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気仙坂

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若者の夢対価700%
☆★☆★2008年08月16日付

 「泰平の眠りをさます上喜撰/たった四杯で夜も寝られず」。江戸三百年の“太平の眠り”を破ったのは、一八五三年に来航したアメリカのペリー艦隊だった。上喜撰(じょうきせん)はカフェイン入り高級茶で、蒸気船と掛けている。
 この風刺歌に代表されるように、ペリー提督があまりに有名すぎて、江戸時代に来航した米国船は同提督率いる「黒船」が最初だとばかり思っていたが、実はその半世紀も前に日本に来ている米国船があるという。
 隠された歴史の奥深さを教えられたのは、去る十二日に大船渡市内で開かれたケセンきらめき大学主催の「食彩講演会」だった。イタリア料理の名シェフ片岡護氏とともに気仙入りしたフードコーディネーターの井上譲氏の講演では、“黒船の前の黒船”来航のきっかけとなったのは、「一人の若者の夢と冒険心」だったという。
 彼の名はジョナサン・カーネス。三十一歳になったばかりのカーネスは、マサチューセッツ州の北部に位置する小さな港町セイラムから一七八八年四月、わずか百トンの船でコショー貿易に船出した。
 肉食文化の欧米では、大量の肉の保存と味付けに香辛料は不可欠。その代表格がコショーで、当時の米国にはまだまだ品不足で、これを米国の東海岸からはるばる東南アジアの生産地まで買い付けに出かけたのがカーネスだった。
 初航海に二年の歳月を要したカーネスだったが、スマトラでの交易を成功させてからは船舶の大型化を図り、風上にも進めるよう帆も工夫して船足も速める。一七九五年の航海ではブランデー九百五十リットル、ジン五十八ケース、鉄十二トンを積み込んで出かけ、帰りには船底にあふれるほどのコショーを満載していた。
 寄港した彼を待っていたのは高値の取引であり、地元新聞による「今航海の対価はどのくらいか」の質問に答えたのが、「イエース、700%」。実に、積み込んだ貨物の七倍もの利益を得たというのだ。
 米国から三千マイルも離れた地への航海に、危険が伴わないはずがない。しかし、若者の冒険心が何倍もの見返りとなることを知った他の人たちが、新たな航海に挑戦しないはずがない。一八○一年、そのうちの一隻『マーガレット号』(二九九トン、サミエル・ダービィ船長)が、鎖国中の日本に入港することになる。
 セイラムを出港したマ号は当然、コショー貿易を目論んでいた。ところが船足がやや遅かったため、同じ日に出港した僚船よりスマトラ着が二十一日も遅くなり、目的地に着いた時にはコショーは品切れとなっていた。
 頭を抱えるダービィ船長にもたらされたのが、日本と唯一交易のできるオランダの東印度会社が、船足があり積載量の大きい商船を探しているというものだった。この要求に応えられると判断したダービィ船長は、東印度会社と契約のうえ、長崎の出島に入港したのだった。
 マ号には、ジョージ・クリーブランドという作家が船長書記として乗船していた。その彼が、長崎入港に際し「日本人の品物を見る目と取引の公正さ」に驚いたことを書き残した。井上氏によれば、その資料は現在もセイラムにある文化人類学専門の「ピーボディ・エセックス博物館」にあるという。
 交易はしたものの、厳しい鎖国中とあって長崎奉行所では米国船と知りつつも、いやそれ故か公式文書を残すことはなかったが、一人の若者の挑戦がありえないはずの歴史を作ることになった。
 マ号入港から半世紀ほどで、日本は開国を迎える。その原動力もまた、若き血潮をたぎらせた維新の志士たちだった。未知の世界に挑戦し、夢を達成するのは若者と相場が決まっている。固定観念にとらわれない斬新な発想と旺盛な行動力が、新しい時代の扉を開くのだ。新成人に祝意を贈ると同時に、果敢な大海原への船出も期待したい。(谷)

