「20世紀の医学的奇跡だ」。国際移植学会は今年、全会一致で採択したイスタンブール宣言で、助からなかった命を救う臓器移植の意義をそう表現した。だが、宣言は同時に、途上国を中心に臓器売買が行われたり、健康な人から臓器が提供される生体臓器移植の人道的な課題を重大な問題と警告した。移植を取り巻く世界と日本の現状を今回と15日の2回にわたって報告する。【関東晋慈】
4月30日から3日間、トルコのイスタンブールで開かれた国際移植学会には、日本を含む78カ国から移植の専門家158人が参加した。総会が始まった5月1日、議長を務めた米ハーバード大のフランシス・デルモニコフ教授は「宣言が採択されるまで、席を立たないでほしい」と呼びかけた。
議論が集中したのは生体からのドナー(臓器提供者)の扱いだ。宣言案には当初、生体ドナーを「hero(英雄)」と見なすべきだ、と記されていた。
しかし、会議に参加した小林英司・自治医科大教授は「日本では生体ドナーは、決してヒーローではない。heroic(高潔な)と修正してほしい」と主張した。日本の生体移植では主に家族や兄弟姉妹から提供されているため、「英雄」というにはそぐわないほか、途上国などで行われる臓器売買への批判も込めた。各国は小林教授の提案に賛同し、文言が修正された。
全米臓器配分ネットワークによると、臓器移植の最初の成功例は米国で1954年に実施された腎臓移植とされる。日本では97年の臓器移植法施行後、臓器の移植手術が計1万8196件(6月末現在)行われ、そのうち脳死移植は365件。移植待機患者はどこの国でも多いが、生体移植(腎臓、肝臓)への依存度は、フランスが1割未満、米国が約4割なのに対し、日本は腎臓で8割以上、肝臓では99%を超え、その高さが目立っている。
国際移植学会が生体移植を問題視するのは、健康な人の体にメスを入れるからだ。また、移植を受けるために海外に行く「移植ツーリズム」が後を絶たず、その先には臓器売買もある。移植医の間で、生体ドナーを保護する取り組みを強化しないと、社会から移植への信頼が失われるとの懸念が強まり、迎えたのが今回の国際学会だった。危機感の表れを象徴するように、総会の2日間、議論中に席を立つ人はなく、最終日の2日、全会一致の宣言採択で閉幕した。
宣言では、生体ドナーを保護するため、ドナーの意思を反映した選定方法や休業補償など、総合的な保障制度作りが盛り込まれた。また、生体ドナーを「もう一人の患者」と位置づけ、各国が臓器提供の自給自足へ努力することを原則とした。
このほか、フランスが04年の生命倫理法改正で、生体ドナーの術前の検診と術後の後遺症の有無、重症度などを記録する制度を導入したのを受け、生体移植のリスクを明らかにするため、今後、国際的に統一した基準で生体ドナーのデータベース化を協議することを決めた。
小林教授は今回の宣言について、「国によって死や臓器提供に対する認識の違いがあるが、立場が異なる中、誰もが納得するものができあがった。非常に重要な宣言で、日本も必ず守ることが求められている」と語る。
〓島(ぬでしま)次郎・東京財団研究員は「健康な人の体にメスを入れる生体移植は、医療倫理の根本に抵触する行為だ。欧米では、生体移植は本来やるべきでないという意識が強い。今回の宣言も死後の提供を臓器移植の本道と位置づけている。日本では、生体ドナーの健康状況の追跡がほとんど行われてこなかった。臓器移植法を改正し、生体移植の続き柄制限や実施後の記録制度を導入する必要がある」と指摘する。
インドやパキスタン、中国などでは、これまで事実上の臓器売買による移植が行われてきた。しかし、中国は昨年、臓器売買を条例で禁ずるとともに外国人への移植を禁止。さらに、日本人など外国人への腎臓売買が横行してきたフィリピンでも今年に入り、政府が外国人への腎臓移植を全面的に禁止した。
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■イスタンブール宣言の骨子
▽臓器移植は、20世紀の医学的奇跡の一つ。しかし、ドナー(臓器提供者)の人身売買や、貧困者から臓器を買うために海外に赴く富裕国の患者の報告が寄せられ、臓器移植の功績が汚されてきた。
▽ドナーとレシピエント(移植を受ける患者)の安全と、非倫理行為に関する基準と禁止を確保する透明性の高い監視システムが必要。
▽死体からの臓器移植を始めたり、拡大する努力は、生体ドナーの負担を最小化するのに不可欠。
▽レシピエントに有効な治療でも、生体ドナーに危害を加えるのは正当化されない。
▽各国は国際組織などと協力し、臓器不足に対する包括事業を実施すべきだ。
▽各国は国際基準(国際移植学会がこれまで出した勧告)に沿って死体や生体からの臓器摘出と移植医療を法制化し、実施すべきだ。
▽臓器は国内で公平に配分されるべきだ。
▽各国は臓器提供の自給自足を達成する努力をすべきだ。
▽臓器取引と移植ツーリズムは、公平、正義、人間の尊厳を踏みにじるため禁止すべきだ。
▽死体からの臓器提供を増やすため、政府は保健医療施設などと協力して適切な行動をとるべきだ。
▽生体ドナーによる提供は高潔で栄誉あるものとみなされるべきだ。
▽生体ドナーへのインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)では、心理的な影響を考慮すべきだ。医療と心理の両面で、短期的、長期的にケアする。
▽臓器提供で生じた実費は、臓器に対する補償ではなく、レシピエントの治療費の一部である。
毎日新聞 2008年8月8日 東京朝刊