日韓の双方が領有権を主張し、両国関係に刺さったトゲのひとつにもなっている竹島(=韓国名・独島)。日本ではまったくといっていいほど知られていないが、韓国には、その竹島を1953年から56年にかけて、地元民間人で結成した「義勇守備隊」が守り抜き、警備任務を警察へと引き継いだとの逸話が存在する。多くの人が知る「英雄談」だった。しかし、韓国オーマイニュースはこのほど、その逸話の多くが歪曲あるいは誇張されたものだったことを「守備隊」の当人たちから聞き出し、報道した。竹島領有権論争の行方を直接左右するものではないが、韓国オーマイニュースによる興味深い調査報道を要約して紹介しよう。【オーマイニュース日本版編集部】
* * * 「1953年4月20日創設。米軍から小銃と機関銃を盗み取って独島を警備。日本の水産高等学校の実習船を拿捕(だほ)。日本の海上保安庁所属の巡視船などを数度に渡って銃撃戦の末に撃退。1956年12月に警察へ独島防御任務を引き渡すまで3年8カ月間、独島を守護」――。 記録上残されている「独島義勇守備隊33人(隊長=故ホン・スンチル)」の活躍は輝かしい。だが今年9月末、オーマイニュース(韓国)は「独島義勇守備隊の活躍は歪曲、誇張されたものだ」との情報提供を受けた。これをもとに20日余りにわたって慶尚北道・浦項(ポハン)と鬱陵(ウルルン)島、そして蔚山(ウルサン)に暮らしている「独島義勇守備隊」の元隊員と元警察官たち10人に会ったところ、「歪曲・誇張」は事実だと確認された。 ■事実と異なる結成、解散の時期■ これまでに分かっている記録によれば、「独島義勇守備隊」は1953年4月に創設、3年8カ月間、独島に常駐して数度の戦闘を行ったとされる。 「ホン・スンチル隊長が独島へ初めて入ったのは1954年5月。軍を除隊したホン氏が鬱陵島の在郷軍人会を結成すると、当時の鬱陵警察署長が鬱陵郡主、漁業協同組合理事と協議し、鬱陵島最大の利権事業であった独島のワカメ採取権を3年間与えたことによって独島義勇守備隊が始まった」 慶尚北道・浦項で会ったキム・サンリ氏(78)は当時の状況を鮮明に記憶していた。1954年当時、鬱陵警察署に勤務していたキム氏は「独島義勇守備隊」について「もともとはワカメを取るため入った人々なんだ」と語る。 「当時、日本の巡視船がしばしば出没するため、危険だということで銃器をくれといったが、警察では民間人に銃器を与えることができず、『義勇警察』という名目で武器を貸与した。ワカメを取るというキム氏に対し、独島警備も一緒にやってくれと頼んだ」とキム氏。 ホン隊長をはじめとする民間人たちが「独島義勇守備隊」として独島に初めて上陸したのが1954年春というのは、元守備隊員たちを通じて確認することができた。同守備隊の第一戦隊長として名前が挙げられているソ・ギジョン氏(78歳、蔚山市)は「1954年春、ホン・スンチル隊長と6人が初めて独島に入った」と語る。 「1954年8月に除隊したらホン・スンチル氏に呼ばれ、『独島義勇守備隊で一緒に働く気はないか』と言われた。話を聞いてみたらよさそうなので一緒にやることにした。私は後で合流したが、その数カ月前にすでに何人かが(独島に)行ってきていた」とソ氏。 同守備隊の解散時期も事実とは大きく異なる。 現在、政府は「独島義勇守備隊」が1956年12月まで、3年8カ月間、活動したと認定している。しかし、生存している元守備隊員の証言によれば、結成された年(1954年)の12月には事実上活動を中断していた。隊員の一部が警察に特別採用され、警備任務の態勢が警察に引き渡されたのだ。 ソ・ギジョン氏は「1954年12月、独島義勇守備隊員のうち9人が鬱陵警察署の警察官として特別採用された。その後には守備隊ではなく警察官として独島警備任務を行った」と証言する。「独島義勇守備隊」の第2戦隊長だったチョン・ウォンド氏(78歳、鬱陵郡)も「1954年12月に警察官として特別採用された」と振り返る。こうした元守備隊員らの証言を裏付ける資料は、鬱陵警察署の拝命記録(勤務名簿)にも残されている。 証言と記録を総合すれば、守備隊の実際の活動は1954年4月から同年12月までの8カ月間のみだった。ソ・ギジョン氏も「義勇守備隊で活動したのは長くても8カ月にもならない」と証言した。 ■「ワカメ取り」が任務■ ならば、独島に常駐して警備したとされる残る期間における「独島義勇守備隊」の活動は何だったのか。 当時の状況を記憶する鬱陵島の老人たちは「ワカメ採取をしていただけ」と口をそろえる。 1953年から鬱陵警察署の刑事として10回余り、独島警備隊長を務めたチェ・ホンシク氏(85歳、鬱陵郡)は「ホン・スンチル隊長がワカメ取りに行っていたのは、年寄りの鬱陵島の人たちはみんな知っている」と話す。「ホン隊長が残した手記は見たが、3年8カ月の間、独島を守ったとの記録は95%がウソだ。鬱陵島の人々に尋ねれば、『ホン隊長がいつ独島を守りにいったのか。ワカメ取りに行ったんだろう』という話が大部分だ」 チェ氏はさらに「1954年7月、鬱陵警察署が予算を使って独島に哨所を置き、8月から警備を始めた」と語り、「独島義勇守備隊が警備を行ったと主張しても、2~3カ月にもならない話だ」と指摘した。 