「五輪」「戦争」「地球」「お盆」
☆★☆★2008年08月15日付

 ある女性が私に「あなたはライトワーカーの一員なのね」と言った。聞き慣れない言葉だったが、その意味を調べてみて納得する部分があった。ライトワーカーは「光の職人」「光の使者」らしい。ごく簡単に言えば「癒し」「祈り」「光」を伝える人のことだそうだ。そういえば、不思議な出会いが続いているうえに、昼夜問わずに言葉が浮かんでくることがあり、それを伝えたくて仕方のない時がある。
 例えば、北京オリンピックの開会式を見ている際、「なぜ国境があるの。世界は一つ、人類は一つ。地球上の動植物を含み、すべてはつながっているのに」との問いが “降りて”きた。また、福祉関係の方が言っていた「健常者や障がい者と言った“区別”は必要ない。みな個性を持った一人ひとりの人間。
 障がいや病気は特別ではなく、その人に与えられた役目であり、生きる意味と喜びを伝える存在」との言葉も思い出し、「オリンピックとパラリンピックの開会式を合同で開催すればいいのに」と率直に思った。その方が素晴らしいことであり、今回の五輪テーマに掲げられている「世界は一つ」の意味がより深くなる。
 開会式後には紛争や戦争のニュースが流れた。前述のように開会式の様子でも漠然とした疑問が残ったうえに、依然として止まない戦争や紛争のニュースを見て、空しさや悲しさが募るばかりだった。「『地球は一つ。命は一つ』とする大きな大きな考え方を全人類が持てばいいのに」との言葉も浮かんだ。
 多くの宗教は人々を平和、平安に導くものであろう。宗派間の対立や紛争が起こるような宗教は「その本来の意味から逸脱しているのでは」と思うしかない。地球と人類には、すべて平等に太陽のような大きな光が与えられている。宗教とはその光に感謝する一つの入り口だと考える。入り口はたくさんあってもいいが、入り口の広さを争うようなことはいけない。
 ある障がい児の詩を紹介しよう。「人は人を殺す権利もないし、殺される意味もない」。一人ひとり、命は平等である。世界中には貧富の差や不平等と思われることなどが至るところにあるが、「命の重さ」「魂」「心」には格差はないはずだ。
 「世界遺産」というものがあるが、私は「細かな認定はいらない。地球全体が人類にとっての貴重な遺産であるから」と訴えたい。「遺伝子レベルで考えた場合、地球の動植物はすべて一つの遺伝子から始まっており、すべてがつながっている。『命』は宇宙の最高傑作。人間は地球生命としてみな三十八億歳」とある学者が言っていた。この意味でも「世界遺産=地球全体とすべての命」ではないだろうか。
 話題はややずれるが、きょうは月遅れお盆で日本にとっての「終戦記念日」。人間は学び成長するもの。多くの戦争による多数の死は、争うことの空しさや悲しさも教えてくれたはず。災害による死は自然の偉大さや備えの大切さを学ばせてくれたはず。病気や障がいは、命の大切さを学ばせてくれているうえに、医療などの発展の一助となっているのは確かだ。
 今、私たちが生きていられるのは、地球誕生以来の無数の「死」が支えてくれているものである。お盆は供養の念で祖先に感謝の気持ちを伝えるものだが、同時に、前述の無数の死にも感謝の気持ちを向けてほしい。そして、すべての生命の発展の場であり、人間が開発などの名の下に乱暴に扱ってきた「地球」に感謝しなければならない。
 「温暖化」は地球の“風邪”であるかもしれない。病原体は人間なのであろう。「風邪は万病のもと」で、すでに高熱の域に達し「病気の末期」に近いのかもしれない。特効薬はないが、優しく養生し、安静にし、人間からの“感謝”という栄養をふんだんに与えれば、熱が下がり元気になり、本来の姿に戻るだろう。(川)

