C I A の謀略 第6章「反撃」
磯崎正太郎は朝のワイドショーなるものを、あまり真剣に見ることがない。自宅近くに仕事場を借り、自分のペースで仕事を進めるので、定時の出勤というものがない。そのため、起床時間が遅くなりがちで、ワイドショーの時間帯が朝のアイドリング時間と重なるからだ。
洗面の途中であることもあれば、まだ寝ぼけ状態の頭を引きずっていることもある。
それに、すっきりしたら、まずかじりつくのはその日の新聞である。これに目を通さぬ限り、一日が始まらない。
もっとも、この日(一九九五年一〇月二二日)は少しちがった。昨晩の深夜ニュースで橋本通産相がカンター通商代表に「不快」を表明した、と簡単に報道されたのだが、その詳報が取り上げられるかもしれないと思ったからだ。
なにしろCIAが通産省を盗聴していた、という重大事件だ。簡単な「不快表明」だけでは収まらない、具体的な要求がなにかきっとあったはずだと思うのは当然のことだろう。
「アメリカ軍基地の七〇パーセントが沖縄に集中しているという事実は、いくら沖縄が東アジアで戦略的に重要な位置にあることを勘案しても、異様というほかはありませんね。沖縄県民の怒りはよく理解できます。もっと日本全体が防衛を分担するという意識を持たなければいけません。
と同時に、少女の痛ましい事件が二度と再発することのないよう、早急に手を打つ必要がありますが、地位協定の見直しともなると実現までに相当な時間がかかると思います。より現実的な対策が必要なのではないでしょうか」
昨日、沖縄の宜野湾市で開かれた、沖縄県民総決起大会の映像が流れる前で、篠山啓志がニュース解説をしている。
「篠山め、結局は、防衛分担という名の基地移転でお茶を濁そうというわけか」
憤りを覚えるのだが、まだ眠気が抜けない。磯崎はあくびをかみ殺しながら、次のニュースを待った。しかしいっこうに四極通商閣僚会議に関するイギリスからの外電が取り上げられる様子はない。やむなく、いつものように朝刊を手に取った。
するとそのとき、ハンガーに吊るし、鴨居にかけたままの上着のポケットで、携帯電話が鳴った。
「堀田だろうか、それとも水越」
「不快表明」のニュースを聞いた後、どちらも磯崎から電話しようかと思っていた相手だ。
「やあ、磯崎さん、水越です。まったく、何とも情けない限りで。どうやらあの『大変不愉快だ』という表明だけでおしまいのようですよ。省内にも、これ以上追及しようとする声はほとんどない」
「本当ですか。予想はしていたが、それでもひどいですね」
「やっぱり内部から何かをするのは無理なようです。磯崎さんのようなひとに動いてもらわないと」
「いやいや、わたしにできることなんてなにもありませんよ。でも、何かしなければ、と、考えていたのは事実です」
「そうですか、そいつはありがたい」
「堀田に相談してみます」
「ぜひお願いします、助かります。では、ぼくのほうで中川には連絡を入れておきますので、近いうちに打ち合わせでもやれたら」
「わかりました。ところで水越さんに電話してもご迷惑ではないのですか」
「そうですね。まずいことが出てくることがあるかもしれません。とりあえず中川を連絡役にしておきましょう。細かいことは追ってまた」
携帯を常用していない磯崎は、いつもの習い性で、通話が終るととりあえず一端電源を切ってしまう。それから慌てて再度通電するのである。このときも、堀田に電話するため、慌てて電源を入れなおした。するとタイミングよく、その瞬間に電話がかかってきた。堀田からである。
「おい、聞いたかい、あきれたもんだ。CIAによる盗聴が明らかになったとき、政府は何も動こうとしなかった。マスコミにせっつかれるかたちで野坂(官房長官)(浩賢)がしぶしぶ『外交ルートで事実関係を照会する』と国会答弁しただけだ。そんな照会にアメリカが答えるわけがない」
「一応事実なら捜査機関が対応する、と言ってますがね。野党の国会質問も形式的なら、政府答弁も形式的。馴れ合いで、怒りの影もなかった」
「昨日の橋本の抗議もそうだったようだ。春田の話では、通産の担当記者からの又聞きだが、橋本はそもそもこの件で抗議するつもりはなかったそうだ。ところが、外国の記者から質問を浴びて、抗議するほかなくなった」
「フランスを始め、ヨーロッパではCIAの活動に対する評価は厳しいですからね。当然、日本も何らかの報復を考えているんだろう、それを聞きたい、という質問だったんでしょうね」
「日本もCIAの諜報活動に対する厳しい対応を見せなければ、国際社会で通用しなくなるだろう。主権国家とはとてもいえない」
「それこそ、大沢の言う『ふつうの国』ですね」
「ほんとうに、なぜあいつらがこういうときに鳴かず飛ばずなのかが不思議でならない。本当なら先頭に立つべきだろうに」
「彼らの正体がはっきりした、ということでしょう。それだけです」
「そうだな。あいつらは結局、兄貴がぶら下げている腰の拳銃を欲しがって、駄々をこねているにすぎないわけだ。兄貴はどこまでもカッコよく、自分も拳銃を下げれば兄貴みたいになれると錯覚している」
「だから兄貴を悪くは言わない」
「言えない」
「これから時間、ありますか。携帯電話だからといって安心はできない。あなたと私のどちらかがマークされているとすれば、スクランブルがかけてあっても一瞬で解読されるようですから」
「その通りだな。これから例のところで落ち合うとしよう」
磯崎と堀田は、また代々木にある喫茶店で落ち合った。フロアが広く、照明が自然光に近いため、奥が暗い店である。
「これはアメリカの情報専門誌『マザー・ジョーンズ』の九五年五、六月号だ。かいつまんで言うとこういうことだ。ほら、この前の水島研究室での通産省の水越の発言を覚えているだろう。クリントンが産官共同で燃料効率の高い自動車の開発をしているという、あの話さ」
堀田が雑誌を示しながら解説する。
「PNGVプロジェクトですね」
「そう、それだ。そのプロジェクトに関連してCIAが日本の自動車メーカーが開発中の燃料電池(電気自動車用バッテリー)の非公開技術を密かに入手し、ビッグ3(米自動車三大メーカー)に、提供した、というんだ」
「完全なスパイ行為ですね」
「そう。しかもこの記事によれば、CIAのエドワード・ラトラック顧問が『CIAは日本国内で産業スパイをしている』と認めているそうだ。このPNGVプロジェクトでも京セラが標的に上げられている」
「さて、そこまでいわれた日本はなにをすべきか、ですね」
「そう、そいつが問題だ。この二月にフランスが一人のNOCを含む五人のCIA要員をスパイ容疑で追放した。日本でも、ああした措置ができればいいのだが」
「あれは変な事件でしたね」
「カネと色、いかにもスパイ事件という感じがしたな」
フランスの『ル・モンド』紙によれば、CIAはフランス政府の通信分野の情報を入手するため、パラデュール首相の若い側近に狙いを定め、環境団体の広報担当という非公式カバーを纏った女スパイがパーティーの席で側近に言い寄り、何度かの逢瀬を重ねた後、寝物語に「外交や経済の情報を提供してくれたら一回5000フランを支払う」と持ちかけた。
これを察知したフランスの諜報員が「あの女はCIAのスパイだぞ」と告げた上で「そのまま関係を続けてくれるよう」要請。二重スパイとなった側近がCIAの活動を報告したために、五人の容疑が固まった、というのだ。
「追放するには容疑を特定する捜査能力、追放できる法的権限、アメリカに対して実行できる政治力、この三つが必要になるでしょうが、どう考えても日本にはその一つもありません。フランスのような対抗措置は取れない、ということになりますね」
「つまり、それを作ろう、という声が出るだろう」
「『スパイ防止法』ですね」
「まあ、そういうことだろうが、あれはだめだ。スパイ防止法は確か、一九八五年、中曽根内閣時代に民自党の右派宗教団体に近いタカ派が議員立法として打ち出したもので、ソ連や中国のスパイ活動の防止を名目に、左翼や市民団体の行動を監視しようとしたもの。
冷戦構造を前提としているのでCIAに対する監視の必要性についての配慮がない。というよりむしろCIAの諜報活動を手助けするための法案だ」
「結局、市民団体の反対で、廃案になったものですね。やはり、どこがどんな手段で防止するのかを明確にしないと、やたらに警察の捜査権限ばかりが肥大化してしまう」
磯崎が心配するのは、捜査権限の肥大化が人権を圧迫する可能性である。政府が国民をスパイする、というのでは、何のためのスパイ防止なのかがわからなくなる。この点については堀田も同感で、以心伝心、細かな説明をしなくても問題点が伝わるのだ。堀田は間髪を入れずに反応した。
「要はそうならないようにするにはどうしたらいいのかだ」
「ひょっとしたら、水越さんたちはそうした問題意識もないままに、防止法を作ろうというんじゃないでしょうか」
「あるいは、日本版CIAをつくろう、とかな」
「それも危険ですね。世界と対峙できる政治力がないままに、捜査力や追放権限を手にしても、報復合戦でめった打ちに会うのは目に見えている。そうなると、そのストレスを国内の政敵に向ける恐れが出てきます」
「組織は一度作ると、何かの名目を見つけては自己増殖するものだからな。そうなると始めに対象を海外の諜報活動に限っても、いつのまにかそれを越えてしまう」
「その自己増殖を阻止する仕組みを同時に作らないといけないわけですね。まあ、しかし、スパイ活動に対する何かの対抗措置が必要なことは明らかです」
「とにかくまず、水越や中川、春田がどう考えているのか、その辺を聞いてみるほかはあるまい」
広々とした空き地の真中を舗装した道路が走る。クルマがかろうじてすれ違えるほどの道路の両側に、アカシヤの樹が立ち並び、遠近画法の絵のように一点に向かって収斂していく。
東京にもまだこれだけの土地があったのだ、と思う。その先に、柱が太く、窓の小さいくすんだ色の大きなビルが、どっしりと建っている。水島経済政策研究室の入っている、帝大経済研究棟だ。
今日の水島研究室の付属会議室はすっかり片づけができていて、未整理の資料の山も姿を消している。しかし、参加者が多いため、会議室はずっと狭く感じられる。
予定の午後三時を少し回ったころ、前橋経済大学助教授となった溝口幸一の司会で、水島邦彦帝都大学教授が立ち上がり、短い挨拶をした。政府の審議会を掛け持ちする白髪の好々爺だが、ネクタイの趣味のせいか、姿勢がいいためか、実際の年よりはかなり若く見える。
が、磯崎はこの会議の雰囲気に早くも違和感を覚えた。いつもの例会とは別にセットされた会議であることは明らかで、磯崎や堀田が発足させようとするものとはズレていた。
案の定、席上に配られた進行表には「違法諜報活動阻止機関研究準備会」というタイトルが打たれていた。磯崎は、学者や役人が得意とするこうしたカッチリした会議は苦手なのである。と同時に、もうすでにこのタイトルで案内が送られ、タイトルが一人歩きを始めている。「それで大丈夫なのかな」という思いがかすめるのである。
もっとも、進行表の最初には「現状の分析」とあり、通産の水越亨が報告をすべきだったが、大蔵の中川伸一が水越の言葉を途中で引き取って、緊急報告をするところを見ると、あまりカッチリと組み立てられた会議ではなさそうだった。タイトルの一人歩きも磯崎の思い過ごしかもしれない。
「容赦ない、ということなのでしょう。戦争なのだから仕方ない。戦争なのだという認識がなかった私たちが甘かったのです」
一九九五年九月二六日大和銀行のニューヨーク支店で米国債の帳簿外投資を長年続けて失敗し、穴埋めに証券を無断売却した日本人行員(井口俊英)が逮捕された。この金融取引はコンピュータによるもので、行動はFBIにもCIAにも完全に把握されていた。
ところが、大和銀行も、報告を受けた大蔵省も十一億ドルにのぼる巨額損失をアメリカ金融当局に報告せず、カリブ海のケイマン諸島にあるトンネル会社に損失を移転して隠蔽を図ろうとした。が、それが不可能と見るや、頭取が辞任、会長も身を引き、大蔵省はといえば大和銀行に対する業務改善命令を出すことで、体面をとりつくろった(一〇月九日)。
しかし、米連邦準備制度理事会(FRB)などのアメリカ銀行監督当局は納得せず、大和銀行のアメリカ追放を決定し、九〇日以内の業務撤退を命令した。
営業停止ではなく、追放というのは異例な措置で、大和の信用失墜のみならず、大蔵省の国際的な信用失墜、日本の金融界全体の信用失墜につながる事件になった。
「CIAは金融情報をも掌握し、アメリカの利益になるよう、効果的にリークする。今回の事件でこのことが明らかになりました。つまり、事件は今後も繰り返す、ということです。アメリカは次々に日本の金融システムに挑戦してくるにちがいありません」
中川の説明に対して、長い髪を後ろで束ね、化粧はないが、はつらつとしたイメージを持つ図書館司書嬢が質問する。杉井美紗である。
「すみません。いまの話、よくわかりませんでした。結局、日本の金融界の情報公開、ディスクロージャーが進んでいないということなんでしょう。隠蔽体質を捨てるほうが先だと思いますが」
「それはそうです。それはそうなんですが、日本の金融界の不正に対してはFBI、CIAはもちろん証券取引委員会(SEC)、財務省関税局など四万八千人の調査員が一年もかけて調査したものだ、といいます。こんな大きな損失ではないにしろ、何か出てきますよ。叩いてほこりが出ないという世界ではないですからね。要するに、日本のシステムが狙い撃ちされている。システムの改善が追いつくペースではないんです」
「でも、やっぱり隠蔽はだめよ。叩かれても仕方がないわ」
「ちょっと話がずれてやしませんか」
水越が慌てている。以前にも見かけた厚生省の男、大貫隆一が立ち上がった。
「中川さん、言わんとすることはわかりますが、いまは逆風が吹いている。二信組に加えてコスモ信組、兵庫銀行の経営破綻。問題は大和だけじゃないのだから、理解はされませんよ。金融問題に関してはここしばらく、石抱きの刑に黙って耐えるしかないんじゃないですかな」
「それはそうかもしれませんが、これだけはいっておきます。クリントン政権になってから諜報の主軸は国防から経済に移りました。これは政権の性格が変わったことによります。クリントンが新設した経済安全保障会議(NEC)は従来の国家安全保障会議(NSC)をしのぐ政権の中心組織になりましたが、今度の自動車交渉でも、ここが交渉の主体になっていました。
この構想の下、CIAにも経済諜報を中心とする第五局が編成され、昨年はFBI、国防総省のスタッフを集めて『国家防諜センター(NACIC)』を発足させています。また、CIAの関連組織である国家情報会議(NIC)スタッフに国際金融のエキスパート、ロバート・フォーバー財務省顧問が起用されている。
一方、FBIも米国内の防諜活動を担当する専門部署を開設したし、来年にはスパイ取締法の改正強化を狙っています。また、昨年の九月には対外諜報監視法が改正され、スパイ活動の容疑がかけられた者は令状なしで監視・盗聴されるばかりではなく、自宅・事務所の家宅捜索までできるようになっています。これには人権上、批判が強いんですけどね。
