(3からのつづき)
平岡家には来客が多かった。 アメリカから日本に帰国した平岡熈(ひろし)が、持ち帰ったバットとボールで弟の寅之助と遊んでいるうちに、「おもしろそうだからやらせてくれ」と言い出す客も現れてきた。 そうなると、庭では狭いので、神田の練兵場に毎日のように出かけては、平岡家の使用人なども加えたにぎやかな練習をするようになった。さらに、神田周辺の学生たちが、本場直伝のベースボールを見ようと集まってきた。 明治11年(1878年)、熈(ひろし)の新橋鉄道局勤務が決まり、新橋工場へ出仕するようになっても、学生たちはベースボールを習いにきていた。さらに仲間の工員や技師、駅員なども汐留停車場南の広い野原でベースボールを楽しむようになった。 やがて2チームに分かれて試合のようなものも行なわれ、ついには、日本初のクラブチーム「新橋アスレチック倶楽部」が誕生する。 「新橋アスレチック倶楽部」の面々は、白い帽子、白い上着は襟付きで、しゃれたリボン状のネクタイ、膝までの白いズボンにストッキングというニッカボッカースタイルで、颯爽とベースボールを楽しんでいた。 もちろんこの日本で初めてのユニフォームは、熈(ひろし)が作らせたもの。当時としては、非常に「ハイカラ」なものだった。 熈(ひろし)は新橋アスレチック倶楽部の写真を添えて、アメリカ時代に地元チームの名投手として活躍していた選手に手紙を出した。 自分がボストンに滞在していたことを告げ、「……当時、ボストン・ナインが全米チャンピオンであり、ピッチャーは、貴方、スポルディング選手、キャッチャーはホワイト選手でした……」。そして、自分は日本にボールとバットを持ち帰り、球団を作った、その一部始終を報告したのだ。 手紙を受け取ったスポルディングは、あの「スポルディング社」の創始者。このときすでに選手を引退して運動用具商の社長になっていた。スポルディングは熈(ひろし)の手紙に感激して、アメリカでも出来たばかりのマスク・ミットを含む最新の野球用具一式を送り、さらに毎年のようにルールブックを送り続けてくれた。 野球用具がひととおり揃い、最新ルールが手に入ると、次は正規のグラウンドが欲しくなる。熈(ひろし)はさっそく当局から許可をとって、現在の京浜急行「北品川」の東側(品川区北品川1丁目)あたりを整備し、塁間90フィートの正規ダイヤモンドを備えたグラウンドを作った。 明治15年に完成したこのグラウンドは、「保健場」と命名された。このころになると、野球で「わからないことは、平岡さんに聞け」とばかりに、いろいろな学校の生徒たちがグラウンドに出入りするようになる。 そして、アスレチック倶楽部のライバルチームも誕生した。 (全8回予定、つづく) 鈴木康允(すずき・やすみつ)1940年、千葉県生まれ。祖父・鈴木仙太郎が、平岡熈の起業した車両製造の平岡工場で会計課長を務め、野球チーム監督にま でなった話を聞き知ったことが縁で、平岡の事跡を調べ始め、酒井堅次氏と共著で『日本で初めてカーブを投げた男~道楽大尽平岡熈の伝記物語』(小学館、 2000年11月)を出版した。
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