2006年3月1日(水)
「休憩なしでチアングマイから戻ってくるってだけでもシンドイのに、その足で飲みに出かけるとは常人のなせる技じゃないわ」
この話の一部始終を聞いた友人は、電話口でそう話した。
午前10時50分、チアングマイ市郊外にあるホテル
午後5時55分、
「休憩なしでチアングマイから戻ってくるってだけでもシンドイのに、その足で飲みに出かけるとは常人のなせる技じゃないわ」
この話の一部始終を聞いた友人は、電話口でそう話した。
午前10時50分、チアングマイ市郊外にあるホテル
午後5時55分、
「日本までの国際電話が1分たったの0.9バーツ!? タイ国内の携帯電話にかけるより安いじゃない。じゃ、日本に帰ってからも、これまで以上に長電話できるってことよね? ところで、私も申し込みたいんだけど、クレジットカードとか必要なの?」
午後7時50分、
オプションのサービスを利用するためには、クレジットカードであらかじめ通話料を前払いしておく必要がある。しかし、友人は現金主義者でクレジットカードを持ってない。ちなみに、クレジットカード会社の審査に通るためには、①15,000バーツ以上の月収(大卒職務経験2年程度の月給)、②20歳以上60歳以下、③同一の職場で4ヶ月以上勤務していることが最低条件。利息は年率17.75%で、限度額は月給のおおむね5倍程度。収入規定に関してはタイの国内法で制限されている。
ウッタヤーン通りにあるドイツ風屋外レストラン「バーンナームキアングディン」で夕食を取るつもりだったが、
「大丈夫ですよ。絶対に間に合いますって。わたし、昔から運だけはいいんです。あ、あの店の店員なら、きっと知ってそう。ちょっと行って聞いてきますね」
午後11時15分、国道304号スウィントゥウォング線の
先日来
しかし、このとき僕はとてもネガティブな気分になっていた。アテにしていた
当初、このバンドは
午後11時半、半ば諦めながら真っ暗な田舎道を走っていると、道路左側に田舎市場のような施設が見えた。路上駐車の長い列ができており、先頭では警察官が交通整理に当たっていた。奥の方には Factory のネオンが輝いている。
午前零時半、ついに
ちなみに、年末から年始にかけて、
コップいっぱいの水 - エンドロフィン いつもあなたのために尽くしているのに 今もあなたは過去の恋を引きずったまま เธอเป็นแก้วใบหนึ่ง ที่เต็มไปด้วยน้ำเปล่า ยิ่งเทเติมลงไป มีแต่ล้นออก あなたはまるで水でいっぱいに満たされたコップ 注いでも注いだ分だけ溢れ出す คนเก่า รักเก่า เธอไม่เคยลบเลือน คนใหม่ รักใหม่ เลยท้อ 過去の人 過去の恋 今もあなたは執着してる 新しい人 新しい恋 だから全然ヤル気ない จริงๆ เข้าใจอยู่ กับความทรงจำครั้งเก่า แต่อย่าเอามันมาปิดกั้นหัวใจ ホントは何があったか分かってるけど そんなことで心閉ざさないでよ เปลี่ยนเป็นแก้วเปล่า แก้วใหม่ เปิดใจทีนะเธอ รับหน่อยรู้หน่อย お願いだから空っぽの新しいコップに取り替えて心開いてよ 受け入れてよ 分かってよ ความรักจากฉัน 私の愛情を ฉันยังต้องรออีกนานไหม ต้องรอเธออีกนานไหม ทุ่มเท เท่าไหร่ มันก็ล้นเท่านั้น ไม่อาจ สัมผัส เข้าถึง สักครั้ง ฉันยังต้องรออีกนานไหม ต้องรอเธออีกนานไหม |
ダーの歌声と、ひとりでも多くの聴衆と握手を交わそうという姿勢に、すっかり魅了された。
昼すぎ、ンガームウォングワーン通りの家具屋を友人と見て回り、
「ちょっと海岸から離れてるけど、いちおう
友人が見つけてきたホテル
その後、
ところで、もし本帰国前にスクーバの免許を取る予定を組んでいなければ、きっと
「ちょっと分かりにくい場所にあるが、たぶんキミが興味を持ちそうなものだから、見せておきたいんだ」
午後10時半、
近年、ここバンコクに引っ越してくる日本人が急増している。それは、日本国内のテレビ媒体で紀行番組を協賛したり広告を打つなどして、タイの観光開発当局が日本人のあいだにあるタイのイメージを向上させたことの成果だが、一方で、失われた10年と呼ばれる平成不況期に形成された「下流層」が起死回生を図るために大挙してタイへと押し寄せてきているという、もうひとつの背景も無視できない。
第一次世界大戦以降の日本史を紐解いてみれば、不況期における日本人の海外流出は決して珍しくない。歴史的にも、日本政府は不況期に失業者対策として海外移民を強く推奨してきた。現在では、国家が国民を海外投棄するにも等しい「棄民政策」だったことが判り社会問題になっているが、その教訓から何も学んでいない日本人は少なくない。今日のタイ移住ブームは国家手動ではなく、民間主導の棄民政策で進められてきたという違いこそあるものの、移住希望者の「海外で起死回生を図る」という基本的な発想は、いつの時代でも大して違いはないようだ。
日本社会(日本国株式会社)は、戦後長らく終身雇用・年功序列を前提とする雇用形態によって支えられてきた。ところが、バブル崩壊と人員整理、労働力の流動化と成果主義の導入により、これまでの雇用形態が崩壊し、日本社会そのものも一変した。従業員はキャリア開発の機会を減らされ、その成果も補償されなくなった。
このような時代の要求もあって、私たち日本人会社員は、自らのキャリアを自らの責任で描くことを余儀なくされている。さもなくば、被雇用者の3分の1を占めるとも言われる「非正社員」となり、低賃金労働に従事する以外の道が完全に閉ざされてしまう。キャリアプランナーたちは、<1>絶えず自らの適正を探求し、<2>自己への投資を惜しまず、<3>自分の看板で勝負できるような<4>プロフェッショナルへと成長を遂げるべし。また、<5>魅力ある人格の形成を心がけ、<6>社内外のネットワーク作りに精を出すことで、さまざまな変化に対応できるキャリアプランを立てるべきだと勧めている。そして、私たちには自分が描くキャリアプランを実践できるような会社を取捨選択することが求められている。
いわゆる海外留学であるとか現地採用であるとかいうものは、前述したようなキャリア開発の下積み段階だ。極論してしまえば、上記の6項目に沿ったものが「有意義なもの」であり、それ以外は「無意義なもの」として切り捨ててしまっても、たいした支障にはならない。
ところが、自発的に日本から飛び出してきてバンコクに住み着いている日本人のなかには、目的と手段が逆転してしまっている者が少なくない。また、何らの目的意識をも持たずにダラダラと貴重な日々を浪費してしまっているというケースも見られる。娼婦と生活するためだけに、タイで貧しい生活を送るというのは、もう最悪なケースだ。
人材紹介会社職員の話では、タイへの移住(タイ現地採用への転職)者の多くが20代半ばから30代前半の男性で、求人の大半は月給5-6万バーツ(ボーナス0-3ヶ月)だという。職務経験3年の大卒バンコク人でも月々5万バーツ前後の世帯所得があるところをみると、タイで金満な生活を送ることの難しさは誰にでも理解できる(10年ほど前の国勢調査によると、全バンコク人世帯の平均世帯所得は約26,000バーツとされている)。
これではまったく本末転倒としか言いようがない。このあたりが「バンコク沈没」の「沈没」たる所以なのだが、娼婦などと関わっても得られるものなど何もないということは端から分かり切っている(シリーズ:微笑の国タイと厳しい現実)。こんなことでは起死回生を図るどころではなってしまう。まったく彼らはいったい何を考えているのだろうか。
このような事情から、ここバンコクには娼婦を伴って生活している日本人が驚くほど多い。同時に、集合住宅における日本人住民の増加は、すなわち娼婦系住民の増加を意味している。
彼の話によると、沈没系日本人が多数住んでいることで知られる格安賃貸マンション**「ラーチャプラーロップタワーマンション」(都内ラーチャテーウィー区、家賃4,900バーツ)には、僕が想像していたよりも遙かに多い700人からの日本人が生活しており、全住民に占める日本人の割合は実に約9割にものぼるという。有り体に言ってしまえば、(全員がそうだというわけではないだろうが)「娼婦とともに暮らす」ためだけに滞在しているような典型的なタイ沈没日本人や娼婦達が、それこそウヨウヨとしているということだ。一方でバンコク在住日本人のあいだで常にそれと対比されるのは、プララームスィー(ラマ4)通りにある「ロンポーマンション」(都内クローングトゥーイ区、家賃9,400バーツ)。こちらの方にも500人から日本人が住んでいると言われているが、住民の層は前者に比べると上品であるとの風評がある。これらの情報には現地で発行されている無料日本語情報誌(フリーペーパー)から容易にアクセスすることができる。
ちなみに僕が住んでいる分譲マンション***「スクンウィットスイート」(都内ワッタナー区、家賃14,000バーツ)にも、ここのところ数多くの日本人が流入し、住民の質が悪化の一途をたどっている。僕自身は家賃21,000バーツの比較的良い部屋に住んでいるのだが、これらをふまえて考えてみると、おそらく「一番安い部屋の家賃が21,000バーツ以上の集合住宅」に住んだ方が良かったのだろう。そうすることで、より「沈没日本人+娼婦」の少ない健全な空間で快適な生活を送れたはずだ。本帰国を目前に控えた今の段階でこんなことを言っても無意味なことこの上ないのだろうが、実のところアパートの選定を誤ってしまったことを心の底から悔やんでいる。こんなことなら、僕が以前住んでいて、事実上ヂュラーロンゴーン大学の学生寮と化していた高架鉄道 BTS ラーチャテーウィー駅付近の賃貸マンション「ヴェネチアレジデンス」(都内ラーチャテーウィー区、家賃6,000バーツ)にいた方が、環境的にはまだマシだったのではないかと思えるほどだ。