観光資源
☆★☆★2008年08月14日付

 自然美豊かで、さまざまな観光資源に恵まれている陸前高田市。この時期の観光地といえば、何といっても高田松原と広田海水浴場が挙げられる。
 高田町で生まれ育った筆者。小学生のころの夏休みといえば、毎日のように松原へ出掛けて真っ黒に日焼けし、大学生になってからは帰省して陸上監視員をしながら砂浜で迷子探しなどに奔走した思い出がある。
 このように、昔から慣れ親しんできた松原だが、最近はどうしても海水浴の足が向かなくなってしまった。
 松原と広田の両海水浴場が今夏最多の人出となった十日、小学五年生と二年生の娘二人を連れ、家族四人で広田海水浴場へ出掛けた。砂浜は午前十時前というのにカラフルなパラソルが咲き乱れ、すでに多くの家族連れやグループでにぎわっていた。
 さっそく、わが家も砂浜にパラソルを広げ、くつろぐスペースを確保。筆者は娘二人分の体を埋める穴掘りに汗を流しただけで体力の限界。ふだんの運動不足を痛感しつつその後は泳ぐ気力がなくなり、水際で子どもの監視役に専念した。
 いつの間にか、わが家の海水浴といえば「広田」というのが当たり前となっている。それは松原よりも海の水がきれいなことが最大要因。県の水質調査でも松原が「良好」のA判定に対し、広田は「特に良好」のAA判定とのお墨付きがわが家族の足を向けさせている。
 小学生だった三十数年前までは、松原も今の広田同様に水がきれいで、胸まで水に浸かっていても自分の足先や底の砂が見えるほど透き通り、時折小魚が泳ぎ回るのが見えるほどだった。しかし、最近の松原は当時に比べ、だいぶ汚れてしまったように思える。
 市民の一人として、この美しい広田の海水浴場をこのまま後世に残していく努力はもちろん、松原の水質がより向上するよう努め、市内外から多くの人が訪れる観光資源として大切に保護していきたいものである。
 また、この時期の同市でのもうひとつの観光資源といえば、気仙町の「けんか七夕」と高田町の「うごく七夕」がある。
 中でも、千年近い伝統があるといわれている「けんか七夕」。色とりどりのアザフやボンボリなどで飾った山車をぶつけ合い、「舵棒」という丸太を相手の山車に突き刺すことから「けんか」と呼ばれるようになったもので、こちらは勇壮そのものだ。
 また、「うごく七夕」は、各祭組が工夫を凝らしながら思い思いの色鮮やかなアザフなどで飾り付けた山車をひきながら各地区を練り歩く。けんか七夕同様、笛と太鼓による威勢のいいお囃子が特徴。夜には山車飾りに灯りがともり、幻想的な雰囲気の中で華やかさを競い合う。
 今年も両七夕は、揃って伝統通り八月七日に運行した。しかし、同じ日とあって祭りを両方楽しむことができなかったのは非常に残念でならない。
 以前、うごく七夕は同日以外の日曜日に開催したことがあったようにおぼえているが、期日を伝統の七日に戻したのはどういう理由からだったのだろうか。
 山車の引き手は子どもが中心で、幼い子どもには家族が付き添わなければならない。まつりの主人公は子どもであり、子どもを多く参加させるには「大人も参加しやすい日曜日であれば」と切に願っている。
 七夕まつりを「伝統行事」ととらえるか、それとも「観光資源」ととらえるかによって考え方は違ってくると思うが、海水浴場と同様、七夕も同市にとって大きな観光資源であることは間違いない。日曜日開催とすることで観光客の誘致にもなり、地域の活性化にもつながるはずである。
 個人的には、お盆に近い日曜日の開催がもっともいいと思っている。帰省した市出身者らにも七夕まつりに参加してもらうことで、一層ふるさとに愛着を持ってもらえるはずである。
 今春からは「ふるさと納税」の制度も導入された。市出身者に「懐かしい夏」を楽しんでもらえば、寄付をはずんでもらうことにもつながるかもしれない。(鵜)

夏休みの過ごし方
☆★☆★2008年08月13日付

 厚生労働省の調査によると、今年の七〜八月に企業が予定する夏休みの平均日数は八・〇日。一度に連続して取る休暇の平均は五.・九日で、製造業が六・六日、非製造業が五・二日という。
 気仙でもここ数日、帰省らしい家族連れの姿が多く見られるようになり、海や山は活気を増している。商売がら夏休みはほんのおまけ程度しかない当方だが、役得と言っていいのだろうか、子どもや家族向けのイベントの取材を通じて、気分だけは十分に味わわせてもらっている。
 今月、住田町の五葉地区で「住田の里山de夏遊び」、大股地区で「すみた川遊び寺子屋塾」と銘打った一泊二日の体験企画が行われ、両方とも取材にお邪魔してきた。
 いずれも、住田町内の情報を発信しながらグリーンツーリズム活動を展開している「G・Tテグムの会」(佐々木康行代表)と、気仙地区内のグリーンツーリズムインストラクターたちでつくる「もさばロハス倶楽部」(菅野征一郎代表)が共催。
 両会では一昨年から、住田の豊かな自然の恵みに触れながら夏休みの思い出づくりをしてもらおうと、主に町外の人たちを対象にこうした企画を行っており、今年は「地域住民とのふれあいも」と、受け入れ民家を募っての民泊体験も設けるなど、内容に幅を持たせての実施となった。
 五葉では遠野や盛岡の小学生とその親、岩手大学の学生ら十一人が参加。気仙川の土倉橋付近での川魚つかみ取り、受け入れ民家での野菜収穫やバーベキューなどが行われた。
 川魚つかみ取りの写真撮影でははだしになって川に入ったが、足が痛くなるほどの冷たさで馴れるまで時間がかかった。川床の岩のすき間に腕をつっこみイワナをつかむという豪快なもので、一通り撮影を終えやらせてもらったところ、ビクッと魚の手応えがあった。「いた!」と年がいもなく興奮。「童心に帰る」を体感した。
 一方の大股でも川遊びがメーン。盛岡や埼玉からの参加者たちが、手づくりのいかだ下りに挑戦。クイズを通じて川の怖さについても学んだ。
 昼食は地区公民館で流しそうめん。涼やかな竹製の樋(とい)が設けられた。「東海さんも食べでがい」とのありがたいお言葉をちょうだいし、そうめんをはじめ鮮やかな見た目の古代米のおにぎり、キュウリの漬物などを遠慮なくいただいた。野趣あふれる、ということも手伝ってか、とてもうまかった。
 こちらには、去年五葉でのイベントで感想を聞かせてもらった盛岡市内の家族の姿もあった。「町中に住んでいるので、子どもたちに自然を味わってもらいたい」と、初回から三年連続で参加し続けているといい、家族全員が心から楽しんでいる様子を見るうち、気仙の豊かな自然を誇らしく思うことができた。外様のこちらでもそう感じたほど、参加者をもてなした主催者や地元の人たちは一層その気持ちも強かったのではないだろうか。
 郷土を愛し、そして深く知る有志によるこうした地道な活動が、着実に地域の魅力発信に結びついていることを実感させられた。今後も、取材を通じて少しだけ気分を味わわせてもらいながら、情報発信を手伝うことができれば、と思っている。(弘)