つまり、私たちが手をこまぬいている間にも、アメリカは着々と経済スパイ活動と、経済スパイ活動の防止に力を入れているんだということです。いま、こんなにひどい、ということは、これからもっとひどくなる、ということを意味しているのです」
ここでマイクが再び水越に戻った。
「この一〇月、商務長官が『海外の公共事業入札で米国企業と競合する外国企業がどんな不当手段を用いているか』と題する秘密文書を議会に提出しています。
CIAに詳しいジーャナリストの矢部武氏によれば、これには『外国企業一〇〇社が賄賂などの不正手段で海外の公共事業を獲得し、その総額は450億ドルに達する』とあったそうです。
CIAはこれらの不正行為を国務省に報告。国務省が外交ルートを使ってその企業、もしくは、発注政府に抗議し、アメリカ企業の受注を有利に導く、というわけです。
ある意味では、贈収賄を監視する国際警察なんですが、アメリカ企業は対象外だし、違法性の基準は独断と偏見。アメリカ企業が政府と結んで、食糧援助やODA、先端兵器の輸出などを賄賂代わりに使っていることには知らん顔なんだから頭にきます。
ともあれCIAの支援で海外の公共事業にありついた総額は数年間で300億ドルにのぼるといいます。たとえばCIAが不正を暴いたことで、フランスに行きかけていた総額60億ドルのエジプトの航空プロジェクトが、アメリカのマクドネル・ダグラス社とボーイング社の共同チームの手に落ちています」
「その国家防諜センターについて、もう少し詳しくご説明ください」
「はい。これは九四年五月に発足したスパイ防止組織で、アメリカ国内で活動する外国の情報機関や産業スパイからアメリカ企業を守ることを目的にしています。
スタッフはFBI、CIA、NSA(国家安全保障局)、DIA(国防情報局)などのカウンター・エスピオナージ、すなわち防諜専門家で、事務局はCIAにあります。
主な活動は防諜そのものですが、アメリカ企業からの防諜対策についての相談に応じたり、社員の防諜意識向上のための教育やトレーニングをも引き受けています」
「企業のほうの評判といいますか。本当にそういうことを必要としているのでしょうか」
「教育トレーニングについて言えば、このサービスは今年の始め、NACIC(国家防諜センター)が実施した全米の主要企業1400社に対するアンケートの結果、要望が強かったために始めたものです。必要としている企業がかなりある、ということでしょう」
「日本の企業はどうなんでしょうか」
「盗聴対象として名指しされた京セラにしてもトヨタにしても、事実調査をしたが盗聴された気配はない、とし、社内体制は万全、といっています。
こうした楽天性は政府もおなじで、私ども通産省の機械情報産業局情報処理振興課には企業のコンピュータ・システムに侵入され、何者かに資料が改ざんされた事件だけでも月に一〇〇〜二〇〇件の報告が上がってきます。
防諜意識の甘さを示す数字なんですが、それでも省としては『情報収集はアメリカばかりでなく、すれすれのところで各国がやっていること。おのおのの企業が自己防衛していくしかない』というだけです。
なにしろ対外的に最大の機密事項を抱える外務省でさえ、窓ガラスを防諜用にしたのは新庁舎になった今年から。昨年までは筒抜けだったわけです。かく言う通産省だってお寒い限り。重要な電話はホテルからではなく公衆電話を使え、なんて、その程度のことではとても防諜対策などとはいえませんよ」
中川にしても水越にしても、短期間のうちにすっかりCAI研究家になってしまっている。相当いろんなものを読み漁ったのだろう。その学習意欲には舌を巻く。
「初歩的な質問ですみませんが、NSAとかDIAというのはどんな組織なんでしょうか」
「アメリカの諜報機関は数が多くて複雑なんです。次回までには一覧表にしておきます。簡単に言いますと、CIA長官をヘッドとする情報コミュニティーというのがあり、これは主だった一三の諜報機関から構成されています。CIAもFBIもNSAもDIAも、すべてがその構成メンバーです。
CIAは独立機関ですが、FBIは司法省、NSAとDIAは国防省に所属しています。国防省には陸・海・空それぞれの軍事諜報機関がありますが、これらの機関を束ね、国防省としての姿勢を代表するのがDIA。三軍とは独立し、暗号解読専門に設立されたのがNSAです。
NSAの前身は日本軍の暗号解読にも活躍した古い諜報機関で、潜水艦のスクリュー音などを含むあらゆる信号(シグナル)を傍受することを任務としています。
これをシグナル・インテリジェント、略してシギントと呼んでいますが、電話、コンピュータ、衛星通信など、通信技術が発達した現代、NSAの任務は巨大化しており、予算はCIAの数倍、人員でもCIAを上回るアメリカ最大の諜報機関に成長しています。
任務の重大性もあって、予算や人員構成はCIA同様、秘密になっていて、国防総省の管理下にありますが、実際の運営は国防総省と中央情報局(CIA)の協議で遂行されます。
独自の衛星を所有するほか、世界各地に二〇〇〇の通信基地を持っており、日本でも三沢や沖縄の『像の檻』と呼ばれる短波基地はNSAのものだといわれています」
「公表はされていないんでしょうが、予算とか人員はどの程度だと予想されているんでしょうか」
「CIAの人員は二万人弱。予算は三千億円。情報コミュニティー全体で二〇数万人、年間予算は三兆円と推定されています」
その数字の大きさに、誰もが息をのみ、会場が一瞬静まり返った。各自が頭の中で、いろいろなものと比較している。磯崎も日本の国家予算と比較して、アメリカの諜報シフトと張り合うのが現実的ではないことを、あらためて確信した。
「一応、アメリカの対日諜報戦略の現状がご理解いただけたことと存じます。それを踏まえ、次はわれわれに何が可能なのか、何をすべきなのか、これを話し合いたいと思います」
司会は再び溝口助教授である。口火を切ったのは堀田であった。
「まず、できないこと、やるべきでないことははっきりしています。われわれにはCIAのような謀略や工作は不可能です。平和ボケ、という言葉が象徴するように、まずはそのような素地がない。身構えとか意識とかいうものは短期的に形成するわけにはいきません。
また、工作を要するような積極的な対象が見当たりませんし、工作の見返りが期待できない以上、予算にも限りがあります」
アメリカのあまりに巨額な予算規模を前にして、参加者一同が言葉を失った直後なので、堀田の言葉には説得力があった。たちまち、大きな方向が決まったといえる。
「ここでの討議をもっぱら防諜すなわち日本における違法な諜報活動の阻止に絞ろう、というのが堀田さんのご意見のようですが、そう理解してよろしいですか」
堀田がうなづく。
「ご異議がなければその線で議論を進めたいと思いますが、いかがでしょうか」
「意義はありません。が、やっぱりフランスとまでは言いませんが、諜報活動に不正手段を用いたり、謀略工作を行った者は国外退去させるぐらいの実効性あるものにしたいですな」
「いや、それも難しいと思いますね。法整備はできたとしても、諜報活動の捜査には相当の人材が必要だし、追放には国としての手腕や度量も必要になる。堀田さんではないけれど、それが今の日本にあるとは思えません」
「いまはないにしても、それを目指して鍛えていかなければならない」
「いいえ、もっと基本的なことから始めたほうがいいと思うわ。たとえば外国研究、地域研究。防諜活動なんて、それからだわ」
「いや、それだけなら外務省もジェトロもやっている。そんなもの、創るといったら、おれたちの研究では不足だというのか。だったら人をよこせ、カネをよこせ、といい出すに違いない」
「いいえ、外務省やジェトロの情報は有機的に結合されているとはいえません。その他に総合商社の海外情報なども集めて、分析し、提供する、そんな機関はまだないでしょう。それだけでもベンチャー企業なんか ずいぶん助かるわ」
「さっき話しに出たNACIC、国家防諜センターですか。あれなんかも参考になると思いますけれど」
「いやいや、このようにランブルに話していても埒があかない。ひとつ整理をしてみませんか。まずは、今日本が何をやっているかを把握すること。ついで、それを越える目標を何か立て、その何かをするには何が足りないかを炙り出し、それを補うものを法制面と組織面で明らかにする。最後に、意識などの人的な部分をどうするかを検討し、再び何をする、という前提に立ち返って、目標に修正を加える」
「いま、春田さんから、議事の進行に対する、すっきりした意見が出されました。これを順に検討していくのもよし、あるいはプロジェクトチームに分け、つけ合わせるという手もありそうです。
まずは、日本が今何をやっているか。つまりこの国の諜報の現状を共有しておくことにしましょう。春田さん、いかがでしょう」
「はい、わかりました。では私から日本の諜報活動の現状について、簡単にまとめておきます。
まず、日本にも各諜報機関を統合する『内閣合同情報会議』というのがあり、その下に六つの諜報機関が配置されています。内閣官房の『内閣情報調査室』『内閣安全保障室』、外務省『国際情報局』、法務省『公安調査庁』、防衛庁『防衛局』、警察庁『警備局』の六つです。
ただこれは代表者会議に過ぎず、たがいの情報を刷り合わせる、といったことはありません。というよりもむしろ、省庁のセクショナリズムから、情報を隠しあう傾向さえあるようです。
この中で最大のものはいうまでもなく警察庁『警備局』、いわゆる公安警察です。警備局設置の目的には、あらゆる情報の収集、というのがあって、CIAの関係者をマークするのはここの外事課が担当することになっています。
しかし警備局の関心はほとんど国内に向けられていますし、外事課の関心はもっぱら在日外国人や共産圏諸国のスパイとの接触です。外事課は通信所を各地に持ち、通信傍受をしていますが、これもほとんどが共産諸国対応です。
そのためCIAとは蜜月でしたが、最近はやや距離ができているようです。防衛庁『防衛局』のほうは相変わらずの蜜月です。
内閣合同情報会議に加わっていない諜報類似機関(情報機関)が、防衛庁統合幕僚会議の『情報本部』、通産省の『日本貿易振興会(JETRO)』、海上保安庁『警備救難部警備第二課』、労働省労政局『労働組合課』。防衛庁統合幕僚会議の『情報本部』はアメリカの国防情報局と同様の防衛情報の総元締め。『労働組合課』はいわゆる組合活動家の情報収集で、内閣調査室や公安調査庁同様、冷戦構造に基づく共産主義者対策、思想傾向把握が主な役割です。
こうした冷戦構造の産物は公安調査庁同様に『無用論』の風にさらされておりまして、行政改革の中で削減が避けられないものと見られています。
破壊活動防止法(破防法)の実行部隊として結成された公安調査庁は破防法そのものが使いにくい法律でもあるため、存在基盤を見出せずにいましたが、オウム真理教の事件で息を吹き返し、オウムへの破防法適用に期待をかけております。
しかし、これらの各機関は互いに自己の縄張りを脅かす存在でもあるため、しばしば足の引っ張り合いを演じます。自己の手で、オウムに引導を渡したい警察庁は、オウム事件に対する破防法適用におしなべて消極的です。
以上のほか、警視庁公安をはじめ、各県警本部の公安部があります。これが警察庁警備局と一体ではないことが、オウム事件で図らずも表面化しています。捜査をめぐって、警察庁が警視庁長官に抗議し、異例の長官辞任事件が起きています」
春田は日本の諜報機関の概略を紹介し、続けて、その能力、活動などを紹介した。その中でも注目を集めたのはシギント、つまり通信の傍受態勢である。
警察庁にはアジアICPO(国際刑事警察機構)のアジア送信所と秘密の通信基地があり、後者(東京都日野市三沢に施設があるが、機構上、存在しないことになっている)がシギントを担当している、という。
また、前者がある旧陸軍中野学校跡地には別に、通信職員の教育を行なう警察大学校附属警察情報通信学校と警察情報通信研究センター(旧・警察通信研究センター)があり、人材の育成から、暗号技術の開発、携帯電話の盗聴技術の開発などを行っている、という。
日野の通信基地は共産圏諸国の通信傍受、朝鮮民主主義人民共和国の工作員と本国などの通信傍受、暗号解読、国内無線・携帯電話傍受などをおこなっている。通信傍受によって船舶の侵入なども監視していて、各県警、海上保安庁への通報体制も確立している。
また、アメリカが一度「日本もNTTの黙認の上で、回線電話の盗聴をし、麻薬取引のほか産業スパイの摘発を試みたことがある」といっているが、それは事実かもしれないこと。日野の秘密組織が立ち上がるに当たって、アメリカの協力を得、足抜けできない関係にある可能性もあること、など、のっぴきならない話も語られた。
そして、各機関同士の縄張り争いは必ず見られるもので、アメリカでも、CIAの結成に対して最大の抵抗を示したのはFBIであったこと。そのFBIも結成に当たっては各市警察、州警察の反対にあったこと。日本でも、新しい形で何らかの機関を立ち上げるとき、最大の抵抗を示すのは警察庁(次いで外務省、諜報の性格によっては防衛庁)であろうこと、が語られた。
「幸い、私たちのこの集まりに自治・警察、外務、防衛の関係者はおりません。彼らが私たちの動きを察知すれば、必ず妨害に出てきます。
彼らを巻き込む手もありますが、内閣合同情報会議で見られたように、それぞれのセクショナリズムは強い。新しいものを生み出すのは困難だろうと予想されます。
あるいはまた、すべてを警察庁警備局にゆだねる、という選択肢もございます。しかし、これにはCIAとの癒着の可能性、不透明性、権力集中の危険性など、リスクの判断が必要なのは言うまでもありません。
いま、私は日本の諜報機関はセクショナリズムが強く、統括するセンターがない、と申しました。が、これをよいことに、自由に操っているのがCIAだ、という見方があります。CIAだけがすべての諜報機関とコネクションを持ち、適当な情報を提供しては互いを競わせ、巨大な情報力に物を言わせてこれらの機関を統括している。これは日本政府を超えた力です。
つまり、本来の統括センターの登場は、CIAにとっても目の上のたんこぶ。妨害工作が発動されても不思議ではないのです。
そこで、お願いなのですが、私たちのこの集まりを、当面、けして口外しないでいただきたい。今しばらく、われわれだけで準備する期間が必要です」
会場が緊張から静まり返り、ついで、大きな拍手が沸きあがった。春田へのねぎらいの拍手と、口外しないという約束を確認する拍手とが、ないまぜになったものである。
そしてまた、春田の熱弁は「新しい形を追及しよう」という参加者全員の合意を自然に作り出した。水越、堀田、春田の歯車がうまくかみ合い、回り始めた。
参加者は、新しい形を法制面から検討するグループ、組織面から検討するグループ、人材面から検討するグループに分かれ、それぞれが検討を重ねた上で、再会することとした。
磯崎は法制面、堀田は組織面での検討グループに参加することとなった。
『合同通信』の会議室はステージつきのちょっとした集会場であった。その窓際に会議用テーブルが並べられ、ディスクトップのパソコンが四台ほど置かれていた。