さすがに「家賃でその人のすべてが決まる」とまでは言うつもりはないが、快適で健全なバンコク生活を送りたいということであれば、さしあたって「沈没日本人+娼婦」を完全にシャットアウトできるような家賃の集合住宅に住むことをお勧めしたい。
「ところで、これって何だと思う?」
話は冒頭の友人の言葉に戻るが、彼が僕に見せたがっていたものは、ナーナープラザの3階から4階へとつながる階段から見える冷房の室外機の上に置かれていた。さすがの僕も唖然とした。線香や哺乳瓶などのお供え物が意味するものは、おそらく娼婦達の「子供」に関するなにかなのだろう。堕胎させてしまった子供への供養なのか、それとも出産後に亡くしてしまった子供への供養なのか。ゴーゴーバーに限らず外国人向け性風俗で働く娼婦のほとんどが出産経験者だが、これを見て娼婦の暗部に直に触れてしまったかような気がしてひどく憂鬱な気分になった。
その後、僕は友人が適当に選んだゴーゴーバー(娼婦の水着踊りバー)へと入ることになった。そこでビアスィング(シンハビール)を飲み、腹部や二の腕に贅肉がたっぷりと付いた年増の娼婦たちの水着踊りを眺めながら、「彼女らを有意義に活用するためにはいったいどうしたら良いのだろうか」などと思案に暮れることになった。初等教育すらまともに受けていないような彼女らにタイ関係の知識を求めるなど所詮無理な話だし、教養のない彼女らが話す田舎方言を学んだところで全く何の役にも立たないどころか赤っ恥をかくだけだ。さらに、バンコクの中産階級からもバカにされるような相手と恋愛したところでただ卑屈になるだけだろうし。
「さしあたって、彼女らが役立つのはせいぜい覚醒剤の調達くらいかな?」
道から外れた無法者(アウトロー)であればあるほど、それだけ世の中の悪事や裏の事情にも通じている。いろいろと考えてはみたものの、やはり娼婦に求められることなど麻薬・覚醒剤の調達以外に思いつかない。麻薬や覚醒剤をやらない僕のような人間にとっては、娼婦はまさに使い道のない無用な長物。無駄に金ばかり払わされて、得られるものなど何もない。
初めてタイを訪れる一部の男性観光客にとっての最初の「異文化交流」とは、おそらくの外国人向けの性風俗で働いている娼婦達との享楽的な体験ではないだろうか。無論、オンリーワンな人生を送りたいというのであれば僕などが口を挟むようなことではないが、もし彼女ら娼婦との生活に謎の夢想や妄想を抱いてタイに移住するというのであれば、それはリスクを無視した無謀な暴挙以外の何物でもない。今一度じっくりと考え直すべきだ。商売で恋愛しているような娼婦など、財布の紐を少し硬くするだけですぐにどこかへ行ってしまうし、日本での社会復帰のハードルも一気に高くなる。娼婦なんかのために、会社を辞めてタイに沈没なんかしては絶対にイケナイ!! 絶対にダメだ!
タイ移住を決意して会社を辞めた数ヵ月後のある日、日本で働いていた頃から親密に連絡を取り合っていた「自分だけの娼婦」に突如としてと棄てられる。ここのところ金の無心が続いていたものだから逆に清清したと自分に言い聞かせる。発展途上国の貧困者層向けのアパートの一室。座敷牢のようなひどく貧しい部屋にひとり虚しく取り残される。タイの女なんてどうせこんなもんだと結論付ける。茫然自失となり、世の中の理不尽さに涙があふれてくる。急にすさまじい空腹感に襲われ、とりあえずアパートの向かいにあるタイ風ラーメン屋台へ行こうと身支度を整える。念のために財布の中身を確認してみると、なんと数千円しか入っていない。背中を冷や汗が伝う。今度は大急ぎで箪笥の中から虎の子の預金通帳を引っ張り出す。そこにもわずか数万円しか残されていないことに気付く。ひとり途方に暮れる。今までタイに来れば日本人は誰でも金持ちとしてチヤホヤしてもらえると信じてきてたのに、年頃の女の子はおろか、屋台のおばちゃんにまでぞんざいに扱われる始末。しかも、このままでは帰国するための航空券すら買えない。仮になんとか帰国できたところで働き口もない。こうして、不定期な仕事を請け負うことで日銭を稼ぎ、そうすることでタイの貧困層向けのアパートの家賃をなんとか捻出し、ギリギリのところで食いつないでいくという日々が始まる。
これが典型的なタイ沈没の第一歩。ここまで来たら、もう二度と後戻りすることはできない。
今日は友人とともにスクンウィット11にある居酒屋「卯月」で夕食をとり、スクンウィット4にある性的娯楽施設「ナーナーエンターテインメントプラザ」でビールを飲んでから帰宅した。
* タイ語名は「スーンバントゥーングナーナープラーサー」 ศูนย์บันเทิงนานาพลาซ่า
** 賃貸マンションは、タイでは「アパートメント/アパートメーン」 อพาร์ทเมนต์ と総称される
*** 分譲マンションは、タイでは「コンドミニアム/コーンドー(ミニアム)」 คอนโดมิเนียม と総称される
<関連記事>
2004年5月9日 「現地採用」
2004年6月24日 「タイ沈没の悲劇を目の当たりにする」
2004年7月31日 「タイラット紙 今日のトップニュース」
2006年1月4日 「学生寮街 その2」
「それはそうよ! 私たち人間は誰しも自分自身でどこの国に生まれるかなんて選べるはずがないし、裕福な家庭に生まれるか貧しい家庭に生まれるかを選ぶこともできないわよ!! でもね、だからといって『自分は何をしたって構わない』って考えるのは絶対にオカシイと思うわ! あの人達、もうホントウに異常よ。金のためなら、どんなに卑劣なことをしても許されるって本気で信じてるもの! ってゆうか、信じてるだけじゃなくて、それを堂々と口に出して言ってる始末。もうホントウに人間として最低限のプライドとかそういうのってないのかしら!? 日本のタイ人社会? ああ、もうまったくヒドイなんてもんじゃないわよ! この前、横浜のタイ料理食材店に行ったときに見たあの張り紙、あなたも覚えてるでしょう? (隣から 『うん、覚えてるよ』 の声) 食材店に 『格安でソング ซ่อง お貸しします』 なんて張り紙を平気でしちゃうあの神経って絶対にどうかしちゃってる!! あ・・・ソングっていう言葉の意味分かるかしら? あなたならたぶん分かるとは思うけど、あれはタイ語で 『ソングソーペーニー ซ่องโสเภณี 』 って意味、つまり『隠れて売春をするための狭くて汚い部屋(売春窟)』 のことよ!? あの時、私は吐き気すら感じたわ。私はすぐに店を出て、外で『もうこの店には二度と来たくない』って言ったんだけど覚えてる? (隣から 『うん、今でもしっかりと覚えてる』 の声) それ以降、私は仕方なくタイに一時帰国するたびに食材を買い込んで、毎回のように大きな荷物を抱えて日本へ行くことになったわ。でも、どんなに大変でも、あんな腐った店に行くよりは全然マシ。日本でのタイ人のひどい話なんていくらだってあるわよ。さあ、何から聞きたい? あ、この話なんてケイイチ君が聞きたそうな話よね? ほら、あのアパートにオトコがいるって話。 (隣から 『ああ、おもしろいと思うよ』 の声) ある日本人と結婚して日本に来たタイ人―たぶん売春婦かなんかだと思うけど―なんて、夫に頼み込んで 『ちょうど日本に出稼ぎに来ている弟』 のための部屋を借りさせて、夜は日本人の夫と一緒に暮らし、夫が仕事に出かけているときはすぐ真下にある 『弟』 の部屋に入り浸りっているそうよ。もちろん、その 『弟』 はホントウの弟なんかじゃない。れっきとした『彼氏』、それ以外の何物でもないわ! 日本人の夫もどうしようもなければ、タイ人妻の方もどうしようもないわね。まったく同じタイ人というだけでも恥ずかしくなってくる。 日本にいるタイ人でまともなのなんて、せいぜい留学生や政府関係者くらいのものよ。全体の1割にも満たないわ!! 残りはみんなどこの馬の骨かも分からないようなのばっかり!! 日本でタイ人の友達を作るのにはホントウに苦労したもの。だって、少し話せば相手の程度なんてすぐに分かっちゃうから、・・・あまりにもかけ離れているとお互い気まずい雰囲気になってどうしても続かないのよね。私にはブログがあったから、そこにコメントを書き込んでくれる読者からマトモなのを選べたから良かったけど、ほかの人たちなんてホントウに一体どうしているのかしら。あ、そうだ、ケイイチ君はもうすぐ日本に帰っちゃうんだし、せっかくだから日本でマトモなタイ人と知り合う方法を教えおいてあげるわ。それはね・・・」(全部日本語)
トーングロー15の日本食コンプレックス J-Avenue 2階にある日本料理店「大戸屋」、午後4時50分。日本人の夫ともに日本で数年間を過ごし、帰国後にタイで日本関連書籍を出版したというあるタイ人執筆者は、まるで今日までため込んできた日本におけるタイ人社会への鬱憤を晴らすかのように一気に捲し立てた。あの興奮の度合いからして、彼女自身も自分が話した内容の何割程度を覚えているか微妙なところだ。
一方の日本人の友人は、彼女を日本に呼ぶにあたって、近所の住民に「妻はどの子馬の骨かも分からないような者ではなく、○○という国家資格を持っており・・・」と説明して回るなど、それはそれは大変な努力をしたという。せっかくまともなタイ人と結婚したというのに、日本に娼婦を連れ込んだ多くの日本人達のせいで、彼がいかに面倒な作業を強いられることになったことか。
僕はタイ人とフツウにコミニュケーションがとれるし、まともなタイ人と結婚すれば幸せな生活を送れることも知っているが、自分と娼婦との生活体験から「これがタイランドだ!」と主張する書籍が日本国内で多数発売され、自分と元娼婦の妻との生活を「これぞタイ人妻との生活!」などと紹介するブログが後を絶たないという現状を鑑みると、どうしてもタイ人との結婚にはおよび腰になってしまう。きっと、彼らには「自分が大好きなタイを自らの手で貶めている」という自覚すらないのだろう。
