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那須与一物語
(平癒編)


那須与一物語
(合戦編)

 

那須与一と屋島の戦いの考察

●那須与一に関する資料
兄弟:11人兄弟(【註】9人は平家方、2人は源氏方)
平家方:長男の資隆、次男の泰隆、三男の幹隆、四男の久隆、 五男の之隆、六男の実隆、七男 の満隆、八男の義隆、九男の 朝隆 源氏方:十男の為隆、十一男の宗隆(那須与一)

【註】一方につくことで、敗北した場合にはすべての所領を 失うことになるので、兄弟が分か れて戦うことになる。

●家紋
  菊一・丸一・左三つ巴

●当時の合戦
両軍が相対して戦闘態勢に入ると、まず両陣営から代表者が 進み出て、舌戦になる。それか ら矢合わせを行う。 互いに鏑矢 (かぶらや)を音高く飛ばし合い、戦闘開始になる。  
 初めは矢を射合う矢いくさ。馬を駆ってできるだけ近くに突進し、
狙い射る。やがて二、三 十本の矢を射尽くすと、入り乱れての合戦となる。よき敵とねらいをつけた相手と互いに名乗りあい、組み打ちを行った上で組みしいた敵の首 を切って終わる。そうして勝敗が決すると、勝った側の大将の発声で勝どきの声をあげる。

●矢について
鏑矢(かぶらや)、鏃(やじり)と矢箆(やがら)との間に鏑を付けた矢。鏑は角や木で球形 に作り、中を刳って空洞とし、孔を数個あけて音響を発するようにした装置で、その形状が蕪 菁(かぶら)を連想させることによる呼称。元来、狩猟用の野矢であるため、鏃は尖根(とが りね)や狩俣(かりまた)、矢箆は白箆(しらの)を多く用い、矢羽は四本羽とした。軍陣用の 征矢(そや)の表差(うわざし:註@)として差し添え、合戦の際の矢合わせ(註A)に用い た。

 


  【語註】@表差矢(うわざしのや):軍陣の箙(えびら)では、征矢を中差(なかざし)とし、 鏑矢一手を上表(うわざし)とする。音響を発することによって破邪の矢とする信仰から戦闘 開始の合図に用い、ときには願文に添えて神献の料とし、戦場にあっても大事の際の所用とし て差し添えたのであり、箙の身寄りの最前列に差し、鏑の分だけ長い矢箆を中差の上にのずか せて矢並みを整えた。

【語註】A矢合わせ:合戦を開始する合図として矢を射ること。

・征矢(そや):軍陣用の矢。征討に使う矢として征矢と書き、古くは麻利矢(まりや)と呼ば れた。一定の制はなかったが、鎧や盾に強くねじり込むための回転が必要なことから、三枚羽 でまっすぐな鏃を用いるのを特色とした。

●与一の馬について
「黒き馬のふとうたくましいに、小(こ)ぶさ【註:小房】の鞦(しりがい)かけ、まろぼや すッたる鞍おいてぞ乗ッたりける(まろぼやの紋様を摺りこんだ鞍をつけて乗って行った)」と あり、たくましい黒馬である。

・那須与一の駒は鵜黒(うぐろ)の駒と言われる。

●射られた扇について

・「みな紅(くれない)の扇の日いだしたる(紅地に金色の日輪を描いた扇)を、舟のせがいに はさみたて、陸(くが)へむいてぞまねいたる」(訳:紅一色の扇で真中に金の日の丸を描いた ものを、舟棚にはさんで立て、陸へ向いて手招きをした)。

【語註】舟棚:船の両舷(げん:船べり)にそって棚のように板を渡したもの

・「みな紅の扇の日出だしたるを、船ばたはさみ立て、陸(くが)へ向かひてぞ招きける」


筋兜
星兜
大袖
大袖
鳩尾の板
籠手
  【語註】
・萌黄威(もえぎをどし):萌黄は黄色味の強い緑色。威(おどし)は鎧や兜を構成する礼(さ ね)の上段と下段を連結する緒の手法のこと。なお礼(さね)とは、伸縮よく編成して身体を 守るための甲冑の構成要素。緒を通す孔をあけた革または哲の細長い上円下方の板をいう。
・足白太刀(あしじろのたち):柄(つか)と鞘の全体を金物ぐるみ黒漆で塗り篭めた黒漆(こ くしつ)の太刀で、腰に佩(は)く帯取(おびとり)の韋緒をつける一の足と二の足の足金物 (あしがなもの)と呼ぶ金物だけを銀製としたもの。
・薄切斑(うすきりふ):矢羽の斑文の色は薄いが、形のはっきりしたもの。
・滋籐の弓:弓を脇ばさみ、甲を高紐にかけるのは、武士の形どおりの姿態。新潮社版では、 「二所籐(ふたところどう)の弓脇ばさみ……」となっている。二所籐は、弓に籐蔓を二段ず つ幾箇所も巻いたものをいうとある。滋籐の弓は、重籐の弓とも書く。弓幹(ゆがら)を、折 損や雨湿炎乾に備え装飾を兼ねて漆塗とし、細く裂いた籐を繁く巻いた弓のこと。武家の軍陣 の弓として好んで使用された。
 
