きょう十五日は六十三回目の終戦記念日である。先の大戦で亡くなった犠牲者に哀悼の意をささげ、平和について静かに思いめぐらす一日としたい。
戦争体験の風化がいわれるようになった。戦後生まれで戦争を知らない世代が日本の人口の四分の三を占めるようになったからだ。若い世代にとって、戦争は遠い歴史の一こまとなってしまったかのようだ。
しかし、この時代を生きた人々にとって戦争は決して忘れることはできない現実だった。兵士となって戦った最前線の悲惨な記憶だけではない。爆撃機が落とす焼夷(しょうい)弾に家を焼かれて命からがら逃げまどった人、毎日の食べ物に事欠き空腹を抱えた集団疎開の児童など、それぞれの記憶は鮮明だ。六十年以上が経過しても、愛する肉親を奪われた嘆きや悲しみは決して癒えることはない。
多くの日本人にとって八月十五日は、昭和天皇の玉音放送で戦争が終わった日として記憶されている。敗戦のショックと虚脱感に襲われ、今後の生活への不安が募る一方、心の奥底で「これで戦争に行かなくてすむ」「もう空襲はない」と、ほっとした人は多かったはずだ。
だが、中国東北部の旧満州にいた日本人にとっては、十五日は平和な生活の始まりを意味しなかった。旧ソ連軍の参戦で逃避行の最中だった。本紙十三日付のくらし面には、旧満州の開拓移民の引き揚げ者で、中国残留孤児の支援を続ける岡山市の船越美智子さんの体験談が紹介されていた。
船越さんにとって、十五日は旧満州の山中で祖母が息を引き取った命日に当たるという。父に背負われて飲まず食わずで避難した四日目で力が尽きた。一家はソ連軍に捕まり、翌年には飢えと極寒の収容所で父が亡くなった。やっとの思いで帰国を果たした船越さんが、残留孤児たちを支援するのは、旧満州での体験が動機となっている。
こうした体験を決して風化させてはならない。子どもや孫にしっかりと語り継いでいくことが大切だ。若い世代は、体験者に積極的に尋ねてみてはどうだろう。重要な証言が聞けるかもしれない。広島原爆のように、思い出すのもつらい体験のため、自ら封印して語りたがらぬ人もいる。しかし重い口を突いて出る言葉こそ貴重である。
戦争は、普通の人々にいかに悲惨な結果をもたらしたのか。一人一人が後世へ語り継いでいけば、平和を愛する心はより確かなものになるだろう。それは戦争で命を落とした人々の願いにもかなうはずだ。
四―六月期の実質国内総生産(GDP)が年率換算で前期比2・4%減と、四・四半期ぶりにマイナス成長となった。政府が八月の月例経済報告で事実上認めた景気の後退局面入りが裏付けられた格好だ。
景気をけん引してきた輸出が大きく減少したのに加え、原材料高などを背景に個人消費や企業の設備投資も落ち込んだのが、その要因である。内需、外需ともに総崩れしたことで、日本経済は危機的状況に陥ってきたといえよう。
輸出が減少したのは、米サブプライム住宅ローン問題や原油高による米国・欧州経済の減速が主因だ。自動車や鉄鋼製品の落ち込みで前期比2・3%減となった。一部に米経済が回復すれば日本経済も好転するとの楽観論もあるが、サブプライム問題の余波は依然続いており、先行きは不透明だ。
原油や穀物価格の高騰は企業収益を圧迫し、企業の設備投資も0・2%減少した。それ以上に暗い影を落としているのが、GDPの約六割を占める個人消費の落ち込みだ。食料品やガソリンの相次ぐ値上がりが響き、前期比0・5%減となった。
消費者の間では外食を控えるなど衣食住を切り詰める節約ムードが高まっている。賃金が伸びないのに生活必需品の価格は上がるばかりで、家計が耐えられる限度を超えつつある。庶民生活の足元が脅かされつつある現状を深く認識しなければなるまい。
日本経済を再浮揚させる手がかりをみつけるのは容易ではない。政府は今月末をめどに緊急経済対策をまとめるが、外需頼みの限界が露呈する中、有効な内需拡大策を打ち出せるかどうか。家計が元気を取り戻せる方策に知恵を絞り、国民の不安を取り除くことが肝要だ。
(2008年8月15日掲載)