フレームを踏み破れ(下)
☆★☆★2008年08月12日付

 広告や雑誌を見ていて気付くのは“個性”とか“オリジナル”とか、“マイブーム”“私だけの”といった言葉が隆盛を極めていることだ。人の趣味嗜好が多様化して横並びを嫌い、狭くて深い、特化された知識が求められる傾向が強くなっている証拠だろう。
 書籍や音楽CDはそれが実に顕著だ。何百万枚も売れる大型作品より、ある一定層をピンポイントに狙った商品で地道に稼ごうという意図が感じられる。人の好みが細分化しすぎたために、思いきりターゲットを絞らないとどこにもヒットしない場合が多いのだろう。老若男女、その時代にいた全ての人が聞いたであろう美空ひばりのような音楽は、現代には存在しないと言っていいのかもしれない。
 過去十年ほどで雑誌の種類も激増した。女性誌なんて元から多いのに、そこへ今では団塊世代向けと、小中学生向けのファッション誌も加わり、化粧品、ネイル、果てはタトゥー(刺青)誌なんてものもある。驚くのは専門誌の多彩さだ。先日、『野宿野郎』という野宿専門の旅コミ誌の存在を知り、「ここまで来たか!」と腹を抱えて笑ってしまった。野宿、は極端すぎる例かもしれないが、総合誌の一記事にしかならなさそうな話題が、一冊の本として売れるほど人々の需要は細かく、深くなっているという実例であるだろう。自分とマッチしたものだけを選び、組み合わせるための取捨選択の幅が、うんと広がっているのだ。
 そんな中においてはやはり「新聞って、損な媒体なんじゃないだろうか」とつくづく思ってしまうのである。
 新聞はニュースを広く世に伝えることを第一義としている以上、情報を偏らせて何かに特化するというわけにはいかない。それゆえにニッチを突き刺すことができず、これ以上の読者を広げる余地が見つからない…多様性の時代において、「万人に平等な情報」というのはネックになりかねない面も持っているのではないか…と考えたのだ。けれどここで、「新聞の存在価値は今後も希薄になり続けるだろう」と言うつもりもない。
 雑誌は“能動的に選びとった情報”という側面が強い一方、新聞の美点の一つは、“知識を受動的に得られる”ところにあると私は考えている。などと言うと、「いや、新聞だって知りたいことを得るため自ら選んでいるんだ」と反論があるかもしれないが、自分が求めた知識以外、興味の範囲外のことまで載っているのが新聞だ。現在主流である「自分の知りたいことだけ知れればいい」というスタンスは、考え方の多様性を奪う危険性も孕む。新聞はその危険を阻止し、「知る機会」を与える役割こそ追求していくべきだ。
 テレビプロデューサーのおちまさと氏(先日、二十一歳下のタレントと結婚してニュースになっていたが…)が以前ブログに書いていたことを、同僚が「参考に」と見せてくれた。そこに書かれていたのはおおよそこういうことだ。
「新聞を読まない人が増えたからと言って、必死に過去と同じ数字を守ろうとしている。新聞を読まない世の中がおかしい、と嘆くのではなく、“家のポストまでわざわざ突っ込んでくれる”という他のメディアにない特性を上手に使えば、新聞はまだ進化できるはずだ」。残念ながら「ではどういう進化が考えられるのか」という提唱はなかったが、確かに新聞の宅配システムや詳報・一覧性は特異なものであり、そこに活路を見出せるような気はした。
 「知識は誰にも奪われない財産」だと言われる。至言だ。高尚なことばかりでなくてもいい。読む人にとって「財産」となるような、間違いのない情報が毎日家まで届けられれば。新聞業界の行く道は五里霧中ではあるが、全くの暗闇というわけでもないのだと思う。(里)

