同時代通信 I by 岡庭 昇
 「持ち越された世紀末」

2001/11/27






「持ち越された世紀末」
 
 
 『自由』12月号の、長田泰治氏の読者投稿「アメリカの奴隷制度」は、何というかお手柄だった。民主主義の「元祖」トマス・ジェフアーソンが、黒人解放を主張しながら、実は自分は黒人奴隷を「所有」していたことは良く知られた事実である。

 だが、フランスの人権思想家で、三権分立論で有名なかのモンテスキューの代表作『法の精神』に、次のような記述があることは不勉強なわたしは知らなかったので、改めて虚を衝かれたのである。孫引きすると、こんな文章である。
 
 《とても賢い神様が、このような真っ黒い肉体に魂、とくによい魂を吹き込んだとは考 えられない。(略)黒人が人間だと考えることは不可能である。彼らを人間だと考えれ ば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるを得なくなる》(同、第十五編第五章)。

 これでは、あまりといえばあまりで、いくら逆説が好きなわたしといえども、どうにもならない。まことに長田氏の説くように、いいかげんにわれわれも欧米中心の発想から解放されてもいいのだろう。またいまさらのように、戦後教育は、民主主義の両犠牲について、怠惰なのか意図的にか、何も肝心のことを教えていなかったのだなと思わせられる。

 黒人差別は「良くないことだからやめましょう」ということくらい、差別的な白人といえども理屈として分からないわけがない。だがそこのところを、黒人は、だいたいが人間じゃないんだ、といった、無理を承知の論理(?)で強引に飛び越す。

 そこに、ついには神様までを引き合いに出す。強引なスキップのためのでたらめはきりがない。もはや傲慢というよりは、悲鳴に近いように思える。そう、黒人差別は、むしろ差別する側の宿命であり、原罪として、白人種をこそ苦しめていると考えるべきである。

 わたしはいま、『魯迅・漱石・フォークナー』という書を企画していて、そのサブタイトルというかテーマは、「20世紀が対決したもの」というのである。まさに20世紀が対決したもの、そしてなお解決しない宿命のひとつが、白人種の「幻想の病」たる黒人差別である。

 それはフォークナーにとって重要なテーマだった。そしてこの偉大な文学者は、「差別は良くないことだからやめましょう」という「正しい」認識では、まったくそれが解決するようなものではあり得ないことを前提に、その救われれざる全体と対峙した。

 ナチスは、アーリア人だけが正義の担い手であるという妄想を公にし、かつ行動するというクレージーさを示した。こんなクレージーさを、20世紀のこんにち持ち得るということ自体、白人種の異常さを証明しているだろう。

 だが、それをを異常なる偏向として、頭から否定する白人とナチスは、実は紛れもなく同質である。自分たちはナチスとは違うし、あんな異常な右翼ではないと思い込んでいる白人は、要するにナチスには彼ら自身の宿命が、正直にあらわされていることの自覚が足りないのである。

 フォークナーがその全体において提出した、白人種の病としての黒人差別(彼はその深い表現として、差別の深さを反映する、「白い黒人」ジョー・クリスマスという造形を、代表作『八月の光』で示した)という深い次元でこそ、このことを認識しなければならないのである。

 白人の病としての黒人差別。それは事態の示され方がソフィスケートされたところで、簡単に乗り越えられるようなものではなく、また「純粋なる白人」以外には、すべてに同じ力学として働く。この事態においてこんにち何も本質は変わらない。

 アフガンへの「報復爆撃」の状況は、こういう世界観を抱えたヨーロッパ白人が、その新たな土地として「発見」した、アメリカというものの本質を改めて想わせる。それは端的に、この独善が最終的に持ち越された土地であった。

 そして、先住民を殺戮し追っ払ってぶん奪った土地であるゆえに、自己肯定のみをどこまでも押し続けざるを得ず、いわば反省なき「不義」の帝国になってしまった観があるのだ。この意味では、宿命的に原罪を背負っていると、同情することも出来る。