この日は『Qの会(違法諜報活動阻止機関研究準備会のことをこう呼ぶ)』の法制班の初会合である。『合同通信』の春田は組織班であったが、法制班に会場を世話してくれたのである。
磯崎の出席が早すぎ、その前の会議が終っていなかったのである。しかし、そこには磯崎が到着するのを待つかのようにして、春田の姿があった。
「やあ、来ましたね。ちょうどいい」
春田は一番左のパソコンのキーボードを叩いてから、正面に向き直った。残りの三台のパソコンが一斉にカリカリと音を立て始め、それぞれに速度は違うものの、おなじ画像が開き始める。アメリカ大使館の全景写真だろう。まずは最上階・幻の十二階が現れた。あの、窓のない階である。
「磯崎さん、たしかこの間、長野オリンピックでの世界大合唱のことをお書きでしたよね。インターネットで世界を結び、大会会場に大合唱を流す、というあれですよ」
「ええ、ほんの豆記事ですがね」
「あのとき、各地のタイムラグがどの程度出るといっていましたっけ」
「記事では細かく触れてませんが、日本の裏側の南米だとすると、光速は一秒間に地球を七回り半するわけですから、原理的には一五分の一秒あればいいわけです。しかし、インターネットの回線は直線ではありませんし、実際、どの経路を辿って目的地に到達するかはネットの状況次第。そのときによって異なるわけです。
そこで、長野の場合は、相当の寄り道をしても大丈夫なように、四分の一秒のタイムラグを設け、最後に到達した音声と同時に、それまでストックしておいた他地域の音声を放出するようにしています」
「ということは、最大0.25秒のズレを見込んでいるというわけですね」
「その通りです」
「その場合、違和感はあるんでしょうか」
「あります。会場で歌う日本の合唱団にとって、遅れてくる自分の声に慣れるのは大変なようです。それに、ゆれ、の問題があります。インターネットは気まぐれに到達経路を変更します。そうなると、到達時間が異なって、同時放出するリズムにずれが生じるんです。私には聞き取れませんでしたけれどね」
「そうですか。じつは当社でも来年度から電送写真をすべて衛星通信に切り替えるんですけれど、私はタイムラグが心配なんです。衛星を経由したほうがタイムラグが大きくなる。とすると、衛星通信を途中で傍受して加工し、地上系で送ってすりかえる、ということが可能です。もちろんすぐにばれるでしょうがね」
「いやあ、それは恐ろしい。春田さん、あなたはとんでもないことを考えますね」
「好きなんです、こういうことを考えるのが。そうだ、これ知ってますか」
春田は再びパソコンに向かうと、ワープロソフトらしきものを立ち上げた。そして、マイクロホンらしきものを頭にセットした。
「これはIBMが今度出した日本語の音声入力ソフト『ボイス・タイプ』なんです。読み上げるとそれが文字になる。まあ、見ていてください」
そういうと、胸ポケットから一枚のメモを取り出して、ゆっくりと、一語ずつ、間を開けて読み上げた。
「アメリカワ ニホン セイフノ トイアワセニ タイシテ テン カンケイ トウキョクト キョウギ シタ ケッカ テン ベイコク セイフ トシテワ ・・・・・・」
これがパソコンの画面上で、次々と文章になっていく。
―アメリカは日本政府の問い合わせに対して、関係当局と協議した結果、米国政府としては情報活動について何もコメントできない、と開き直った―
「どうです、すごいものでしょう。なぜアメリカが日本語入力ソフトを、と思いますが、まあ、日本は先を越されたわけです」
「これは日本では弱いIBMのシェアを確実に上げますね」
「ボクはこれを、軍事技術の転用じゃあないかと考えているんです。もちろん最初は英語バージョンだったのでしょうがね」
「軍事技術ですか」
「そう、つまりは盗聴です。文字データであれば簡単に検索できるのはご存知でしょう」
「ヤフーやインフォシークといった検索ソフトがそうですね。世界中のホームページから一瞬にして必要なキーワードをピックアップしてくれる」
「でも、音声のままではそれができない。これをテキストデータに変換できたらどうですか」
「文字データとしてストックし、必要なときに検索できる」
「そうでしょう。でも、まだだめなようなんです。軍事技術の民生への転用は、能力を一桁落とす、と聞きます。だから、実際には一〇倍の能力があるとします。処理速度が一〇倍、認識率が一〇倍・・・・、それでも盗聴には使えません。
これだけ認識してもらうには、沢山の文章を読み上げて、ボクの声紋や読むときの癖などを記憶させておかなければならないのです。声紋が割れている有名人は別として、盗聴相手にこんな訓練をしてもらうわけにはいきませんからね」
「いずれはできるようになるかもしれませんね。それにしても、すごいことを考える」
「いやあ、この間、もう一度『ロサンゼルス・タイムズ』と『ニューヨーク・タイムズ』の日米自動車交渉の記事を読み直してみたんですが、盗聴したのはCIAだけじゃない。CIAとNSAなんですね。
NSAといえば通信傍受が専門、つまりシギントの世界です。とすると、CIAはおそらく盗聴器を仕掛けただけです。内容を聞いていたのはNSAでしょう。この盗聴器は傍受した音声信号を衛星に向けて発信するようになっているんだと思いますよ。
それも、指向性の強い電波なら、横漏れ電波であるサイドローブが小さいので、従来のスクリーニングでは発見は難しいでしょうね」
「よくテレビでやっているようなアンテナでは発見できないということですか」
「そう、盗聴器の真上にきたときにしか発見できないのではないでしょうか」
「通信衛星に向けて発信しているから、地上からでは発見しにくいわけですね。それはたしかに手ごわい」
「ともかく、この分野のテクノロジーは日に日に向上しています。技術の向上を読み込んだ上で、防諜を考えていかないと、すぐに陳腐で時代遅れなものになってしまうということです」
「本当にそうですね」
磯崎が春田と話しこんでいる間に、「Qの会」法制班のメンバーが次々にやってきては二人の話に耳を傾けていた。法制班は通産省の水越亨を中心に、磯崎正太郎、厚生省の大貫隆一、国会司書の杉井美紗、JETROの長谷川宗之を含め、総勢一〇人になる。この初会合には二人が欠席したが、春田昭彦がオブザーバーとして参加した。
といっても、立法の経験があるものは国会図書館の司書として、資料面の手伝いで参加したことのある杉井だけ。いささか心もとない素人集団である。
「最終的に何を目指し、どんなものをつくるのかが見えていない中で、法制面を検討する、というのは雲をつかむようなものですが、ともかく、組織面での困難さを脇において考えることができる、というプラス面を生かして、積極的なご発言をお願いいたします。
まずは口火を、立法作業の経験をお持ちの杉井さんにお願いします」
「経験なんていわれても、困ります。普通はモデルがあって、それに肉付けをしていくわけで、参考にアメリカのスパイ取締法のコピーをお配りしましたが、アメリカのものはさまざまなベースがあった上での法律なので、ベースが何もない日本での参考になるかどうか、自身がありません。
また、いま水越くんが、いえ、水越さんが組織面での困難さを脇におく、と言われましたが、先日、春田さんがおっしゃったように、政府内に断絶があるのだとすると、それを無視して法制面の論議をしても徒労に終るように思うんです」
「徒労に終る、というのは」
「法案はできても、成立する可能性がない、というのでは空しいと思うんです。結果的にそうなるのはやむを得ませんが、少なくとも成立を前提に論議したいんです」
「賛成ですね。何でもあり、では話が広がりすぎると思うんです。成立可能性を一つのボーダーラインにしましょうよ」
杉井の提案に対して大貫が支持をした。水越も賛成しているようだ。
「春田さんによれば自治・警察、外務、防衛は反対するかもしれないという。もしこれが正しいとすれば、法案は閣議の議題にもならない、ということを意味します。そうなる前につぶされる。そういうことですよね、春田さん」
オブザーバーの春田が立ち上がる。
「はい、法案は普通、どこかの省庁が提案しまして、内閣官房がこれを取り上げ、事務次官会議にかけます。ここで全会一致になれば閣議にかけられるわけです。
で、問題は内閣官房でして、総理大臣、官房長官はともかく、実権を握っているのが事務方の官房副長官と三人の首相秘書官です。その内訳は、官房副長官が自治省(あるいは旧内務省系官庁)、首相秘書官は内政審議室担当が大蔵省、外政審議室担当が外務省、安全保障室担当が警察庁。つまり賛成が見込めるのは大蔵の一人だけなんです。
そのため、成立を前提に考えれば警察庁を取り込める法案か、議員立法しかない。警察庁を取り込むかどうかは組織班の議論の行方を見なければなりませんが、法制班としてはまず、議員立法として進める方向で話せばいいんじゃあないでしょうか」
「私もそれがいいと考えています。それに、議員立法で成立を狙うためには、あまり中身の濃いものや、複雑なものはだめ。超党派で賛成してもらえる、わかりやすいものがいいと思うんです」
「新たな規制、というより、緩やかな宣言、といったもの」
「制限より、宣言ですな」
法制班の議論はその後、終電間際まで続けられた。初会合は顔合わせみたいなものだと考えていた磯崎は、突っ込んだ実質的な議論にすっかり面食らってしまった。
議論はまず、制限か、宣言か、でもめた。「せっかくつくる以上、追放を求めることができる程度の実効力が必要だ」という意見も根強かったからだ。また、宣言的なものだとしても、対スパイ向けなのか、日本側の意識向上を目指すのか、で、ズレがうまれた。
また、組織班の論議によっては、相応の実効力が必要になり、その場合には「規制法」と「組織法」が必要になるだろうし、人材班の論議によっては「日本人向けの事業法」も必要になるだろう、という話も出された。
その結果、とりあえず、従来の犯罪の枠を越えない最小限の「規制法」と、「事業法」の前文になるような「カウンター・エスピオナージ宣言」をつくってみよう、ということになった。
「規制法を作るなら、参議院法制局の誰かにチェックをお願いするといいわ」
司書嬢の杉井が、自らの経験をもとに発言した。
「議員立法だから、内閣法制局は元々お呼びではないわ。で、衆議院法制局は内閣法制局とつながっている。相談したら、まず、内閣官房に筒抜けになるわ。その点、参議院はおおらかよ。こちらの考えに沿ってアドバイスしてくれる。それに、知り合いもいるの」
「おお、そいつはいい。で、この集まりに出てくれそうなやつかい」
「と思うけど、職務上、それはまずいんじゃないの」
当初、磯崎は、学者や役人が得意とするカッチリした会議は苦手だと考えていた。しかし、今日のこの進行を見ていると、あながち、そうもいえないと思うようになってきた。なんといっても能率がいいのである。ことが着々と前に進んで、堂堂巡りがない。
そしてまた、極めて現実的なのである。どうやら、議員立法をつくる際の議員の目当てまでできている。その場合の票読みから多数工作までも、やりだしそうな連中なのだ。おそらくこれは現実的な提案を行政の中で実現してきた水島邦彦という男のキャラクターなのだろう。磯崎正太郎はそう考えた。
C I A の謀略 第7章「脅迫」
防諜法案
第一条 目的
本法は、外国政府または外国企業・団体の利益のため、不法な手段により、わが国の政治、経済、防衛上の機密を侵し、手続きを歪める工作から、わが国、企業および国民の利益と安全を守ることを目的とする。
第二条 対象
本法は、違法諜報活動を行う外国人、および、違法であることを知りながら、外国人より対価を受けて違法諜報活動を行う本邦人、活動の手段たる設備を対象とする。
第三条 定義
本法でいう違法諜報活動とは、刑事罰に当たる犯罪行為のうち、特に政令で定めたものをいう。
第四条 センター
本法の実効性を確保するため、総務庁内に防諜活動センターを置く。センターの長は総務長官が任命する。センターの構成は防諜活動センター設置法に定める。
第五条 命令
センターの長は、違法諜報活動を行った外国人、および日本人に対する、日本国内における在留資格を除く行政特権の停止または禁止を命ずることができる。また、右の活動によって失われた現状の回復を命ずることができる。
ただし、外交特権の停止および外国政府に現状の回復を求める場合は、センターの長の告発に基づき、外務大臣がこれを執行する。
第六条 補佐
センターの長が右の命令を下すに当たっては、防諜活動センター設置法が定める保佐人会議の承認を受けなければならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「Qの会」法制班は、二、三回の会合を重ねた段階で、大まかな「規制法」と「宣言」素案とをこしらえた。詰めは先送り、ということで進めた素案ではあるが、これだけの文案を詰めるのにも、相当の議論を要した。しかも、検討課題として残された問題は条項ごとに複数存在するため、まさに問題山積の様相を呈している。
とりわけ議論が百出したのは、外国人、本邦人と規定することによって、外国人に対する差別と偏見が強化されることはないのか、をめぐる問題であった。また、その際、在日外国人、とりわけ定住外国人をどう扱うのか、という問題であった。
会議はこうしたデリケートな問題で、しばしば堂堂巡りを続けたのである。
磯崎が驚いたのは、最小限の「規制法」を作ってみる、という目的で始めた法案化作業であるのに、いざ法文にしようとすると、強く規制の方向が打ち出されてしまう、ということであった。
誰かが気づいて問題を指摘する。と、たしかに、そんなに強い規制はだれもが望んでいないことに思いいたる。
結局、法律的な言い回しというものは自然に規制強化を求めるものなのではないだろうか。だから、これを緩和するため、例外規定や但し書き、解釈の幅を広げるためのとってつけたような字句挿入が多用される。
そしてその結果、法律的な言い回しになれていない者には読めない、難解な文章が出来上がる。
「困ったものだ。どうも、わたしに向いてる仕事とは思えませんねえ」
磯崎は法制班に入ったことに後悔を感じ始めていた。
このように、多くの問題を将来にはらみながらも、法制班はともかく第一次素案を完成した。これを全体会に懸け、それまでの先送り懸案の解決を探りながら第二次素案を練る。この作業は第一次素案を固めることに比べたらずっと楽であるように思われた。
法制班はともかくも第一のハードルをクリアーし、この日、軽い祝杯をあげたのである。
法制班の集まりを終えて、帰宅すると、この日も夜中の十二時を越えていた。「班の連中は、いささかワーカーホリックに近い」と思ったが、自分も確実にその一人であると思うと、どこか耐えがたいものがある。そろそろ息子が大事な年齢になってくる、ということも、そうした思いがきざす大きな原因の一つである。
