私が依存や「二刀流」について問題にするのは、「ADHDの脳が非常に不器用に出来ている」こと、そのために、「脳に合わない生き方をすると、うつや身体症状が必ず出現する」という現実を目にすることが多いからだ。
身体的には原因不明の痛みやしびれ、耳鳴りなどの感覚過敏、ふらつきや動悸、頭痛や吐き気、過敏性腸症候群、時には発熱まで、特にジャイアンには多彩な身体症状が見られる。
また、全く動けなくなる意欲低下や、どうしようもないイライラ、極度の不安や強迫症状も良く見られる。
これらの症状が脳に合わない生き方の原因である「証拠」はない。しかし私はACの回復や依存からの回復とともにくすぶり型のうつ状態が回復したり、頭痛が回復したりするケースをいくつも見てきた。
例えば「訓練して二刀流を使いこなせるようになった」としても、「意識のレベルでは見下さなくてもASの発言に反応しない」と言っても、結局その人には摂食障害があったり、原因不明の整形外科的な問題があったりする場合には、見苦しくても、幼稚であっても、「単純な砂漠のライオンたるジャイアンの脳のあり方に立ち返るしかない」というを治療の目標にしてみることは試す価値がある。
私が見苦しいことを承知で、道義的には問題があるのを承知でここでジャイアンのいちばんジャイアンらしい形を隠さないで実演して見せているのは、それが「ジャイアンの素直な脳の働き」だからだ。
身体症状やうつがあって、それを取り除くことがが治療の目標であるとすれば、治療の中間目標は、「一度単純な本来のジャイアンの姿に戻る」ことになる。
その場合、「見苦しい」とか、「幼稚である」ことは一度は甘受して、まずは本来のジャイアンに戻り、これらの問題はその後で「最低限の承知の上の妥協」(自分を誤魔化す変な抑圧ではなく)で現実的に解決する。
これがジャイアンの身体症状やうつのケアの基本原則(と私が考えるもの)である。
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コメント一覧
ここにきて、AS元彼の言うAC治療は治療と言うより「矯正」、関係はやはり「依存」ではなかったかという気がして来ました・・・
と、いうのも、周り中が「まともになった」と喜んではいるものの、自分自身を極限まで抑圧しているので、頭痛と抑うつ状態、及び顔面神経痛が取れません・・・
多少みっともなくても幼稚でも、この際ジャイアンに戻った方がいいのでしょうか・・・優等生やってると苦しくて死にそうです。
>「最低限の承知の上の妥協」(自分を誤魔化す変な抑圧ではなく)
これが、リアルではいい子ぶってきた都合上、なかなか抜けなくて困っています。
・・・どうも、リアルの専門医(この方がまた見事な投げ飛ばし系であったりします)と話し合った結果、「統合失調症の場合、発病までの生育歴はある・・・が、君にはそれがない(異端児でした)」とのことと、あと最初のドクターに「君は統失というには、何か1%くらい違うような気がする」などと言われていました。
(その後、20年近く家にいたから全くの世間知らずになっちゃってるのは事実ですが。)
で、父にYANBARU先生のメール全文を読ませたところ、「親切な人だ」と感服しておりました・・・
どうも、AS父は、肺気腫と高齢で不安なのか、私に対しては最近服従モードなんで、わたしとしては楽なんです。
「ADHD」とゆう”英語”や、「アスペルガー」という”カタカナ”はいまだ受け入れがたいらしいのですが、「発達障害」と言ったら、意外にもすんなり受け入れてくれて、サポーターになってくれそうな気配すらあるので・・・。
(ASらしい、「成せば成る」哲学は変わんないみたいですが。)
と、ゆう訳で、皆さんどうもご心配お掛けしました。<m(__)m>
いつも勉強させていただいています。
質問なのですが、ジャイアンの身体症状で今まで見られた中で一番重度だと思われたものは、どのようなものだったかお教えいただけますでしょうか?
