長篠合戦について思うこと | ||
はじめに 本稿は、従来の通説である「長篠の戦いは、武田勢の自滅」という主張に対して、基礎資料を再確認することで生じた疑問点をとりあげ、推論により新説を展開することを目的とする。 まず明快に立場の表明をしておいて、先行の研究について述べよう。今回は名和弓雄氏の手による「長篠・設楽原合戦の真実」雄山閣、平成十年六月を主敵……ではない、主要な文献として紹介したい。 名和氏は、長篠合戦における勝敗は織田方が地形利用と陣地構築によって得た「地の利」を、巧みな鉄砲戦術とともに活用した結果であると主張し、信長は西洋の戦史を知っていたのではないかと大胆に推理する。 税抜き二千二百円と、専門書ほどは高くない本なので、購読されることを推奨しておく。いずれは図書館に並ぶ文献ではあろうが、吾輩とて文筆家の端くれ、そうそう図書館でタダ読みをする人が増えては困る。 閑話休題。先行の名和氏が四十年の歳月を費やしたという労作において、古式鉄砲を実演する団体を召集、鉄砲三段撃ちの再現まで試みて、従来から言われる「鉄砲で勝った」とする説を否定し、三段であったのは陣地であると説をたてている。 事実とすれば縦深陣地における攻勢防御という近代戦術が長篠合戦で実施されたことになるが、空堀、胸壁、柵などによって構成された野戦築城と、火力による攻勢防御、残念ながらそのいずれにも史料的根拠は薄く、遺物的証拠も存在しない点は、指摘されねばなるまい。 この名和氏の主張に対して、吾輩は史料を再検討することで通説の矛盾を正すべきであると考え、恒例であった歴史の旅もとりやめて、執筆に望む。なぜなら、長篠古戦場は名和氏の推定による野戦陣地が復元されておって、それを目にすれば、どうしても影響を受けることになるからである。 再検討する史料は、標題にも掲げた「長篠日記」および、通説を裏付けた「信長公記」として、この二者を比較しながら、主として「武田勢の自滅」という通説を否定することを目指す。 長篠日記とは 信長公記が信長の右筆であった太田牛一による著作であり、いわば歴史の中央からの視点で記録された「正史」であるのに対し、長篠日記は古戦場の地元旧家に伝わる「野史」である。 現代に伝わる写本の中で、最も古いものは明和年間に写されたものであり、標題の異なる同一内容を記した別系統写本も存在する。三州長篠合戦記など長篠日記とは標題こそ異なるものの、内容的には、ほぼ同一である。 信長公記における長篠合戦の記述は天正三年の出来事を記録した部分では大半を占め、なかなか重視されているものの、さすがに信長の一生を記した書物の一部であるだけに、文量は長篠日記と比較にならぬほど少ない。 ただし、信長公記は記録魔とされる太田牛一が、驚くべき記憶力の全てを発揮させて作られたものだけに、その信憑性は極めて高く評価されている。 一方、長篠日記は長篠合戦を主題に記されただけに、文量は豊富であり、合戦が発生した事情から書き起こして、両軍の準備、合戦の様相なども克明に記されている。 しかし、原作者が実際に目撃したであろう合戦当日の状況はともかくも、武田勝頼陣営の軍議の様子などは伝聞でしかなく、現在では参戦していないことが判明している長坂長閑が悪役を演じており、内容の信憑性はやや薄い。それでも合戦の描写は真に迫るものがあり、伝聞だけで成立した偽書として無視することはできない。 長坂長閑が悪役にされるあたりは、「甲陽軍鑑」に影響を受けたものとも推測できるが、長篠日記の成立年代は天正六年頃といわれ、武田氏滅亡より前である。その点には疑問が残るが、写本を受け継ぐうち徐々に加筆されたとも考えられる。甲陽軍鑑にしてから成立年代がはっきりせず、武田滅亡の様子を記してはいても後世の加筆とも考えられ、天正六年に甲陽軍鑑が存在しなかったとも言い切れない。 吾輩の心証としては、原本の成立は伝承のとおり天正六年だが、写本するうちに加筆されて現在のような内容になったものと考える。その根拠として、戦死者の数を明確に記した部分などはとても創作とは思えない迫力があり、少なくとも、戦場を歩いた経験のある人物が書いたと思われるからである。 信長公記にみる長篠合戦 従来の通説の根拠となっていた信長公記の長篠合戦に関する記述は文量も少ないので、ここで全文を紹介するとしよう。 巻八 太田和泉守これを綴る 天正三年乙亥 (中略) 三州長篠合戦の事 五月十三日、三州長篠後詰として、信長、同嫡男菅九郎、御馬を出だされ、其の日、熱田に御陣を懸けられ、当社八剣宮癈壊し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部又右衛門に仰せ付けられ候ひキ。 