鎮 春(1)

 よく晴れた冬の日、11月26日。
 普通科のみのありふれた公立校に通う俺は、ただなんとなく学校をサボってみた。
 平日、学校を休むのは久しぶりのことだった。
 中学のころは自他共に認めるサボり魔だった俺も、高校に入学すると同時に考えを改めた。
 改心の良い機会だと考えたからだ。
 俺は、努力することが嫌いだった。
 中学時代。運動にしても、勉強にしても、大人はみんな俺を指さしてこう言った。
「努力しない天才は、凡人以下より性質が悪い」
 多くの友人は「お前の才能を妬んでいるんだろう」と言ってクラスメイトは俺の肩に腕を回した。
 眉を寄せて睨む体育教師は、俺の襟元を掴み上げてこう言った。
「やる気がないなら出て行け!お前のプレーはチーム全体の空気を悪くするんだ!」
 寒い寒い冬の午後サッカーをしていた日のことだ。
 ボールが回ってきたら得点を決め、自陣のゴールポストで談笑。ボールが流れてくれば得点を決める、そんなプレーを繰り返していた。
 俺は特に記憶力に長けていたらしく、人の癖を見つけるのが早かった。そして動体視力も良かったようで、相手の動きがよく見えた。
 そしてセンスも良かったらしく、人の技を真似ると、驚くほど上手くいった。きっと運動そのものにも長けていたんだろう、俺の抜き去った後には誰もついて来れなかった。
 それでも、俺が点を得た後に起こるのは非難や嫉妬ではなく感嘆の嵐だった。
 不思議と友達は多かった。
 恋人だっていたんだ。
 およそ世界は俺のためにあった。
 しかし、俺の心が満たされることはなかった。
 いつも何かが欠けていた。
 俺を中心に回る世界を尻目に、いつもどこか遠くの違う世界を見ていた。
 そして今も、何処か――ここじゃない世界を探して。
久しぶりに、街に出た。
 俺が住む県内には、ひとつだけ国内でも有名な私立進学校がある。
 俺の住む街から電車で8駅、県庁所在地である市に聳え立つ。名をラミア学園。
 真に頭のいい奴もいるらしいが、大体は金持ちの御子息様ばかりが通う嫌味な学校だ。
 よく整備された校舎故に国内から頭のいい人間が嬉々として入学を希望する。表向きには、とても綺麗な有名進学校なのだ。だが、地元には悪い噂が蔓延っている。在校生の半分が裏口入学だとか、警察とも内通していて問題をもみ消しているとか。貧乏人の僻みだろうと考えられるものがほとんどではあるのだが。
 そんな学校がある地域だけあって、周りの地域とは様変わりした、未来都市を模したテーマパークのような外観をしている。
 高校からも、国からも、大量に市に寄付されるからだ。
 昔、俺が住んでいた団地も、今では厭味かというほど分かりやすい高級マンションとなっていた。たった1年間、訪れていなかっただけなのに、街の様子はまたかなり変わっていた。


  →裏の路地を歩く。


昼夜問わず光と人が溢れている表通りは、独りで歩く俺には寂しすぎると考え、薄暗い裏の路地を闇に紛れて歩く。
 誰の視線もない、そんな空間に身をおくと心が落ち着く。
――だけど。
 前の方から、いかにも健全でなさそうな3人組がやってきた。
 無邪気にも談笑しているようだが、きっと、真ん中を歩く体格の大きな男の左腕のリストバンドには、ナイフのような刃物が潜ませてあることが感じ取れた。
 目が合った。
 気づくのが遅すぎた。
 道幅は5メートルほど、さっき通った分かれ道までは50メートル程度だろう。
 慌てて分かれ道まで逃げ走るのは、明らかに不自然であり、あの下衆たちに侮蔑の笑みを浮かべられるのは我慢しがたい。
 何より、3人組と俺との距離はすでに10メートルを切っていた。
 仕様がない。伏し目がちに進む先のタイルでも眺めながら、横を通り過ぎてやろう。
 そう決心して、息を殺す。
 が、それでも、
「おい」
――そう、こんなデメリットがあったりする。

3人組は俺を囲むように陣取ると、俺を壁際に追い詰める。
「なんだよ?俺、急がしいんだけど」
 強気に。
 決して臆病になってはならない。
 そんな表情は彼らの自尊心を満たすだけだから。
「お前、今こっち睨んでたろ」
 真ん中を歩いていた体格の大きな男の左手が俺の胸倉を掴む。首に掛けられたネックレスがジャラジャラと耳障りな音を立てる。荒い呼吸が耳につく。吐く息が臭い。
 ああ、もう。
「睨んでない。それと、アンタ口臭いよ」
 つい、口がすべってしまうじゃないか。