磯崎は一人息子の英司が五年生になった昨年の四月に、時代の波に遅れないようにとディスクトップのパソコンを買い与えた。はじめのころこそ矢継ぎ早の質問に辟易していたが、今ではすっかり手について、マニュアルの文字も読めないのにどんなソフトもこなしてしまう。子どもの勘のよさには磯崎も脱帽だ。
最近では、ゲーム機よりもパソコンで、毎晩遅くまでキーボードを叩いている。いったいいつ寝ているのかと思うほどなのである。
このところ多忙な磯崎にとって、パソコンに養育係を押し付けることができて、もっけの幸いと思うこともあるのだが、仕事場に詰めると食事も別になりがちな磯崎のこと、おかげで英司と話す機会もめっきり減って、いささか後ろめたさをも感じている。
「すれ違いか、まずいな」と、そう思った磯崎は、何か息子の部屋を叩く口実を探した。「CIAって知ってるか」と、水を向ければ乗ってくるのはわかっていた。が、この問題で家族を巻き込んではいけない、という直感が磯崎の口を重くしていた。
磯崎はこの間、「Qの会」のことについて、家族はもちろん、ほかの誰にもしゃべったことはない。が、そうしたことを、会のみんなが守れるとはとても思えない。「Qの会」の存在はもう広く知れ渡っているのかもしれない。堀田とふたりだけのときには心配する必要のなかった、不信と不安とが交錯するのである。
磯崎が口実を見つけるのに苦労しているとき、久しぶりに英司のほうからやってきた。
「とうさん、エイズってなに」
磯崎は思いもせぬ質問に面食らった。免疫不全症候群という言葉や、免疫不全がもたらす病状の説明ならすぐにもできる。が、英司が求めているのはそのような答えではなさそうだった。
「ぼく、最近、エイズなんだ。英司じゃなくて、みんながエイズって呼ぶ」
「ううん、そいつは困った。そういう心無い揶揄が多いから、今じゃあエイズという言い方はしなくなったんだけど」
「HIVというんだってね」
「そうだよ。だからおまえのあだ名もいつかは消える運命にあるわけさ。そんなに嘆くことでもあるまい」
「今日、テレビで大臣が謝待っていたよ。菅とかっていう人。お役所が誤りを認めて、謝罪をするのは初めてのことなんだって。川田隆平さんてひとが話してた」
白血病の治療薬である血液製剤でHIVウィルスに感染した青年だ。「エイズによる差別」に果敢に挑戦し、実名を公表した上で、政府・厚生省を告発した。
「すごいよねえ。あのひと、自分は死ぬかもしれないんでしょう。それなのに、よくあんな活動ができるよね」
「ほんとにそうだねえ」
磯崎はそう答えながらも、少し違うことを考えていた。「もし、川田隆平が磯崎英司だったら、私はいまCIAの追及など、やっていなかっただろう。英司のために、政府・厚生省と全力で戦っていただろう」と、思うのだ。
「でさあ、ぼく、変なホームページ、見つけたんだ。同性愛者、って何」
「同性愛者、っていうのは読んで字の如し、同性を愛する人さ。男が男を、女が女を好きになるのが同性愛。男が女を、女が男を好きになるのが異性愛。父さんは男で、異性である母さんを愛している。だから異性愛者さ。もし父さんが男を愛してたり、母さんが女を愛していれば、父さんも母さんも同性愛者ということになる」
「やっぱりそういうことなのか。でさ、そのホームページにはね、アメリカが同性愛者を退治するために、エイズという生物兵器を発明し、送り込んだんだ、と書いてあるんだよ。CIAという秘密組織がエイズの研究をしたんだって。父さん、CIAって、知ってる」
HIVウイルスという、それまでまったく知られていなかったレトロ・ウイルスが突如出現し、地球の隅々で猛威を振るう、という不思議な現象。そこに人為的なにおいを感じるのは磯崎ばかりではなかった。
アメリカの八〇年代はブラック・パワーにとって代わるゲイ・パワーの時代ともいわれ、ニューヨーク、カリフォルニア、マイアミなどで大きな力を築いていた。アメリカの政治も、ゲイ・パワーを無視しては成り立たなくなるほどの状況が生まれたのである。
ところが、その勢いをくじくように、突如降って沸いたのが「エイズ騒動」であった。この免疫不全症候群はなにもゲイに特有の症状ではなく、だれもが同様に罹患する恐れのあることは早くから知られていたことなのであるが、なぜかゲイに固有の奇病のように報道されてきた。
このタイミングと、この扱いを裏読みすれば、そこに謀略の影が浮かんでくるのである。「エイズウイルスはCIAが作り出したものではないか」そういう噂は、巷間に溢れていたのである。
じっさい、CIAの謀略工作には、想像を絶するものが少なくない。CIAが行った被爆の人体実験や、プエル・ト・リコ女性にたいする避妊手術、幻覚剤LSDの開発と配布、戦後処理に絡む麻薬取引の支援など。どれをとっても人類に対する敵対行為だとしか言いようがない。
しかも、麻薬に関してはいまなお灰色で、コロンビアの麻薬を異様に敵視しているのも、大英帝国時代から続くイギリスの麻薬シンジケートの秩序を揺るがし、利益を損ねているからだ、との見方もある。
「おまえ、そんなホームページ覗いてるのか。CIAって、アメリカのスパイ組織だろ。『007』なんかでみるじゃないか」
「なにいってるんだ。『007』はM16じゃないか。あれはイギリスのスパイ組織だよ。『007はなんとか』っていうのがあって、それだけはモデルがダレスとかいうCIAの昔のえらい人なんだって」
「なんだ、詳しいんじゃないか。父さんのほうがむしろ素人だ、たいしたことは知らない。なにしろ知られないように動くのがスパイだからな。で、英司はCIAをどう思う」
「わかんないよ。でも、ほんとにいるんなら、わくわくするな。やっぱりカッコいい」
「たぶん本物はかっこよくないぞ。なにしろ目立たないように、こそこそやるのがスパイの仕事だからな」
「そうか。でも、国のために命を賭ける、ってかっこよくない」
「うわ、おまえもテレビに冒されてるな。命なんかだれも賭けてないよ。だからすごい道具を使うんじゃないか。それに、むずかしいのはなにが『国のため』なのかわからない、ということさ。たとえば同性愛者を減らすことがどうして国のためになるんだい。そんなことをしてはいけない、というほうが国のためかもしれない」
「そうだね。でも、やっぱりエイズはいやだ」
「ううむ、おまえのあだ名には困ったものだ。でも、そのうち消えてしまうさ。気にするな。
それはともかく、HIVは恐ろしいウイルスだが、怖くはない。感染しないように自分で注意すれば防ぐことができるからだよ。だからあんまり大騒ぎすることはないんだ。
でも、川田君たちの場合は事情が違う。お医者さんが注意を怠ったために感染してしまった。ああいうケースは、自分では注意しきれないからね」
「お医者さんじゃなくて、大臣が謝ったんだよ」
「それはね、厚生大臣にはお医者さんに注意するよう、指導する責任があったからさ。厚生省は危険があるのを知っていながら、お医者さんがやることを黙ってみていた」
「たしかにきみが言ったとおりだったよ。おれたちはまるで石抱きの刑にあっている。大和銀行事件のその後を知ってるかい。あいつらは大和銀行の不正を知りながら、大蔵省がどう始末をつけるのか、黙ってみていた。
あいつらとは、いうまでもなくCIAだ。CIA傘下のDDI(情報本部)が大和の不正を報告すると、ドイッチCIA長官が、大和の巨額損失事件をトップ・シークレットにした。
大蔵省が大和を庇うと予測して、てぐすねひいて待っていた、といったほうが真実に近いだろう。うちは奴さんの注文どおりに動いてしまったわけだ。連邦準備制度理事会のグリーンスパン議長は上院公聴会で大蔵省を公式に批判した。
そして、その二日後に、今度はニューヨーク証券取引所が野村證券の財務報告に不正があるとして一〇〇万ドルの罰金と、社外取締役の選任を命じた。おまえたちは信用できないというわけさ。
だが、本音はまた別にある。今、アメリカが一番恐れているのは、不良債権を抱えた日本の都銀が、苦し紛れにアメリカ国債を一斉に投売りすることなんだ。そうなれば、世界の経済システムが大混乱に陥る。
だから、おまえらの不正はお見通しなんだ。国債の投売りなんかしたら叩き潰すぞ、アメリカの力を甘く見るなといっている。
不正は大和だけじゃない。ほかの都銀もやっている。いまは大和だけにとどめておくから、かわりに大蔵省がお縄につきなさい、神妙に石抱きの刑を甘受しなさい、というわけだ」
「Qの会」全体会はこの日も水島研究室で行われた。篠崎は電車の遅れのため開始時間に間に合わなかったが、会は予定どおり始まっていた。が、会の雰囲気がいつもと違う。どこかぴりぴりしているのだ。
となりのJETROの長谷川に小声で訊ねると、どうも厚生省の大貫が「会を辞めたい」といい出し、大蔵の中川が彼の引止めにかかっているらしいのだ。
「CIAばかりじゃないだろう。国民も本当に怒っている。大蔵省の過剰接待や住専処理に対する怒りは日本人には珍しく、一過性のものではない」
「だからとうとう、昨年の暮れに事務次官が辞任することになった。不祥事との関連を否定しているけど、そんなものはだれが見ても明らかで、あれは引責辞任です。
が、溝口さんが言われるように、国民の怒りは一過性ではない。引責、ということにしてしまうと、事務次官だけでは収まらなくなる可能性がある。担当部署の責任者にも及びかねない、という不安が、省内に溢れている。針の筵に座らされているのは、なにも厚生省ばかりではありませんよ」
「ぼくがいってるのは中川さんがいう針の筵と少し違うんです。相手がみえない。これからどうなっていくのかが読めない。省内はみんな疑心暗鬼です。少なくも薬事局はね。
製薬会社を相手取った損害賠償請求訴訟に続いて、今度は主治医の帝京大学副学長を殺人容疑で告訴ですよ。省内から証拠が出てきて、ついには大臣の謝罪でしょう。
いったいいつからこんなことになってしまったのか、みんな頭を抱えています。振り返ってみれば水俣だっておかしかったし、スモンだっておかしかった。
従来のやり方は国民の命よりも企業の利益のほうを大事にしていた。それじゃあいけないって、気づいている人は気づいてたんだ。水俣では担当職員に自殺者まで出してしまった。
悪いのは副学長ばかりじゃない。同じような考えに染まっていたみんなが、それぞれに共犯なんです。だから、怖れ、浮き足立っている。この刑事責任はどこまで及ぶのだろうか、ってね。考えてみれば、警察と検察の動き次第なんです。だから、いま、警察を刺激したくない。
いや、ぼくが、というんじゃないんです。でも、ぼくが今こんなことをしていると知ったら、同僚はどう思いますか。とにかくやめてくれ、というに決まっている」
「実際、そんな人がいたんですか」
「いや、そんなことはありません。ただ、とにかくいまの厚生省は変なんです。何か追い込まれている」
「だからって、そんなあいまいなもので『Qの会』をやめることはないだろう」
「まあそうなんですけど、しばらく休ませてもらいたい、と。もう少し言えば、この一月から立ち上げた基礎年金番号制度が、ランニングテストなしにスタートしたためかミスばかりで、現場が大混乱してしまっているんです。これはぼくの責任ですから」
「それはそれは。さぞや自治省が喜んでいることでしょうね」
「ほんとにそうなんです。仕事を楽にしようということから始めた番号制の導入が裏目に出てしまって。もう、たいへんです」
「まあ、休みたいというものを無理に引き止めるわけにはいきませんでしょう。でも、われわれの活動はこれからが本番だ。そうしたときに厚生省内部の様子はぜひ知りたい。そういう情報はこれからもいただけるとありがたいですなあ。どうでしょう」
「もちろん、そうしたことは適宜ご報告いたしますし、ふつうにやれる協力はしていくつもりでおりますから。問題なのは会のメンバーとしてマークされることと、実際、忙しくて時間が足りないことだけなんです」
どうやら、会はまだ始まっておらず、正式な議題に入る前に大貫から脱会の申し入れがあったようだった。
「それじゃあ始めますか」
溝口がそう切り出して、会はスタートした。
「組織班の論議をまとめますと、アメリカの組織が理想的かどうかは別として、警察と諜報は異なるもので、組織上分ける必要がある。ところが警察庁は明らかに国民の議論を待たず、不透明な形で日本でのFBIとCIAを独占しようとしている、ということですね。だから警察庁の抵抗があっても、別途の組織を作る必要がある、と、そういうことですね」
溝口の整理を引き取って、春田が続ける。
「諜報には少なくとも外務省、警察庁、防衛庁の情報をまとめる必要があるのに、阪神淡路大震災での対応を見る限り、警察が防衛庁に情報を提供することは考えられない。
また、アメリカ寄りになりすぎた現在の外務、防衛の情報を警察庁がただ集めても、たいして役立つものはない。これらの上に乗って、諜報活動を指揮する法的権限を持った機関が不可欠だ、ということです。
当然これは、密かに警察庁が進めようとしている体外的な諜報活動、防諜活動とは対立するものですし、最終的にはその機能、機材等は新組織が受け継ぐべきものです」
「補足しますと・・・・」と、今度は堀田が続ける。
「CIAの子分として、日本におけるソ連の影響を監視してきた公安調査庁がいま、存在意義を失って、CIA張りの諜報機関に転進して活路を見出そうとしている。
ここを使う手もあるにはあるのですが、オウム真理教に対する破防法適用に全庁の未来を賭けてしまった。この、場当たり的で先見性のないところをみると、その能力はあまり期待できない。警察庁に足元を見られるのが落ちだと考えられます。ここを吸収するにしても、新しい組織が必要です」
ここで杉井が発言を求めた。
「公安調査庁はだめです。市民運動に不信を買いすぎました。いまもまた、組織の生き残りのため、市民運動情報を選挙運動用に、民自党議員に売ろうとしています。こうした組織を吸収しても、新しい組織は国民の広い支持を得られないと思います」
「それは本当ですか。やはり無能なんですね」
堀田が答える。
「市民運動情報を含め、選挙情報を売っているのは警察です。個々の議員に対してじゃあないですけどね。公安調査庁の情報なんて、警察庁の情報に比べたら屁のようなもんだ。そんなこともわからない連中じゃあ、新組織でも使えませんね」
「これについて、法制班からもっとほかにないですか」
水越が立ち上がる。
「閣議提出の関門として、内閣官房の首相秘書官が三人います。外務、大蔵、警察の三省庁から派遣され、外務担当秘書官は外務省と防衛庁、警察担当秘書官は主に自治省、警察庁の代表として行動する。
また、内閣官房副長官はどうしても旧内務省系の省庁を代弁し、その他を大蔵担当秘書官が代表することになる。
この図式からいって、法務省傘下の公安調査庁が新組織に横滑りできるような芽はありませんね。全省庁の事務次官会議で多数意見を占めても、秘書官のレベルでつぶされる。もちろんここを通っても官房副長官が潰しにかかることでしょう。
というより、そもそも、新しい防諜組織が必要かどうか、というところで、この構想はつぶされる、というのが法制班の結論です。組織班が警察と手を組む、という結論を出すなら、法案の政府提案もありうる。しかし、それがないとなれば、法案は議員立法でいくしかない、と、これが法制班の結論です」