忘れてならない地域課題
☆★☆★2008年08月10日付

 “鳥の巣”を中心会場に北京五輪が開幕し、高校野球も佳境。さらに月後れ盆も目前と、まさに盆と正月が一緒にやってきたような今夏だが、気仙地方には言わずもがなの焦眉の課題として自治体合併がある。
 現在は、陸前高田市と大船渡市の先行合併が協議のテーブルにつくか否かの段階だが、それは住田町がいつ合併協議に加わるかという問題とも関連しているだけに、合併問題は気仙全体の課題として認識する必要がある。
 本欄でも何度か指摘しているが、気仙は向こう三十年で人口半減の見通しにある。それが気仙の政治、経済、社会に何をもたらすか。繰り返すが、大規模な戦争や災害があったわけでもないのに、これだけの人口減が進むとは尋常な事態ではない。
 二百四の国と地域が参加した北京五輪の開会式を見ていると、人口三万人で一国が成り立っている現状もあった。それを考えると地方自治体は千人か二千人でも成立する理屈だ。しかし、それは急激な変化がないことが前提。わずか三十年かそこらで人口半減となると、国であれ地域であれ、あるいは企業であれ学校であれ、組織の維持が困難となってくる。
 仮に名前だけ残っても、住民生活には大きな変化を強いられる。気仙が今なぜ、この難しい課題をオリンピックやお盆の最中にも忘れてならないのか。それは、制度的な支援があるうちの合併選択には、残された時間は今秋までに限られているからだ。
 「貧乏人と貧乏人が合併して何になる」とまで言われた大船渡市と三陸町の合併。六年が過ぎて、どうなっているのか。旧三陸町では施設数で幼稚園三、保育所等五、小学校五、中学校三、火葬場一、消防出先二、診療所四、役所出先三と、合併前と同様の状態を維持している。
 しかし、一部税制では引き上げもあり、旧役場本庁近くの商店等では職員や出入り業者の減少で影響があった。では、旧三陸町とあまり変わらない人口で自立を維持してきた住田町はどうか。
 幼稚園・火葬場ゼロ、保育所二、児童館一、小学校二、中学校二、消防出先一、役場本庁一、役場出先ゼロ(一部業務は郵便局委託)。役場本庁舎の改築計画は無期延期状態となり、町政とは直接関係ないものの町内にある県立病院は診療所に格下げされ、県交通のバス路線も一部ルート変更された。
 合併した旧三陸町地域はほとんど変わらないのに、自立の住田町で住民サービスの低下とみられるような現象があるのはどうした理由なのか。
 大船渡市と三陸町合併では職員七十人の合理化が可能となり、これまでに五十人以上が減員されている。合併には痛みも伴うが、「究極の行革」と言われるだけの財政効果もある。しかし、合併効果が生ずるまでには一定の年数がかかり、逆に合併当初はシステム統合等に余分な経費がかかる。
 現在の合併新法ではそうした事情を考慮し、新法期限内合併には財政支援となるような制度を残している。その金額は、簡単に無視できるほど小さなものではない。しかし、合併には馴染んだ市町名が消え、本庁がどこかへ統合されたり新設されたりで移動することもある。
 名を取るか、実を取るか。気仙の分岐点が目前に迫っている。合併か否かを選択するのはあくまで住民であり議会であるが、時期を過ぎてから「あの時真剣に考えていたら」と後悔だけはしないようにしたい。
 いや、それ以上に大切な事は「なぜ合併か」の議論を通じて、自分の市町の置かれた厳しい現状を認識することが最大の財産になるのではないか。漠然と「何とかなるだろう」という将来に無責任な態度は消え、「何とかしなければ」の危機意識が出てくると思うからだ。(谷)