実のところ、このブログでは大学進学率36%という高学歴社会の住人である「まともなタイ人達」との生活を中心に取り上げるとともに、タイ全国に130,000人いるとされる娼婦達がいかに少数派でタイ人社会でもいかに鼻つまみ者とされているのかを世間に訴えることで、日本国内に住む日本人に「ホントウのタイ人」というものを知ってもらい、タイ人の評価そのものを向上させようとも考えていたわけだが、結果として僕が成し得たことと言えば少数の賛同者と多数の敵を得るだけに終わったと総括できるのかもしれない。まあ、それだけ自分と娼婦との関係を自らのアイデンティティーとしている日本人が多いということだろうし、またこういった傾向が今後とも続くということなのだろう。
タイという料理店に入ったら、僕だったら、わざわざ厨房の裏にある残飯集積所なんかに向かうことなく、フツウに席についてフツウに料理を注文し、美味しい食事にありつこうとなど考えるようなものだが、どうやら残飯の方が好きだという日本人というのが思いのほか多かったようだ。まったく不思議なことだが、これも現実ということで受け入れるしかない。
もう何もかもがどうでも良く思えてきたが、最後に日本国民のひとりとして一言だけ言わせてほしい。
日本国は廃棄物集積場ではない。私たちの美しいニッポンに汚い娼婦を持ち込むな。自分では良いと思っていても、ほかの者がひどく迷惑する。
今日は午後2時頃に大学のヂャームヂュリー4号館で留学ビザ延長に必要な書類を受け取ってから、ウォングウィアングヤイにある自動車整備工場でタイヤのホイールを修理し(700バーツ)、午後4時半にトーングロー15にある日本料理店「大戸屋」で友人達と夕食をとった。自室戻ってクラシック音楽を聴きながら優雅に日記を書き、午後10時半から文学部タイ語集中特訓講座(インテンシブタイ)の試験後の打ち上げに合流した。
「ご存じの通り、ここバンコクで僕たちのような現地の大学へと通っているわけでもないフツウの日本人がタイ人と知り合えるきっかけということになりますと、どうしても夜の歓楽街に限られてしまいます。つまりケイイチさんが日頃から『娼婦』と呼ん憚らないような人たち以外に、僕たちが知り合うことのできるタイ人などまったくいないというのが現状なのです。もしかしたら良いタイ人を見つけて交際するというのも選択肢のひとつとなり得るのかもしれませんし、また当然異論のあることとも思いますが、こうした状況をふまえて考えますと、やはりタイ人ではなく日本人と付き合うことこそが最も賢明な道であると信じる次第です!」
スクンウィット22にある格安居酒屋「あさみ」2階の宴会場、午前零時半。かなり酒が進んでいたバトー君は、中ジョッキ片手にタイにおける恋愛についての自説を雄弁に披露してみせた。
だからこそ、ここバンコクには娼婦を彼女としてしまうような日本人がウジャウジャいるのだし、バンコク在住の日本人によって「タイ人=娼婦」のような視点でタイ人全体が語られてしまいがちになるのだが、何はともあれ、彼は与えられた環境の中で最良の選択のをしたのかもしれない。タイ留学におけるパフォーマンスという点を考慮すれば若干の問題は残るが、それでも「恋愛をする」という観点から見ればむしろ王道を歩んだとも言える。少なくとも、経済活動の一環として機能しているようなビジネス恋愛に付き合わされるよりはよほど良いに違いない。
実のところ、ここバンコクでまともなタイ人と知り合う方法なんていくらでもあるのだが、とかく無謀な行動に走りがちな一部の日本人にこれを知られてしまうと、タイにおける日本人の評判を下げるだけといった結果にもなりかねないものだから、このブログでそのノウハウを公表することは差し控えることとする。
今日は午後2時に運送会社が引っ越しの見積もりに来るというので、それまで部屋で待機していたところ、研究室の職員から「マズいぞ! 必修教科3科目のうち、『東南アジア植民地論』で不合格となった。一ヶ月間、たっぷり時間をやるから、みっちりと勉強して再試験に臨んでくれ」という内容の電話がかかってきた。ところが、僕は今月末に新入社員研修会が控えており、どうしても20日までに本帰国しなくてはならなかったものだから、職員に無理を言って再試験日を16日にしてもらうことにした。なお、この再試験で不合格になると、規則により即時除籍処分が決定する。午後3時にスワンプルー通り(北サートーン3)へ今月13日に有効期限が切れるビザを延長しに出かけたが、大学から発行された書類と明日からのホテル予約証書を間違えてカバンに入れてしまったため、渋滞にはまりながらも手ぶらで自室へと戻った。午後8時半にプララームハー(ラマ5)通りにあるオシャレな中華料理屋で夕食を取っていたところ、ブログ「バンコク遊学生日記」の作者ユウスケさんから電話がかかってきたため、急遽大学院のクラスメートと合流して居酒屋「あさみ」へと出かけることになった。
「ちょっと料理頼みすぎなんじゃないの? ただでさえ明日から黒くなるというのに、これでデブになったらオシマイよ。子供なら 『ウワンダム』 อ้วนดำ (黒デブ)ってみんなに可愛がってもらえるところだけど、あなたはもうそういう歳でもないんだし。それと・・・もう遅いから、私はこの皿のスパゲッティー・カルボナーラを食べないからね。注文した料理は、注文者が責任をもって食べてちょうだい ♡ 」
プーゲット島パートーング海岸沿いにある海鮮料理店「パパヤ・タイレストラン」、午前零時42分。テーブル一杯に並んだ料理を前に、僕は思わず大きなため息をついてしまった。本帰国前の留学予算消化の一環とはいえ、これを全部食べ切らなくてはならないと思うとさすがに憂鬱な気分になる。
僕はずっと前からタイでスクーバダイビングのライセンスを取ることを計画してきた。レーシック(視力矯正手術)をする前などは、「手術後数ヶ月はダイビングができないかもしれないから、今のうちに済ませておいた方がよいのではないか」と真剣に検討してみたほどだ。しかし、僕が本帰国を目前に控えた今日まで実行に移すことなく見送り続けてきたことには、それなりの理由があった。
「タイにおける自分の社会的地位を自らの手で低下させてしまうような真似は是が非でも避けたい」
タイ人のあいだでは、「中国系タイ人には教養もあれば金もある」という一種の固定観念がある。タイにおける実力者の大半が華人で占められていることを考えると、こうした言説は真実の一端を明確に捉えているようにも思えるが、一方でその他大勢の凡庸な華人の存在を完全に無視した暴論ともいえる。ところが、こうした思い込みが社会全般に広く根付いているここタイにおいて、「肌の色が白い=中国系っぽい=教養と金がありそう=イケてる」と考える風潮があるのはもはや疑いようのない事実であり、好むと好まざるとに関わらず受け入れざるを得ないだろう。
同時に、こうした考え方は色黒の人々が学校などで差別を受ける原因として社会問題のひとつにもなっている(通常、この種の差別には「方言がダサい」とか、「何言ってんのかワケワカンナイ」などの要因も加わる)。貧富の差が激しいタイでは、肌の色が黒い人は、屋外にいる時間の長い「ガンマゴーン」(単純労働者)や「チャーオナー」(農民)であるに決まっている、というような思い込みが社会全体を支配しており、彼らのあいだで「肌の色が黒い=教養のない単純労働者=所得が低い=ヘボい」という構図ができあがってしまっているのだ。むろん、こうした考え方は単なる偏見に過ぎないのだが、テレビのコメディー番組における配役からも分かるように、日常生活の中で人々の価値観の中に無意識のうちに刷り込まれている。
「ビーチに寝っ転がって日焼けをしている西洋人っていうのも不思議だけど、彼らが考えていることも分からなくはないわ。でもね、金を出してまで日焼け施設(日焼けサロン)に通うっていうのは全く理解できないんだけど」
それもそうだろう。日サロへ通うことなど、タイ人の発想からするとヘボくなるために金を費やす愚行以外の何物でもないのだから、どう考えたって「合理的である」という結論を導き出せるはずがない。これこそがタイ人のあいだでマリンスポーツが流行っていない理由なのであり、だから現地のビーチでみかける海水浴客も西洋系外国人ばかりなのだ(決して金がなくてできないわけではない)。
今日は、昼過ぎにスワンプルー通り(北サートーン3)の入国管理局で学生査証(留学生用のビザ)を10月まで延長してもらった。現在、タイ国内の官公庁で進められている「ワンストップサービス化」(ひとつの窓口で公的手続きを終えることのできる仕組み)に伴い、ここ入国管理局でも特別査証を扱う1番窓口が拡張されて、2階の203号室にあった特別査証課がそのまま移転して来ていた。なお、窓口には超過滞在者への科料が値上げされる旨の告知があった。従来1日あたり200バーツだったものが、500バーツへと値上げされるようだ。午後4時には自室に戻り、友人とともに大急ぎでタクシーに乗り込み、ドーンムアング空港国内線ターミナルへと向かった。午後6時過ぎのオリエントタイ航空263便(片道税込1,650バーツ)でプーゲットへと旅立った。
友人は、両手一杯の書類ケースを抱えてプーゲットへとやって来た。なんでも、前回の南部ドライブの際に自分の仕事を同僚に任せっきりにしていたところ、その後の事後処理にひどく骨を折ることになったそうで、その反省から今回は僕がスクーバダイビングの講習を受けているあいだの時間を利用して、ホテルに籠もって通常通りの業務をこなすことにしたという。ちなみに、これが実現したのはすべて AIS (Advanced Info Service 社) の時間帯指定の定額通話サービスのおかげらしい。
「あ――! 朝食を取る時間なんてもうないじゃないの。まあいいわ。私はもう一眠りしてから食堂に行くから気にしないで。とにかく、忘れ物がないように今一度確認しておいた方がいいわよ。それと、日焼け止めクリーム、まだ塗ってないでしょう?」
