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パロマ「取扱説明書」解説

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    問題7機種の取扱説明書解説

給湯器全体回路図を入手

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     給湯器全体回路図

安全装置回路図

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    安全装置回路図

注意シール付属図

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コントロールボックス修理要領付図1.

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    コントロールボックス修理要領付図1.

コントロールボックス修理要領付図2.

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    コントロールボックス修理要領付図2.

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2006年11月11日 (土)

「朝日と暴力団=山口組の深い関係」朝日の虚報6.(11/11)

 (続き)

 朝日と山口組とはストレートの関係ではない。
 それはおよそ、次の様だと考えられる。

  {朝日>三浦甲子二(みうら・きねじ;元TV朝日専務。
   「怪物」と呼ばれた政界フィクサー)>河野一郎>
   山口組>田中清玄>「新左翼」暴力学生集団}

 三浦甲子二とは元朝日政治部記者で、のち政治部次長からTV朝日専務にのし上がった「昭和の怪物」。数々の歴代総理大臣を作ってきた(「日本「黒幕」列伝2」宝島社/2006.10)。読売新聞の渡辺恒雄氏の親友で、渡辺氏の「渡辺恒雄回顧録」(中央公論新社/2000)で次の様に紹介されている。

 「・・・横浜支局に行って、そこで神奈川に選挙区があった河野一郎と仲良くなって、のしてきた人だ」(p.186)。
 「しかし三浦は、政治家との関係ではすごい奴だったよ。たとえば河野一郎が「おい三浦君、これはどうだろう」なんていうと「ああ、そうだ」という調子なんだよ。・・・ぼくが「中曽根さん、この件はどうですか」と言うところを「おい中曽根、お前はどうだ」だったからね」(p.188-189)。
 中曽根総理大臣を作ったのも三浦甲子二だった。渡辺氏と三浦は田中角栄に「中曽根を是非総理にしてください」と頼む。そのとき、角栄は便所へ行った。三浦も付いていった。なかなか戻ってこない。後で聞くと、OKとの返事を得ていた(p.310)。
 
 次に河野一郎とはどの様な政治家だったのだろうか?
 戦前からの政治家だが、戦後の活躍の方がよく知られている。自民党吉田茂派が、米国の家来になるところに日本の進路を見出した(なるべく軍事力に金を使わずに、日本の経済的復興一本槍)のに反対し、憲法を改正して強大な軍事力を持ち・ソ連とも提携して日本の米国からの自立を計った。同じ考え方の鳩山一郎を総理大臣にする(1954年)為に奮闘した最大の貢献者。
 憲法改正に全力を傾けたが、遂に国会議席の3分の2を取る事が出来なかった。次に1956年、ソ連のフルシチョフ首相と渡り合い、「日ソ共同宣言」を締結する。これにより、日ソ間の第2次世界大戦から続く戦争状態は終了。国連加盟への道が開けた(日本の国連加盟に、ソ連は拒否権を発動しないとの約束を取付けた)。この「日ソ共同宣言」は、西側諸国がスエズ動乱・ソ連がハンガリー問題を抱えるというきわどいタイミングを縫う成功であった(スエズ動乱:1956年10月29日、イギリス・ フランス・イスラエル VS エジプトの スエズ運河を巡る攻防。国有化を宣言したエジプトに対して、植民地主義を丸出しに3国が襲い掛かった。西側は分裂し、米国はエジプトの側についた。こうして米国は日本どころでなくなっていた。一方ソ連はハンガリー問題で孤立し、味方の国が1つでも欲しいタイミングだった)。
 実はこのとき、
三浦甲子二はソ連内に太い人脈を打ち込んだのである。
 河野一郎は、鳩山・岸・池田内閣の3代に渡り、諸大臣を経験した。岸内閣では、安保条約改正(1960年;一方的に日本が米国に守ってもらうのでなく、日本も自衛隊を強化する等の義務を負った。これにより、日本と米国の関係が法的にはより対等に近づいた)に力瘤を入れた。最後は池田内閣で建設大臣をやり、オリンピック成功に辣腕を振るった。1965年、大動脈瘤破裂で急死。享年67歳。河野洋平氏の父である。
 
 表の情報では以上のようになっている。裏の顔は次の様だった。
 「また河野(一郎)は(右翼でヤクザの大元締めの)児玉(誉士夫)とは生死を誓った義兄弟でもあった」(「ヤクザ」p.112;D.E..カプラン他/第三書館/1991)。
 再び「渡辺恒雄回顧録」に戻ろう。
 「それである夜、薫夫人(鳩山一郎氏の夫人)と長話をしていたら、河野一郎がやってきたんだ。・・・「奥さん、わっしはS組(暴力団)の親分と盃を交わした仲で、S組の親分にわっしが一本電話をすれば、100人やそこらの若い者が集まります。それから横浜の沖仲士、これもわッしが親分をつかんでいまして、あれくれ者を100人や200人すぐ集められます。こいつらをすぐ動員して、自由党の院外団を蹴散らかしてやります。」そう、薫夫人に自慢げに話すんだよ」(同書p.113)。
 