「同級生はいいもんだ」
☆★☆★2008年08月09日付

 いつのころから始まったか定かでない民俗行事や慣行、社会生活は数多くあるが、近年はそれを受け継ぐ若者の流出や都市化の進行などに伴って、自然消滅したり、かろうじて伝承されているものが少なくない。
 大船渡市史(民俗編)に記述されている事項に限っても、農作業などを互いに助け合う「よいとり」(ゆい)は作業の機械化や業者への委託などでいまや“死語”に近いし、金融や信仰、地縁などによる各種の「講」はめっきり減り、害虫や害鳥を追い払う「虫送り」「鳥ボイ(追い)」、ナマハゲに似た「ヒガタタグリ」なども目にすることができなくなってしまった。
 もっとも、怠け者を戒める「ヒガタタグリ」は同市三陸町吉浜の「スネカ」、同越喜来の「タラジガネ」のように、地域の文化遺産として大切に継承されているものもある。が、同市史には見たことも聞いたこともない事柄はかなりある。
 そんな中、延々と続いているのが厄年払いや年祝い行事。厄年は陰陽道で教宣されているもので、厄災が多く振りかかる年齢。男は二十五、四十二、六十一歳、女は十九、三十三、三十七歳(いずれも数え年)が本厄で、それぞれ前後一年に前厄と後厄があり、本厄同様に注意が必要という。
 中でも男の四十二歳、女の三十三歳は大厄で、とくに災難や凶事に遭う年とされる。「その年齢だからということはないんじゃないの」と若い人たちの声が聞こえそうだが、十九、二十五歳は若さにまかせて無茶をしたり、三十三、四十二歳は中高年期への移行期で、心身ともに人生の曲がり角。思わぬ事態に遭うことも少なくない年代。その年になれば「なるほどなぁ」と思うはずだ。
 よその事情は承知していないが、当地における厄払い行事は女の大厄と男の大厄の年に厄災解除の会などと銘打ち、多くの地域で催される。小学校時代の同級生が「万難を排して」故郷に集い、物故者を慰霊するとともに、人生の転機、節目を迎える健在な者同士が気持ちも新たに頑張っていこうと誓い合う。
 卑近な例で恐縮だが、団塊世代の筆者はこれまで三十三と四十二の二回の厄災解除の集いに、故郷に住んでいる同級生と一緒に実行委員として関与した。それぞれ二年前ごろ、誰からともなく「おーい、厄払いの年が近づいたぞ。相談しようや」と声が掛かり、地区の公民館に集まって準備に取りかかった。「先輩たちはこうしたそうだ」「おれたちはこうしようや」など“喧々諤々”の論議を交わしながら、〇〇は△△係などと個々の持ち味や特技に合った役割分担を決定。
 本厄の前年には前厄払いと称する同級会(同窓会とは決して言わない)を開いて“露払い”したのち、予算や会の次第を決め、会場を手配し、案内状の発送や出席者の取りまとめなどの庶務を経て、翌年本厄払いを迎えた。遠地にいる懐かしい同級生はもとより、お世話になった恩師も招いて遠慮のない(?)楽しいひととき。もちろん、自分たちの無病息災だけではなく、会の初めには寺社に詣でて早世した同級生の冥福も祈った。
 実行委員は終わったあともひと仕事。会計決算をしたり記念誌をつくったりしているうちに一年はあっという間に過ぎ、すぐに後厄払いの会。しかし、「みんなが喜ぶなら」と誰もが労力を惜しまない。「ご苦労さんだったね」「お世話になった。ありがとう」という声を聞き、「同級生はいいもんだ」と絆をさらに強め合った。
 こうした行事は現在、単に同級会として簡略化する若い世代の動きもあるが、その際は物故者の追悼や恩師の招待はぜひ続けてほしいと思う。筆者らは来年、本厄のひとつである数えの六十一、つまり「還暦」を迎える。厄年より「年祝い」の色合いが濃く、地元有志で準備委員会をつくり間もなく前祝い会を催す。懐かしい顔、久々の顔に会えるのが待ち遠しい。(野)

知るほど驚くばかり
☆★☆★2008年08月08日付

 前回は我が家のツバメたちについて紹介した。
 ツバメはスズメやカラスとともに、私にとっては子どものころから見慣れた最も身近な鳥だ。
 ツバメが巣をかけると「縁起がいい」という言い伝えがあることは知っている。しかし、それ以上のこととなると、聞かれてもなかなか答えることができない。
 我が家にヒナたちが生まれたのを機に、調べてみた。この後の話の大半は八王子・日野カワセミ会のホームページ『ツバメQ&A』を中心とした受け売りである。
 だいたい、ツバメはどれだけ生きるものなのか。ヒナから成鳥になるまでの半年の間にカラスなどの天敵に襲われ、命を落とすツバメが八割近くもいるらしい。天敵をうまく逃れ、病気にかからなかったツバメの平均寿命は約七年。中には十六年近く生きた観察例もあるとか。
 浅学な私もツバメが「渡り鳥」であることは知っていた。しかし、どこから渡って来るのか、と聞かれ、答えに窮してしまった。
 なんでも、台湾やフィリピン、マレー半島、ボルネオ島など東南アジアのほか、オーストラリアからもやって来るという。「よくもまあ、そんな遠くから」と、調べてみて私自身、驚いた。
 そうした遥か南の地から集団ではなく、一羽ずつ、しかもオスはメスより数日早く繁殖地に飛来する。生きている限り、前年と同じ巣に戻ってくる傾向もあるとか。
 太陽を目印に、自然の猛威が渦巻く大海原を越え、海岸線や山、川までも判別しながら渡ってくるらしい。渡り時の平均時速は五十五〜六十キロ。時速二百キロ以上の高速飛行もでき、一日に三百キロ以上も移動するという。
 体長約十七センチ、翼長約十二センチ、体重約十七グラムのツバメ。その小さな体のどこに、そんなエネルギーと能力が秘められているのか。知れば知るほど驚くばかりだ。
 ツバメは一夫一妻制で、巣作りも、子育ても共同で行う。そんなツバメの夫婦が子育て中にエサを運ぶ回数は一時間当たり約四十回、一日では約五百二十回にもなる(一日の活動を十三時間とした場合)。ある観察例では、五羽のヒナに一日最高六百三十九回もエサを与えた記録がある。
 エサはカやハエ、ハチ、カメムシ、ウンカ、アブなどの昆虫が中心。いずれも空中を飛んでいるところを捕まえる。その中には人間や農作物に害を与える虫も多く、ツバメは昔から「益鳥」として大切にされてきた。
 親鳥たちは一日に五、六百匹の虫を毎日捕まえる。自分たちが食べる分を含めると、一日に千匹ほど捕食することになる。私たちのまわりに、それだけの虫が飛んでいることもまた、驚きだ。
 我が家の親鳥たちも毎日、休む間もなく大忙しだった。その姿を見て、ぐうたらな私など、とても親ツバメにはなれそうもないと思ったものだ。
 それにしても、どれもみんな似たようなヒナたちに、どうして親鳥は万遍なくエサをあげることができるのだろうか。親鳥は大きな口を開けているヒナから順にエサを与える。お腹のすいているヒナほど前に出て大きな口を開けているので、親鳥はそれを見分け、最後にはみんなが同じくらいにエサをもらえるのだという。
 巣立ったヒナたちは河川敷やため池などのヨシ原などに移動し、数千羽から数万羽の大集団で生活するとか。我が家のツバメたちも今ごろは、盛川の河川敷辺りで生活しているのかもしれない。秋には南へと旅立ってゆく。無事目的地にたどり着き、来年再び戻って来ることを願うばかりだ。
 それにしても、ツバメのことを一つとっても、なんと知らないことの多いことか。今回はツバメたちにさまざま教えてもらい、大儲けした気分になった。幾つになっても学ぶことは尽きず、また楽しいものだとつくづく思う。 (下)