鬱陵島などで警察官生活を送った後、浦項で引退生活を送っているパク・ビョンチャン氏(79歳)も「ホン隊長は独島に30人ほど連れて行ってワカメ取りをした」と明らかにした。結局、ホン隊長が1953年4月20日から「独島義勇守備隊」を創設し、1956年12月まで3年8カ月間、独島を守ったとの記録の多くは、事実と異なるということになる。 「独島義勇守備隊」が独島を守り、警備任務を助けたのは、長く見ても8カ月。残る期間は鬱陵島で最大の利権事業であるワカメ取りだけに専念したというのが生存者たちの証言なのだ。 ■実際にはなかった「銃撃戦」■ 記録上の同守備隊の「戦果」は華麗だ。(1)日本の水産高等学校の実習生を拿捕=1953年6月、(2)日本の巡視船に発砲=1953年7月、(3)日本の警備艇3隻を撃退=1954年4月、(4)日本の巡視船を銃撃戦で撃退=1954年8月23日、(5)日本の巡視船3隻と航空機1機を発砲で撃退(1955年11月)。 だが、上記の通り、守備隊は1954年4月ごろにワカメ取りのため結成され、独島に上陸した。結成前から戦闘が行われたというのは無理がある。いったいなぜ、このようなことになったのか。理由は簡単。直接経験してもいないことを無理矢理に「戦果」としたためだ。元隊員や警察官たちの証言がこれを裏付ける。 ホン隊長の手記には、日本の水産高等学校の実習船の船長と船員を捕らえ、補給品を押収し、「独島は韓国領」という教育を施した上で送り返したと書かれている。だが、ソ・ギジョン氏は「ホン隊長は実習船が来た時、独島にいなかった」と語る。ソ・ギジョン氏の証言によれば、実習船を拿捕、物品を押収し、あるいは教育を施して送り返したという主張は事実でない。また、その当時、ホン隊長は現場を守ってもいなかった。 1953年7月に起きた巡視船への発砲も守備隊の戦果ではない。当時、鬱陵警察署の警備班長だったチェ・ホンシク氏は「(巡視船の)船長に私が直接会い、送り返した」と証言する。 「1953年7月、日本政府が領土表示板を設置したとの報告を受け、それ撤去するため(独島に)行った際、日本の巡視船が接近してきた。私と独島で生態系調査をしていた中学校の先生2人が巡視船に上ったところ、船長がわれわれに、『島から出て行け』と言い、言い争いなった。結局、双方が退却することとなったが、われわれ側の船員が突然小銃を何発か発射し、巡視船が驚いて退却した」 チェ氏は「発砲してはならないと話していたんだが、船員の1人がミスを犯した。後で日本の雑誌に大きく掲載されたそうだ」と振り返り、当時の雑誌記事まで見せてくれた。チェ氏の証言によれば、同事件は守備隊とはまったく関係なく起きた韓国と日本の間の摩擦だった。 1954年に相次いだという日本の巡視船・警備艇との「銃撃戦」も実際にはなかった。ただ、1954年9月ごろ、日本の巡視船の接近を防ぐために迫撃砲何発かを撃ったとの証言はあった。ソ・ギジョン氏は「54年9月ごろに日本の巡視船が接近した。接近しないよう信号を送ったが、近づいてきた」と語り、「迫撃砲4、5発を撃ったが、そのうち1発が巡視船の後方の海に着弾した」と指摘。「その後にはどのような銃撃戦も発砲もなかった」と振り返った。 1955年に起きたと記録にある日本の巡視船との銃撃戦などについても、「事実だ」と証言する生存者はいなかった。ホン隊長が当時、私財を投げうって武器を購入し、哨所を建てたという記録も事実ではない。ホン隊長の娘は「父が当時で1億ウォン相当の私財を投げうって武器を購入したと聞いている。当時は戦争(朝鮮戦争)中だったので、金さえ出せば武器を買えた」と語るものの、いかに戦争中とはいえ、銃器を買ったり奪ったりしたとの話は釈然としない。実際、鬱陵警察に当時勤務した警察官は「武器は鬱陵警察が貸与したもの」と証言する。 ■事実からかけ離れた記録■ これまで知られてきた守備隊の規模は、ホン隊長まで含め33人。だが、ソ・ギジョン氏は「最初に独島へ入ったのは、私も含めて17人。船の船員4人まで含めても21人だけだ」と語る。元警察官のイ・ギュヒョン氏(鬱陵郡)は「33人の中には、独島に一度も行ったことのない人まで含まれている」と話す。 1966年4月12日、「独島義勇守備隊」は朴正煕大統領から勲章を受けている。この際に勲章を受けたのは11人。33人いたはずの守備隊員のうち11人だけが勲章を受けたというのも釈然としない。ソ・ギジョン氏は、勲章を受けた11人の中にも「ニセ守備隊員」がいたと証言する。 生存者たちの証言を総合すれば、これまで知られてきた「独島義勇守備隊」33人のうち、半分近くは独島警備とは無関係だった。実際に守備隊にかかわった人たちのうち9人は1954年12月、警察官として特別採用された。その後、彼らは民間人ではなく警察官として独島警備の任務にあたった。従って、民間人の「独島義勇守備隊」が33人だとの記録は、歴史的事実とはかけ離れたものに思える。 (以上、オーマイニュース〔韓国版〕10月30日-11月1日掲載の抄訳)
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