 右翼の児玉誉士夫が日本のヤクザの大元締めとして、1960年代の日本で強大な力を持った原因は、次の様に言われている。
「・・・急進的左翼の学生と労組が政府と衝突した(19)60年安保闘争では、アイゼンハワー大統領訪日予定期間中、警察の警備の不足を補うため、児玉誉士夫が自民党と東京のやくざの組長たちとの間を取り持って、3万人以上のやくざと右翼の行動隊が組織された」(「日本/権力構造の謎 上」p.195;ウオルフレン/1990/早川書房)。
 つまり、「新左翼」暴力学生集団が破壊活動・国会への突入等の民主主義破壊・国会の建物そのものへの破壊・内乱・武装蜂起を行なった為、アイゼンハワー大統領を守るためには・又法秩序を保つ為にも、ヤクザまで動員しなければいけなくなり、警察や・政府に対し大きな恩を売ったと。その為に、警察としても多少はどうせヤクザの事だからと見逃す事も出ただろうし、いざという時は頼りに成るじゃないか・いいところもあるじゃないか・それよりもっと重要なのは”又同じことが起きたらやはりヤクザに頼るしかないかな”と。そこに付け込んで、暴力団の力がどんどん強くなってしまった。
 そして、1960年代には山口組が関東に進出しようとして、全国的に大きな暴力団同士の武力抗争が起きるようになった。この黒幕こそ、河野一郎と言われている。つまり、彼は総理大臣になるはずだった。岸信介・大野伴睦・河野一郎・佐藤栄作の4にんがフィクサー児玉誉士夫の下で確約していた(「渡辺恒雄回顧録」p.150)。だが児玉誉士夫に裏切られて総理になれなかった。この恨みを晴らす為、山口組を使い、大元締め・児玉への反旗を翻させた。

 次に、田中清玄とは何者か?有名な山口組系の右翼である。『田中清玄自伝』(田中清玄/1993/ 文芸春秋)でこの関係を見てみよう。

 ・”田中清玄の祖先は会津藩の家老(同p10):
東大に入学後、田中は日本共産党に入党(昭和2年)。
昭和5年共産党と警察が撃ち合った和歌浦事件(19300226)が勃発。直後「おまえが家門を傷つけたら、改心させるため腹を切る」といっていた母は本当に腹を切る(p77)。遺書「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまぬ。お国のみなさんと先祖に対し責任がある。早く死んだおまえの父親にも責任がある。死をもって諌める。よき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」(p77)。その年、党書記長になっていた田中は逮捕さる。獄中で母親の死がのしかかってきた。そこへ党委員長の佐野学と鍋山貞親が転向声明。
 煩悶。モスクワ流共産主義が受けつけられないと気付く。転向を決意。天皇主義者への転向。「結局、マルクス主義が西洋合理主義の申し子であり、一神論のキリスト教とギリシア文明の混合である」(p81)。「私の転向は母の死によってもたらされた疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義という抽象的観念を追い出したということ」(p82)”
 分かりやすく言うと、彼は元々伝統的な天皇主義者だった。しかし東大に入り、時代が大正デモクラシー後の左翼全盛のときだったのでそれに影響されていた。別に彼だけではない。明治維新の元勲たちは、政権を取った後、日本を英仏型の民主主義国にするつもりだった。ところが普仏戦争でプロシャが勝ったため、雪崩を打って絶対君主主義者になった。全ての人が早く欧米に追いつきたいと願い、先進国の考え方を未消化のまま取り込んだ。田中清玄はモデルをソ連に求めたに過ぎない。

 ・”(山口組組長の)田岡一雄との関係。田中の身元引受け人が、佐藤軍次を紹介(p181)。佐藤が京浜の沖仲仕大親分の藤木幸太郎を紹介。
 藤木は海運協会(海運業者の団体)会長に田岡を推したが、田岡は固辞(p183)。この辺りで田岡は”自分はヤクザを取り仕切る、政治は田中清玄に”(p185)と決めたと考えられる。二人の「終生の友人」(p188)関係が成立。”

 ・”1960年。60年安保闘争。全学連指導部の小島弘(のち中曽根康弘氏の平和研究所所員)が田中のところへ。全学連の実質的指導者・島成郎に会ってくれと(p172)。田中は島から反スターリン主義思想を聞く(p172)。応援しようと決める。反代々木・反モスクワが気にいる(p171)。田中の秘書(日大空手部キャプテン)に武闘闘争の「基本」を伝授させる(p173)。全学連指導部に「機会あるたび、財布をはたいてやっていましたよ。まあいいじゃないですか、それはそれで」(p172)”(当時の金で500万円位と言われている)。
 「新左翼」暴力学生集団が破壊活動・国会への突入等の民主主義破壊・国会の建物そのものへの破壊・内乱・武装蜂起などを行なえば、必ずヤクザ勢力を強く出来るとの先見の明であった。(続く)

 (参考)「その時に大野伴睦と河野一郎はどんな役回りでしたか?
 ・・・河野は山口組の田岡組長が副会長だった、全港振という港湾労働者組合の顧問だから、・・・山口組のためにサボり役に回っていた。と言うのは、山口組の最高顧問だった田中清玄が、・・・」(「朝日と読売の火ダルマ時代」藤原肇/1997/国際評論社;p.252)。


 061111/(中略)/070106加筆訂正

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