大船渡は、大昔は「南半球にあった」
☆★☆★2008年08月07日付

 大船渡市内の石灰岩から、なぜ、南の海に生息する「サンゴ」の化石が大量に産出するのか。それは、我々のよって立つ大地が、大昔は南半球にあった―からだそうだ。
 大船渡はかつては南の島だった。そのことを示すものが、日頃市町樋口沢の古生代シルル紀(旧名ゴトランド紀、約四億二千方年前)の石灰岩の地層で、日本で最も古いサンゴの化石が発見されて一躍脚光を浴び、国指定文化財となっている。
 独立行政法人海洋研究開発機構特任上席研究員の藤岡換太郎理学博士が、大船渡港で先月開かれた海フェスタで来市した時に、この樋口沢のシルル紀の地層を含むエリアを高く評価し、ジオパーク(地質公園)の創設を提言した。ユネスコが推進を支援する世界ジオパークの認定を目指せと、この欄でも書いたが、今回はその続編。
 地球の変動について藤岡博士が説明したなかで、大船渡は、大昔はサンゴ礁の島で、南半球旭あった可能性を示し、日本列島の成り立ちについて語っていた。
 「サンゴ礁に刻み込まれた地球変動」(海洋研究開発機構発行、海と地球の情報誌BlueEarth掲載)と題する藤岡博士の論文によると、地球の表面は十数枚のプレートと呼ばれる板状の岩盤に覆われている。
 暖かい海に生息するサンゴは、サンゴ礁をつくり、石灰岩はサンゴ礁を起源として形成される。そのサンゴ礁の島は、海洋プレートに乗って一年間に数センチから十数センチの速度で移動するのだという。
 サンゴ礁の島だった大船渡の石灰岩は、現在の日本列島周辺で形成されたものではなく、南半球にあって赤道地域で発達し、海洋プレートに乗って日本列島にくっついたものらしい。
 古生代の大船渡がサンゴ礁の島だった―というなら、現在のどの範囲までがそうで、どのような島の形をしていたのだろう。
 地質に詳しい、北里大学海洋生命科学部非常勤講師を務める市職員の佐藤悦郎さんによると、それは、「大船渡−盛岡−石巻」の三地点を結んだ「南部北上山地」と呼ばれるエリアであるという。それが突き刺さったような形で今の日本列島になったらしい。
 このエリアの基盤岩が石灰岩であり、日頃市町樋口沢のシルル紀の石灰岩から出るサンゴの化石は、南半球のオーストラリアのものと共通しているのだとか。
 「もしかしたら、四億年前はこの大船渡の基盤岩は、オーストラリアの陸地の片割れだったのでは」と佐藤さんは推察する。
 古生代に南半球にあった大船渡の島は、赤道を越えて北上し、その後、いくつかの島や大陸との合体や分離といった、もろもろの複雑な変動を経て、現在のような日本列島が成立したというのが、今では有力な説となっているという。地質から日本列島の生い立ちが解明されていくなかで、その生い立ちの一端が、樋口沢の地層や碁石海岸にある市立博物館の化石群で見ることができる。
 佐藤さんの説明で面白いと思ったのは、日本海ができる以前、秋一吉台のある山口県などの西日本は朝鮮半島と合体しており、そこに、大船渡のサンゴ礁の島が、南半球・から北上、接近し、西日本より下の南にあったということ。つまり、現在とは南北の位置関係がまったく逆転していたというのだ。
 その後、日本海ができたことによって、大船渡のあるサンゴ礁の島は、反時計回りに北へ移動したのだとか。
 「北へ行くほど、明るさを増す、南北の、明暗の逆転」という文章を、何かで目にした時(漠然とだが、それが真実であるように思えたのは、今、我々が住むところが、東北に位置するが、どこか他とは違う風土、明るさに満ちていると感じていたからだ。
 「風土」の文字には、「土」が入っている。南半球のサンゴ礁の石灰岩を基盤岩とする大船渡。
 この明るい風土は、もしかしてサンゴ礁の島だったという説に由来するのではないか。
 日本列島の南北の位置の逆転の歴史。その説を聞いて、納得するものがあった。(ゆ)