  ・甲をばぬぎ高紐にかけ:鎧を着けて兜を脱ぐ際は、兜を背に負い、兜の緒を肩上沿い前に廻 し、左右の高紐の内側から外側いかけて中央で結ぶのを兜を高紐に懸けるといい、慇懃な姿勢 として軍記物語に出てくる。

●武具に関して
太刀は平安時代の特徴を示す、柄の部分が反っている。備前の刀工 ・成高(しげたか) の作。太刀、拵(こしら)えは、昭和62年3月に国の重要文化財になる。同時に、「那須家軍器図」も国の指定をうけている。

●与一が扇を射るときの様子
「小兵(こひょう)というぢやう、十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あ やまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて(訳:あやまりなく扇のかなめの際(きわ)から一 寸ぐらい上を)、ひィふつとぞ射きツたる(訳:射切った)。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ あがりける」

【語註】十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ):握りこぶし十二と指三本分の長さ。普通の矢は、 十二束(約九十二センチ)とされているので、それよりやや長いが、大兵のつわものは十五束 もの矢を射るから、長大とはいいがたいとある。

「小兵なれば十三束の鏑取つてつがひ、しばしたもちて放つ。弓はつよし、浦にひびくほど鳴 りわたりて、扇のかねめより上一寸ばかりおいて、ひやうふつと射切つたれば、扇こらへず三 つに裂け、空へあがり、風に一(ひと」もみもまれて、海にざっとぞ散りたりける)」

●与一と扇の距離について
「磯へ七八段(たん)ばかりになりしかば、舟をよこさまになす。『あれはいかに』と見る程に、 舟のうちより、よはひ十八九ばかりなる女房の……みな紅の扇の日出(いだ)したるを」

「矢ごろ(訳:射程距離)すこしとほければ、海へ一段(たん)ばかりうちいれたれども、猶 扇のあはひ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の酉剋(とりのこく: 午後六時頃)ばかりの事なるに、をりふし北風はげしくて磯うつ浪(なみ)もたかかりけり。 舟はゆりあげゆりすゑただよえば、扇も串(注:扇をはさんでいる竿)にさだまらずひらめい たり。おきには平家舟を一面にならべて見物す。陸(くが)には源氏くつばみをならべて是を 見る」

時は二月十八日午後六時頃。北風が激しく吹いて磯に打ち寄せる波も高い。

【語註】
・一段:段(たん)は昔の長さの単位。六間(約十一メートル)。「通説には一段を六間とする のによれば、四十二〜四十八間(八十メートル前後)となる。一段を九尺とすれば、十間半〜 十二間(およそ二十メートル)となる。前者のほうが劇的だが、弓の射程の実際から見て後者 が実態に近いというべきであろう」

●紅の扇の女
紅の扇の女は、玉むしという。小学館版では、年齢は十八、九となっている。服装は五重(い つつえ)の唐衣(からぎぬ)を重ねたもの。紅の袴。

「舟のうちよりよはひ一八九ばかりなる女房の、まことに優(ゆう)にうつくしきが、柳の五 衣(いつつぎぬ)に紅の袴着て、みな紅の扇の日いだしたる…天」(小学館版)

【語註】柳の五衣:柳は襲(かさね:衣服等の表裏・上下の重ねの配色による色彩のことで、 重ねの色目をいう。)の色目。表白、裏青。五衣は表衣(うわぎ)の下に同じ衣を五枚重ねて着 ること。

●扇を射た後で射られた男
「あまりの面白さに、感にたへざるにやとおぼしく、舟のうちよりとし五十ばかりなる男の、 黒革威(くろかわおどし)の鎧着て白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)もッたるが、扇たてけ る処にたッて舞いたり。伊賀三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一がうしろへあゆませ寄 ッて、『御定(ごじゃ)ぞ(訳:君のご命令だぞ)、仕(つかまつ)れ(訳:あれを射よ)』とい ひければ、今度は中差(なかざし)とッてうちくはせ(弓につがえ)、よッぴいてしやくびの骨 をひやうふつと射て(十分引き絞ってそいつの首の骨をひょうふつと射て)、舟底へさかさまに 射倒す」

●舟の種類
串崎船(壇の浦):船足が速いことで知られる。
大型の唐船(平氏は雑兵を乗せた)
大型海船
漁船

●平家物語における屋島の合戦での与一の台詞
@「南無帰命頂礼、御方を守らせおはします正八幡大菩薩、別してわが国の神明、日光権現、 宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜ばせ給へ。これを射損ずるほ どならば、弓切り折り、海い沈み、大龍の眷属となって長く武士の仇とならんずるなり。弓矢 の名をあげ、いま一度本国へ迎へんとおぼしめされ候はば、扇のまん中射させて賜はり候へ」

● 那須与一の墓
・ 明治20年(1887)、深草大亀谷の故地から現在の即成院に移された巨大な石造の宝 塔は与一の墓と伝えられ、毎年8月8日には命日の法要が営まれている。
・ 下総(しもふさ)那須郡の生まれの与一は、屋島の合戦の功で丹波、信濃など五ヶ国  の荘園を与えられるが、後年は剃髪して京にのぼり、伏見の即成院に没した。



即成院と那須与一