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次の日、御逗留。十六日、牛窪の城に御泊り。当城御警護として、丸毛兵庫頭・福田三河守を置かれ、十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を居ゑられ、菅九郎、新御堂山に御陣取り。 志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見えざる様に、段々に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に候の間、家康、ころみつ坂の上、高松山に陣を懸け、滝川左近・羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、同じくあるみ原へ打ち上り、武田四郎に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為、柵を付けさせられ、彼のあるみ原は、左りは鳳来寺山より西へ太山つづき、又、右は鳶の巣山より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川、山に付きて、流れ候。両山北南のあはひ、纔に三十町には過ぐべからず。鳳来寺山の根より滝沢川、北より南にのりもと川へ落ち合ひ候。長篠は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎鳶の巣山へ取り上り、居陣候はば、何れともなすべからざる候ひしを、長篠へは攻め衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越し来たり、あるみ原三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで、だみね、ぶせち衆を相ひ加へ、一万五千ばかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ候。 今度間近く寄り合わせ候事、天の与ふる所に候間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず候様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列れ、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり并びに信長の御馬廻鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、 五月廿日戌の刻、のりもと川を打ち越し、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、 五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、責め衆を追ひ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて候間、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。 信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座候に取り上られ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近々と足軽を懸けられ、御覧じ候。前後より攻められ、御敵も人数を出だし候。一番、山県三郎兵衛、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり候。鉄炮を以て、散々に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かかればのき、退けば引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数打たれ候へば、其の時、引き入るなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ候。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に、典厩一党、黒武者にて懸かり来たる。