「子守唄」で目が覚めた
☆★☆★2008年08月06日付

夢ごこちの枕元に流れてきたラジオの「子守唄」で、目が覚めた。
 それは「竹田の子守唄」。昭和四十年代後半に「赤い鳥」というフォークグループが歌っていた。男二人、女二人のグループで、その後、「紙風船」と「ハイファイセット」に別れて活動している。
 赤い鳥には、「翼をください」や「赤い花、白い花」などヒット曲も多いが、筆者がこの「竹田の子守唄」にこだわるのにはワケがある。
 大船渡市農協会館が完成して間もない頃、大ホールで労音(ローオン)という音楽団体の主催で赤い鳥コンサートが開かれた。その時、はじめて聴いたのが「竹田の子守唄」。その叙情的なメロディーに心惹かれるものがあった。
 高校時代、赤い鳥のLPレコードをはじめて買った。その頃から何故か、この「子守唄」がラジオやテレビで流れなくなった。
 この歌が「放送禁止歌」になったらしいことは、あとで知った。歌詞の中にある言葉が部落差別を想像させるというのが理由だったようだ。幸か不幸か、子供の頃から「部落」という言葉にとくに違和感を持たずに暮らしてきたこともあり、さほど深く考えることなく大人になっていた。
 話は、"真夏の夜の夢"にもどる。
 ラジオから流れる「子守唄」をとても懐かしく聴いていたら、女性パーソナリティーが「この歌は、自主規制で一時期、放送できませんでしたが、今は誤解も解けており、ラジオで紹介しました」と語った。
 忘れていたものが、ポンとはじけ出たような気がした。眠気も一気に吹っ飛んでしまった。そして、どうしてもその真相が知りたくなった。「いったいこの歌のどこが問題だったのか」。
 『守りもいやがる盆から先にゃ、雪もちらつくし子もなくし』
 『盆が来たとて何うれしかろ、かたびらはなし帯はなし』
 『この子よう泣く守りをばいじる、守りも一日暮れるやら』
 『早よも行きたやこの在所こえて、向こうに見えるは親の家』
 歌詞を何度も口ずさんでみたが、卑猥なところも見当たらないし、政治的な偏向や個人、団体を誹謗中傷するものもない。
 フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、この歌は、現在の京都市伏見区竹田に伝承された民謡で、そもそもは住井すゑの「橋のない川」が舞台化される際、音楽担当者が被差別部落の竹田地区で採集した民謡を編曲。それが竹田地区の部落解放同盟の合唱団のレパートリーとなり、フォーク歌手たちに広まったとされている。
 のちに赤い鳥が、この歌をシングル・カットしてミリオンセラーとなるが、「部落問題がらみの楽曲であった」ことから、日本の放送局はこの歌を放送したがらなくなり、いわゆる放送禁止歌として長い間封印されることになった。
 『在所』が部落のことを意味していることは察しがつく。解説書には、その「子守唄」には貧乏人や下層民の哀歌や怨念が潜んでいるという説明もあった。確かに、やや暗い内容の「竹田の子守唄」は、「五木の子守歌」に相通じるものがあるし、あのテレビドラマ「おしん」をも連想させる。
 じつは、この「早よも行きたやこの在所こえて、向こうに見えるは親の家」のフレーズは、筆者にとっては心がチクリと痛くなる部分でもある。
 学生時代、慣れない東京での一人暮らし。田舎者の自分にとっての「在所」は大都会であり、「帰りたいけど、帰れない。もう少しがんばってみっか」と、ホームシックをまぎらわす、独り寝の子守唄(応援歌)でもあったからだ。(孝)