人材班からは公安調査庁、内閣調査室の人材も有効だが、やはり核となるのは当面、警察庁警備部だという。また、アメリカや総合商社の情報に頼りすぎている外務省には、もっと独自の情報収集力を持ってもらう必要がある、と同時に、新組織のメンバーを受け入れ、協力していく態勢が必要だ、とする。
日本では官民の人材交流、人材移動がほとんどないため、NOC(ノン・オフィシャル・カバー)、いわゆる民間人を偽装して諜報活動に当てる手段が極めて限定される、という。
いずれにせよ、本格的な諜報機関は人材面からも作りようがなく、防諜だけに限った活動にならざるを得ない、ということであった。
戦前の陸軍中野学校のような精鋭を生む素地そのものが失われている今日、精鋭の存在を前提にした特殊任務を考えても無駄であり、却って危険でもある、というのである。
全体会を終え、別れ際に、堀田が磯崎にささやいた。
「あいつには何かあるな。ひょっとしたら、おれたちの計画はもう漏れているのかもしれない」
「あいつ」とは、長谷川のことである。厚生省はこれからも、次々に暗部が暴かれる。「あいつは、おそらくその一部を知っている」。堀田の不気味な予言である。
石垣港のフェリー桟橋とやや離れたところに、離島行きの船着場がある。いかにも南の島らしい木の実や貝殻を組み合わせた手作りのアクセサリー・ショップやアーサー汁を飲ませる定食屋、釣具店など、小さな店が建ち並ぶ岸壁の一角だ。
釣具店の並びにある切符売り場も、待合所というにはいささか手狭で、船のお客は三々五々、近くの土産物屋を覗いて時間をすごす。時間がくると、切符売り場から出てきた船長が、大声で叫ぶのである。
「小浜島行き、出るよーう」
「おーい、あんたらも乗るんだろーう」
岸壁のはずれから、若い娘が二人、ムギワラ帽子を手で押さえながら、必死で駈けてくる。暑い風だが爽やかである。
船は二十人乗りぐらいの白いクルーザーで、足が速い。しぶきを上げて海原を切り裂く感じで、キャビンの片隅以外はどこにいても、このしぶきを浴びてしまう。が、もちろん、キャビンで小さくなっている客は一人もいない。
右前方から緑の深い島影が迫ってくる。別荘地で名高い竹富島だ。しかし、快速クルーザーは竹富島をやり過ごしていっそうスピードを増す。シャツはぴったりと肌につき、髪の毛からは水が滴る。
船のへさきに近いところで、だれよりも濡れているのはさっきの二人の娘たち。キャッ、キャッと上げる歓声が、うなるエンジン音にも負けずに響いてくる。
四〇数分の旅程、小浜島の船着場に降り立つと、だれもが濡れすぎた自分を発見する。ハンカチやタオルで顔を拭く姿がそこここに広がる。
島にバスはなく、船着場には迎えの車が並んでいる。近くに集落はないので、全員が何がしかの車に乗ることになる。島唯一のリゾートホテル、「はいむるぶし」への客は磯崎を含め、総勢六人。緑の送迎用ワゴンに乗り込んだ。
「はいむるぶし」とは「はえ(南)」「むれ(群)」「ぼし(星)」、つまり「南群星」で、琉球語で南十字星を意味する。この島では南半球の目当て星(極星)が地平線上に姿をあらわすのである。
ホテルはヤマハが鳴り物入りで始めたリゾート展開の代表的なもので、知名度は高い。が、沖縄本島のような巨大なホテルとは違い、こざっぱりしていて、居心地のよいホテルだった。
一階のラウンジのコーナーに、マリンスポーツのガイド・カウンターがあって、海の青さを強調したさまざまなポスターやチラシに溢れている。しかし、目の前に広がる海を凌ぐ輝きはない。写真は現実に圧倒されているのである。
マリンスポーツ・コーナーの中心的なメニューはやはりスキン・ダイビングで、大半のスペースを占めている。磯崎は壁に貼られたポスターの一枚、若い女が遊泳する水中写真に目を凝らしたが、それはあの池島佳苗のものではなかった。
九五年九月、沖縄本島北部の住宅街で、買物帰えりの小学生少女が三人の米兵に車で拉致され、乱暴された事件は、返還後もいっこうに縮小されないまま多くの米軍基地を抱える沖縄に激しい怒りを呼び起こした。
とりわけ、犯人の米兵たちは犯行後、かねての予定通り、基地内に逃げ込み、犯人が特定されても、日米地位協定に基づき、犯人の逮捕、身柄拘束ができなかったことは、日米安保条約と、その地位協定の問題に火をつけた。
事件の半月後、連立与党と政府は日米地位協定の見直しを含む再検討を約束。折から迫っていた基地借用地の契約期限切れに当たって、延長契約を拒否する地権者に代わり、知事が代理署名してくれるよう、懐柔策に出た。
しかし、第二次世界大戦での沖縄戦の悲惨さを知る大田知事は代理署名を拒否。代わりに基地縮小を求めた。
日本の周辺有事を想定して、日米安保条約のガイドライン見直しを急ぐアメリカは、九六年四月一五日、沖縄の米軍基地の二〇パーセント縮小を発表。これには沖縄の心臓部にある海兵隊基地・普天間基地の返還も含まれていた。
が、これも見掛け倒しで、アメリカ軍の極東一〇万人体制を堅持し、海兵隊の基地機能も低下させないことが前提で、普天間の返還も単なる日本の国家予算を使った移転・リニューアルにほかならなかった。
そのため、問題はさらにこじれ、実際に契約切れを迎えた楚辺通信所などに地権者が立ち入る事態が生まれた。また、代理署名を拒否した大田知事は、国を相手の訴訟で敗訴。地権者が再契約を拒否する土地の強制使用が続くことになる。
この国のやり方に対する対抗措置が、九六年六月二一日に臨時県議会で可決した「在沖縄米軍基地の整理・縮小と、日米地位協定見直しの是非を問う県民投票条例案」である。
投票は九月の八日。沖縄はこの日に向かって、いっそう反基地の思いを強く燃えたたせようとしていた。
「沖縄に行ってくれませんか」
磯崎が某月刊誌からそんな依頼を受けたのは、沖縄が住民投票に向けて燃え上がる最中のことであった。投票に合わせて沖縄特集を組むのだということで、渡された企画書に目を通すと、巻頭にあいつの名前があった。あの評論家、篠山啓志である。
篠山に与えられた仮タイトルは「沖縄の地勢から極東の危機管理を考える」。磯崎のそれは「現地レポート・基地の重圧の中で」とある。
この構成を見るだけで、特集の狙いは明らかだった。「沖縄も大変だけど、基地は必要。知恵を尽くすが、我慢もしてね」といったタッチの編集姿勢になっている。
背骨を通すのは篠山の論文で、磯崎のレポートは明らかに添え物だ。しかし、今、沖縄を語る以上落とすことのできないレポートであることも事実である。
結局のところ、篠山の論文に肉付けを与えるだけに終る恐れも少なくはない。が、そうであっても「こいつは人任せにはできないぞ」と、磯崎はそう考えて、この依頼に応じることにした。
「承知しました。行きましょう」と、そう返事をしたとたんに、脳裏をよぎった名前、それが池島佳苗である。
小浜島の「はいむるぶし」といえば、沖縄本島からはまだ大分先になる。ついでというには大旅行だが、季節はいい。七月中に本島から原稿を送ってしまえば、ちょっとした夏休みにもなる。
磯崎は「基地の重圧」に苦しむ沖縄の人たちを取材したその足で、南のリゾートアイランドへ赴くことに後ろめたさがないわけではなかった。いや、十分に後ろめたさを感じていた、といったほうがいい。
だから、何か自分を納得させる口実を必要とした。バブル崩壊以後、沖縄の離島のリゾートは厳しい。彼らの苦境を少しでも緩和することができるのなら、と、そんなことも考えたが、これではとても自分を納得させられない。
池島佳苗だ。彼女には何かある。彼女が昔、スキン・ダイビングのインストラクターをやっていたという小浜島に行けば、その何かをつかむことができるかもしれない。磯崎はそのために「はいむるぶし」にやってきたのだ。
夕食後、「はいむるぶし」建設以前からこの島にあった、老舗のマリンスポーツ・センターに足を伸ばした。ここも「はいむるぶし」にあやかって、リニューアルされ、若いダイバーたちのおしゃれな定宿になっている。池島はこのセンターのインストラクターになった。
センターの受付けカウンターは、明日の予約を取る客で、ひとしきり賑わっていた。小浜島からさらに南の二つの島がスキン・ダイブのメッカで、島のいたる所に日本を代表するすばらしいポイントがあるのだという。
また、島の途中にも美しいさんご礁のポイントがあって、もぐれない者でも船底をガラス張りにした船から覗けるので、評判なのだ、という。
カウンターの若いガイドに「ここまできて、さんご礁の海を見ずに帰る手はない」といわれ、磯崎もさっそく予約を入れることにした。そのガイドに「インストラクターか」と聞くと「そうだ」という。客が減るのを見計らって、彼を捕まえた。
「ずいぶん昔のことになるんだけど、池島佳苗って人がここでインストラクターをやってたはずなんだ」
「池島佳苗ですか、知りませんねえ」
「ここに写真があるんだけど」
磯崎は、佳苗から送られてきた最後のレジャー雑誌をなんとか発見して持参した。
「うわー、こりゃあ古いわ。俺なんかじゃぜんぜん無理だよ。こいつがそうなのかい。すっごいいい女じゃんか。この写真、確かにうちのポイントだよ。あした、ここ行くよ」
「ああ、そうだ。古いアルバムならいっぱいあるよ。ちゃんと揃ってるかどうかはわかんないけどな。ちょっと待って、いま見つけてくるわ」
「お客さん、こっちだ。このキャビネットの中、ぜんぶそうだよ。持ちきれないから勝手に見てよ。そこのテーブル使っていいよ。もう何年も触ってないから、汚れてるかもな」
アルバムはマリンスポーツ・センターのリニューアル・オープンの式典から始まって、ずっと最近まで、年二、三冊で、四〇冊ほどが揃っていた。センター全体のアルバムではなく、マリンスポーツ中心のアルバムで、池島佳苗はすぐに見つかった。
なにかとても懐かしいものに出会った気分になった。だが、ここにいる佳苗は磯崎にとって、まったく知らない佳苗であるはずだった。
請われて撮らせたものだろうか。佳苗の写真には客らしい男との二ショット、三ショット・シーンが多い。ウエットスーツが彼女のボディーラインをいやがうえにも強調している。引き締まった彼女のウエストに手を回している男も少なくない。
そして、やはりいた。篠山啓志、あの男だ。二ショットが何枚か続き、次のアルバムになると、今度は三ショットが現れた。見覚えのある政治家、作家、そして外国人。どうやら篠山の招待客らしい。だが、それがだれなのかわからない。
磯崎は外国人が写ったその写真を抜き取り、何点かの写真を入れ替えて、抜き取ったことを悟られないように工夫した。が、おそらくこれは決定的な証拠だろう。この男がCIAの要員であることはそのうち判明するに違いない。磯崎はそう考えた。
さんご礁は限りなく美しく、青いネオンのような魚の群れが身を翻した。黄色と黒のストライプを持つおしゃれな魚が、ピンクの縞柄の岩をつつくと、岩はぱたりと閉じ、ただのいかついゴロタ石になった。
「お客さん、ラッキーだよ。そいつはギアといってね、東京じゃあシャゴウ貝、ビーナスが乗ってる絵で有名なシャコ貝の一種だ。刺身にするとうまいんだよ。拾ってくかい。うわ、すごい。こんなにでかいのは滅多にいないよ」
「ほら、あれが西表(いりおもて)だ。歩って行けそうだろ。行けるんだ。潮が退いたときにはね」
真っ白なサンゴが海底に敷き詰められ、水の屈折で海面に浮いて見える。この白いじゅうたんが小浜島の西海岸から、西表島の東海岸まで続いている。
このあたりには素朴な民家が多く、そのどこかに泊まっているのだろう。クルーザーに同乗した二人の娘が泳いでいる。赤や黄色の原色の水着が白と青、それに西表島の緑によく映えている。
「あのころは「はいむるぶし」に泊まっていた有名人がよくきましてね。最近は減りました。若い人が多くなって、利幅も減りましたね」
センターにあるレストランの料理長だ。ギアを刺身にさばいてもらった。池島佳苗を覚えていた。
「人気者だったですよ。マスコット、というんですか。いや、アイドルだ。なんかこう、センター全体が華やいでましたよね。マスコミなんかもよく来ていた」
あらためてアルバムを眺める。一枚一枚は申し分のない写真なのだが、何か引っかかる。どれもこれも、鮮やかに笑っているのだが、表情がみなハンで押したように同じだということに気がついた。それは篠山と写っているときでも変わりがなかった。
「お疲れさまでした」
東京に戻ると、編集部からの伝言があって、「戻ったら電話をよこせ」というのである。なんだろう、と電話をすると、「とにかく社に顔を出せ」という。暑い中、しぶしぶ出かけてみたわけだ。
「おう、ずいぶん焼けてるな。さぞやいいバカンスだったんだろう。ところで、珍しい人がキミを待っている。会議室にきているよ。行ってやってくれ」
「だれですか」
「篠山啓志だよ、篠山先生かな」
なんと、まったく予想もしなかった事態に立ち至った。なんの心の準備もないままに、いきなり篠山に会うハメになり、磯崎はいささか慌てた。
が、考えてみればいっしょに特集を組んだ間柄である。当然、磯崎の名も篠山に伝わっていたはずなのだ。とすれば、磯崎のほうから一言あいさつの声をかけておくべき立場であったのだ。そうした社交儀礼的なことに、磯崎は何よりも弱い。
それにしても、デスクは明らかにこの件だけで磯崎を呼び寄せた。要件も告げずに、である。もっとも、デスクが「篠山先生がお呼びだ」と告げていたら、磯崎はどうしただろう。いまよりももっと困惑していたかもしれない。いまはもう、出たとこ勝負。会うほかはない。
「よお、ご無沙汰じゃないか。レポート、読ませてもらったよ。力作だな、さすがにおまえだよ。胸のうえまで込み上げてきている怒りというのかな、その実感の前では、米軍の駐留を正当化しようとするおれの論文なんかすっかり形無しだ」
「ありがとうございます。篠山さんの文章は読んでいませんのでなんともお答えできませんが、私のレポートに関して言うならば、これは私の力量というよりも、沖縄がおかれた現状そのものが持つ切迫感といいますか、説得力ではないかと思うんです」
「うむ、それもある。確かにそれもある」
篠山は腕を組むとしきりに深くうなずくのである。磯崎は、篠山がこれから何を言いたいのかが読めずに訝った。が、次の瞬間、篠山は一転してリラックスした表情になった。
「石垣島に行ったんだってな。石垣のどこへ行ったんだい」
「白保です」
篠山はとっさに嘘をついた。
「白保を拠点にしながら、島を一巡りしてきました」
「白保はどうだった」
「よかったですよ。やはり自然の宝庫というんですか。海の恵みがすばらしい。ギアの刺身とか、ウニなんかもう、その場でほおばりました。ああいうのがほんとの贅沢なんだ、と思いましたね」
「離島には行かなかったのか。あの辺りはいいところがいっぱいあるだろう」
「ええ、残念ながら今回は時間がなくていけませんでした。いつか、西表か与那国に行きたいと思っています」
「西表はいいぞ。マングローブの原生林が鬱蒼としていて、川沿いにどこまでも続いている」
「行ったことがおありなんですか」
「おお、もうずっと昔のことだけどな。与那国には行ったことがない。あそこからは台湾が見えるそうだな」
「ええ、そのようです」