かくの如く、御敵入れ替へ候へども、御人数一首も御出だしなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓にて、かかり来たり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ、諸卒をうたせ、次第次第に無人になりて、何れも、武田四郎旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候歟、鳳来寺さして、僮と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、 討ち捕る頸の見知る分、山県三郎兵 衛、西上野小幡、横田備中、川窪備 後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、 甘利藤蔵、杉原日向、なわ無理介、 仁科、高坂又八郎、興津、岡部、竹 雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、 和気善兵衛、馬場美濃守。 中にも馬場美濃守手前の働き、比類なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死候。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落され、川へ入り、水に溺れ、際限なく候。武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類なき駿馬の由にて、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。 今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城、武田四郎、相拘へ候も落去幾程もあるべからず。岩村の城、秋山・大島・座光寺、大将として、甲斐・信濃の人数楯籠り候。直ちに菅九郎、御馬を寄せられ、御取巻きの間、是れ又、落着たるべき事勿論に候。 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き、御存分を達せらる。昔もヶ様に御身方恙く強敵を破損せらるる様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり。宛も照日の輝き朝露を消すが如く、御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ヶ年は山野海岸を栖として、弓箭の本意、業として、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。 桑田忠親校注「新訂信長公記」 平成九年五月十五日発行 新人物往来社刊より抜粋 ※文中、JIS第二水準までにない 略字は、本字に置き換えた。新漢字 置き換えは、同書に従った。 信長公記の著者、太田牛一は信長の右筆、今日でいう秘書であって、常に信長と行動をともにした人物であった。それだけに記述の内容は信憑性があるものの、反面、信長に贔屓気味になることも自然の勢いである。 長篠合戦最大の謎は、兵力に劣った武田勢がなぜ攻撃にまわったかという点である。 「武田四郎鳶の巣山へ取り上り、居陣候はば、何れともなすべからざる候」 つまり武田勢が鳶の巣山に居座ったならば、どうにもならなかったろうと太田が指摘しているように、わざわざ武田勢は設楽原に出てきている。なぜ出てきたか、それについて触れられていないことは残念なことである。真に太田は単なる秘書に過ぎず、武田勢を誘引する作戦計画の秘密など知る由もなかったのであろう。 この空白を埋めるために、武田勢の部将たちが将来を悲観して自滅攻撃を繰り返したという珍説が生まれ、今も通説として罷り通っている。 なぜ出て来たかについては吾輩にも持論はあるが、後で述べることにして、両軍が対戦した、合戦の様相について詳しく見ていきたい。 「志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見へざる様に、段々に御人数三万ばかり立て置かる」 と太田が記しているように設楽原は山間を流れる川が谷を削り河岸段丘を形成している。そこへ信長は隠蔽した陣地を段状に構築したのである。 信長の軍勢は三万、戦場は南北三十町(三キロ強)にも満たないとされており、概算で一メートルあたり十人が存在したことになる。これだけの数がいれば、かなり大規模な陣地の構築が可能であったろう。時間的にも余裕はあった。着陣した十八日は休息するとしても、決戦当日の二十一日までには中二日がある。空堀を掘り、土を積み、柵を張るくらいは、造作もない。 