2008/08/17
皆さん、こんにちは。
15日の靖国神社参拝報告をしたいと思います。
参拝の前後に、クライン孝子さんへメールをお送りし、取り上げて下さいました。
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&log=20080814
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&log=20080815
クライン孝子さんも紹介されておりますが、産経新聞・阿比留瑠比記者の、
『ルポ「靖国冬の時代」平成20年8月15日 忘れてはならない慰霊・追悼』
という記事があります。
(部分抜粋)
15日、東京・九段北の靖国神社は、この夏2番目の暑さ(最高気温34・9度)に見舞われたにもかかわらず、妙に静かで、物々しい警備だけが目立つ冷めた雰囲気が漂っていた。この日は、小泉純一郎、安倍晋三の両首相経験者は参拝に訪れたものの、靖国に距離を置く福田康夫首相は当然のごとく来なかった。
わずか2年前のこの日には、靖国神社には小泉元首相の参拝効果で約25万8000人もの参拝者が詰めかけた。それが、昨年は一気に約16万5000人へと落ち込み、今年はさらにそれを下回る約15万2000人となった。
靖国には逆風が吹いている情勢だが、一方で「年々若者の参拝者が増えている」(関係者)という見方も根強く、15日も手をつないだカップルや、若い女性の参拝者を何組か見かけた。古い政治家が旧来の発想にとらわれているうちに、参拝者の世代交代が進み、英霊の慰霊は受け継がれているのかもしれない。
2年前は確かに凄い熱気でした。ヘリコプターがぶつかりそうな密度で旋回し、拝殿前に着くまで一時間以上を要しました。
今年は静かでした。「冬の時代」というとらえ方も出来るのでしょうが、私自身はそんな風に感じませんね。私はこれが正常だと思います。本来、静かに祈るべき日です。
去年の四月、私はエルサレムへ行きました。そこで、Via
Dolorosa
を十字架を背負って歩く、まあ、観光行事があります。仲間の多くが参加しましたが、私は逃げました。そんなことをして、何を味わおうというのだろう。やるならばせめて鞭で背中を破られ、荊の冠を被った上で。
15日、靖国境内を軍装に身を固めて歩く、まだ若い二人がいました。足を高く上げた“行軍”ですね。
私はカメラを向ける興味も湧きませんでした。
山本七平氏の「一下級将校の見た帝国陸軍」“死の行進について”の章に、次のような文章があります。
野坂昭如氏が「週刊朝日」昭和50年7月4日号で沖縄の「戦跡めぐり」を批判されている。全く同感であり、無神経な「戦跡めぐり」が、戦場にいた人間を憤慨させることは珍しくない。復帰直後のいわゆる沖縄ブームのとき、ちょうど同地の大学におられたS教授は、戦跡への案内や同行・解説などを依頼されると、頑として拒否して言われた。「せめて30キロの荷物を背負って歩くなら、まだよい。だがハイヤーで回るつもりなら来るな」と。
私も正装して参るべきと思うのですが、一度気を失いそうになって、以来、上着なしで失礼しています。白のワイシャツにネクタイ、それで許して貰っています。頬白親父Hさんは、必ずスーツに身を固め、汗を噴き出しつつ参拝されます。それが本来、せめてもの礼儀なのだろうと思いますね。

