ホーム > きょうの社説


2008年8月15日

◎終戦記念日に 多様性認めることの大切さ

 また終戦記念日が巡ってきた。先の大戦で亡くなった軍人・軍属約二百三十万人と、空 襲や原爆で犠牲になった市民約八十万人を追悼し、平和の重みをかみしめる祈りの日である。戦後日本の歩みを振り返り、心静かに戦争と平和を考える日にしたい。

 この六十三年間を振り返って思うのは、言論の多様性を認めることの大切さである。今 からちょうど七十五年前の夏、石川県出身のジャーナリスト桐生悠々は、主筆を務めていた信濃毎日新聞を追われた。当時、関東一円で実施されていた防空訓練をこき下ろした社説が在郷軍人会など世論の強い批判にさらされ、不買運動を起こされたからだった。

 「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」と題した社説の趣旨はこうである。ひとたび空襲が あれば木造家屋の東京は火の海になる。首都上空に敵機を迎え入れた時点で日本の敗北は必至であり、防空演習など無駄である。帝都の空襲を想定した戦争準備は非合理というほかない。

 今にしてみれば、太平洋戦争の惨状を正確に言い当てる評論だったが、戦前の日本は、 自由な言論が保証されているとはとても言い難い国だった。世論は反骨のジャーナリストの箴言(しんげん)に耳を貸さず、「非国民」の罵声を浴びせた。異論を許さぬ偏狭なナショナリズムが、社会全体を覆い尽くしていたのだろう。

 十八世紀フランスの哲学者ヴォルテールは、民主主義の本質と言うべき言葉を残してい る。「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命にかえて守る」。終戦記念日を機に、言論の多様性が認められていることのありがたさと、その自由が野放図につながらないよう、注意し合うことの大切さにも思いをはせたい。

 現代でも、戦前の日本のように、国全体が不気味に一つにまとまって見える国がある。 独裁国家のみならず、民主主義の体裁を整えている国のなかにも社会全体が異論を許さぬまがまがしい空気を放つ国がある。

 私たちはそんな国々を反面教師としながら、民主主義国家の成熟度を高め、恒久平和を 希求していきたい。

◎金沢の「打ち水」作戦 官民一体で定着させたい

 金沢市が昨夏から、消雪装置による「打ち水」をひがし茶屋街で試験的に始めたのに続 き、国土交通省金沢河川国道事務所も市中心部の国道157号で同様の実験をすることになった。中心商店街が実施する一斉打ち水に合わせ、十五日に香林坊交差点―犀川大橋間で天候をみながら消雪装置を稼働させ、相乗効果による気温の変化を探る。

 木桶やひしゃくを使った一斉打ち水は全国各地に広がってきたが、消雪装置という、こ の地域ならではの社会資本も積極的に活用すれば、猛暑の不快感を和らげ、都市熱を下げる、それなりの効果が期待できるのではないか。市道から国道、さらには県道へと実用化が進めば、民間の取り組みを強力に後押しすることにもなる。

 水を有効に循環させる打ち水作戦は、江戸時代のライフスタイルを見直すとの意義付け もされており、金沢では城下町の風情を広げる夏の風物詩にもなろう。官民一体で定着させていきたい。

 夏場の地下水使用は地盤沈下などの影響も懸念されていたが、金沢市の調査では、夏も 地下水は豊富にあることが判明し、冬以外の適度な使用は地下埋設物が水の浮力で押し上げられる現象を抑えるなどライフラインの維持管理にも有効であることが分かってきた。一石二鳥の効果が見込めるなら、実験する価値は大いにある。

 打ち水は風のない蒸し暑い日などはかえって不快さを感じさせる恐れもあり、朝や夕方 が望ましいとされる。どんな条件なら最も適しているのか、気象との関係や効果的な水量、散水時間などを研究してほしい。

 ひがし茶屋街では今年も消雪装置による打ち水が始まった。水にしっとり濡れた石畳は 歴史的な景観に涼感を与え、観光客の評判も上々だ。だが、消雪装置だけでは味気なく、ひしゃくによる昔ながらの光景が広がってこそ城下町の風情も引き立つだろう。

 玄関などで行われる打ち水は、人をもてなす作法としての意味もある。都市熱対策のみ ならず、そうした心を取り戻す大切さも考えていきたい。


ホームへ