というのも、この1年間、母(ジャイアンだと思います)の脳に炎症が見られ、その結果かなり重度の身体的障害を現在抱えることとなりました。(記憶や性格も影響を受けていますが)
脳の炎症が出る前の母は、本人にADHDの自覚はなく、周囲もその言葉すら知らない状況で、かなり抑圧された環境にあり、極度に精神的なストレスと身体的な疲労がたまった状態でした。
いくつか大学病院で見ていただいたのですが、この脳の炎症自体の原因が突き止められないままです。それで、「ジャイアンと身体症状」の関係性がずっと頭から離れず、つい質問をさせていただきました。
不適切でしたら、お手数ですが、削除していただけますでしょうか?
しかし、何かお心当たりがあれば、ご意見いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
ACや境界性の問題の無い『本来のジャイアン』とはどのような思考回路・行動をするのか是非知りたいです。
「あるコメント」エントリーでまりさんの根気強いサポートに助けられて、AC脱出晴れて可能となりました・・・
AS元彼は、鬼コーチの如く、「母親にあやまれ」の一点張りだったので、「結局私が悪いのか」に落ち着いてしまって、自己評価が0まで落ちた気がします・・・
「本来のジャイアン」とは何だかよく分かりませんが、とにかく頭ごなしに押さえつけるのはよくないと感じます・・・
PS;今、バウンダリーがかなり曖昧であるとミーティング仲間に指摘されて落ち込んでいたりします。過去、働いていた頃は、全く人が「遠かった」のですが。共依存恋愛の名残であるとすれば、mmmさんと同じくなんとかしたいところです。
ありがたいコーチングです。わたしのような依存型ジャイアンにはとても参考になります。ありがとうございます。
二次障害をなくすのが目標であれば本来のジャイアンである一刀流に戻らねば、と頭では理解しているのですが、たいていのものは捻じ伏せてしまう「いびつな二刀流使い」であることの優越感のようなものが邪魔をして、一刀流に戻ることの利点があやふやになったりしていました。
でも最近自分が二刀流の発言をした時にはすぐ気付く事ができるようになってきたので、とりあえずそれに気付いたらすぐさま一刀流発言をかぶせるようにしはじめました。
ただ、文章のときはなかなか難しいのかもしれません。
二次障害に悩まされるようになってから「行間をよむ」ような小説が好きになりだしたので、文章の場合は全体的な雰囲気から把握するような癖がついているような気がします。それ以前は直截的な表現しか受け付けず、小説などはほとんど読めなかったのですが。
>まりさん
『本来のジャイアン』はこのエントリでいうと「一刀流」であることだ思います。そして『本来のジャイアン』については再度教えていただかなくとも、過去の記事だったり、ジャイアンの皆さんのコメントからだったり、先生のHPで十分に知ることができるんじゃないでしょうか?
過去記事やジャイアン皆さんのコメントを読んで私が感じるのは『ジャイアンはACを内包している?』です。
モラハラDVジャイアンも、家庭内で通してきたごり押しは社会では通用せず、母親の同調を元に社会を評価するなど、対社会的にはACに見えます。
「いびつな二刀流」等は、自己認知の歪み(AC)や境界性の部分なのかなと思ったり。。。
そういう意味では多数派ACも同じ事をします。
本来の受信・発信一刀流のジャイアンは、「あるコメント」で先述した「ピーターパン君」のような感じでしょうか?