予め「色々とお聞きしたいことがある」と申し込まれていてお会いした「上智大学国際教養学部」所属のマーク・マリンズさんは、名刺を頂いて見ると「教授」でした。「靖国神社に対するカトリック教会の多様な見解」を研究しておられ、「2008年8月15日に靖国参拝される予定のカトリック信者に、今までのカトリック教会と靖国神社の関係と今後の在り方について色々伺いたい」との申し入れでした。
9:30の集合から、昼食会場、グランドパレスの入口まで一緒されました。
ご自身はプロテスタントのキリスト教徒だそうです。お父上が牧師さんで、長く東北地方で宣教活動をなさったそうです。子供時代から大学入学前までを日本で過ごされ、再び来日、明治学院、上智での勤めとなりました。日本の方が長い訳です。
自然に流暢な日本語で、穏やかに話されます。
集合場所に最初に現れたのがマークさんでした。
私は、「何人来るか分かりません。集まってみないと分からない。そういう集まりです」と言いました。また、「それぞれがどのような考えなのか、人それぞれです。私だけでなく、みんなに色々と尋ねて下さい」と申し上げました。
私たち仲間は、靖国について、同じ考えを持っていません。持っていないと思います。
確かめたこともありません。
人それぞれです。それが「信教の自由」でしょう。
M.マリンズ教授から私が質問され答えたことを、メモしてみます。
但し口頭ですから、多少不正確です。
1.カトリック教徒がなぜ靖国へ来るのか?
私自身は兄を戦争で失っており、遺族である。本来カトリックに関係なく、個人または家族で、静かに参拝していた。
しかし一部カトリック聖職者がその「肩書」のもとで靖国を否定するので、それがカトリック全体の方針でないことを示すために、カトリックを名乗って参拝するようになった。
2.反応はどうか?
意外に多くのカトリック信徒、プロテスタントのクリスチャンが、靖国へ来ていることを知った。
又、他宗派の方々からも、非常に好意的な反応を得ている。
(今、思い出したことがあります。一度だけ年よりの夫婦にからまれたことがありました。それは宗派に関係なく、反・靖国の夫妻でした。ヨボヨボだけど口は達者でしたね。私の顔をしげしげと覗き込むので、どうかしましたか?と尋ねると、
「何のために靖国なんぞに来るのか」
「それではあなた方はなぜ靖国へ来たのですか?」
「馬鹿を見に来たのだ」というのが答えでした。
私は笑って、
「それじゃ私も、ここにいて馬鹿(あなた方)が見える訳だ」)
3.宗教的な矛盾は感じないか?
私は靖国を、一般的に神道を、キリスト教的な「宗教」とは思わない。キリスト教の神と神道の神は、まったく別なカテゴリーのものであり、対立も矛盾もない。神道には教祖も教義も戒律もない。何もない、いわば一つの「雰囲気」です。私たちは会社で地鎮祭をしたり、一年の安全、繁盛を願って、初詣に行く。初詣で祈ったからと言って、商売が本当に繁盛するか、事故は起こらないか、実はさほどには信じていない。事故が起こっても仕事がうまくいかなくても、神さんに文句をいう発想はない。神道の神さんは私たちを戒律で縛らない。せいぜい、「清浄」を求めるくらいです。靖国の御霊も、私たちに何も要求していません。
4.靖国に合祀されていることを苦痛に思う遺族・親族がいるが?
私は信教の自由とは、極論すれば「信じる者の自由」であり、「信じられる側」に自由はないと思う。
野村を神だと崇める者がいても(頭がおかしいことは確かだが)私はその者に、野村が神であると信じることを禁ずることはできない、なぜなら「信教の自由」だからである。ネズミを神とする宗派もある。牛が神聖な宗派もある。
靖国はトランジット、ハブである。そこを通って、それぞれの宗派の墓地に葬られるのだ。靖国は「墓地」ではない。霊魂の通過点、交差点である。
それをイヤだという遺族・親族がいても、合祀されたものは元へ戻すことができない。全体で一つなので、ある個人というものは無い。一部の中に全体がある。
この問題については、私には解決法が分かりません。当事者の寛容を願うばかりです。
5.「国立無宗教追悼施設」については?
反対である。少なくとも私はそんなところへは行かない。
いま靖国へ来ている人は、その施設ができても靖国へ来ると思う。結局、別な分断をするだけである。
6.靖国の国家保持(非宗教法人化)については?
賛成であるが、おそらく実現しないであろう。「国家神道の復活」と、大騒ぎになると思う。
7.今のままで靖国は財政的に存続できるのか?
麻生太郎さんなどは心配されているが、私は大丈夫と思う。日本人は絶対に靖国を見捨てない。もし日本人が靖国を見捨てるなら、そのような日本は亡びてもかまわない。実際、亡びるであろう。
8.靖国はこれからどうなっていくのか?
今のままで、宗教法人として存続していくと思う。
9.あなたが在って欲しいと願う靖国の姿は?
私は靖国の境内に、あらゆる宗派がその典礼を行える場所を設けたらいいと思う。靖国は受け容れると思う。
本殿、拝殿での、他宗派の典礼挙行は、これは無理である。しかし祈りは、靖国は許容する。私たちはカトリック信徒として、本殿でカトリックの祈りをした。勿論、予め打合わせての上である。祭文も奏上した。そこまでは靖国はあっさり許容する。
本殿、拝殿では無理だが(これは当然と思う)、境内の適切な場所でカトリックのミサをあげるなら、その度胸がある神父様がいれば、私は靖国と交渉してみる。仏教系の宗派では、すでに例があるように聞いている。靖国が受け容れる可能性は十分あると思う。
ミサをあげるなら、それは「平和祈願」になるであろう。
私が靖国に参って、いつも聞こえるのは、平和であってくれ、という声である。もう一度戦争しろなどと、英霊が語るはずがない。
戦争をした者以上に平和を求める者があるだろうか。兄は私に言う。「お前は私のようには死ぬな」
戦争で肉親を失った遺族親族以上に、平和を求める者があろうか。
靖国へ、特に8月15日参拝する人々は、どの「平和団体」よりも、切実に平和主義者である。
《参考ページ》
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2007/02/070203.html
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/50994742.html
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/50354936.html
大体、以上のようなことをお話ししたと思います。
なお、M.マリンズ教授については、
http://www.sophia.ac.jp/J/fac.nsf/Content/kokusai_kokusai_k
『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・R・マリンズ著 高崎恵訳)
定価3990円(税込)/2005年5月刊行/ISBN:4-901510-30-4
この日集まったのは8名でした。

台湾・タイヤル族のセホタナ(賽侯大納)さんとも、記念写真をご一緒できました。

セホタナさんについては、
http://www.melma.com/backnumber_100557_4193886/
セホタナさんは実はカトリック信徒で、神父になろうと思われたほどの方だそうです。
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