ホテル C&N Spa and Resort 2214号室、午前6時28分。僕たちは慌ただしい朝の時間を過ごしていた。わざわざリゾートにまでやって来たというのに、それでいつもよりも早起きしているのだから、まったくその勤勉さには自分でも感心してしまうほどだ。
5分後。僕はホテルまで迎えに来た日本人とタイ人のインストラクターふたりとともに、ソングテオ(人員輸送用トラック)の後部座席に乗ってダイビングショップへと向かった。
今日からの3日間、僕はプーゲット島パートーング海岸にある日系ダイビングショップで、世界最大のダイバー教育機関 PADI (Professional Association of Diving Instructors) の初心者向けトレーニングプログラム「 PADI オープン・ウォーター・ダイバー・コース」の講習を受ける。料金は12,900バーツ(ダイビング4本・教科書代込み)。このコースを修了することで次のことができるようになるそうだ。
このコースで学んだ知識とスキルを応用して、受けたトレーニングと経験の範囲の中で、監督者なしでダイビングすることができる。スクーバ・タンクへの空気を充填してもらったり、機材の購入をしたり、その他のサービスを受けることができる。受けたトレーニングと経験の範囲内のコンディションで、適切な装備を整えて、バディと一緒にダイビングするという条件で、減圧不要のダイビングを計画、実施して、ログに記録することができる。スペシャリティ・ダイブ、 PADI アドベンチャー・イン・ダイビング・プログラム、 PADI スペシャルティ・コースなどに参加してダイバー・トレーニングを継続することができる。
なお、 PADI のダイバー認定証の格付けは、下から 「①スクーバ・ダイバー(省略可能) → ②オープン・ウォーター・ダイバー → ③アドベンチャー・ダイバー(省略可能) → ④アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー → ⑤レスキュー・ダイバー → ⑥マスター・スクーバ・ダイバー」 の順。
午前中に学科講習を受けて、機材の説明を受け、ダイビングに必要な知識を習得した。なんでも、水深10mでの気圧は2気圧で、空気の体積も水上の2分の1。水深20mではそれぞれ3気圧、3分の1になるという。つまり、水深20メートルで空気を思いっきり吸って、そのまま一気に水上まで浮上すると肺の大きさが3倍になる・・・のではなく、この場合、肺が破裂して致命傷を負うことを意味する。
午後は欧米人経営のダイビングショップへと行って、水深3mのプールで適性試験(200mの水泳)を受け、基礎的なスキル(たとえば吸い込む空気の量を調節して水中で浮き沈みする技術や曇ったマスクをクリアする方法など)を習得した。
青い海、白い砂浜。そして、チャローング海岸の桟橋に係留されているクルーザーの数々。
午前7時20分にホテルまで迎えに来たソングテオ(乗り合いトラック)に乗って、朝の潮風を受けながらパートーング海岸から南に15キロほど行ったところにあるチャローング湾へと向かった。現在のチャローング湾桟橋は、スマトラ島沖地震以降に再建されたものだそうだ。
僕にとっての記念すべき第1本目のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ(ラチャヤイ)島の East Coast Bay ということになった。午前10時51分に潜水を開始し、午前11時34分に浮上した。当初、「水中で不測の事態が起きてパニックに陥ってしまったらどうしよう」などと心配していたものの、それも杞憂に終わった。冷静さを保ちつつ教科書通りにこなしていれば、別に難しいというほどのものでもない。最大深度12.2m、潜水時間43分。水温は摂氏30度で、透明度は20mだった。
船上で軽食を取ってからラーチャーヤイ島 Maritta’s Rock へと移動して、午後1時12分に2本目のダイビングを開始。最大深度12.6m、潜水時間43分。水温は摂氏31度で、透明度は15mだった。
今日学んだことは、潜行前のプレダイブ・セーフティー・チェック、適正ウエイトチェック、疲労ダイバー救助、足がつった時の治し方、マスククリア、レギュレーター・リカバリー、5 step 潜行・浮上、バックアップ空気源を使用した浮上など。
なお、潜水中には体内に窒素が溜まりやすく減圧症を引き起こす原因となるため、長時間に及ぶダイビングは厳しく制限されているそうだ。
今日は本当の熱帯魚の群れを見てリゾート気分を満喫することができた。それと、体力の消耗が少なかったのは意外だった。
午後9時までダイビングショップで学科の勉強をしてから、ホテルへと戻った。
講習3日目。 PADI オープン・ウォーター・ダイバー・コース最終日。
午前7時半にホテルまで迎えに来たソングテオ(乗り合いトラック)に乗って、朝の潮風を受けながら、パートーング海岸を南に15キロほど行ったところにあるチャローング湾桟橋へと向かった。桟橋の袂にいるのは、大半が西洋系外国人で、日本人や韓国人、中国人などはむしろ少数派だった。また、タイ人ダイバー客の姿はまったくなかった。日焼けを嫌うタイ人には、やはりマリンスポーツはあまりウケないのだろう。
講習3本目のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 Bangalow Bay だった。潜行開始時刻午前9時58分。浮上時刻午前10時41分。潜水時間43分。最大深度は16.2mで、水温は30度だった。
講習4本目のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 Bangalow Bay だった。潜行開始時刻12時58分。浮上時刻午後1時35分。潜水時間48分。最大深度は14.1mで、水温は30度だった。
今日は、水面水中でコンパス移動、緊急スイミング・アセント、水中マスク脱着、ホバリング、水面機材脱着などのスキルを学んだ。その後、ダイビングショップへと戻り、午後9時まで学科講習と試験を受けて、オープンウォーターダイバーの仮証明書を受けた。なお、正式なライセンスカードは、僕が本帰国した同月20日にオーストラリアの PADI オフィスから実家へと届けられた。
講習4日目。今日から2日間、僕は PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コースを受講することにした。当初、オープン・ウォーター・ダイバー・コースに耐えられないようであれば、残りの3日間をプーゲットでダラダラと過ごそうかとも考えていたが、ダイビングそのものが思っていたよりも楽だったことに加え、どこへ行っても通用するダイバー資格が欲しいと考え、結局継続受講することに決めた。料金は12,000バーツ(ダイビング5本)。
この資格は、昨日取得した PADI オープン・ウォーター・ダイバー・コースのカリキュラムに加え、その上位資格であるアドベンチャー・ダイバー・コース5つを履修することで取得できる。また、このカリキュラムでは最大深度30mまで潜ることができる。なお、減圧不要ダイビングの最大深度は40mとされているそうだ。
講習5本目「ディープ・ダイビング」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 No.3 Bay だった。潜行開始時刻午前10時7分、浮上時刻同39分。最大深度30.7m、潜水時間32分。水温は摂氏28度で、透明度は15メートルだった。教本によれば、深く潜れば潜るほど、潜水可能時間は短くなるという。また、水には暖色を吸収する性質があるため、海底での景色すべてが青みがかって見えた。試しに持っていったスナック菓子「ハナミ(かっぱえびせん)」の赤色の容器は真っ黒に見え、水上との気圧差からペッチャンコになっていた。
講習6本目「水中写真」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 No.2 Bay だった。潜行開始時刻午前11時36分、浮上時刻12時11分。最大深度23.4m、潜水時間35分。水温は摂氏30度で、透明度は15メートルだった。日本人インストラクターの話によれば、ダイバーのほとんどが水中の生物に強い関心を持っているということだったが、自然環境にまったく無関心な僕にとってはすべてが「魚」という生物に見えるだけで、面白くも何ともなかった。途中、全長1メートル強の巨大魚(もちろん名前なんて覚えているはずがない)に遭遇したときには、本当にどうしようかと思ったが、教本にあった「魚は絶対に襲ってこない」という言葉を信じて、ただひたすら「さっさと目の前から去ってくれ」と祈り続けた。
講習7本目「魚の見分け方」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 No.1 Bay だった。潜行開始時刻午後1時29分、浮上時刻午後2時12分。最大深度21.6m、潜水時間43分。水温は摂氏30度で、透明度は20mだった。どうしても真面目に魚の見分け方を勉強する気にもなれなかったものだから、インストラクターに頼んで沈没船へと連れて行ってもらうことにした。日本人インストラクターの話によれば、沈没船は魚の住処になっているらしく、船内は無数の魚たちでごった返していた。
なんだか、マンネリ化してきた感のある「日常としてのスクーバダイビング」。もしあと1ヶ月も続くのであれば逃げ出したくもなるのだろうが、残り一日ということで頑張ろうと思う。
今日3本目のダイビングを終えてから、船底にある冷房の効いた部屋のソファーに陣取って、ビールを飲んでからチャローング湾桟橋に到着するまで爆睡した。
たっぷりと午後8時までダイビングショップで学科の勉強をしてから、ホテルに戻って夕食をとってビールを飲んだ。友人の話によると、僕はこのダイビング期間中に肥満化しつつあるそうだ。たしかに、水中にいない時間を食うか飲むか寝るかして過ごしているのだから仕方がない。