時々踏んでしまう地雷の中には、私が『本来の姿』をイメージできていれば避けられそうな物があるように思えて、、、
本来のジャイアン(ADHD)の部分なのかACの部分なのか、それが見極められたらサポートもしやすいし、お互い辛い事も減るだろうと思うのですが。難しいです。まだまだ分かってないことだらけです。
分からない事だらけの私のコメントが、何かのお役に立ったのなら嬉しいです。
境界線が曖昧と言われて凹んだのはその事実を受け入れているからで、むーんさんがきちんと自分と向き合ってる証拠だと思います。凹む事から逃げずにきちんと凹んでから立ち上がる方が、土台が固まる気がします。
ボーダー友人も、人に近づきすぎるか遠ざかりすぎるかで、程よい線を保てていませんでした。ACになったのは親のせいという怒りのやり場が無く、自分の中のどこかに隠してしまっていた事が彼女の情緒の乱れに繋がっていたように思います。彼女はそれを見つけ出し、捨て(破綻・解放?)、「ACになったのは私の責任でないがこれから自分を立て直すのは自分の責任」という形で立ち上がりました。その際に彼女が頼りにした『毒になる親』(ちょっと恐い題名(汗))という本を私も読ませてもらいましたが、おかげで自分を振り返る事ができました。大人として、一人の親として、反省点が山ほどありました。
精神的な自立、自己の確立って難しいですね。
脳の構造の違いは置いておいて、自ら受信したりカウンセリングを受けるなど「本当の自分」と向き合おうとしてる人は偉い・強いなって思います。
私も、自分を見つめられる人間でありたいです。
母親も「具合が悪いときは医者に行けば治る」と思っていたので(大半の人はそうだと思いますが)、私にはそれが通用せず、むしろ投薬によって新たな症状が勃発して苦しむ・・・。と
そういうことが常だったので、成人する頃には、「体調が悪くなった時は病院へ行かない!!」が母と私の間では、「定説」になっていました(笑)。
もちろん、その症状が「脳に合わない生き方」からきている「証拠」はありませんが。
小学中学年での心拍数異常(100~130以下に下がらない)で入院し、点滴などの治療を受けても全く変化がなく、大学病院の小児科医チームのDr.の一人から母に、「何か、精神的なストレスをかけていないか?」と聞かれたそうで・・(笑)。
最終的にそこを疑うしかない“お手上げ状態”。
この身体症状のお手上げは現在でも化学物質に対する過敏症という場面でもまた、違った意味で経験しているところで、「症状を取り除く」・・という目的でのアプローチはもう、考えていないと言う感じです。
結果、私は先生の記事の表現を借りると、
自分を誤魔化す変な抑圧ではない、現実的な解決方法を模索しはじめ、
自分の感じ方や考え方の特徴が、現実問題として不具合であれば、別の考え方に置き換えられないだろうか・・・
と介入して、それと平行して身体症状も軽減していっているように思います。(他人から見ると、何も変化していないくらい微々たるものでも)。
つづく・・
他者にストレスを与えれば、自分にストレスが加わります。
他者は別の関係性で、環境で、ストレスを受け満杯状態・・・それプラス私からだと、同じ言葉をポロッと口走ってしまっても、反応は違う・・・
そこで、”空気を読む“相手の状態を何とか把握しようとしていた・・・と言う感じです。
そういう環境に居過ぎた、ということでしょうね。
今思うと、スポーツに過集中していた時期が一番、精神的にバランスが取れていた気がします。
結局、やり過ぎて身体を壊してしまいましたが、そこでは常に「自分VS自分」で、他の選手のことを考えた時点で負け・・・の世界ですから。
自分のプレーに集中することで他者から批判や中傷もありませんし・・・。