 体格の大きな男の表情が変わる。
 金に脱色された短髪の隙間から、額に浮かぶ血管が見て取れる。
 瞬間、男の右腕が振りあがる。
「コイツ――ッ」
 全力を持って放たれた男の攻撃は、しかし俺の顔面を捉えることはない。男の拳は、コンマ一秒前まで俺の顔のあった位置に叩き付けられる。
 グシャッ
 あぁコレは砕けたな、と急速に冴えていく頭の片隅でそんなコトを考えながら、俺は、男の打撃を避けるのに左足へとかかった体重を使って右の拳を男の鳩尾へと叩き込む。
「―――ッ!」
 事態を認識できていない男の口から唾液が弾け飛ぶ。やがて拳と腹部に生まれる苦痛に顔を歪めるが、喉を通るのは嗚咽だけ。
 レンガ張りの地に倒れる自分たちのリーダーを眺めて呆然と立ち尽くす、残りの2人へと視線を流す。
「ひっ!?」
 見た目とは想像つかない悲鳴をあげながら後ずさる、残りの2人は酷く怯えきっていた。少し前まで俺を恐喝していた身のクセに。
「どうする?まだ、続けようか?」
 攻撃的な眼を心掛けて問いかける。逃げてくれるのなら、それに越したことはない。俺の赤く腫れた拳を見ると、うるさい人間に心当たりがあるからだ。
「あ、っあ、ぁあああああああああああああああああ!」
 我に返った2人は、意外にも逃げようとはしなかった。
 仲間をやられた怒りか、もっと単純な闘争本能なのか、圧倒的戦力差を前に逃げるという利口な考え方を持ち合わせていないのか。なんの捻りもなく、ただ右腕を振り上げて俺に向かってきた。
 思わず嘲笑をこぼす。
 必死の形相があまりにも愉快だったから。
 向かってくる相手とわざわざ殴り合ってやる必要はない。地に左手を着き、駆けてくる相手の左足を、右足を以って蹴り飛ばす。不恰好に、倒れる男を尻目に背後で靴音を聞く。
 真横に跳ねる。
 同時に、風を切って残りの1人である長髪の蹴りが俺のいた空間を奔る。
 転がりながら、すぐに体制を立て直すと残りの1人も蹴りで傾いた姿勢を持ち直していた。
 蹴り倒した筈の男も立ち上がる。
 だが、男は倒れた拍子に左の半身を痛めている筈だと、頭が理解し体が動く。
 足元に滑り込んで右肘で腹部に打撃を入れる。衝撃からか前かがみになった男の顎に、右足のバネを利用して拳で強打する。
 男は俺の動きを理解も出来ないまま地に伏した。意識もないようだが、顎を打ったための軽い脳震盪だろうと推測できる。
 残った長髪はその場で軽くジャンプしてから、俺に向かってくる。
―左ジャブ、左ジャブ、右ストレート。
 構え、フットワーク、攻撃の切れから、こいつが何か格闘技の経験者であることが分かる。
 でも、大丈夫。分かるってことは、見たことがあるってことで見たことがあるってことは、相手の攻撃に対して対策が練れる、避けられるってことだ。問題ない。俺は傷つかない。
後退しながら、攻撃を回避する。相手がパンチしかしてこないことから、きっとボクシングとかの経験があるんだろうと推測する。
 長髪がバックステップを使って距離を取る。息を整え、構えを厳しくする。グッ、と拳を握り締める音がこちらにも聞こえてくるほどに、決意の瞳が俺に向けられる。
「お前、経験者だな・・・?」
 こちらも構え、問いかける。
 この手の人間は、やたらと自分の努力、実力をひけらかす傾向がある。答えてくれれば儲けもの。ボクシングなら対策も練りやすいのだが・・・・・。
「あぁ、まぁな。よく分かったじゃないか」
 やはりか、と。
「そのフットワーク・・・、ボクシングってトコかな」
 挑発的な口調で問う。
 男は一瞬、表情を歪めるが、すぐにもとの殺気だった表情へと戻る。
「あぁ、まぁ、そんなトコだ。我流も混じってるけどな・・・ッ」
 そう言って、向かってくる。
 その間、5メートル。疾走は一瞬。
 後退は危険。勢いのついた自分より大きな人間の突進を耐え抜くことは出来ないだろう。
 カウンターで反撃。――すればいいだけだ。理解はしている。だけど、ボクシングを使う人間の喧嘩を知らない俺は、少し戦慄し、すこし愉しんでいた。
 この危機感と焦燥と、未知への期待とが、俺を震わせ、満たしていく。
 相手は右利き。止めの一撃は右からだろう。
 左、左。
 一瞬右の腕が低くなる。来た!止め!
 体勢を低くしてかわし、カウンターで鳩尾へ!
―瞬間。
 目の前に広がったのは敵の膝だった。
 フェイント・・・。ボクサーが蹴りなんて使うなよ・・・っ。
 自嘲の笑みは一瞬。恐怖に瞳を閉じた瞬間、骨を強打する音を聞く。
 俺を確かに捉えたはずの止めの一撃は、しかし俺には届かなかった。
 目の前に人が崩れ落ちる気配と衝撃。おそらく長髪からのモノだ。
「姉ちゃん・・・・・」
 温もりに包まれて瞳を開けると、整った顔を修羅のように歪ませた義姉の顔があった。


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