「やっぱり、ダイビング中にかなり日に焼けたわよね。それに、ちょっと太ったんじゃないかしら。なんだか、少し不細工になったような気がする」
プーゲット島パートーング海岸にあるホテル C&N SPA and Resort 2214号室、午後9時。ここ数日間の習慣となっている「ルームサービスの夕食」(100バーツ)を食べていたところ、友人からそう指摘されてしまった。これだから、マリンスポーツに手を出すのはイヤだったのだ。
実際のところ、スクーバダイビングが思ったほど体力を使うようなスポーツでなかったため、当初の目論見にあったダイエット計画はものの見事に失敗した。そればかりではなく、ダイビング前後の暴飲暴食昼寝、寝しなの夜食とビールといった生活習慣が、逆にかえって体重を増やすという皮肉な結果を招いた。留学をはじめてからの4年5ヶ月、当初肥満とは無縁だった僕の体重も、今では実に9キロも増えてしまっており、もしかしたら僕の容姿はすでに日本で通用しなくなっているかもしれない。このままでは、本帰国後にありとあらゆる不本意なな事態に直面しかねない。そろそろ本腰を入れてダイエットに励まなくてはならないだろう(2006年5月30日追記: その後の2ヶ月で8キロ減量した)。
講習5日目。 PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コース最終日。午前7時半にホテルまで迎えに来たソングテオ(乗り合いトラック)にウンザリとしながら乗り、いつものように朝の潮風を受けながら、パートーング海岸を南に約15キロほど行ったところにあるチャローング湾桟橋へと向かった。
桟橋に着くと、日本人インストラクターから、「他のショップの船に乗るから、あの人の言うことに従って行動してください」という指示を受けた。なんでも、今日は日系ダイビングショップのクルーザーを出すのに必要な人数が集まらなかったそうで、西欧系外国人が経営するダイビングショップのクルーザーに便乗させてもらうことになったという。おかげで、ここ数日間の日課となっていた、「ダイビング前後の昼寝」(1日4時間)ができなくなり、移動中に暇を持て余した。
講習8本目「中性浮力」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 Staghorn Reef だった。潜行開始時刻午前10時26分、浮上時刻午前11時18分。最大深度18.5m、潜水時間43分。水温は29度、透明度は20mだった。中性浮力は、肺の中に吸い込む空気量を調整することで維持することができる。初日のプール演習でも似たようなことをやったが、やはり浮力の大きい海水の方が楽なようだ。
講習9本目「ナビゲーション」のダイビングポイントは、ラーチャーヤイ島 Lucy’s Reef だった。潜行開始時刻12時43分、浮上時刻午後1時31分。最大深度14m、潜水時間48分。水温は30度で、透明度は15mだった。講習最後のダイビングとあって、ゆっくりと水中浮遊を楽しむことになった。
スクーバダイビングと運転免許の講習は似ている。ひとつは、双方とも学科と実技があって、それぞれの項目をクリアしないと次に進めないこと。もうひとつは、インストラクターの役割が免許センターの教官と似ていることだ。今回、僕は「アットホームなダイビングショップ」ということで知られる某日系ショップを利用したため、イヤな気ひとつすることなく、気分良くライセンスを取ることができた。僕は幸運にもダイビングの適正があったらしく、何もかもをすんなりと習得できた(実は繰り返しやらされるのがイヤで超真面目にやった)が、そうでない人は慎重にショップを選んだ方が良いかもしれない。
午後8時まで日系ダイビングショップ2階にある教室に籠もって、PADI アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コースのライセンス認定試験を受けた。その後、ホテルへと戻り、友人とともに再びパートーング海岸へと繰り出して、ショッピングを楽しむなど最後のビーチリゾートの夜を満喫した。友人による相手の利益を無視した強烈な値引き交渉には全く凄まじいものがあったが、それよりもさらに僕を驚かせたことは「観光地実勢価格」と「タイ人価格」との極端なまでの格差だった。やはり、買い物は観光地などでするものではない。
なお、正式なライセンスカードは、僕が本帰国した同月20日にオーストラリアの PADI オフィスから実家へと届けられた。
「私たち3人、早めにあがって、これからコロシアムへ行こうと思うんだけど、もし良かったら一緒にどう?」
アリガチな日本人男性であれば、きっと「逆ナンパされた」と狂喜乱舞して喜ぶようなシーンだろう。
スクンウィット21(アソーク通り)とスクンウィット23(プラサーンミット通り)とを結ぶ夜の繁華街、通称ソーイ・カウボーイ Soi Cowboy 、午後11時半。僕たちはゴーゴーバー(娼婦の裸踊りバー) Rawhide でビールを飲んでいた。そして、「日本人のあいだで語られてきたタイ」の真偽についていろいろと意見を戦わせていたところ、ひとりの全裸の娼婦が僕たちに声をかけてきた。その娼婦は、赤く薄暗い照明を全身に受け、ステージ上に20本以上も並ぶ鉄の棒のひとつに手をかけながら、屈託のない笑顔で身体を左右に動かしていた。
アリガチな日本人男性であれば、きっと「異文化交流の絶好の機会を得た」と狂喜乱舞して喜ぶようなシーンだろう。
2001年にタクスィン政権が発足してからの5年間、政府は退廃しきった社会の綱紀粛正を主要な政策課題のひとつとして掲げ、実際に様々な施策を次々と実行に移してきた。そのなかには国際的に非難を浴びた人権無視の過激な政策などもあったが、それでも全体としては良い方向に向かいつつあるという見方が強い(社会的腐敗の一掃が評価されている反面、今日では逆に政治的な腐敗が人々の注目を浴びつつある)。こうした政府の方針を受けて、タイの司法警察当局は、社会的退廃の最たるものである管理売春施設による複数の客の前で全裸を見せる行為を厳しく取り締まった。もう一方の当事者であるゴーゴーバーの経営者達は、娼婦に水着を着せて踊らせるなどの緊急避難的な措置を執り、性的搾取を目的にタイ国内へと移住もしくは旅行にやってくる外国人客をつなぎ止めようと必死になって知恵を絞った。その試みなかでも日本人のあいだで特に知られているものは、おそらく、バッカラ Baccara をはじめとするゴーゴーバーで導入された、ガラス天井2層構造ステージではなかっただろうか。それは、第1層(1階)部分のステージで水着を着た不細工極まる娼婦に適当に身体を動かさせ、第2層(2階)部分のステージに配置した「そこそこまともな娼婦」に下着を身に付けずに踊らせるというものだ。聞くところによると、警察に踏み込まれた場合、2階の娼婦達はすぐさま隣接する待避室へと飛び込んで、警官隊が2階に到達する前に着衣を整える手はずになっているという。
ところが、これは一体どうしたことか。久々に足を踏み入れたソーイ・カウボーイのゴーゴーバーでは、僕のバンコク留学以来、最も過激とも言えるショーが公然と繰り広げられているではないか。
それは、この日記には書けないようなイヤラシイ芸の数々だった。女性器でソーダ瓶を開ける芸(股間の下に手を回してあらかじめ開栓されている蓋を開けるトリック)。女性器から吹き矢を発射して、天井に固定されている風船を割る芸などなど。これらは全て、今まで僕が「過去にはこういったショーもあったんだよ」と聞かされてきたような「伝説の芸」ばかりだ。
僕は1本100バーツのビール(ハイネケン350ml)を飲みながら友人と話していたところ、「あの娼婦はどの地方の出身か」ということになった。こうして、僕たちの賭けが始まった。負けた方が娼婦にコーラ(約80バーツ)を奢る約束になっている。僕の予想はタイ南部、一方で友人の予想はタイ東北部(イーサーン地方)。
実際に席に呼んで話を聞いてみると、彼女はコーラート(ナコーンラーチャスィーマー県)出身の23歳で、名を「ヌット」 นุช というそうだ。コーラートとは、タイでも特に貧しい地域とされている東北部(イーサーン地方)への玄関口として知られる人口274万人(タイ第2位)の大都市だ。・・・つまり、僕は賭けに負けて、この娼婦にコーラを奢らされる羽目になった。
こうして知り合った娼婦に、数十分後、僕たちはディスコ「コロシアム」 colosseum へと誘われることになる。
コロシアムとは、スクンウィット通りとトーングロー通りの交差点近くにある典型的なイーサーン館(留学生日記2006年1月24日分参照)で、比較的所得の低い下級娼婦(月収7,000バーツ程度)や単純労働者(月収6,000バーツ程度)からの強い支持を得ている夜の盛り場だ。似たような性格を持つディスコとしては、ラッチャダー8にある Hollywood や Dance Fever をはじめ、ペッブリー通りとトーングロー通りの交差点付近にあるディスコ Bossy などが知られており、いずれも田舎演歌「ルークトゥン」を流したり、下品なお笑いショーの時間が設けられているなどといった共通の特徴がある。都市部の一般的な会社員(月収20,000バーツ程度)や大学生からは「田舎臭くてヘボい」という理由で忌避されることが多いため、これらのディスコでイケてる客を見つけることは極めて困難ともいえるだろう。
イヤだ。絶対に行きたくない。さらに、酒が回りつつあって、席を立って移動すると言うこと自体が面倒に思えた上に、こんなくだらないことで帰宅時間を遅らせるなど、まったくとんでもない話だ。僕のバンコク生活はもう残りわずかなのだ。少し時間を有効に活用して、有意義なものにしたい。ほかにも、次のような理由があった。
娼婦の誘惑に乗りたくない理由
いずれも、シリーズ「微笑みの国タイランドの厳しい現実」で詳しく扱っております |