創作活動もそうですが、そういう環境、場所を1つもっているだけでも違うでしょうが、そこに入り浸りになるとこれまた・・・と思いますが。(笑)
セラピーにかかってから、AC関係の本は20冊くらい読みましたが、これが一番頼りになりました。
思えば、母の圧政の元にいた「地下室」(とうか強制収容所)にいた前半生、主に文学作品やあらゆる映画、漫画に浸ることで苦痛を和らげてきた気がします。
元彼に出会う3年前までは、(特に2年間は)ひたすらネットに向かって、摂食障害に悩まされつつ3人ほどの理解ある女性と、漫画評論の形でやりとりをしていました・・・
あの頃は、それが精一杯の自分のコミュニケーション方法だったのだと感じます。
前述の本に戻りますと、「治療のプロセスにおいても、愛情のこもった関係に代わるものは存在しない。(中略)本当の自分を発掘し、制約を受けない創造的な自己を再発見すれば、彼らの後半生は、最高のものになりうるだろう」とあります・・・(続く)
今、多数派ヘルパーさんの主に「お手伝い」をしていますが、(本来は自分でやってしかるべき年齢なんですが、「低い自己評価」を自分に言い聞かせ、「これだけでも昔にくらべればよっぽどまし」と・・・)たまに家事を怠けたりすると、代わりにお風呂を自分で沸かしなさいとか、そういう小学生レベルの事にチャレンジしています。
前述の本によりますと、「人は、子ども時代をつうじて、抱きしめられ、他人の目に映った自分の姿を確認し、適度なコントロールを受ける事を必要とする。(中略)耐え難い苦痛も、口に出し、誰かに聞いてもらえ、信じてもらえれば、耐えられるものへと変わる」とありますが、その通りだと感じます。
社会への適応を何よりも優先させるよりも、脳に合った生き方を身につけるのを優先させた方が当事者には健康的と思います。
僕は今そういう生き方を模索しつつ、社会へも少しづつ適応できかけているようです。
「あるコメント」でまりさんがコメントされた、ピーターパン君とモラハラDV氏の文章をあらためて読みました。モラハラDV氏については、まりさんにはその母親との関係がAC的に見えようが、本人が困っているわけではないようなので勝手にACと決め付けるのはどうでしょうか?
サポートする立場でしたら、まずは相手の困っている部分に耳を傾け、そこをサポートしていくことが大切になるのではないかと思います。
(たいして知りもせず生意気なことを言ってしまいすいません。)
「ジャイアン」であれば皆が同じ行動をし、発言をするというわけではないと思います。親との関係や、現在の環境、育ってきた過程、様々です。
文章からピーターパン君は「純粋なジャイアン」とみえますが、モラハラDV氏も「純粋なジャイアン」の範疇ではないかと、わたしは思います。
例えば「ジャイアンAC」が「純粋なジャイアン」に戻る過程は、どちらに分類すればいいのでしょうか?一日などの短い時間ではジャイアンACの行動様式が一気に改善されてしまうことはないと思うので。それなら、「純粋なジャイアン」だけど「ジャイアンAC」の可能性もありそうだな、でも「ジャイアンAC」のほうが強く出ているな、というぐらいでよいのではないでしょうか。
>「いびつな二刀流」等は、自己認知の歪み(AC)や境界性の部分なのかなと思ったり。。。そういう意味では多数派ACも同じ事をします。
「いびつな二刀流」と書きましたが、わたしは完璧な二刀流になれず一刀流でしか受け答えできない場合が今でもあるので、そう書きました。わたしはジャイアン母に育てられACになり、その名残で共依存に陥ったタイプです。(自分をジャイアンACにも、依存型ACにも、純粋なジャイアンにもあてはめてこのブログを読んでいます)
この一刀流、二刀流の部分についての多数派ACとの違いは、ジャイアンACは「元々は一刀流であった」ではないかと思います。
書き忘れました!