「身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候」 という具合に、遮蔽物に身を潜めた鉄炮足軽が、武田勢を銃撃したことは間違いない。ただ「身がくし」というものが、土を積んだ胸壁なのか、楯や竹束を並べたものなのか、この記述を見ただけでは何とも言い難い。確実に言えることは、「敵がたへ見へざる」陣地を構築した織田勢が武田勢を銃撃したということである。 武田勢からすれば、敵状不明のまま攻撃を開始し、敵陣に突入すると隠蔽陣地から不意に銃撃されたわけである。この場合、一番に攻めた山県隊は強行偵察部隊と考えるべきで、損害を覚悟したうえで敵陣に突入したのは当然と言わねばならない。 二番目に出てきた武田逍遙軒信廉に対して、織田勢は 「かかればのき、退けば引き付け」 と、武田勢の攻勢に、一時後退したことがわかる。おそらく弾込めをする時間を稼ぐ必要があったのであろう。その間は長槍で武田勢を防いで、弾を込めた鉄炮衆が再び銃撃して撃退したと考えられる。 当時の戦術常識では鉄炮は補助兵器であり、主力は槍と刀とで近接戦闘を挑むものとされた。従って、逍遙軒は柵内から出撃してくるであろう織田勢主力部隊の出鼻を挫くべく、進んだり引いたりしながら、攻撃の機会を待つうちに銃撃による損害が大きくなり、撤退したのである。 三番手は西上野の小幡衆であるが、織田勢が出てこないので、前線を突破して決戦を挑むつもりでいたろう。 「馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる」 機会があれば騎馬武者を突入させるつもりで攻め寄せている。騎乗戦闘はすでに過去の遺物となりつつあったが、敵の引き際に騎馬武者を投入すれば、効果絶大であるのは、鎌倉武士の頃と少しも変わらない。 そして、おそらくは一部の柵を破り、織田勢の陣地に侵入したのではないか。しかし、そこでも信長は、 「身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候」 隠蔽した陣地から銃撃させることで小幡衆を一網打尽にした。 「過半打ち倒され、無人になりて、引き退く」 という表現は大げさだが、戦闘員が二割も死傷すれば、部隊の戦力は概ね無力化する。重傷者を担いで退却するためには残り八割の全力を投入すべきである。さもなくば潰乱状態となり、それこそ全滅してしまう。おそらく、小幡はその前に撤退している。小幡の戦死は、決戦の最後に行われた追撃の結果であろう。戦死は潰乱敗走の際に生じるものであって、武田勢の一万と言われる戦死者が、銃撃で戦死したと考えるのは無謀である。 続く四番手の典厩は、川中島第二回戦で戦死した典厩信繁の嫡子の信豊で、信玄の甥、勝頼の従兄弟になる一門衆で、主力中の主力である。小幡衆には無理でも、典厩ならば前線を突破して信長の本陣を突き崩すことが出来ると期待したとしても不思議ではない。 太鼓を打ち鳴らして攻め寄せる典厩だったが、信長は敵主力の登場にも 「御人数一首も御出だしなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈」 自軍主力を一手も出さず銃撃だけで応対している。そして、 「ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり」 と記された部分は重要である。 銃撃して、ねり倒し、人数を討たせ、までは良い。「引き入る」というのは、「入る」つまり、自陣に引き上げたと読めるのである。 武田勢の撤退は「引き退く」という表現で統一されており、四番手の部分のみが異なっている。「引き入る」の主語が欠けているが、「御人数……」から続く文言の主語は、「信長は」と読むのが自然である。「ねり倒され」というのは敬語表現で受動態ではない。 もし、吾輩が読んだとおりならば、鉄炮足軽が「見へざる様に」造られた陣地に「身がくし」していたとされるここまでの記述や、一手も出撃させていないとする記述と、一見して矛盾を感じさせるのである。 つまり、鉄炮の三段撃ちで間断なく銃撃を続けたとする通説からすると、織田勢が「引き入る」状況など想像も出来ないが、この四文字からすれば、実は鉄炮だけでは応対しきれなかった状況が浮かんでくるのである。 御覧のとおり、信長公記には鉄炮を三段に並べたとする記述はない。ただ陣地を「段々に」造ったことがわかるだけである。 吾輩思うに、長篠合戦は通説ほどに革新的な戦術を駆使したものではない。鉄炮で敵兵力を漸減、長槍で阻止し、近接戦闘でとどめを刺すというのは、従来の戦術常識のとおりである。