ひとしきり、八重山諸島の話が続いたが、ついぞ小浜島の話は出ずじまい。周辺をぐるぐる回っているような、居心地の悪い奇妙な会話になってしまった。
「ところで・・・・」
篠山の表情がまた一変した。
「磯崎は最近、おもしろいことを始めたそうじゃないか」
「おもしろいこと、なんですか、それは」
「とぼけたってだめだよ。おまえがなにをやってるかなんて、みんなお見通しなんだから。はっはっは」
「そうだとすると、ちょっと気持ちが悪いですねえ」
「まあ、おまえがなにをやろうとそれはかまわんさ。だがな、あれはだめだよ。芽がない。潰されてしまうのがオチじゃないかな」
「潰される。いったいどこが潰すというんです」
「野党かもしれない、アメリカ辺りからプッシュされた外務省かもしれない」
「アメリカ、ですか。つまりCIA」
「いやいや、そんなに短絡的になってはいかんよ。構造、じゃないかね。政治構造。つまりね、今の日本は、アメリカの行動をチェックできるような政治構造にはなっていないということだよ。わかるかね」
「それは承知しています。だからこそ、それを変えようとしている。チェックできる政治体質、社会体質を持たなければならないと思うんです」
「それをあんな直線的なやり方で実現できると思っているのかな。そんなことで実現できるぐらいなら、それを構造などといいはしない。正攻法でやってくるものを叩き潰す力を備えているからこそ、構造というのだよ」
「お説はわかります。だから、沖縄の米軍基地もやむをえないというわけですね」
「それはちがう。おれは少なくとも、米軍基地があのままでいいなんて思ったことは一度もないぞ。おまえのレポートにだって、ほんとうに心打たれている。現実の痛みを絶対に忘れてはいけないんだと思っている」
「私たちの合言葉は『地を這う取材』でしたからね」
「その通りだ。その点ではおまえに脱帽だよ。おれもたまには初心に返る必要がある。だがな、それだけでは構造を変えられない。構造の内部に分け入って、構造の中の矛盾を衝かなければだめだ」
「構造の内部のどこかと手を結んで、というんでしょう」
「そう、時にはそれも必要だ」
「たとえ、それが外国でも」
「そう、それも時には必要だ」
「いやですね。わたしにはできません」
「古いなあ、古すぎる。国を単位にものを考えるのはもう時代遅れだよ。もっと地に足の着いた生活のレベルに視点を置くべきじゃあないだろうか。その上で、自在な手段を模索する」
「篠山さんにそんなことを言われるとは思ってもみませんでした」
「そんなことはないだろう。これがおれの本当の姿だ。そして、今日おれがおまえを呼んでもらったのはほかでもない。磯崎におれを手伝ってほしいと思っているからだ」
「なんですって」
「そんなに驚くな。知ってのとおり、おれにはいま沢山の取材スタッフがいる。が、ほんとうに力のあるやつがいない。おまえが来て、引っ張っていってもらいたいんだ。もちろん、おれが考えるように動く必要はない。おまえが考える通りに動けばいい。『地を這う取材』が合言葉だ」
「ちょっと待ってください。それはあまりにもとっぴな話です。とても現実的とは思えません」
「それはおまえから見た場合だろう。おれからすれば別にとっぴな話ではない。もちろんすぐに返事をしろといっているんじゃあない。考えておいてもらえばそれでいい」
「それはそうでしょう。篠山さんはわたしが集めた材料を好きなようにカットして、使えばいいだけでしょうからね。篠山さんはいまや大沢のブレーンとしても、立派に地歩を固めている。そんな人の下で、いったいなにをどうして、自由に引っ張ることができるというんですか」
「大沢は民族主義者だ、いや、国粋主義者かな。いずれにせよ、おれとはちがう。おれがやつのブレーンとして地歩を固めている、などというのは、大きな間違いだ」
「そうはいっても、構造に分け入り、構造に取り入ったつもりが、もう足抜けできなくなって、構造の一部に化してしまう、ということもよくある話です。そうなったらもうなにも変えることはできません」
「だから、初心忘れるべからずだ。おまえに手伝ってほしい、という話と混同してもらっては困る。だが、やっぱり、あれはだめだ。骨折り損というやつだ。おまえなら別のやり方があるだろう。法律をいじるのは学者か役人に任せておけばいい。おまえには少しも似合わんぞ」
「法律をいじるのは似合わないという点はわたしも同感です。しかし、さっきの話ですが、あれはなかったことにしてください」
C I A の謀略 第8章 「待機」
アメリカ軍の整理・縮小と、日米地位協定の見直しの賛否を求める沖縄の県民投票は一九九六年九月八日に実施され、その結果賛成が八九%を越えた。
県民投票に法的効力はないとして、必死でボイコットを呼びかけた民自党などの抵抗もむなしく、全有権者の過半数にのぼる人々が、基地の縮小と協定見直しを求めて投票したことになる。この勝利に、沖縄は沸きかえったのである。
日米安全保障条約に付属する協定である「日米安全保障条約に伴う米軍および軍属の地位に関する協定(日米地位協定)」は、米軍人と軍属の日本におけるさまざまな「特権」を定めた協定である。さながら、占領軍の特権リストにも近い屈辱的な内容で、独立国を相手にした協定とは思われない条項で溢れている。
これによれば、日本の官憲は米軍人を直接捜査・逮捕できない。捜査権は軍警察(MP)にあり、軍警察が日本法に基づいて起訴した場合に限って、身柄を引き取ることができる。起訴せず、軍規に基づき本国送還にでもしてしまえば、日本の官憲は出る幕がないのである。
九五年九月に沖縄の少女を襲った三人の米兵も、地位協定に基づき、軍警察によって身柄を拘束された。日本側に引き渡すよう求めた沖縄県警の申し入れは無視されたのである。高まる世論と衆人環視の中、日本の裁判所に起訴されたが、環視がなければどうなったかわかったものではない。過去には、そのままアメリカに逃亡、という事件もあったのである。
実際、裁判中も、三人の米兵は、沖縄の世論が騒がしく「公正な裁判が受けられない」として、裁判の管轄権をアメリカへ移すよう、求めたのである。日本側の声が小さければ、裁判権さえ奪われかねなかったのだ。
こんな無法なルールがまかり通っている日米地位協定は、見直しどころか即刻破棄しても不思議のないシロモノである。ところが、政府・民自党は見直しを避け、運用の変更でお茶を濁したのである。
つまり、捜査権、逮捕・起訴権、裁判権など基本的な国家主権はすべてアメリカにゆだねたまま、殺人や強姦などの凶悪犯罪に限って、起訴前に身柄を日本側に引き渡す、という運用の変更をアメリカ側と約束したに過ぎないのである。アメリカさまの恩恵的措置によって、引き渡していただけるようになった、というだけのことである。
こんな交渉をやってのけた政府の役人は国賊というにふさわしい。そして、彼らはもう次のステージ、すなわち日米安保条約のガイドラインをアメリカの要求に沿って見直す交渉に入っていったのである。アメリカは日本の後方支援を取りつけ、アジア太平洋からインド洋に至る領域での安上がりな軍事展開を望んでいたからである。
一九九七年四月一一日、沖縄米軍用地の暫定使用を認める「駐留軍用地特別措置法」が、衆議院本会議で可決成立した。それも九割が賛成という、圧倒的多数であった。これによって、アメリカ軍の特権はさらに拡大した。
この、九割が賛成という驚くべき数字に、民自党の幹事長さえもが日本異変を感じざるを得なかった。彼はこの国会を指して「大政翼賛会になる危惧を感じる」と、演説したのである。
「Qの会」法制班の集まりがあったのは、この沖縄切捨て国会の一〇日後のことであった。この日のレポーターである杉井美紗は、会議が始まる前から浮かぬ顔つきで、「だめだったわ」「だめなのよ」とつぶやいていた。
「じゃあさっそく、杉井さんから、その『だめだったのよ』の中味を聞いてみることにしましょう。お願いします」
この日も大学で司書の杉井と同期だったという水越の司会で会議が始まった。
「前回の約束どおり、わたしは『規制法案』と『組織法案』とを、参議院法制局の知人にチェックしてもらうよう、お願いしてきました。
びっしりと赤い書き込みがはいっていて、手厳しくやられるものと覚悟して意見を伺ったところ、法案は比較的よくできている、とのことで、赤い書き込みは彼の熱意の現れ、とも言えるものでした。つまり、関係する条文と解釈で摩擦を起こす可能性を含め、考えられる限りでの参考意見が付されていて、法案の審議にも役立ちそうな書き込みなのです。
もちろん、法案がパーフェクトなはずはなく、字句訂正から条文修正まで、指摘された点はあります。たとえば『規制法(防諜法案)』の一〇条で『報告義務』を定めていますが、その但し書きに『不適当と認めたものを除いて』とある。これと『情報公開法』との関係が不透明だ、といわれました。
報告義務を原則にし、例外を列挙すべきだといわれました。
指摘された点を詰めていく作業は、それなりに大変だろうな、という印象を持っています。でも、そんなことは問題ではありません。『だめだった』のは、そんなことじゃあないんです」
「というと・・・・」
「だめなんです。わたしたちの計画そのものがだめなんです」
「どういうことなんでしょう」
「彼はこういいました。『それで、あなた方は何をしようというのですか。ソ連のスパイ、中国のスパイ、それともイギリスの、フランスのスパイから日本を守ろうというのですか。それなら有効です。あまりに平和的ですが、無駄ではありません。でも、まさかアメリカのスパイから日本を守ろうと考えているんじゃあないでしょうね』と。
『老婆心ながら言わせていただくと、そいつはできません』と。つまり、だめなんです」
「わかりません。どういうことなんでしょう」
「彼はこういいました。『だれが捜査するのですか。だれがどう、証拠を押収するのですか』と。
わたしは答えました。『第一義的には、違法を特定する警察官ですし、本法が規定する執行官にもその権限があります』とね。
彼は笑ってこういうのです。『相手が民間人だったら、それも可能ですよね。いわゆるNOCというやつですか。でも日本じゃあほとんどがオフィシャル・カバーでしょう。みんな軍人か外交官です。でも、彼らの捜査はできませんよ』と。あたしは頭を金槌で叩かれたような気分になりました。
『安保条約ですか』と聞くと、彼がうなづきました。
『日米地位協定ですか』と聞くと、やっぱりうなづきました。
『沖縄とおなじですか』と聞くと、今度も、深く、深くうなづきました。そういうことなんです」
「いま、杉井さんから、とても重大な話がされました。実はぼくもそんなこともあろうかと、日米地位協定を読んでみたんですが、確かにこんな条項がありました。地位協定のうち、刑事裁判権に関する合意書『五の47のa』です。ゆっくり読みますので、注意して聞いてください」
水越がメモを読み上げる。
「権限を与えられたすべての急使その他機密文書もしくは機密資料を運搬または送達する任務に従事しているすべての軍務要員は、その任務の性質により、その使命と所属部隊をたしかめるという必要以上に他の目的のためにその身柄を拘束されず、且つ、その所持する文書または資料はその所持を奪われ、開披され又は検査されない旨、相互に合意される。
犯罪がおかされ、且つ、日本国の法律執行員から要求された時は、右の急使その他の者は、任務終了後直ちに日本国の法律機関に出頭するものとする。かかる者が完全に能力を失ったときには、合衆国の軍当局は直ちに通知を受け、且つ、これらの者の所持する文書又は資料は開披され又は検査されることなく直ちに引渡されるものとする」
「なんだよそれは。めちゃくちゃじゃないか」
一字一句、聞き漏らすまいとしていたJETROの長谷川が、腹に据えかねたような表情で立ち上がった。
「つまりなにかい、犯罪を犯してくたばっているアメリカ野郎の所持品検査もできないというわけか。目の前でスパイされ、現行犯でとっ捕まえても、身柄拘束はおろか、その証拠品さえ押収できないということか。ふざけるなよ。こんな合意文書、いったいだれがこしらえたんだよ」
「沖縄だってそうじゃないの。これが沖縄の人たちの怒りだったのよ」
「まったくだ。強姦したってひき逃げしたって、スパイをしたってお構いなし。これじゃあやつらがつけあがるわけだ。謝罪してすむ問題じゃあないぞ。なめるなよ」
「長谷川くん、まだそんなに怒らないでよ。もっと先があるんだから」
「えっ、刑事裁判に関する合意書だけじゃ足らないっていうの」
「そうよ、水越くん。おなじ地位協定における基本労務契約に関する合意書、というのがあるの。これによれば、日本はアメリカのスパイ活動に対する必要な要員を提供しなければならないことになっているわ」
「なんということ。じゃあ、そいつを読んでみてください」
「日本政府は、つぎの要員を米軍に提供する義務をおう。『軍事情報分析員A』『同B』『上級作戦分析員』『軍事人類学研究分析員A』『同B』『情報調査員』『工場監察技師』『細菌学職』『製図師』『地理学職』『特殊語学顧問』『犯罪調査職』。
これらの職種がどんな任務を帯び、どこに配属されるのか、といったことはこの合意書に細かく規定されているわ。でも、実際のところなにをやっているかは『MSA秘密保護法』や『刑事特別法』『公務員法』の守秘義務などによって厳しくガードされ、外部に漏れ出さないようになってるの。この、外部というのは日本のことよ」
「ガオーッ、頭にきた。もう許せない、もう我慢できない。こんなことを押し付けておきながら、やつらは安保条約ただ乗り論を持ち出して日本を非難し、挙句の果てには思いやり予算まで分捕っていたのかよ。ふざけるなよ」
長谷川は真っ赤になって怒り狂っている。そして、他の参加者はみな青ざめている。
結局のところ、日米安保条約はアメリカの軍務要員の出入国の自由、関税調査の免除、免税、日本官庁優先使用権、航空管制・通信・調達における優先権、裁判特権など、あらゆる特権を保証している。そして、CIAなど、軍務要員とは無縁な機関員にも軍務要員と区別がつかないカバーをわざわざ保証している。
アメリカ大使館の職員は外交特権を保有したまま、外交官身分を秘匿できる。外交官ナンバーの車を使わなくてもいいし、外交官名簿に登録する必要もない。これによってCIAの機関員は軍務要員とも大使館員とも区別されずに、泳ぎ回ることができるようになっている。
「たしか春田さんは前に、日本の対CIAカウンター・エスピオナージは警察庁警備局外事課が担当している、といってましたね。ところが今の杉井さんの話によれば、日本の官憲は手も足も出ない。これはどういうことですか」
仕事が終って、社の会議室を覗いた組織班の春田が、そのまま討議に加わった。その春田昭彦に、待ってましたとばかりに長谷川宗之が質問を浴びせたのである。
「結局は日本の警察の体質だというしかありませんね。CIAは軍務要員でもなければ外交官でもない。だから、西ドイツ警察は一九五二年の暮れ、CIAの武装部隊のアジトを急襲し、全員を逮捕しています。
それによって米独の関係が冷え込んだかというと、そんなことはありません。時のアメリカ大統領アイゼンハワーはCIAのアレン・ダレス長官を西ドイツに派遣し、アデナウアー首相に対して何とか怒りを収めてもらった。礼を尽くしたわけです」