・・・全く良いことなど何もない。今思い返せば、留学初期において娼婦の誘惑にまんまと引っかかってしまいそうな機会などホントウにいくらでもあった。上記の1~6の事情を知らずに、もしかしたら冒頭に示した「アリガチな日本人」のような発想で、娼婦との交際を始めてしまっていたかもしれない。そう思うと、タイ語学習前から現役大学生を中心とした交友関係を築き、大学院在学時代も大学生や大卒以上の人々と付き合ってきたことは正しかった。おかげで娼婦につけいられる隙を作らずに済んだ。もし仮に十分な数の友人がいなかったら、僕も娼婦の誘惑に負けて、きっと今頃はとんでもないことになっていたに違いない。全く危ないところだった。よかった、よかった。
本帰国を間近に控え、ここのところ日本人の友人達と飲みに出かける機会が増えてきている。先日来の「夜のゴールデンコース再び」といった日記が続いているのは、すべてこのためだ。
今日は午前中の便でプーゲットからバンコクへと戻ってきた。途中、ドーンムアング空港から自室までのタクシーの中で、旅行に同行した友人の携帯電話に「懲戒免職処分を受けた」という知らせがあった(後日撤回されている)。なんでも、複数の会社に常勤社員として働いていたのが発覚してしまったそうだ。その後、別の友人からインド料理をご馳走になってから、ナーナー4とソーイ・カウボーイにあるゴーゴーバーへと出かけた。
「知り合いの修理工場に依頼して、もう少し詳しく状態を確認してもらわないとハッキリとしたことは言えないけど、私たちがこのクルマを30万バーツ以上で買い取ることなんてないでしょうね。ほら、エンジン周りに油漏れがあるし、サスペンションも完全にイカれちゃってるし。黒とか青とかの人気色だったら、もう少し良い値が付くのかもしれないけど、赤はあまり人気ないからねえ。まあ、お金の方は数時間で用意できるから、気が向いたら名刺にある番号まで電話ちょうだい。どうせ、これ以上の値段で買い取る業者なんて、ほかにはないと思うけど」
プララームソーング(ラマ2)通り、午後2時。中古車屋の女性店主は、そういって僕たちに名刺を渡した。交渉上手の友人がいろいろと粘ってくれたが、まったく交渉に応じてもらえなかった。やはり相手の方が本職ということなのだろう。
その後、近くにある中古車屋にクルマを持っていったところ、「25万バーツだ。それ以上は絶対に出せない。イヤなら他をあたってくれ」という素っ気ない返事が返ってきた。そこで僕たちは、中古車屋の査定額がいかにいい加減なものかということを思い知らされた。
僕が今日まで乗ってきたクルマは、現在でもフォルクスワーゲンなどの外国車を受託生産しているタイ資本の自動車組立会社ヨンタギット ยนตรกิจ 製の BMW 318i 、初回車輌登録は1994年(12年落ち)。総走行距離122,000キロの(日本でいうところの)多走行車だ。2003年10月に62万バーツで購入したもので、当時の走行距離は89,000キロだった。
今回、僕たちが目標としている売却額は30万バーツだ。35万バーツなら万々歳、28万バーツ以下では売りたくない。駐在員としてバンコクに赴任してくるまで、友人宅に預けておいた方がよほどマシだ。
当初、ガセートナワミン通りの中古車屋街にも寄る予定だったものの、思うような値が付かずにすっかり脱力してしまった僕たちは、高速道路(チャルームマハーナコーン自動車道)に乗って自室へと戻った。
コンドミニアム1階で大学院留学時代初期の元同僚と遭遇し、本帰国前の挨拶も兼ねてビールを飲んでいたところ、さらにもうひとりの元同僚が加わった。思い返せば、僕のバンコク留学も、いろいろと紆余曲折があったものだ。
「まるで『ちょっと買い物に行ってくる』みたいな軽いノリで出かけるから、てっきり適当に何か紙に書いて帰ってくるだけで合格しちゃうような試験だと思ったじゃないの。なんで、そんな重要な試験があることを先に言わなかったのよ? もし最初から知ってたら、絶対にプーゲット旅行になんて行かせなかったのに」
ヂュラーロンゴーン大学文学部第4号館前、午後12時10分。すでに学部は3ヶ月間の学年末(夏期)休講に入っており、普段は賑やかな文学部校舎も静まりかえっていた。今回の再試験の真相を知ったばかりの友人は、電話口でそう言って過日の僕のお気楽さを責めた。確かに、傍目には少しお気楽すぎるように映っていたのかもしれない。
今日は午前7時半に起きて、再試験を受けるために大学へと出かけた。先月26日にあった東南アジア研究科修士課程の修了認定試験で出題された問題3問のうち、1問で不合格になってしまったのだ。規則によると、今回の再試験でもさらに不合格になってしまうと、自動的に即刻除籍処分が決定し、僕の4年間に渡る一連の留学の成果が瞬時にして水泡に帰すことになる。
前回の試験で不合格になってしまった原因は明らかだった。僕は比較的難易度の高い小論文2問を格式ある英文で正確に答えるために、試験時間6時間のうち、なんと5時間半を費やしてしまったのだ。そして、残りの1問「東南アジア植民地論」の答案を、要点を押さえつつも猛ダッシュで書かざるを得なくなった。それこそ、頭に思い浮かぶままに、英文の芸術性を完全に無視して思いっきり書き殴った(もうヤケクソだ)。当然のことながら、僕の解答用紙は悲惨なことになった。アメリカの中学校に通う落ちこぼれ生徒が書いたかのような稚拙な英語が、アホみたいにデかい文字で何ページにも渡ってズラズラと並んだ。タイ最高学府(世界ランキングでは京都大と一橋大のあいだ)のヂュラーロンゴーン大学が、こんな情けない答案用紙を受け付けて学位を認定するはずがない。もし研究室が温情修了を認めたとしても、大学院の本部が絶対に許さない。
だから、今回はたっぷりと時間をかけて、小論文を作成すれば良い。ただそれだけのことだ。前回不合格になった1教科(1問)を3時間まるまる使って解いた。
今日は修了認定試験の再試験を受けてから、アソークモントリー通りにある日本大使館領事部に行って在留証明書の発給申請をし、セントラル百貨店ピングラーオ店で入社前の最後のストレートパーマ(3,500バーツ)をかけ、帰りに友人とともにプラトゥーナーム交差点にある食堂「カーオマンガイトーンプラトゥーナーム」で夕食を取って帰宅した。
「私は買い取ったクルマを自分で乗ろうと思っています。転売目的ではないんです。だから、あまり吹っ掛けないでください。現金すでに店に用意してあります。どうせこれ以上の良い話など他にはないでしょうから、私の中古車屋までクルマを持ってきてくれませんか?」
スクンウィット13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート」17階の自室、正午前。僕のクルマ BMW 318i 売却を前にして、最後の値段交渉を持ちかけようと、バンコク各地にある中古車屋からの電話が友人の携帯に次から次へとかかってきた。
売却当日の今日になって、僕のクルマの値段は緩やかではあるものの、それでも着実に高騰していった。今朝一番の電話は、プララームソーング(ラマ2)通りにある中古車屋からものだった。
「先日、私たちは 『最高で30万バーツ。それ以下になるかもしれないけど、それ以上では買い取らない』 と申し上げましが、今日、あなたのクルマを30万バーツで購入することを決めました。代金は即金でお支払いできますが、何時頃ご来店の予定でしょうか?」
続いて、ガセートナワミン通りにある中古車屋からの電話が入ってきた。友人の推測によると、先日プララームソーング通りで「25万バーツだ。それ以上は絶対に出せない」と答えてきた中古車屋からの紹介で、僕がクルマを売りたがっているという情報を知ったのだろうとのことだ。バンコク中古車業界のネットワークもなかなか侮れない。
「他の中古車屋はいくらで買うと言ってるんですか? 現在の最高値が30万バーツということでしたら、私たちは31万バーツ出しましょう。あなたのクルマはとても状態が良いと伺っています。他への売却を決める前に、一度見せに来ていただけませんでしょうか?」
この時点で、僕のクルマの価値は31万バーツということになった。冒頭の話は、この後に掛かってきた別の中古車屋からのものだ。
――すでに他の中古車屋から私のクルマを31万バーツで買いたいという申し出がありまして、同じ値段と言うことでしたら、私は先着順としてその中古車屋にクルマを売らなくてはなりません。それが日本流の商売上の信義というものです。日本人として、このやり方だけは曲げることができません。しかし、もしあなたが32万バーツで買い取るということでしたら、私は他の話を全て忘れて、今すぐにもであなたの店へと向かうでしょう。
日本の商習慣に、ホントウに「先着順で売約の優先順位が決まる」なんてものがあるかどうかはともかく、僕は「交渉ゲーム」感覚のような軽い気持ちで、とりあえずそう主張しておくことにした。たかだか数万バーツ程度の価格差のために、朝から押し問答のような商談が続いていたことにいい加減ウンザリとしており、正直なところ「もうどうでもいいや」くらいにしか思っていなかったのだ。一方で、自分流の値段交渉手段を封じられてしまった相手は大いに戸惑い、「少し考えさせて欲しい」と交渉継続の申し出をしてきた。なかなか良い判断だといえるだろう。僕は「午後1時にはクルマを売りに出かける予定ですので、それまでに返事をいただければ結構です」と言って電話を置いた。
5分後、その中古車屋から再び電話が掛かってきた。
「私はスィーナカリン通りのスィーコンスクエア近くの中古車屋○○にいます。あなたの言い値通り、32万バーツで買い取ろうと思います。ナーナーからですと、南プルーンヂット入り口から高速道路に乗って、パッタナーガーン2出口で降りてください。途中で道に迷ったりしたら電話してください」
ということだった。こうして僕は南プルーンヂット入り口からチャルームマハーナコーン自動車道に乗り、そのままスィーラットナイムアング自動車道、スィーラットノークムアング自動車道を経由して、バンコク都南東部のプラウェート区にある中古車屋までやってきた。
「やっぱり、31万5千バーツじゃダメですか?」