ただ、信長は追撃を許さなかった。野戦では絶対無敵を誇る武田勢が相手であり、よほど用心したに違いない。追撃して深追いすれば、手痛い反撃を喰らって形勢逆転ということもままある。 こうして四番手を撃退した信長は、やはり追撃を命じることをしなかった。そして、五番手に出てきた馬場信春は武田勢の総予備、本来であれば四番手までが突破した地点に投入して戦果を拡大するための存在であったろうが、背に腹は代えられない。これもまた、織田勢は「右同断に」撃退した。 そして追撃戦で多くの敵首をあげたというのである。まさに完璧な勝利と言いたいらしい。しかし、 「御身方恙く強敵を破損せらるる」 と、太田は記しているが、そのまま鵜呑みにはしがたい。たしかに織田勢幹部は一人も戦死していないが、足軽雑兵までが「恙く」では済むまいし、組頭など下級の武士には戦死者も出たことと思う。名のある者は死なせずに勝利を得たという程度のことを誇大な表現で記したのではあるまいか。 ここまでで信長公記の分析を終えることとするが、全体の印象としては、信長を過大評価しているのではないかと感じられる。これは姉川合戦の記述にも感じられることで、十三段の陣を十二段まで破られた絶体絶命の危機を記していないのである。信長公記とは、あくまで信長を顕彰するための記録にすぎないことが、ここでもわかる。 長篠日記に見る合戦の様相 前述のとおり、長篠日記は長篠合戦そのものを主題にした古記録であり、合戦の様子も信長公記よりも具体的に描かれている。 その全文を本誌に掲載することは、分量的にも無理があるので、前掲した信長公記と内容が異なる部分を拾って読んでいくことにする。 まず、鉄炮三段撃ちについて、この長篠日記には、それらしい記述がある。 二十一日の決戦直前、信長が本陣を川尻秀隆に任せ、みずから前線諸隊を馬で駆け回って細かい指示を出したとされる部分には、以下のような信長の命令が記されている。 「敵、馬ヲ入来バ、一町迄モ打ベカラズ。間近ク引請テ、千挺宛放懸、一段宛立替打ツベシ」 千挺ずつ撃て、一段ずつ交替しろというのであるから、まさしく三段撃ちである。しかし、三回銃撃する間に、一段目が弾込めを終わるというのは、どうやら読み過ぎのようである。続く文言は、 「敵猶モ強ク馬ヲ入来ラバ、少引退、敵引バ、引付テ放サセヨ」 それでも武田勢が強襲してきたなら、一時後退し、敵が引いて行くなら逆に引き付けて銃撃しろというのである。 三段撃ちをもってしても、一方的な優勢は保ち得ないと考えていたことがわかる。名和氏の三段撃ち再現実験で、体力的に三段撃ちの動作を続けることなど不可能という結果が出た。吾輩もまた、信長が同盟諸国に頼んで借りてきた寄せ集めの鉄炮足軽が、雑賀衆と同様な発射頻度を発揮したとは思われないのである。弾込めが追いつかず、前線でもたもたしていれば、それこそ武田勢の好餌となってしまう。無理をせずにさがれという命令はもっともなことである。 このように細かい指示を出してから、信長は、 「柵際ヨリ十町斗乗出給ヒ、軍中ヘ大筒ヲ放懸サセ給エバ、色メキ立テ見エタリ」 柵外へ一キロほど前進、「大筒」を撃たせた。武田勢を挑発したのである。そして武田勢は色めき立った。 「武田勢ワ、押太鼓ヲ打テ掛リ、大筒ニ不可構迚、無二無三ニ、佐久間ガ手エ駈入、鯨波ヲドツト上ル」 太鼓を打って、大筒に構うなと言いながら、佐久間隊に殺到し、叫び声をあげた。 ここで設楽原の地形について触れておきたい。設楽原は水田が少なく畑が多い。それだけに川沿いの低湿地には水田を作っていたに違いない。そこが両軍決戦の場となった。決戦の当日はグレゴリオ暦では七月九日にあたり、梅雨明け前である。田植えを終わった水田には水が張られていたであろう。泥田に踏み入れなかったとするなら、細い畦道を進むしかない。どうしても兵力は逐次投入ということになる。 そして、このような地形を考えると信長が撃たせた「大筒」というものは砲車に乗せた大型の物ではない。腕に抱えて撃つ「大鉄炮」の類であろう。 武田勢の先陣は馬場美濃守で、信長公記では最後に敵陣へ突入したことになっているが、とりあえず先を読んでみたい。 「馬場美濃守ハ、七百之人数ヲ以、佐久間右衛門尉六千ノ人数ヲ柵ノ内ヘ追込、四十三人内侍四騎討取」 さすがに武田勢は強い。七百という小勢で六千の佐久間隊を背走させて、柵の中へ追い込んだ。 同時に武田勢左翼では山県昌景隊が織田勢右翼の家康隊に攻撃を開始した。 「山県三郎兵衛ワ、千五百ノ人数ヲ以、岡崎衆、六千ノ人数ヲ柵ノ内ヘ追込。然処、浜松方、五百挺ノ鉄炮足軽トモ渡合、爰ヲ先途ト入替リ々放懸ル」 最初に銃撃されたのは、山県隊だということらしい。