「沖縄の場合を考えてみると、実際、アメリカの横暴に対して一番腹を立てているのは現場の痛みを知る第一線の警察官じゃあないでしょうか。それなのになぜ彼らの中から不満の声があがってこないのか、それが不思議です。
普通の神経の持ち主なら、日米地位協定には反対してもおかしくない。それに、実際に協定を変えるだけの政治力を持っている」
「その、現場とは遠い、政治力を持った連中がおかしいのじゃないだろうか。彼らが、自らの政治力の源泉としてアメリカを、CIAを必要としてきた」
「でも、それじゃあ現場はたまりませんね。米軍基地をたくさん抱える都道府県では、警察官もストレスでおかしくなってしまうんじゃないだろうか。アメリカ人が絡んだ事件はみんな手が出せない」
「このコピーを見てください。一九九五年一一月四日付けの『週刊ダイアモンド』の記事です」
JETROの長谷川が一枚のコピーをひらひらして見せた。
「皆さんのこれまでの論議で、この記事が何を言っているのかようやくわかりましたよ。ぼくのようにすぐ頭に血が上る者にはなかなかこういう文章は読めません」
その記事には元警察庁長官の、こんなコメントが載っていた。
「CIA関係者を、かつてのソ連のKGB関係者と同列に論ずるのは間違いですよ。
日米はあくまでも"友好国"なのであって、米政府職員であるCIA職員を情報関係者だからといって一人一人尾行するなんてことはできるものではない。
しかし、彼らが盗聴、封書開封などの明らかな違法行為をしている"現場"を押さえた場合は別ですよ。だがその場合でも、今年二月にフランス政府が駐仏大使館員五人を国外追放したような措置をとれるかどうか」
そして、記事はこれを受け、「ただし、この元警察庁長官は今回の騒動を契機に『日本も諜報機関をつくれ』とする意見が台頭していることに対して、『それは危険であり、あまりヒステリーを起こさないほうがいい』と冷静さを保つよう警告している」と結んでいる。
「つまり、ぼく流に解釈すればこういうことですか。日本ではフランスのような対応を取ることは不可能だ。違法行為の現場を押さえることも難しい。だから、ほんらい、警察庁長官ともなればそうした事態を改善する立場にあるのだが、それはしたくない。
だから、主従関係にあるアメリカと日本を、友好国だからといいくるめ、事態を改善しようとする勢力にヒステリーという言葉を投げつけて、押さえ込もうとしているのだ、と」
「そうよ、そうだと思うわ。第一、あたしたちの中にCIAをKGBと同列に論じている人なんていますか。だれもいないでしょう。CIAの諜報活動はKGBのそれとはまったくちがう。KGBの活動のターゲットは日本ではなくアメリカだもの。それに対してCIAのターゲットは直接、日本。脅威の質が違うでしょうに」
「この元警察庁長官は、ほんらい、いま日本がアメリカとの関係において置かれている厳しい立場を国民の前に明らかにすべきなんだ。それを知る最良の立場にある。
諜報機関をつくろうとする動きに対しても、なぜ危険なのかを説明すべき立場なんだ。日米地位協定や、それをめぐる合意文書がどれだけわれわれの主権を制限し、警察官の活動を歪めているか、それを語るべきなんだ。
それを、こんなコメントでごまかそうとする。日本の警察のこの体質こそが、叩かれっぱなしの日本を作った。彼らが、日本経済を失速させた責任は大きい」
水越が、みんなの怒りを引き取った。
「で、どうします。問題はそれでしょう。つまりこれからどうするか」
水越の一言で、みんながようやく我に返った。
「そうね、それよね。この法案をどうするかよね」
「CIAの規制ができないんなら意味はないしなあ」
「あたし、ほんとは規制法には乗り気じゃなかったのよ。事業法一本でいいと思っていた。規制を増やせば利権が生まれ、知らないところで権力が育つ。そのイタチごっこはやめたいわ。でも、日米地位協定は許せないわ。これに楔を打ち込む手段がほしい」
「規制法は明らかに、地位協定に抵触する。条約は国内法に優先するから、日米安保条約を拘束することはありえない。しかし、地位協定の、しかもその周辺付属文書に過ぎない確認書が国内法を無視できるとは考えられません。国内法が作られれば、いずれは確認書の見直しが必要になる。そして、それが地位協定の見直しに結ばれていく。わたしは規制法が地位協定に楔を打ち込む手段になると思いますね」
「いずれにしても、時の勢いというものがなければ、議員立法の成立は難しい。つまり、時の勢い待ち、ということでしょう。しかも、その勢いは合意書の見直しはおろか地位協定の抜本改定を可能にするものだと思うんです。
だから、そのためにも規制法を準備しておかなければならない。タイミングのよい法案の提出は地位協定の見直しをも不可避にすると思うんです。われわれで協定の見直しを提案してもいいじゃないですか」
「つまり、我らの労作である『規制法案』と『組織法案』はこのまま維持し、完成に向けて引き続き細部を詰める、ということでいいんでしょうか。
反対者はなさそうですが、いかがですか」
水越が参加者一同を見回して、さらに続ける。
「法案の扱いはそれでいいとしまして、提出のタイミングを考える場合にどうしても確認しておきたいことがあります。皆さんは法案と抵触する合意書に不満をお持ちなのか、それとも、その大枠を決めている地位協定に反対しておられるのか、それとも日米安保条約そのものに疑問を感じておられるのか。その点はどうなのでしょうか」
「日米安保条約はどう見ても戦勝国と敗戦国の主従関係を基礎としたもので、友好や同盟といった対等な関係を目指したものでないのは明らかです。したがって、今日の、あるいは将来の日米関係を反映したものに変える必要があるのは確かです。
ただ、すでに日本の防衛体制は日米安保を前提に組み立てられてしまっている。したがって条約の破棄には十分な論議と準備が必要です。簡単に結論を出すのはむずかしい。
しかし、一部にあるようにこれを軍事条約から経済、社会を含むグローバルな条約に変えていこうというなら地位協定の抜本的な見直しが不可欠です」
「いや、アメリカがそんなことを望んでいるとは思えません。欲しいのは従属的な軍事協力と占領地同然の地位協定で、それらはワンセットだ。占領地扱いはごめんだ、と考える限り、安保は破棄するしかありません。というより、占領地並みの有利な地位協定を失ったら、安保条約をアメリカが破棄してくる可能性も大きい。われわれはそれを覚悟しておく必要がある」
「安保条約に対する距離の取り方は提出のタイミングと関係するものですが、法案の中味とは直接関係がありません。法制班で論議するより、全体会に諮る案件だと思います。
ただ、法案を準備しようという以上、これと抵触する合意書は破棄するつもりで結束したほうがいい。地位協定に関しては、その限りで見直しを求めるべきではないでしょうか」
「少なくとも、現状のままの地位協定ではだめだ、と。そういうことですね。みなさんはいかがでしょう」
この論議を聞きながら、磯崎は大沢八郎のことを考えていた。大沢は日本を「普通の国」にする、といいながら、もう一方で「日米安保の堅持」を主張していた。しかし、安保条約は日本を隷属国として扱っているので、普通の国とは矛盾してしまうことになる。
その点、「『NO』と言えるニッポン」の著者・石原慎太郎の場合はずっとすっきりしている。自主防衛、すなわち安保破棄なのだ。少なくとも、それを覚悟せよ、と訴えている。
大沢はこの自己矛盾をどんなふうに整理しているのだろうか。それがひどく気になった。そしてまた、大沢の「ブレーンではない」という篠山啓志。彼はこの辺りをどう見ているのだろうか。
「Qの会」が結成され、班構成になってから、堀田とじっくり話す場面が減っている。そういえばアスペン研究所が発表したジョセフ・ナイの『ライジング・サンを管理する』を分析する約束もあのままだった。
堀田のことだ。もうそれはしっかり済ませていよう。磯崎はぜひそれを聞いてみたいものだ、と思った。
磯崎は小浜島以来、手に入れた写真を持ち歩いている。が、顔写真から人名を確認するというのは意外に困難なものだということがわかった。写真に写った第三の男の正体はどうしてもわからずじまいだ。
大沢の秘書をしているという池島佳苗は今どうしているのだろうか。彼女に確認を取るのがもっとも手っ取り早い方法だが、それはまた、もっとも危険な方法かもしれなかった。
篠山啓志にぶつけるべきだったのか、とも考える。しかし、こいつはもう時すでに遅し、である。
それにしても、篠山と大沢の微妙なずれはなんだろう。篠山と大沢と、そしてひょっとしたら池島と、そのうちの誰かがCIAのエージェントに間違いはないのだが、篠山=大沢=CIAというそれまでの図式が、磯崎の中でいま確実に揺らいでいる。
「Qの会」の動きが筒抜けであることは、磯崎に対する篠山の言動ばかりではなく、いくつかの兆候から確実なものになってきていた。
大蔵、厚生不祥事はその後もとどまることを知らず、高齢者福祉施設の不正で、ことは大貫隆一の所属する厚生省年金局にも及んだ。そのさい、厚生男は上司から「Qの会」の活動内容を質され、「退会済み」と返答。「その立場を堅持するよう」釘をさされた、という。
「こうなったら活動内容を秘密にする意味はありません。活動を公然化し、超党派の議員立法をめざして歩みを進めたほうが得策じゃあありませんか」という溝口の意見が多数を占め、『積極待機』という言葉が会の合言葉のようになってきた。
そしてこの日(一九九七年七月三日)の全体会は初めて水島研究室から飛び出し、参議院議員会館の会議室で開かれたのである。議員会館の会議案内の掲示板にはみんながもうとっくに忘れていた「違法諜報活動阻止機関研究準備会」なる名称が掲げられていた。
代表幹事は春田昭彦、幹事には議員会館での会議をセットした杉井美紗、堀田豊、それに『山陰新報』の松永正紘の三人が名を連ねている。議員立法という性格上、役人には幹事をご遠慮願うとともに、水島系経済学者たちとも一線を引いた布陣である。
また、この日の会合には、顧問として超党派の国会議員が名を連ねた。会の趣旨は各会派に趣旨説明を行ったところ、相当に関心が高く、議員個人のレベルでは広範な層から受け入れられそうだ、という感触を持てたのである。
「やあ、遠くからお疲れさまでした」
春田が到着した松永を会議室の入口で出迎え、面識のない会のメンバーに次々と引き合わせている。磯崎も慌てて堀田を紹介した。
思えば磯崎や堀田がこの会と接触を持つようになったのも、松永が春田を紹介してくれたからこそである。その松永が堀田と初対面だったことに、磯崎はあらためて驚かされる。
会はまず、この日の設定に関しての、杉井の説明から始まった。
「党派に偏りが起きないよう、全党に声をかけ『今後の連絡を含め、顧問を一人立てて欲しい』と申し入れ、考慮中の二党を除き、賛同をいただいた。一会派から複数の顧問が出ているのは議員の希望によるもので、当会の偏りを示すものではない」というような趣旨であった。
続いて水越のほうから『防諜法案』の説明が行われ、参加していた議員や議員秘書に対し、法案成立への協力を依頼して第一部を終了。顧問議員の退席後、内輪の討論である第二部に移った。事情に暗い議員たちにいきなり懸案事項をぶつけるのは得策でないと思われたからだ。
第二部では、堀田が法案成立に向けての懸念される問題点、解決すべき課題を整理。これを受けて、最大の問題点である日米安保条約に伴う『地位協定』をどうするのか、の論議に入った。
口火を切ったのは中川伸一だった。
「その裁判権に関する合意書ですか。ひどい文面だと思いますね。もしアメリカが軍の関係者とCIAとを混同させようとしたら、わが国の官憲はなすすべがなくなる。
急使とかいう者に識別できる何かを義務付けなかったら、軍の急使であるのかCIAの隠密であるのかの区別がつかないだけでなく、他の一般アメリカ人、一般外国人、あるいは外国人かもしれない日本人との区別もつかないはず。そもそも警察活動が成り立たない」
「もう正確には覚えていないけど、昔、変な事件がいっぱいあったような気がする。
ファントム戦闘機が九州大学の校舎に突っ込んだときも、警察は現場確保以上の動きができず、米軍も学生の反対で機体回収を止された。戦闘機がいつまでも校舎に刺さっていたんで印象に残っているけど、警察の動きが鈍かったのは戦闘機が機密の塊だったからなんだろう」
「偵察機のU2機がXXXXXした事件でも、日本政府は嘘をつきとおした。アメリカの機密に触れるからなんだろうが、国会で国民をだますことが正当化されるとすれば、民主主義は成立しない。
合意書が、あるいは地位協定がこれを要請しているんなら、これは憲法違反であって、安保条約が国内法に優先するとしても憲法は越えられないのだから、協定は無効だということになる」
「つまり、地位協定に唯々諾々と従って、職務を遂行してきたと称する警察官、検察官、外務省の役人ほか、これを正当化し、深く追求せずに庇ってきた裁判官、政治家、評論家などはすべてが売国奴だということです。国家主権を放棄したこんな協定を受け入れながら国家権力を振り回すなんて、信じられない」
ここで堀田が立ち上がり、発言を求めた。
「みなさん裁判権に関する合意書へのご意見ばかりなので、あえて労務契約に関する合意書についての意見を言わせてもらいます。
現在の在日米軍の任務の七〇パーセント以上が、この労務契約で上げられている要員を必要とする、情報部門で構成されています。したがって、この要員は相当の数にのぼると予想されますが、その実体がまったく不透明です。
また、ほんとうに軍事上必要な情報なのか、それ以外の情報なのか、軍の情報機関に配属されているのか、CIAが要求するセクションに配属されているのかを確かめるすべはありません。
つまり、日本人が日本の資金でCIAのために情報収集や情報分析をさせられても、それを拒否できないどころか、その立場に置かれていることを表明することも許されない。こんなことが許されていいのでしょうか。
問題はこの諜報要員が秘密のベールに覆われている、ということです。たとえば、政府機関の研究員が、その身分のままでヘッドハンティングされてはいないのか。スパイとしての訓練を受けた上で、再度政府機関にもぐりこまれる恐れはないのか。確認のすべがまったくないのです」
「変ですよねえ。『工場監察技師』なんて、産業スパイそのまんまじゃないのかい。『細菌学職』なんて、生物兵器の研究者にちがいない。
在日米軍は一時、『地理学職』と『製図師』を大量に動員して、中国のすべての井戸や湧き水の位置を地図化していたそうじゃないか。細菌戦に際して細菌を投入する作戦図だろう。こんなものに日本人が動員されていいのかね。
幸い今じゃ、日本人の代わりにスパイ衛星がやってくれてるんだろうけどね」
「人道に関する罪ですか」
「確かに、他の軍事協力と同列には語れない問題があるね。しかも、行動の決定が外国にある、というのが問題だ」
「『情報調査員』『犯罪調査職』というのはなんですか。公安調査庁とか警察庁の関係者が協力させられるでしょうけれど、その身分はどうなっているんでしょう。ひどく気になるんです。そのまま使っているのかもしれない」