――ダメです。約束を反故にするというのなら、私は先約のある中古車屋へと向かいます。
こうして僕の言い値どおりに交渉はまとまり、青い表紙の自動車登録証の「権利放棄欄」と中古車屋が用意した売買契約書にサインをして、現金32万バーツを受け取った。想像していたよりも、あっけない幕切れとなった。
僕は「非自動車所有者になった」という奇妙な喪失感にとらわれながら、友人とともにタクシーでスクンウィット通りまで戻ってきた。そこで職場へ向かうという友人を見送ってから、非銀行系の両替屋 VASU に駆け込み、留学予算の余り(約3万バーツ)と現金32万バーツを両替して、100万円強の日本円を受け取った。
日没後、バンコク在住の知り合い達の飲み会に参加するために、エーガマイ通りにあるタイ料理店 Khun Ying と、スクンウィット22にある飲み屋「あさみ」へと出かけた。
「そのゴミ袋を捨てるの、ちょっと待って! 日頃からバンコクに住んでいると、私ですらうっかり忘れてしまうことが多いんだけど、この国には貧しくて洋服すら満足に買えない人だって沢山いるのよ。あなたが『もういらない』と思った服だって、田舎へ行けばそれを貰って大喜びする人だっているの。っていうか、きっといるはずだわ。今度、時間を見つけて寄付してくるから、とりあえず私のクルマのトランクに突っ込んでおいてもらえない?」
スクンウィット13にあるコンドミニアム「スクンウィットスイート」17階の自室、午前11時半。僕の部屋のリビングには足の踏み場すらなかった。日本へと持ち帰る荷物を少しでも減らそうと、引き出しや洋服ダンスから比較的重要度の低い私物を取り出して、それらを片っ端から黒いゴミ袋へと放り込んでいった結果、ゴミ袋12個分の不要物が床に散乱していたのだ。
それらのうち、衣類が入ったゴミ袋は2つあった。中身は流行遅れになって日本で着られなくなった服や、原色の眩しいアジアンチックな Y シャツのほか、所有者不明の衣類など数十点。
とりあえず、衣類の入ったゴミ袋を友人のクルマに持って行ってから、それ以外のゴミ袋を共用スペースにある「ゴミ捨て部屋」へと運び込んだ。こうして、僕の部屋はがらんどうになった。
午後2時、部屋にやって来た中国系タイ人の大家から、入居時に預けた保証金(家賃2ヶ月分)42,000バーツ全額を返却してもらい、退去時の鍵の隠し場所などについて話し合ってから握手をして分かれた。大学院入学以来、かれこれ2年半に渡ってお世話になったこの部屋のオーナーだが、なかなか話の分かる人で良かった。
その後、今日バンコクに到着する予定の高校時代の友人に、僕の引っ越し荷物の一部を日本まで運んでもらうために、比較的壊れにくい書籍類を大急ぎで旅行カバンふたつに詰め込んだ。それぞれ26.2キロと13.5キロの合計39.7キロになった。
当初、僕は運送業者に引っ越し作業のすべてを依頼して、手ぶらで気楽に帰国しようと考えていた。ところが、今月14日に送られてきた見積書によると、総重量300kgで計算され、それぞれタイ国内の送料が18,000バーツ、航空送料が25,000バーツ、日本国内の送料が60,000円も掛かるという。こんなことで189,000円も失うくらいなら、その金で新しいパソコンを買った方がマシだと思って、僕は日本国内の輸送サービスを無料で使える友人に無理を言って荷物の一部を運んでもらい、残りを自力で持ち帰ることにした。
今晩は高校時代の友人や現地の友人とともに、地獄の劇マズ日本料理店 Oishi Grand で夕食を取ってから、友人の投宿地であるホテル「ソフィテル・セントラルプラザ」まで荷物を送り届けた。
ちなみに、「ゴミ捨て部屋」に捨てた大量のゴミのうち、価値のありそうなものは全て清掃婦によって抜き取られた。いくら自ら物権を放棄したものとはいえ、やはりあまりいい気持ちはしない。
「電話番号とインターネットの解約の方は、今週中に私が責任を持って済ませておくわ。 True* で働いている高校時代の友達が『旅券のコピーと委任状があれば解約できる』って言ってたから、とにかくホテルに戻ったらすぐに委任状を書いてよね。面倒くさいとか言って先延ばしにしてると、ホントウに忘れて数ヶ月後には料金未払いでブラックリスト入りよ」
* 旧 Telecom Asia 株式会社。一般加入電話のほか、携帯電話(旧Orange)やインターネットビジネスを手がけているタイの大手通信会社。
リヴァーシティー・スィープラヤー船着場(スィープラヤー第2船着場) ท่าเรือ ริเวอร์ซิตี้ สี่พระยา 、午後9時15分。周囲にはオリエンタルやペニンシュラなどの高級ホテルが建ち並び、水と光によって作られたコントラストが夜の幻想的な雰囲気を見事に演出していた。正面には今月開業したばかりのホテル「ミレニアム・ヒルトン」が見える。
僕はバンコク最後の夜をホテル「ミレニアム・ヒルトン」で過ごすことにした。タイ史における主要な歴史的舞台とされてきたヂャーオプラヤー川の水辺に陣取って、ワットプラゲーオ(エメラルド寺院)をはじめとする歴史的建造物や、トンブリー朝開闢以来239年もの歴史を刻み続けてきた旧市街を眺めながら、約4年半に渡るバンコク留学を総括してみるのもまた一興だろうと考えたからだ。そして、僕たちは遊覧船に乗ってヂャーオプラヤー川を北上しながら、今日までのバンコク留学生活を振り返ってみることにした。
今から4年5ヶ月前の2001年10月末日、僕は某金融機関を退職した。一部の悪意ある読者によって、「ケイイチは消費者金融業界に身を置いており、人間関係に失敗した結果、退職を余儀なくされた」という風説がしきりにインターネット上で流布されているが、それは僕を貶めるために捏造された根拠なき中傷にすぎない。僕が辞めたのは、一流ではないにしてもフツウに預貯金のできる金融機関であったし、退職理由も「自分が所属していた情報処理部門が子会社化され今後の経営が危ぶまれたため」というもの。決め手となったのは、金融機関の職員に IT 系企業のやり手社員と競争できるほどの情報処理技術があるはずもなく、将来に渡る安定した就業に強い懸念が残るというものだった。こうして、僕は今後の転職型労働市場で生き残るためにも、なんとかして他の分野での職能を極めなくてはならないという必要性に迫られた。
2001年11月7日深夜、僕は日本人専門家層の薄い東南アジア諸語を学んで、その能力を今後の生活の糧にしようと、大きな旅行カバン片手にバンコク・ドーンムアング国際空港に降り立った。日タイ交流を目的とするオンライン掲示板で知り合ったスィーナカリンウィロート大学の学生達に空港まで迎えに来てもらい、無理を言ってその後のアパート探しまで手伝ってもらった。さらにタンマサート大学の学生と同棲することで、留学のパフォーマンスを最大限にまで高めた。今日の成功は、すべて留学初期にこうした良質な友人達に恵まれたおかげだと思っている。
2002年1月、現在に至るまで「外国人向けのタイ語教育カリキュラム」としては最高峰として知られる、ヂュラーロンゴーン大学文学部主催のタイ語講座「インテンシブタイ」が始まった。1日あたりの新出単語はなんと100語。さらに、5週間毎に実施される進級試験で6割以上の得点を取れないと放校処分になるという厳しい規則もあった。当初は「わざわざ会社を辞めて遙々タイまでやって来て、それで放校されてしまったとあったらあまりにも無様すぎる」と必死になって頑張ったが、次第にスパルタ教育の重圧にも慣れていき、最終的に無事修了することができた。この段階で、辞書なしで新聞記事をすらすらと読めるようになっていた。
2003年3月、大学院へと進学しようとタイ・東南アジア研究室に願書を提出しに行ったところ、英語力の不足を理由に入学を拒否されてしまった。こうして予定通りに事を運べなくなった僕は、3つの選択肢から1つを選ばざるを得なくなった。ひとつは「タイ語が話せる第二新卒」として日本での再就職を目指すこと。もうひとつは「タイ在住日本人としては類い希なるタイ語使い」(タイ在住の平均的な日本人のタイ語力は驚くほど低い)として現地採用のキャリアを形成することだ。しかし、僕は目的達成のための最短経路として、もうひとつのアメリカ・ロサンゼルスへの語学留学という道を選んだ。どんな困難があっても、初志を貫徹することこそが肝要だと考えたからだ。
ここまでが、僕の「バンコク留学生」としての前半部分だ。その1年半のあいだには、十数行で語り尽くすことのできない様々な出来事があったが、それでも簡単に振り返ってみると、だいたいこんなカンジになるだろう。日本とタイとの文化的な違いに、日々驚きの連続だった。
引き続いて、僕の「バンコク留学生」としての後半部分を振り返ってみたい。
2003年5月、僕はカリフォルニア州ロサンゼルス郡アルハンブラ市にある英語学校 Language Systems へと通い始めた。タイ語留学時代に比べると退屈で平凡な毎日だったが、それでも典型的とも言える語学留学生の生活を満喫することができた。ただ、僕がフツウの日本人語学留学生と違ったのは、タイ人の共同住宅へと転がり込み、英語でも日本語でもなくタイ語で日常生活を送っていたということかもしれない。
2003年10月、ヂュラーロンゴーン大学主催の TOEFL 互換英語能力検定 CU-TEP で所定の基準を満たし、無事、僕はヂュラーロンゴーン大学大学院東南アジア研究科修士課程への進学を果たした。一部の悪意ある読者によって、「ケイイチは金を使って裏口入学しただけだ」とか、「東南アジア研究科は外国人から金を取るために開講された講座である」とかいう風説がしきりにインターネット上で流布されているが、それらは僕を貶めるために捏造された根拠なき中傷にすぎない。そもそも、タイの国立大学に不正入学をするなど、よほどの強大な権力と莫大な富を持っていない限り到底できるようなものではない。タイの大富豪で現職の総理大臣でもあるタクスィン・チンナワット警察中佐などは、娘をヂュラーロンゴーン大学に押し込むために、(入試の得点や高校の内申点を金で買えなかったが故に)なんと学部長に掛け合って出願基準を変更させたほどだ。・・・そんなこと、僕のような一般市民にできるはずがない。それに、東南アジア研究科に所属する学生の大半がタイ人であるということからも分かるとおり「外国人向けの講座」という指摘は誤りであるし、タイ人学生からも多くの学費を取っているという点から「外国人から金を取るための講座」という指摘もあたらない。タイ教育省からの助成金を受けられない外国人学生はタイ人学生の2倍弱の学費を納めなくてはならないが、この研究科の学費が高額であるそもそもの理由は、政府の高官や著名な学者を次々と招いたり、国内外への研究旅行がいろいろと企画されているため、他の講座よりも多くの経費がかかっているからにすぎない。