ということは、馬場美濃守は、佐久間隊を背走させたが、柵際まで追わなかったのではないか。だとするならば、おそらく本陣に居たであろう太田牛一から見た敵の一番手というのは、山県隊であったとしても別に不思議ではない。 「山県ワ、柵ヲ不付川路ノ方ヘ乗廻シ、後ヨリ懸ントスル」 山県隊は柵を迂回して陣地の背後を攻撃しようとしている。敵陣地突入の一番乗りは、やはり山県隊と見るべきである。 しかし山県隊の突入は、大久保忠世、忠佐兄弟の手勢に阻止されて、山県は鞍の前輪を鉄炮に打ち抜かれて戦死、山県隊は撤退する。 次に武田勢が投入する部隊は、信長公記では武田信廉だが、長篠日記では西上野の小幡衆である。 信長公記の記述を見ても、信廉隊の動きは消極的であったので、攻勢とは見なしていないのではないか。 「西上野の小幡、クツバミナラベ、太刀ヲ真甲ニ差カザシ、爰ヲ先途ト相戦フ」 細い畦道づたいに兵力を迅速に投入する方法は、騎乗突撃である。鉄炮、弓、長槍、騎馬武者に対抗する手段が豊富に存在した当時、無謀とも言える強攻策であったに違いない。 「米倉丹後、柵ヲ引破ント相働。三州衆、内藤弥次右衛門・同三左衛門・森川金右衛門、間近曳付、鉄炮ヲ放掛シカバ、甲州勢、打立ラレテ引退」 戦術常識から、柵際で小幡衆は馬をおりたろう。そして柵を破ろうとして銃撃され、損害に耐えきれず撤退。 この第二波攻撃には典厩も混じっていたのであろう。長篠日記ではこの後馬場信春による第三波攻撃に筆が移る。 「馬場美濃守ハ、如何ニモ静々ト来ル。其気色一足モ不引、勝負ヲ決セント、思ヒ入テ来ル体ニテ、手勢七百騎ヲ二手ニ分、新手ニテ、佐久間ガ旗ヲ立タル所ヘ懸リ、柵ノ内エ追込」 馬場隊は「静々ト」進んだというが、強襲突撃ではなく、竹束を並べながら慎重に前進したのであろう。叫び声をあげながら突っ込んで来るのとはまた異なった迫力があったろう。七百騎を二手に分けて進み、佐久間隊を柵内へ追い込んだ。 「長篠方、惣鉄炮ヲ一度ニ放掛ル故、先ニ進タル者ワ、是ニ中リテ討死ス」 織田勢の一斉射撃で、馬場隊の先頭部隊は壊滅した。 「真田源太左衛門・同兵部ワ、馬場美濃守ト入替リ、柵ヲ一重破リ、兄弟トモ深手ヲ負、討死也」 真田信綱・昌輝兄弟が馬場隊と交替して柵を破ったが、二人とも戦死。 「信長公ワ、佐久間ガ手弱ク見エタリ。横鑓ヲ入ヨト仰付ラレ、滝川ト羽柴筑前守ト、一度ニ宮脇原エ突懸ル。甲州勢敗軍ス」 信長は、佐久間隊が危ういと見て、馬場隊に横槍を入れさせた。たまらず武田勢は崩れ立った。 すでに勝敗は決まった。長篠日記は、追撃を躊躇する信長を周囲が説得し、武田勢を完膚無きまでに叩きのめした追撃戦の記述に移るが、ここでは省略する。 戦果については、織田勢が得た首級七千に対し、織田勢の戦死者は六千と記されている。 首になるのは名のある者だけであり、雑兵は数に入らない。そう考えると、七千の中には雑兵の首を細工して侍に見せかけた偽物がだいぶあるだろう。織田勢の戦死者六千は、雑兵も含めた数であると思われる。 それにしても、戦死者六千とは驚愕すべき数字である。 「御身方恙く」 とする信長公記と大きく食い違った部分である。三万のうち六千が戦死ということは、人員の二割を失っており、いつ士気崩壊が起きてもおかしくない状況であったろう。 それが事実とすれば、信長の勝利は完全勝利ではなく辛勝である。自軍の士気が崩壊する前に、ようやく敵側が息切れしただけである。家康支配地に暮らした原著者、阿部四郎という人が、どちらかといえば織田方の視点で記述した長篠日記であるだけに、わざわざ織田勢の損害を誇張する必要はない。数の正確さはともかく、織田勢からも少なからざる戦死者が出たに違いない。 織田勢勝利の真相 信長公記を読んだだけでは、まるで武田勢は馬鹿である。鳶の巣山にいて動かずにいれば良いものを、愚かにも設楽原へ陣を張り、四度、五度と同じやり方で無理攻めを続ける愚を犯したということになる。だが、長篠日記に現れる武田勢は、けして馬鹿ではない。 先陣の馬場隊は、佐久間隊を柵内へ追い込んだが深追いせず、銃撃されることなく引き上げた。 山県隊は、柵を迂回して背面攻撃を企図した。むやみに柵にとりついて、自殺的な強襲をしたわけではない。 通常の手段では銃撃によって損害が増えると見た小幡衆は、騎乗突撃して迅速に柵際へ迫った。 騎乗突撃も危険であることを知った馬場隊は、「静々ト」慎重に進んだ。そして真田隊によって、一時的にせよ柵を破ったのである。 信長公記によれば合戦は日の出から未の刻まで、単純計算では八時間だが、夏至に近い時期であることを考えれば九時間ほど激戦が続いた。 