今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「戦前毎日新聞ニューヨーク特派員に福本という特派員がいたと、同じ新聞社の林三郎氏が回顧していた。福本氏は日米は戦ってはならぬと、アメリカの軍事力生産力士気以下あらゆる情報を原稿にして本社に送ったという。けれどもそれらはすべて没書になった。そのころ日本の新聞はドイツ礼賛の紙面ばかりつくっていた。ヒットラー・ユーゲントの眼は澄んでいたというような記事に満ちていた。
全体主義国の少年は一つことしか教わっていないから、その眼は澄んでいるにきまっている。今はすこし濁ったかもしれないが、紅衛兵の少年の眼も澄んでいたはずである。上役は日独防共協定を結べという紙面をつくりたいのに、それに水をさすような原稿を送ってくるとはどうかしている、没書にすれば送ってこないだろうと思ったのにまだ送ってくるとは理解に苦しむと怒る。当時のナチス礼賛の紙面は当局に強いられてつくったのではない。社をあげて進んでつくったのである。福本特派員の記事はのせようと思えば、まだのせられた時期なのにのせなかったのである。
ただし福本氏が打電しつづけたのは稀な例外だと私は思う。こういう人物が各界に何十人何百人いたら、あるいは戦争は避けられたかもしれない。それにしてもえらい特派員だと思うのは今の考えで、当時はだれもそうは思わなかった。むしろニューヨークの同僚はやめろと忠告したのではないかと思われる。どうせ没書になる原稿なら送るな、上役の機嫌を損じて左遷されるのがおちだぞ。
原稿というものは掲載されることを欲する。今も昔もこれが鉄則である。その代表的なのが投書である。いま新聞は核持ちこみに驚いているが、いかにもわざとらしい。あんなことはとうの昔日本人の大半は知っている。ライシャワー発言の記事の大きさには驚いても、その内容に驚いたものはないはずである。けれども新聞が驚いてみせれば投書家は驚く。非核三原則を堅持すべしと新聞が大々的に書けば、おうむ返しに堅持すべしという投書が集まる。投書は掲載されることを欲するから、これは集まったのではなく集めたのだと私は思うが新聞は思わない。集まったのだと思うのは、思いたいからである。
新聞の特派員と投書家は、その書いたものが掲載されることを望むことにかけて同じである。小説家も評論家も同じである。プロはそれで衣食するものだからなおさらである。新聞が気にいらないことなら決して書かない。何が気にいるかさき回りして書く。それが書けないでどうしてプロだろう。
これで当時のまた今の新聞がひとたび何かに一辺倒になると、朝日毎日読売をあげてなるわけが分っただろう。バスに乗り遅れるなと昔は互にいましめた。」
「鈴木商店の名は米騒動と共に歴史に残っている。商店なんていうと小売店のようだが、明治十年三井三菱のあとから登場して、大正年間には両者を凌いだ商社である。それが米を買い占めたと新聞に書かれて大正七年八月十二日焼打された。鈴木商店の主人鈴木岩治郎は明治二十七年になくなって、未亡人鈴木ヨネがながく主人だった。店は金子直吉という番頭が取りしきっている。鈴木を大きくしたのもつぶしたのもこの金子直吉だから、鈴木商店といえば金子直吉とその名は今でもとどろいている。」
「鈴木商店が米を買占めたというのは事実無根である。それは城山三郎が証拠をあげて当時の大阪朝日新聞の記事の一つ一つを論破している。私はそれを信じるが世間は信じない、というよりもう関心をもたない。米騒動といえば富山の女房一揆、神戸の焼打、焼打といえば鈴木商店、鈴木といえば買占めときまった定評をくつがえすことはできない。鈴木商店は焼打事件で大きくつまずき、昭和二年の恐慌でつぶれた。」
「私が簡単に金子の無実を信じるのは、今も昔も新聞は誤るからである。誤っても訂正しないからである。訂正しても豆粒大なら誰の目にもとまらないからである。人を善玉と悪玉に分けるからである。鈴木商店は悪玉にされたのである。
何年か前のトイレットペーパー、洗剤騒ぎならご記憶だろう。主婦連はスーパーや問屋にのりこんで、ほらこんなにかくしている出せと迫った。新聞はそれに味方して書いた。だれがトイレットペーパーなんか買占めるだろう。バカバカしいとは書かなかった。ケタは違うが似た例で、鈴木が米を買占めたという噂はあったのだから、風評があると書くのはうそではない。」
(山本夏彦著「冷暖房ナシ」文春文庫 所収) |