このブログを始めて3年7ヶ月が経過した2004年6月、僕は2ちゃんねるの麻薬売春関連掲示板「危ない海外」での本格的な中傷に晒されるようになる。この件について、現状では2005年11月1日付けのバンコク留学生日記「タイ沈没の悲劇をかいま見る その2」で分析した範疇を超えていないようなので、ここで新たに論じることは特にない。
(6月11日追記: 2ちゃんねるでの誹謗中傷のなかには、「ケイイチに好意的でない大使館員と会った」などといった、僕自身にはその信憑性を測ることのできないような脅しも数多くあったが、「ケイイチは妾の息子だ。証拠品として戸籍謄本のコピーを入手してある」と言われるようになってから、実のところ僕は密かにほくそ笑み胸をなで下ろしている。戸籍謄本には、両親に離婚歴がないことや、僕が嫡出子であることがしっかり明記されている。なあんだ。2ちゃんねるに僕を貶めるためのスレッドを立てた中傷者がいままで主張していたような「裏情報」も「動かぬ証拠」も全部ハッタリだったんだってカンジだ。いやあ、よかった、よかった)
それ以降、僕はそれまでずっと疑問に思っていた「日本人によって語られてきたタイ人像」の真偽について、さっそく調査にあたってみることにした。このようなセンシティブな問題を扱うと、娼婦スタンダードでタイを語ってきたような自称タイ通らに何を言われるか分かったもんじゃない思って差し控えてきたが、売買春関連のウェブサイト管理人や掲示板投稿者らに好き勝手なことをいろいろと言われるようになってから、僕も誰に気兼ねすることなく読者に訴えたいことを自由に書けるようになった。そこで、それまで一般のタイ人に限定されていたの調査対象を、一気に日本人向けの夜の歓楽街「タニヤ」にあるカラオケスナックやタイ人向けの高級キャバレーで働く娼婦達にまで広げた。こうして、僕は興味深い発見の数々に出くわすことになる(日記形式でシリーズ「微笑みの国タイランドと厳しい現実」に収録)。
「タイ人の全体像は、いままで数多くの日本人達によって娼婦との体験だけを元に語られてきた。このとき、一般のタイ人の存在は完全に黙殺されてしまった」
こうした結論に結びつくような要素を発見をするたびに、僕はそのことを嬉々として日記というかたちで書き殴った。まったくもって気分爽快だった。おかげで、僕もバンコク日本人社会に関するちょっとした専門家になれた。
ヂュラーロンゴーン大学は世界ランキングで50位前後にあり、日本の京都大と一橋大のちょうど中間くらいに位置するタイにおける最高学府とされている。そして、僕が所属していた東南アジア研究科は、この大学における中の中程度の難易度にある専攻分野だ。僕の GPA は3.0 (日本でいう平均評定 4.0 または「優」に相当)をほんの少しだけ上回る程度だった。
研究室における僕の存在は、単なる「凡庸な学生」のひとりにすぎなかった。それというのも、タイの最高学府や世界各国の有名大学を卒業して、奨学金を得て研究に従事している学生達が大半を占めているような研究室で、僕のようなフツウの留学生が頭角を現すことなど所詮無理な話だったのかもしれない。それでも、そんな彼らが「継続履修のための最低 GPA」を下回って次々と除籍処分を受けていくなか、なんとか修了まで漕ぎ着けることができただけでも十分に満足すべき成果ではないかったかと思う。
2005年11月中旬に英文50ページの最後の大型ペーパー(学期末小論文)を提出して以降(僕はこの学期に100枚弱のペーパーを提出した)、僕は2月の修了認定試験を受けるまで自由の身になった。最後の1学期(2548年度後期、2005年11月~2006年3月)は履修登録をしなかったため学費が大幅に減免され(なんと93%引きだ)、余った金と時間を利用してレーシック(視力矯正手術)を受け地方都市への旅行を繰り返した。好奇心の赴くままに自由に行動してみるというのも、いろいろと学ぶべきものが多くてなかなか有意義なものだ。
そして、バンコク留学最終日前夜を迎えた。大家の好意で退去期限を1日延期してもらったコンドミニアムを昼過ぎに出て、友人のクルマに大きな旅行カバン5つを詰め込み、今晩の宿泊地ホテル「ミレニアム・ヒルトン」(一泊3,000バーツ)へと向かった。友人とともに遊覧船に乗ってヂャーオプラヤー川を北上しながら夕食を取り、ホテル最上階のラウンジでバンコクの夜景を眺めながら軽く一杯飲んで客室へと戻った。
「あ・・・、うん。じゃあ、実家に着いたら電話ちょうだいね」
バンコク・ドーンムアング国際空港の出国審査場前、午前6時35分。ユナイテッド航空 UA852 便(バンコク発成田行)の離陸時刻まで、あと15分にまで迫っていた。1分が経過するたびに苛立ちの度合いを強めていくユナイテッド航空の地上要員達に急かされながら、僕たちは短い別れの挨拶を交わし、空港係官に出国税納付証(500バーツ)1枚を手渡して、地上要員達とともに出国審査場へと向かった。当初予想していたよりもあっけない幕切れとなったが、それでも涙ながらの感傷的な別れをするより、よほどマシだったはずだ。
そもそも、こんなにも慌ただしい別れをしなくてはならなくなったことには、それなりの理由があった。
昨晩、夜遅くまで語り合った僕たちは午前4時半に起床した。大急ぎで身支度を済ませ、ホテルをチェックアウトした。そして、客室内に持ち込んだ手荷物を地下駐車場に駐めておいた友人のクルマに詰め込んで、ホテル「ミレニアム・ヒルトン」を出発したのが午前5時10分。そこからヂャーオプラヤー川に架かるタークスィン橋を越え、スラウォング入り口から高速道路「スィーラット・ナイムアング自動車道」に乗って、一路空港へと向かった。
空港に到着したのは、離陸1時間前の午前5時50分だった。空港第2ターミナル3階の出国ロビー前で友人のクルマから降りて、引っ越し荷物を満載したカートを引きずりながらチェックインカウンターへと向かった。
ユナイテッド航空の地上要員は、僕の荷物を見るなり唖然として投げやりな態度になった。なにしろ、普通であれば旅行カバンを預けるはずの「機内預け入れ手荷物」が、見るからに「家財道具一式」だったのだから当然のことだ。今回、僕が手配した航空券はファーストクラスのものだったため、通常エコノミークラスであれば20キロに制限されている機内預け入れ手荷物を40キロまで預けることができる。しかし、実際に重さを量ってみたところ、これがなんと82キロもあった。
昨日、部屋を引き払うときに、使用頻度の低いものを(必要なものや大切なものも含めて)片っ端からゴミ箱に突っ込んだものの、それでも(一昨日高校時代の友人に輸送を依頼した32キロを含めて)どうしても100キロ以内に収めることができなかった。足かけ4年半にも渡ってバンコクで生活していたのだから、これもまあ仕方のないことだ。
通常、航空券に記されている機内預け入れ手荷物の重量を超過すると、1キロにつき(どのクラスを席を予約していても)「ファーストクラスの正規運賃の1%」が課金されるという規則になっている。それをユナイテッド航空バンコク-成田線の場合に当てはめて考えてみると、1キロあたり545バーツという計算になる。これをまともに支払ったら22,890バーツだ。そこで、チケット発券係に掛け合って17キロ分を見逃してもらい、25キロ分13,625バーツを支払うことになった。
さらに面倒は続いた。こうした作業に10分以上の時間を取られたにも関わらず、第1ターミナルにある入国管理局ドーンムアング出張所まで行って、留学ビザの再入国許可証をもらわなくてはならななかったのだ。これに20分以上を費やし、冒頭にあるような友人との慌ただしい別れをせざるを得なくなった。
しかし、友人と別れて出国審査場に入ってからの方が、より慌ただしかったといえるだろう。僕は航空会社地上係員に促されるままに正規の出国審査場を突破して、奥にあった特設ブースにパスポートを提出し、数年前にタイの入出国審査で導入されたばかりのウェブカメラで顔写真を撮影された。そして、僕はパスポートを受け取らないまま、僕の大きな旅行鞄(機内持込手荷物)を抱えて走る航空会社地上係員の後に付いて、ターミナルビルから最も離れたところにある36番搭乗ゲートまで全力疾走することになった。
途中、後方から猛ダッシュでやって来た別の地上係員から、リレー選手のようにパスポートを受け取り(係員はその場に倒れ込んだ)、離陸予定時刻5分前の午前6時45分にはファーストクラス 4A の客席に身を沈めることができた。誰のせいかは知らないが、定刻より10分遅れて離陸したユナイテッド航空 UA852 便の窓から、僕はシャンパンのウエルカムドリンクを飲み、早朝のバンコクの街を見下ろしながら、この街に別れを告げた。僕にとってのバンコク留学は今日が最終日となったが、それとは無関係にここバンコクで繰り広げられる善悪美醜悲喜交々の愛憎劇は、世界中からやって来るさまざまな人々の夢や希望とともに今後何度でも繰り返されるのだろう。
僕はタイ語をマスターした後に大学院を修了し、今後、ふつうの日本人会社員という身分でバンコク駐在を目指すことになるが、ほかの人たちがここバンコクで何をして、その後どのような人生を歩むのかということについては、それもまた十人十色ということになるのかもしれない。