日の出から日の入りまで六等分して一刻とするので、厳密に言うなら毎日一刻の長さは異なるのである。当然、夏至に近ければ昼間の一刻は二時間を超える。 激闘九時間、織田勢の死者は六千に達した。精強さを比較すれば、織田勢など武田勢と比べるのもおこがましいほど弱い。二割も戦死者を出しながらよく戦い続けたものである。 弱い織田勢の士気崩壊をくい止めたのは、柵の存在であろう。長篠日記を見れば、織田勢はたびたび柵内に追い込まれている。しかし、柵があるゆえ踏みとどまって戦ったのではないか。もし、柵がなければ「かかればのき」という予定の退却が、潰乱敗走になるかもしれない。姉川の戦いで十三段の陣を十二段まで破られたとき、信長は敗走の連鎖反応を止められなかった。家康に横槍を入れてもらって救われたものの、織田勢の弱さは厭でも信長の脳裏に焼き付いたろう。だから敗兵を収容する明確な線として柵を造った。つまり、柵は武田勢の突撃ばかりではなく、織田勢の士気崩壊を食い止めるためにも存在したのではないか。 前述したように、吾輩は長篠合戦にさほど革新的な意味を感じていない。鉄炮三千挺にしても総員三万に対して一割でしかない。名和氏の研究では、武田勢も総員一万五千に対して鉄炮は千五百と、比率において同等である。総人員の一割が鉄炮を持つというのは、相場であろう。三千挺を集中的に運用した火力重視こそ評価されるべきかもしれないが、実は、これも信長の考案とは言い難い。 長篠合戦より五年も前に、雑賀衆は織田勢に対して「鉄炮三千挺……誠に日夜天地も響くばかりに」撃ったと、信長公記にある。信長は石山本願寺をめぐる戦いで鉄炮の威力をあらためて認識したに違いない。補助兵器としてばかりでなく、運用の方法しだいでは決戦兵器になり得ると思いついたのは、雑賀衆を相手にしたからではないか。結局、石山本願寺を攻め取ることなど信長にはできなかった。それならば、自分を苦しめた鉄炮三千挺の集中射撃という戦術を、武田勢に試してやろうといったぐらいが真相ではないか。 名和氏は、信長が宣教師から聞いた西洋の戦訓を取り入れたものと大胆な推理をしておられるが、吾輩はそれに同意するものではない。言って置くが、確証がないのは吾輩も名和氏も同様で、どちらが正しいかは読者諸賢の判断に委ねることにする。 長篠日記の信憑性 長篠日記は、その成立からして実にあやしげな史料ではある。そのことは前にも述べたとおりであるが、合戦を記した内容は、むしろ信長公記よりも納得がいく表現になっている。 「武田勢は馬鹿だから設楽原に陣取り、馬鹿だから突撃を繰り返し、とうとう全滅しました。味方は全員無事です」 と主張する信長公記に対して、 「武田勢は、あの手この手で攻め寄せましたし、味方もずいぶん損害を受けましたが、どうにか勝ちました」 とする長篠日記のほうが、信ずべき内容ではないか。勝てると思えばこそ武田勢は攻め寄せたのであると考えた方が、自殺説より合理的である。 また、戦国時代においては、主君が無茶な命令を出したところで、家臣は従わない。武田氏の家臣団は、主君を追放したことさえあった。江戸時代に儒教に毒された日本人は、そのような気概を失った。社長が命令したことに従わない部長が今の日本にいるはずもないが、戦国時代の武田氏では主君を追放したのである。そういう家臣団が、勝頼様には逆らえませんと言って自殺するなど、とうてい考えられない。 武田勢の重臣たちには、それぞれの思惑もあったろうが、信長に勝てると思えばこそ設楽原に陣取り、あらゆる方法で攻撃を繰り返したのであろう。そのように長篠日記からは読みとれるのである。 ただし、長篠日記において致命的なことは、長坂長閑を含む武田勢軍議の様子を描く部分が、甲陽軍鑑と同一の内容であることである。肝心の合戦の場面も甲陽軍鑑とよく似ている。 しかし、前にも述べたように、筆写するうちに書き足した部分もあろう。逆に甲陽軍鑑が偽書で(現に偽書だと言われている)長篠日記を参考にして長篠合戦の様子を書いたとも考えられ、なーんだ、偽物かと断じてしまうのは早計である。 小瀬甫庵「太閤記」の巻十八、竹中半兵衛の項に、長篠合戦で、秀吉隊の側面から一時撤退する武田勢について書かれた部分があり、それはどうやら佐久間隊を柵内へ追い込んだ馬場隊のことらしい。馬場隊の一時撤退は信長公記には見られないので、長篠日記や甲陽軍鑑に書かれた内容が少なくとも部分的には正しいことを感じさせる。 長篠合戦は接戦であったこと、また、さほど革新的な意味は持たないこと、武田勢の自滅説は信じ難いことなどを吾輩は長篠日記を読んで確信した。 |
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