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2007年12月 3日

孤児と施設と里親

● 前回の記事で述べた騒動に関連して見つけたブログ。Mariaの戦いと祈り
児童養護施設で育った女性のブログである。施設における虐待体験者であり、その体験を通じて、「子供は里親の元で育つべき」と訴えている。
読んでいるとかなり動悸が激しくなってくる記述もあるし、重要な言葉もたくさんある。


女の子が、あからさまな言葉で性虐待の話をすれば、よだれを垂らして読みに来るペドフィル(小児性欲者)がたくさんいることを、過去6年間のサイト・ブログ運営で知っているし、あたしは、そんな男どもにおかずを提供する気はないから、あまり書かないようにしていた。


わたしも以前から同じことを考えていて、ウェブで性虐待や性暴力体験について赤裸々に語っている女性ブロガーを見るたびに、裸で車の行き交う高速道路に立っている人を想像し、心臓が突き通るように痛くなった。
書くことで自分の傷を癒す効果もある、同じ体験をした人と痛みを分かち合うこともできる、共感してくれる理解者が現れるかもしれない。だけどそういう人だけが読んでいる訳じゃない。
それを知っているので、他人ごとだと分かっていても、かれらの無防備さに心底寒気がした。
傷を悪化させるだけの人間が確実に読んでいるというのに―――これ以上傷が広がらなければいい、とはらはらしながら見ていたら、やはり「不適切な」人間の目に止まってトラブルになり閉鎖。そういうことが現実に起こったのを見てきた。
己の傷を晒すことには相当な覚悟がいるのだ。


 「ヤクザになったある養護施設の卒園生が、『オレは殴られて育ったおかげで根性がついた。根性をつけてくれた施設には感謝している』と言いました。人は、殴られ、罵られ、性的な行為をされた子ども時代でさえ、肯定して生きようとします。」


実の親に虐待されても、しばしば子供がそれを認めようとしない理由がここにある。成長し、理性的に物事が考えられる年齢になってからでさえ、そうなのだ。「あれは正しいしつけだった」と自分に言い聞かせ、「愛情ゆえの行為だった」と必死に思い込もうとする。
かれらは、今現在虐待されて苦しんでいる子供を鼻で笑い、「子供には体罰が必要だ。俺はそうやって育ったからこそ立派な大人になったんだ」と言い切る。過去を肯定しなければ、今の自分の存在を否定することになる、という深刻な恐怖のためである。
さらに悪いことに、今度は自分が誰かを殴りつける加害者になることで自分の人生を肯定しようとする。こうなれば虐待の連鎖のできあがりだ。


これらのことから、このブログの管理人であるMariaさんという人は、子供は少なくとも幼児期までは里親の元で育つべきであり、施設でのみ育てるというシステム自体が子供に対する虐待なのだと主張している。



● このブログを読んでいて、数年前に見た、あるドキュメンタリー番組を思い出した。


戦後まもない日本。進駐軍の米兵と日本女性との間に生まれた混血の孤児を、引き取って育てたいという米国人夫婦が、養護施設(当時は孤児院?)を訪れた。
この当時の日本はそういう混血児が溢れかえっている時代だった。
「血の半分は米国人なのだから、本国できちんとした教育を受けさせて立派な米国人にしたい」というその夫妻の言葉に感動した施設職員は、喜んで少年を送り出した。
少年は、施設の先生も仲間たちのことも好きだったが、「幸せになってね」という先生の言葉に勇気づけられ、希望を持って夫妻とともに米国に渡ったという。(正確な年齢は忘れたが、多分、10歳にもなっていない頃の話だと思う)


ところが、そこで少年を待っていたものは、凄まじい虐待の生活だった。
義父は少年を、落ち度があろうとなかろうと毎日のようにめった打ちにした。義母は見て見ぬ振りをした。「お前は黄色いサルだ。人間ではないのだからしつけが必要だ」と、義父は自分の無意味な暴力を正当化した。
この米国人の欲しかったものは、「一方的にめった打ちにでき、絶対に逆らわないサンドバッグとしての子供」であったのだ。
―――ここから先は推測である。
生粋の黄色人種をまがりなりにも養子に迎え入れるのは白人としてのプライドが許さない。レイシスト(人種差別主義)である彼には、アジア人などサル以下にしか見えないからだ。そして、白人優位主義者である彼には、白人の子を虐待することはできない。
だから白人とアジア人との混血児である少年が必要だった。「人間を支配している」という満足感が得られ、なおかつ「黄色人の血の混じっている劣等人種だから何をしても良い」と自己正当化できるからだ。
生粋の日本人孤児も大勢いたのに(また、その気になれば白人の子も引き取れるのに)、混血児をわざわざ引き取って、「サルだ」と言いながら虐待した理由は、これ以外にないとわたしは見ている。