「まさか、それはないでしょう」
「いや、在日米軍やCIA同様、日本の捜査機関、情報機関も秘密のベールに包まれていて、闇は深い。捜査上の都合で、隠されていることがたくさんある」
「気になるというのは、先日の(六月二六日)判決です。共産党国際部長宅電話盗聴事件で、神奈川県警の現職(一九八六年当時)警察官五人の関与が認められた、あの東京高裁判決です。
判決は五人の犯行を立証しながら、盗聴を指令した黒幕の認定がない。にもかかわらず、国と神奈川県に四〇〇万円の損害賠償を命じ、警察庁も神奈川県警も関与を否定しながら賠償に応じ、最高裁への上告はしないという、不可解な結末です。
しかも八七年には神奈川県警本部長が辞職し、県警警備部長が総務庁に転出させられています。警察庁は始め引責人事ではない、としていましたが、後に、引責とも取れる発言をしています。
あたし、この事件には最初から裏があるんじゃないかと思っていました。というのも盗聴そのものはプロの仕事ですが、装置は旧式で、発見してくれといわんばかりに装置が放置されていたということ。それに、国際部長宅は東京都町田市にあるのに、警視庁ではなく神奈川県警の警察官が実行していること。これっておかしいと思うんです」
「なるほど、そいつはすごい推理だぞ。つまり、神奈川県警の警察官をアメリカ軍の諜報部、あるいはCIAが直接指揮した。こう考えれば多くの矛盾が解決する」
「ええ。残るのは、組織上そんなことが可能なのか、ということと、なぜ、わざわざ発覚するような手を使ったのか、ということだけなんです」
杉井の意外な問題提起に、堀田が強い関心を抱いたようだった。
「組織上可能かどうか、ということになると、わからないとしか言いようがない。しかし考えてみれば、不可能だという確証もない。そのぐらい、この国の警察制度はわかりにくいということだ」
「神奈川県警、というのはおもしろいですね」
ここに春田が割って入った。
「神奈川県というのは最初にCIAの工作訓練所ができたところです。武蔵小杉駅の近くにあった東川クラブというのがそれで、G2のキャノン機関もここに吸収されたんです。
CIAは初め、日本郵船ビルに本部を置きますが、その後、六支部体制をとり、厚木に統括本部を移します。アメリカ大使館支部は厚木の下に置かれたのです。
在日米軍の中枢が神奈川にあったことも見落とせません。横須賀海軍基地、厚木飛行場。とりわけ厚木はCIAの対中謀略基地として重要な役割を果たしていました。ここで多くの在日中国人を訓練し、スパイとして中国本土に送り出していたのです。
在日中国人が日本から消えるのですよ。警察の協力なしにできると思いますか」
「それだけじゃあない。人道上あまりにもひどいので、アメリカがひた隠しにし、いまだに資料の公開を拒んでいる事件がある。朝鮮戦争で北の捕虜になった一〇〇人足らずのアメリカ兵の救出に、一万人を越す在日朝鮮人が送り込まれた。何の援護もなく落下傘降下をさせられ、みんな犬死です。彼らも事前に厚木で訓練を受けていた」
「そうか、緊密な連携があったんだ。そうでなければ横浜や川崎を抱える神奈川県での警察活動は不可能だった。自治体警察だったら当然、米軍と何らかの密約を交わしただろう。たぶんそれはやむをえなかった。でも、それは当時のことで、今は・・・・・・」
「まちがえないほうがいい。今も基本は自治体警察だ。トップ人事を警察庁が押さえ、広域事件に対処する、というのが警察庁設置のタテマエだ。
けれど、戦後、内務省・国家警察を解体して自治体警察を作り出したアメリカにとってはどうだ。こんなタテマエは通じない。制度的にみてもそうだが、アメリカから見ればいまだに自治体警察のままだといえる。とすれば、交わした密約は廃棄する必要もない」
「なんということだ。もしそれが本当なら、とんでもないことだ」
「といっても、確認のすべはない。警察の内部情報が異様に保護されている今の政治構造のままでは、警察がなにをいおうと信用できるものではない。一定の情報公開を義務づけるほかはないわけだ」
「つまり、現職の警察官のままで、軍のカバーをかぶったCIAに指揮される、ということもありえないことじゃあないわけね」
「謀略工作までやるのは異様だけれど、依頼を受けて動くのは日常茶飯事なんだろう。だから、感覚が麻痺してくる」
「この辺りを徹底的に暴かなくちゃいけないわね。そうでなければ、防諜法を作ったってザル法にもならないわ。警察が情報をお届けしちゃうわけですもん」
「戦後の謀略事件と神奈川警察の関連を洗う必要もあるのかな。三鷹事件を仕掛けたと思われるアメリカ人が相模湖に浮いていた。が、その後の捜査はなぜかない。土地に詳しい人ならご存知だろうが、あそこは中央本線だが、神奈川県ですからね」
松永が、古い事件を紹介した。
「そうなると、もうひとつの謎だね。CIAに指示された警察官が、なぜ、すぐに足がつくような盗聴をやったのか、ということだ」
「絶対にあるぞ、何かの理由が。何とかそいつを見つけ出してやる」
長谷川が、また吠えた。
「みなさま、たいへん論議に熱が入っておるところですが、ここで少々お時間を頂戴し、わざわざ島根から駆けつけてくれました本会幹事でもあります松永正紘さんより、内務省系情報機関構想についての報告をお願いしたいと思います」
春田に紹介されて、松永がゆっくりと立ち上がった。会議室をぐるりと見渡し、やや間をおいてから、語りだす、このタイミングの取り方に、磯崎は政治家を目指した彼が身につけた風格のようなものを感じざるを得なかった。
「ここにおいでのみなさんは、どちらかといえば経済官庁型の思考をお持ちの方が多いのではないか、と思います。内閣官房でいうなら、内政審議室タイプとでも申しましょうか。
しかし、この国には外政審議室タイプの思考方法をもっぱらとする者も、安全保障室タイプの思考を得意とする者もおるもので、それらの研究を抜きにしては世の中、動きません。
ということで今日は、みなさんが見落としておられる内務省系情報機関構想について、お話しようと思います。この構想は未完ではありますが、すでに存在しております。すなわち、当会の構想同様、待機状態にあるわけです。
発案者は内閣官房副長官だった石原信雄(長野オリンピック組織委員長)。きっかけは一九九四年七月、北朝鮮の金日成総書記の死去を事前に察知できず、死去後も連絡体制の悪さから、有事に対する備えが何一つできなかったこと。そしてそれを受けて、首相官邸の危機管理の甘さがマスコミによって強く批判されたこと、だといわれます。
つまり、名目は官邸機能の強化であります。そして、その実体は内政、外政、安保の三室の壁を取り払い、共通の情報機関をつくること。その上に旧内務省、つまりは自治省と警察庁が君臨する、という支配の構図です。
一九九四年一〇月二一日付けの『産経新聞』はこれを「日本版『NSC』設置へ 『危機管理』見直し 内閣情報会議も常設に」と、報じています。NSCとは、アメリカの国家安全保障会議のことですね。
具体的には内政、外政、安保の三室長を局長クラスから次官クラスに格上げする。内閣情報調査室を事務局に、定例に関係局長会議を設置する。緊急時には安保室の下に連絡情報委員会を設置する。安全保障会議を充実し、テーマに応じて郵政、運輸、法務を参加させる。この四点です。
これによって、内政審議室傘下の三省が、緊急時には全省が安全保障室の傘下に入り、自治省・警察庁の官邸掌握が一気に進む。と同時に、外務・防衛の外政審議室の力が相対的に低下し、内政審議室はずたずたに引き裂かれる。
これはある種のクーデターなんです。大蔵省を中心に進んできた戦後体制の終わり、自治省・警察庁による戦後支配の始まりを意味している。
ここで注意して欲しいのは、これが単純な戦前回帰ではない、ということです。これによって防衛庁の力はむしろ低下する。軍と内務省との力関係は、戦前と逆転しているのです。
なぜこういうことが可能になったのか。それは脅威の質が変わったからです。仮想敵がソヴィエトから朝鮮民主主義人民共和国に代わったからです。彼の在任中の専売特許が半島の危機でした。明日にでもやってくる、と叫び続けて、地歩を固めていった。
官邸、すなわち石原信雄は朝鮮半島の危機を邦人の救出と、難民の上陸対策、散兵による小地域占領に絞り込み、その危機を煽った。こうした危機への出番は自衛隊よりも警察なのです。もちろん核の脅威もありますが、こいつは自衛隊でも対応できるしろものではないので別問題です。
中曽根時代の後藤田にもできなかったこと、内務省支配のクーデターが外政審議室、内政審議室の抵抗もなく進むかに見えた。それを可能にしたのが武下内閣から村山内閣まで七代、七年にも及ぶ長期にわたって、石原が官僚の最高ポストに君臨した結果だといっていい。
そしてもしこの構想が実現していたら、この会の『防諜法案』など日本版NSCの前で、吹き飛ばされていたにちがいありません。かりに、成立できたとしても、これがCIAを規制するものになるなど、とても考えられません。
日本版NSCは『防諜法』の実行組織を傘下に収め、CIAの情報をもありがたく頂戴して、この国の方向を決定していくことになるのは火を見るように明らかです。
しかし、彼はこの構想を隠密裏に進め、内閣官房長官にも報告しなかった。が、その一方で構想の重要性をマスコミにリークして支持を仰いだ。今お話した産経の記事などがそうです。これをマスコミは「大きなミスを犯した」と指摘していますが、どうでしょうか。私はこの時点では孤軍奮闘、ほかに方法はなかったのだと思っています。
時の官房長官は権力の肥大化に敏感な社文党の五十嵐(広三)だったからたまらない。構想の危険性をかぎつけた五十嵐は激怒し、石原のもくろみは頓挫した。とはいっても、彼は現実に官庁を横断的に動かした。構想は白紙といっていますが、実績は残ったのです。つまりタイミング待ち。息を吹き返すまでの、待機なのです」
「つまり、自治省・石原構想と、われわれの『防諜法案』と、二つの相容れない構想が待機状態にある、ということですね。
まえに法制班の会議で、元警察庁長官のコメントが紹介されたんです。長谷川さんだったかな。そのコメントで、日本にも諜報機関を、の声を『ヒステリーを起こさないほうがいい』と批判していたのは、そういう背景もあるのですね」
「と思いますよ。わたしたちの法案が成立すれば自治省、というよりも、警察庁を含む旧内務省・石原構想は抜本的に見直さざるを得ない」
「で、その後、内務省・石原構想はどうなったのでしょうか」
「眠っています。しかし、阪神淡路大震災で危機管理を仕切ったのは実質的に警察です。自衛隊の出動も、外国からの救援も拒否し、救助よりも身元確認を優先させた。これは朝鮮半島有事の演習のように見えました。
そして、待ってましたとばかりに背番号構想を打ち出した。住民票をベースにした番号システムの構築と、カードの携帯です。身元確認が手早くできれば危機管理がやりやすい、という論理です。
そして、オーム真理教の事件に対しては、法務省主導の破壊活動防止法適用に反対し、警察庁の捜査権限が飛躍的に高まる『組織犯罪対策法』を持ち出してきた。
個々の場面では確実に内務省・石原構想の足掛かりが築かれようとしているのです。
ほんとうのところ、構想を軌道に乗せ、これを花道に引退して、都知事選に打って出たかったのでしょう。が、結局は九五年の知事選に、空手で出馬することになりました。
自治省官僚が都知事を押さえる。これもまた、内務官僚の悲願です。彼はその実現のために、与野党相乗り、必勝態勢で知事選に臨んだ。
わたしが関心を持ったのは石見市長の岩槻鉄人の動きです。彼は自治省の回し者のような動きをしていましたから、表面はわきあいあいに見えましたが、武下昇にとっては目の上のたんこぶ。水面下では追い出しにかかっていた。
岩槻も石見市長は腰掛けにすぎないので、自治省の後ろ盾をもらいながら、東京都知事の座を狙っていた。そこに石原が天下ってくる。岩槻の目算は外れたわけです。
自治省としては島根県知事あたりで納まって、武下一派の金権政治を押さえてくれればありがたかった。が、自治省は岩槻を大きく育てすぎてしまった。島根県知事で納まる器ではなくなってしまったのです。
そこで民自党と自治省は彼を大阪府知事に押し込もうと全力で動いた。岩槻もぐらついたようだが、結局はご承知のとおり、政党の後ろ盾もなく都知事選に立候補。石原と激突するわけです。
ここには自治省の独善的な体質と、それゆえのもろさがうかがえます。この調整の失敗には石原構想の白紙撤回と似たものがうかがえます。しかし、なぜか実力以上に威勢がいい。強引な手法にはそれなりの目算、裏づけがあるはずなんです。
わたしはこの裏にはCIAの支持がある、と睨んでいます。
CIAは一九九〇年以降、軍事諜報から経済諜報に主軸を移した、といわれますが、もうひとつ、見落としてはならないのが警察諜報の重視です。麻薬、テロ、武器取引といった警察諜報を世界的に組織することで、アメリカの覇権を確立しようとしている。
自治・警察という旧内務省勢力はこれと結びつくことによって、国内での主導権を握ろうとしている。進取党の大沢と自治省官僚の石原は、CIAの力を背景に日本の既存権力を打ち倒し、実権を握ろうとする双璧なんです。
自治省にとって、都知事の座は何であったか。自治省の思惑にそった地方分権の指令塔です。逆にいえば、東京に反対されれば多くのことが行き詰まる。だから、自治省の構想外だった青島都知事の登場は青天の霹靂でした。
自治省はまず、都知事が就任するのが恒例の全国知事会長の座を『素人で不安だから』という理由で勝手に取り上げ、元自治省官僚の梶原岐阜県知事にすげ換えました。
狙いは何だったかというと、住民票ベースの番号システムを下から推進することにあった。梶原は知事会長名で、このシステムに賛成し、岐阜県独自でもシステムを導入する、と息巻いています。
コンピュータによる背番号管理をCIAが望んでいるのかどうかはわかりませんが、反対はしないでしょう。世界最大のコンピュータ・ファイルはNATO(北大西洋軍事同盟)のものかイスラエルのモサド(中央諜報機関)のものだといわれています。どちらもCIAに近い組織ですからね。
地元、島根の情報筋では、評論家の篠山啓志が岩槻政策事務所に送り込んだ池島佳苗の動向に注目が集まっています。ここの磯崎くんによれば篠山はCIAかもしれない、ということですが、われわれの間でも、その疑いを強めています。
その篠山が送り込んだ池島が、東京都知事選では岩槻ではなく石原を応援した。そしていま、彼女は大沢の秘書に納まっている。CIAはおそらく、岩槻よりもおいしい石原に乗り換えた。われわれは池島の動きをそう読んでいます。
ローカルな視点で申し訳ないが、そうだからこそ見えてくるものもあるんだと思っています。もうひとつ、言い添えておきますと、石原が考えている北の散兵による小地域占領のモデルが島根です。難民の大量上陸想定地でもあります。
わたしは石見市でカードの導入実験が行われたのも、このことと無縁ではないと考えております」