キャリアインタビュー:村田早耶香氏
キャリアインタビュー:村田早耶香氏(2)
3人が出会ったことが、当プロジェクト成功の鍵だったことがうかがえますね。では、当プロジェトに至るまでの村田さんの人生の軌跡について教えてください。
特定非営利活動法人かものはしプロジェクト
共同代表 村田早耶香氏
私は、中学生の時から国際協力に関心を持っていました。父は若いころからボランティア活動をやってきており、私が食べ物を残すと、「アフリカには食べ物がなくて飢えに苦しんでいる人たちがいるんだよ」と諭すような人でしたので、自然に世界が抱える諸問題に目が向いていったという感じです。父は、私たち家族を東南アジア旅行に連れていってくれましたし、私が14歳の頃から毎年4人、東南アジアからの海外留学生の日本での身元保証人になっており、ホームステイも受け入れていましたので、タイやマレーシアなど、アジアの国々の人たちと当時から交流を深めることができたのです。
こうした経験を通じて、私は将来、金儲けではなく、意味のあることをしたい、人の役に立つことをしたいと考える湯になっていきました。高校生の時も、外務省にODAについて聞きに行ったり、まだ年齢的に応募資格がないのに「青年海外協力隊」の隊員にはどうやったらなれますか?」とJICAに聞きにいったほどです。
若いうちから、人の役に立つ仕事をしたいと考えるのは結構珍しいほうだと思いますが、やはり周囲の環境の影響が大きいようですね。大学は、カンボジアの問題を知ったのはいつだったのですか?
私が19歳、大学2年生のころ、児童買春問題についての世界会議が横浜で開催されたのです。その会議に私は外務省のボランティアで参加する予定でした。そこで私は初めて、児童が売春宿で強制的に働かされ、最後はAIDSになり死んでいくというひどい実態を知ることになりました。その後、実際に自分の目で現状を確かめてみたいと、タイやカンボジアに行ってみました。
そして、カンボジアの保護施設では、買春の被害者だった子供たちに会ったのですが、10歳とか6-7歳くらいの女の子もいて、みんな売春宿にいたことを聞かされて驚きました。孤児院にいる子供たちは、元気で目がきらきらしていたのに、その保護施設にいた彼女たちはとてもおとなしいのです。売春宿での体験が、彼女たちの元気を奪っていたのです。私が一番仲良くなった12歳と6歳の姉妹は、だまされて連れて行かれた売春宿で、言うことを聞くようにと電気ショックを与えられていました。そうしたひどい体験が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」となり、夜、突然精神が不安的になって泣き出したりするのです。保護施設では、24時間カウンセラーがつきっきりでケアをしていました。私は、彼女たちのことを知って、強い悲しみと怒りを感じました。そこで私は、「カンボジアの児童買春をなくしたい」と1人で活動を始めたのです。
1人で活動を開始されたころは、現在のような解決策はまだ見えてなかったわけですよね?
はい。まずは問題の原因を突き止めるため、図書館に行ったり、紀伊国屋書店で関連文献を調べまくりました。そして、ユニセフや外務省主催の国際会議(「第2回児童の商業的・性的搾取に反対する世界会議」)にも日本の若者の代表として参加したりしていたのですが、児童買春問題について日本国内での認識が低く、また実際に問題解決に動いている人が非常に少ないことがわかり、「私がやるしかない」という使命感が自分の内側から湧いてきたのです。
まだ具体的な解決の糸口は見えない中で、あらゆる機会を捉えて「児童買春をなくしたい」と、この問題を語り続けました。学食でも友人たちに話しましたし、また学内で講演会やパネルディスカッションを開いたりもしたんですよ。今思えば、こうして語り続けることが大事だったのです。過去7年間の間、私はおそらく1千回くらいカンボジアの児童買春問題を人に話したんじゃないかと思います。
そうして、青木さんや本木さんに出会ったんですね。
はい。最初の1年ほどはずっと一人で活動してきて、でもそれほど大きな進展もなくボランティアワークで終わっていました。それで、なぜ自分だけこんなに命を削ってまでやるのかと、限界を多少感じ始めていたのです。そんな時、私の言葉に反応してくれたのが、世の中をよくする仕事をしたいと考えていた青木と本木でした。当時2人は東京大学の学生で、社会起業家サークルの仲間でした。彼らにとっても、当初はカンボジアの児童買春は興味のあるテーマのひとつに過ぎなかったのですが、ある日の真夜中、最初はチャットで、そして電話に切り替えて、一晩中青木とこの問題について話しあったことを契機に、3人で「かものはしプロジェクト」を立ち上げることになったのです。青木によれば、電話で話した後、村田は本気で「カンボジアの児童買春問題」を解決したいと考えている。その思いはとても強いから、村田の思いを実現できるような事業がつくれないかと、本木に相談したそうです。
当時私は20歳で、問題解決に対する思いは強かったものの、自分には経験も人脈も資金もないと考えていました。しかし、経験がなければ経験のある人にアドバイスしてもらえばいい、人脈は人脈のある人に頼ればいい、必要なお金は少しずつ集めればいいじゃないかと青木や本木に言われて気づいたのです。これまでは自分ひとりだけでやろうとしていましたが、周囲の力を得ながらプロジェクトを推進すればいいのだと。彼らと話しながら、みんなが協力しあえば、これまでになかったまったく新しい取り組みができるのではないかと感じて、当時とてもワクワクしたことを覚えています。
なるほど。そもそも一人でやるには大きすぎる問題でしたし、信頼できる仲間の登場が必要だったんですよね。立ち上げ当時はどんなだったんですか?
当初は私たち3人に、社会人の方が個人的にボランティアで事業立ち上げを手伝ってくれました。外資系のコンサルタントの方が週一回来てくれて、その会社式の問題解決手法を使い、現状分析を行い、仮説を立て、どのような事業を選択すべきか、持続性、拡大性、収益性などの視点で吟味していったのです。児童買春の場合、被害者の児童と、売春宿のオーナーの両者のどちらに対して行動を起こすかということになりますが、売春宿の方は、警察の力も借りなければ行けませんし、命に関わる危険性もあることから、児童側の問題解決、つまり農村の貧困、職業機会の欠如に焦点を合わせることにしたのです。
それで、現在のコミュニティファクトリー事業を開始したということですね。
そうです。また、資金創出のため、IT事業を開始したのですが。これも当初は大変苦労しました。ある案件では、納期遅れでクライアントの怒りを招き、訴訟寸前まで行きました。まだよく世間を知らない学生がやっていたビジネスですから、対応にも甘さがあったのでしょうね。最悪、数百万円の損害賠償が発生する可能性があり、私はとても悩み、ノイローゼになりかけました。でも、このトラブルについてある支援者に相談したところ、「仕事は最後までやれ、本当にお金に困ったら私が払う」と言ってくれたのです。この時、私は、当プロジェクトを応援してくれる支援者の方々の大切さを学びましたね。
また、青木、本木もこうした逆境にめげることなく、青木などは1カ月事務所に泊り込んで仕事に取り組んでいました。当然ながら大変つらい毎日だったわけですが、青木自身はあのころにITのスキルが大きく伸びたと言っています。本木も、「借金ができたら自分が働いて返すよ」と言ってくれたのです。こうした心強い仲間のおかげで私は大いに助けられ、仲間の大切さをつくづく感じました。