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【63年目の追憶】(下)まだ見ぬ肉親の墓 (1/2ページ)
■埋葬地図 役立つ日は…
毎年8月15日、静岡県沼津市の松蔭寺に全国清津(せいしん)会の30人ほどが集まり、朝鮮半島で眠る故人に祈りをささげる。寺には「北朝鮮地域在住同胞殉難者物故者慰霊碑」が建っている。
全国清津会は戦前、清津で暮らしていた人や遺族ら約310人で組織されている。事務局長の正木貞雄さん(78)は「ビルマ(現ミャンマー)をはじめ、ほとんどの外地に戦争で犠牲になった日本人を慰める碑が建っている。でも私たちは慰霊碑どころか、墓参りもできない」と悔しい胸の内を語る。
厚生労働省によると、北朝鮮地域の戦没者は約3万4600人。うち民間人は約2万5000人にのぼる。北東部では終戦間際に旧ソ連軍が上陸し、避難民が抑留されたことで多くの犠牲者が出た。
■「墓がないかもしれない」
「食料はない。草を取ったり、野菜くずを拾ったりして食べた」と神奈川県鎌倉市に住む小山松照晃さん(75)は語る。
弾道ミサイル「ノドン」の由来となった蘆洞駅近くに住んでいた。6人兄弟の長男で、当時12歳。避難民となり、咸興の収容所で越冬を強いられた。
過酷な暮らしで6歳と2歳の妹、10歳と4歳の弟が次々と亡くなり、母も36歳の若さで世を去った。ようやく帰国が決まったのは昭和21年5月。「衰弱した父の帰国は許されず、それきりとなった。手元に残ったのは母とすぐ下の弟の遺髪とつめ、父の愛用したくしだけだった」
「遺体はてんびん棒で山まで運ばれた。大きな穴が掘られていて、遺体をぶち込んでいた。もう墓がないかもしれない」
20年ほど前、社会党(当時)の議員が訪朝すると聞き議員会館に足を運んだ。「コースの近くに咸興がある。線香をあげたい」。同行を懇願したが、相手にされなかった。