mmmさん、レスありがとうございます。
例のモラハラDV氏を私はACと決め付けてるわけではないのですよ。彼の異常さを説明するには母親との関係の考察なしでは不可能で「ACっぽいな...」(成育過程の親との関係において自己確立ができなかった人=ACと大きく括っています)と思うということです。彼がなんであれ、そのモラハラDVっぷりは『純粋な』とは到底思えません。本人も困っているから責任転嫁で誤魔化し自覚から逃げます。自覚の無い人に対しては「決め付け」どころか「他者の意見」さえ無意味である事はわかっています。当然人は離れていきます。彼をサポートするのは、同じく誤魔化しをする母親です。
私がサポートしている人はADHDでACです。性格は穏やかですが時々「ジャイアンの反応」をします。それがADHDなのかACなのか性格(気質)なのか、本人にわからなければ私には尚更解りません。でも、それがなんであれ、「変えるか変えないか」を決めるのは本人であり、私は『ここをこうしたい』と言語的に伝えられて初めてサポートできるんです。
(つづく)
>一刀流、二刀流の部分についての多数派ACとの違いは、ジャイアンACは「元々は一刀流であった」ではないかと思います。
私は、人は皆元々一刀流であると思っています。一刀流が『一対話方法』なら、それが人や場と関わる中で変化していくのも当然です。多数派の二刀流はその変化した一対話方法に過ぎません(ある状況で二刀流を使った多数派が、常に裏表があるというわけではないという意味です)。色々な人がいるから色々な対話方法があります。○×刀流が通じなければ別の方法を試せばいいのだと思います。
彼やボーダー友人を見ていて、その『色々』の中で『「自分は」どうしたいのか』を考える事が大切だなと感じています。ジャイアンか否かに関わらずAC問題は、自己の曖昧さや境界性の問題を自覚し、解消し(本来の自分に戻る)、自己確立し(自己評価の安定)、それから他者との関係を再構築するというステップが共通して必要だと思います。
今の時代は、少しずつ変わって来ていると思いますが、もともと過去100年間程の日本人と言うものは、「言外の理」とか、「空気を読む」(『「自分は」どうしたいのか』の逆)が美徳とされていた訳で、
要するに、世界基準から比べるとすべからく「二刀流」であり「AC様」だったのではないかと思います・・・(現在、それでは世界に追いつけないから、アサーティブ・トレーニングなるものも国内で普遍化している訳ですが。)
私の回りを見ていると、「社会に適応している日本人」とは全てこれ「ACサバイバー」なる人種に思えない事もないです。
その「ACサバイバー」の極端な例である、(と思われる)家の弟の場合なんかは、日本社会にかえって適応できなくなり、在日オランダ人夫妻の料理番兼ベビーシッターをしたりして食いつなぎ、現在は国籍不明(容貌からも、そう言われるし商業柄からも外国人との付き合いが多い)に近い状況になっています。(日本に住んではおりますが・・・)
mmmさんの仰りたい事は、「放っておけばいい」という(冷たいようですが)多数派の本音に近いのではないでしょうか・・・
普通は「ACサバイバー」なるものにも日本人の場合、「上手くやる」という全く別種の処世術が身についていて、これが出来ないと日本社会への真の「適応」は難しいように感じます。
>その場合、「見苦しい」とか、「幼稚である」ことは一度は甘受して、まずは本来のジャイアンに戻り、
というのは、「ACの克服」ではなく、「上手くやる」という言外の理を(それがジャイアンには出来ないから)一度やめようじゃないかというYANBARU先生の方針であるように思えます・・・
(間違っていたらすみません、YANBARU先生。)
PS;まりさんの仰ること自体に反対しているのではありません。とかく「世間」から取り残されやすいジャイアンにとって、歯に衣着せぬまりさんのような存在は貴重です・・・
と、いうカンジなんですが。
確かに日本を「二刀流」と認知している諸外国は多いですね。
「上手くやる」で思い出したのですが、帰国して日本の学校に通い始めた頃、それまでの「Aも有りBも有り、さてどうするか」という民主主義教育から、「Aが良い(多い)ので、Bの人Cの人、Aになるように頑張りましょう」という民主主義に変ったようでとても戸惑いました。漢字があまり読めない、鉄棒・跳び箱初めての私は「みんな同じ。やればできる。」にプレッシャーを感じて我武者羅に頑張ってましたっけ、、、
モラDV氏は「一刀流」で思い出して例に出しましたが、実は私の人生とは無関係な方です。恐くて関われません。ここを読んでいるのは、私が関わっているADHDの人の、いらぬ地雷を踏みたくないからというのが本音です。私の理解が浅いために知らずに地雷を踏むと、私も相手も傷つきますので...