 テロが悪いのではないか、と必ずこの「独善の帝国」は、批判者に向かって言うだろう。

 そりゃ、そうさ。でも、何だか、如何なる不義をやっても「リメンバー・パールハーバー」の大声で正当化してしまう、半世紀まえのやり方を想起せざるを得ないのだ。それは、いわば先行する「報復の論理」だった。そしてこの野蛮な帝国の、お得意の手法になった。

 イラクのときも、そうだった。それも、あまりもお誂え向きに、サダム・フセインが国境侵犯をやってのけて「くれた」ので、「パール・ハーバー」にはこと欠かなかった。

 国境侵犯というが、本当はヨーロッパ帝国主義が、勝手に自分らの利益にあわせてでっち上げたものだが、「独善の帝国」は、そんな歴史は思い出そうとしなかった。結果、圧倒的な戦力を持つアメリカが、劣化ウラン弾等の実験をやりつつ、一方的な殺戮をやって引き揚げた。

 なぜかサダム・フセインはある程度以上には追い詰められず、帝国は「実験」で成果を揚げ、釣り合ってか(?)サダム・フセインの足場はむしろ確立し、いっときは同情を寄せられたクルド民族は、さっさと忘れられた。何だか、すべて調子が良いのである。

 昔のパール・ハーバーも、イラクのときも、そして今回のテロも、角度を変えると、あまりにも「お誂え向き」なのだ。ブッシュが選挙の怪しげな当選以来、ともかくどこかで戦争をやりたくてうずうずしていたのは、日常的な報道から推測出来たところの、客観的な事実である。

 ルーベルトが、パールハーバー・アタックを巧妙に仕組んだという説がある。荒唐無稽と一言で言い捨てるには、かなり説得力を持ったデータがあるようだ。また湾岸戦争のきっかけについて、サダム・フセインとの八百長説だって、言い出せば一応は可能だろう。

 こんどの事態も、泳がせていたテロリストが、予想を越えた動きをやってのけて、アメリカ当局はショックから血迷っていると推測することも、可能は可能だ。

 だが、わたしはそういう「縁台論議」を、雑談以外でやろうとは思わない。陰謀史観は嫌いだし、そういう劇画の中に、歴史があるとも思えない。

 それにしても、一度正義を手にしたら、しつこくそれを使う、「パール・ハーバー」以来変わらないアメリカのやりくちには、まったくうんざりさせられる。

 先日のテロの悲劇も、そこから引き起こされたアフガンの民衆の悲劇も、どうしようもなく悲劇である。しかしそれはそうとして、それを利用しようとする卑しい連中の中に、日本政府が入っているのではないか、と恐れる。評論家・水原孝の「平和共存を阻むもの」(「公評」12月号)は、まっとうでケレン味がなく、なかなか好感の持てる論文だが、そこにこんな一節がある。

 アフガンで、国連の医療活動に長らく携わり、自衛隊の派遣に反対意見を述べた中村哲に、ある有力な自民党代議士が雑談で、「中村先生、心配しなくとも、法律が出来ても実際には自衛隊は派遣しません」と言ったというのだ。水原は、そこで《なんだ、そんなつもりなら何のためにこの法律を作っているのか。つまるところ日本政府は何をやりたいのか》(同)と正当に批判している。

 とはいえ、実は実質上の権力である日本の官僚独裁は、いつも機会を計っている。そして場合によっては、他日に備えた「取り合わずに使わない」法律でも、取りあえず「作って置く」のも、また得意技なのである。そして、先ずは使わないからこそ、警戒を持たれず、狡智にして危険なのだ。つまり、この場合、いつでも自衛隊を軍隊として使えるようにして置くということ、が肝心の狙いだろう。

 アメリカは、日本の戦闘力が、一定以上の水準になることを警戒するから、日本の「押しかけ協力」に半分迷惑なのである。ここには「日帝自立」と「使える同盟国=奴隷としての日本」の間の、なかなかに細かい駆け引きがある。
 ともあれ、官僚はある意味でアメリカに嫌われ、警戒されていることなど百も承知で、他国の不幸を利用しようとしている。



 註 これは、『自由』1月号に書いた文章ですが、2ページときめられた枠に、さらに内容を膨らませたものです。「二度売り」のつもりはありませんが、重要な課題なので、特別にお許し下さい。