を悪くは思っていなかったのではないかと思います。
えぇと、「痩我慢の説」の前フリで簡単に紹介できればと思ったのですが。書きたいことが増えてしまいました。続きます。
5月は仕事で休みも寝る間もなくネットアクセスも悪くて、こちらはサボっていたのですが、6月はもう少し頻繁にポストできればと思います。
タグ:福沢諭吉