私のオプションに「上手くやる」は無かったのですが、どうやら日本社会がそれを要求している(学校の『やればできる』と同じ様に?)ために少数派は苦しいようだっという事を、むーんさんのコメントで理解しました。今更そんなことに気付いてる私も実は相当世間から取り残されてるかもしれないですね(笑。
『純粋な』は『本来の』と同義だと思うので置き換えさせていただくと、『本来のジャイアン』はもうお分かりになったのですか?
(このエントリーの一番はじめのまりさんのコメントの中の疑問点です)
そして、話が飛躍し過ぎてしまうと、何について話しているのかわからなくなるので、最小限におさえませんか?まりさんが自己正当化するために蹴散らしているように、わたしは感じます。まぁ、わたしのジャイアン母がそうなので、慣れっこですが。
わたしが書いた、
>>一刀流、二刀流の部分についての多数派ACとの違いは、ジャイアンACは「元々は一刀流であった」ではないかと思います。
この文について、
(つづきます)
とレスがついていますが、これは「幼い頃は」という解釈でいいですか?
その後にまりさんが書かれているように、多くの人が人と関わる中で二刀流に変化していくのは当然だと思います。ただ、ADHDは一刀流のままほとんど変化しないのです。なのでこのブログで一刀流だとか二刀流という言葉が出ているのだと思います。よって、
>○×刀流が通じなければ別の方法を試せばいいのだと思います。
これをADHDに向けて言っているのであれば、上記に書いた通り、一刀流がほぼ変化しないADHDにとっては難しいのではないかと思います。ジャイアン以外のADHDはACになっても一刀流のままであると、他のエントリで先生が書いてました。唯一ジャイアンであればこれが不可能ではないですが、ACになる、または既にACである場合ではないでしょうか。
この辺りを理解して「別の方法を・・・」の発言ですか?
>ジャイアンか否かに関わらずAC問題は、自己の曖昧さや境界性の問題を自覚し、解消し(本来の自分に戻る)、自己確立し(自己評価の安定)、それから他者との関係を再構築するというステップが共通して必要だと思います。
ADHDの脳であると、ACの解決の仕方が多少変わってくる、というお話しを以前まりさんにコメントしたかと思います。
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20080708/1#comments
こちらを理解されていて、ジャイアンか否かに関わらずACで一括りにするのは、どういった理由からなのでしょうか?
どうも、「マタタビ」の項で、「共依存は人間に避けて通れない茨の道」とカキコしましたが、これは一つには「ウラ一刀流」の母を見ていての感想で、
実際には、わたしにとってはやはり「茨の道」で、・・・(母にとっては天国状態だったと思われますが・・・)他のミーティング仲間を見ていても、明らかに”相互依存”より”共依存”の方が居心地が良さそうな人は、沢山いるんですけど、
ジャイアンにとっては(多数派ヘルパーさんとの相互依存の関係性でさえ)相当ナンギであったりすることに気づいてきました・・・(続く)
要するに、発達障害(と、はっきり書いた方がわかりやすいですね)の人間にとって、ACを(親から受けた傷を)癒すことはある程度出来ても、その後の「社会的な”大人”としての適応」を完全に果たす事は、いささか難しいのではないかと思います・・・
家の弟などは、それでも一応(変則的ですが)社会的自立も果たし、私と違って両親との関係性も良好、基本的に回復したASなので「一刀流」ではありませんが、調子のいい「ピーターパン」的側面はやはりあります。(子どももいませんし。)
社会に属すると言う事は、結局ある程度の「依存」を受け入れることだと思います・・・ジャイアンに、あるいはASにこれが向いていないのは、以上のような点からではないかなぁ。
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