少年は、13歳頃までその地獄をたった一人で耐え忍び、とうとう耐えきれなくなって家を飛び出した。養父母の元で教育すら受けさせてもらえなかった彼は、皿洗いや掃除夫など、生きるためにどんな仕事でもやり、後に自分で蓄えた費用で学校へ行き、きちんとした職に就き、結婚した。
彼は生き延びた。自分の力で愛する人と家庭を得たのである。


そして人生の晩年になって、「自分を生んでくれた母はどんな人だったのか一目でいいから見たい」という希望を胸に、妻とともに日本へやって来た。
当時の施設関係者でいまだ健在の人が、彼の母親の写真を保管していた。男性のむごい体験を聞いた元職員は、「なんてこと。そんな目に遭うと知っていれば引き渡したりは・・・」と、涙ながらに絶句した。
男性の母は(当然ながら)生死も分からぬ状態で、残っているのは一枚の写真きりだったが、今の彼には慰め合う妻がいてくれる。写真を大切そうに見つめながら、痛みを分かち合っている彼と妻の姿が印象的だった。



孤児と施設と里親の問題を考えるとき、わたしはこのドキュメンタリーを思い出す。
子供をわざわざ自分から引き取って育てようと考える人間ならば、善意の人であるに違いないという先入観が、われわれにはある。だが、それを裏切る事例がこの世界には確実に存在し、しかもそれは思うよりめずらしくもない話なのだ。
女の子の場合なら、暴力の他にどんなオプションが付くのか、考えてみなくてもわかるだろう。男の子の場合ですら性暴力に晒されることはめずらしくない。唾棄すべき言いかただが、その意味で行けば上記の男性は、「まだ運が良かった」。



「子供は里親の元で育つべきだ」という信念が間違いだというつもりは無論のこと、ない。養護施設に問題が山積していることは確実なのだから。
ただ、この、親のない子に次から次へと降り注ぐどうしようもなく理不尽な現実。どちらに転んでもままならない状況に、やりきれない怒りを感じるだけだ。



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投稿者 : ナツ at 2007/12/03 | カテゴリー : 心理
コメント

投稿者 : sinola at 2007年12月 4日 07:09

書いてくださりありがとうございます。興味深く拝読しました。知られていませんが、『赤ちゃんの値段』という本によると、今でも日本人の赤ちゃんは今でもかなり多く海外に渡っているんですよ。いわゆる<海外孤児>です。今は年間中絶数が公称30万、実数100万ということで、日本はとんだホロコースト社会なんだな、と思えてなりませんが、望まれない子どもはそもそも胎内で殺されるし、例え生き延びても海外孤児になる場合がかなり多いようです。

そういうことを踏まえてみると、hashigotan騒動など、やはりずいぶん牧歌的ではないでしょうか。だから僕のラスト・エントリでは「単なる村祭り」と決め付けましたが、あながち間違いではないと思っています。

もちろん、不幸度ランキングなどは意味をなさないとはいえ、里親も施設も海外孤児も何ひとつ知らずにああいう騒ぎが出来てしまうというのは・・・子どもっぽいっすよね(汗)。

とにかく、ナツさんにはこの路線での記事もぜひぜひ続けて書いていただきたいです。期待しておりますので、よろしくお願いいたします。


投稿者 : marineko at 2007年12月 4日 22:26

Mariaさん(&Leiさん)のブログ、何気なくクリックして、そのまま一気に読みふけってしまいました。まるで…何と言っていいか…すごく不適切な表現なのだけれども、「別世界をのぞき見ている」気持ちになりました。「動悸が激しくなってくる」ということはなかったですが(表現がわりと抑制されているので)、何かちょっと虚脱感に襲われたような。。。私はこういう施設を実際に見たことがないですし、近くにないので、どうしても他人事以上に他人事なんですが。今まで特にこういう施設の子供たちの問題について、深く考えたこともないですし。まさに青天の霹靂。
私の人生はこのまま「自分の子供」とは縁がありそうにもないけれど、今も親のない子供がどこかで苦しんでいるなら、いろんな理由で里親にはなれない私でも、そのうちのただひとりの子供のために、定期的に会うとか手紙を送るとかしてみたらどうなんだろう?と発作的に思いました。フォスターペアレントみたいに。
でも。そんな浅はか極まりない行動は許されないとわかっているし、現実的に実行もできないですが。なんと…つくづく現世というのは不公平にできていますね。


投稿者 : つる at 2007年12月 4日 23:27

とても興味深かったのですがフリーズしてしまってあんまり読めませんでした。
ちょっと読めたのが永山則夫さんの「無知の涙」を引き合いに出した方とのやりとりの部分だったんですが、やりとりのレスの中の言葉にあった『傷つく、という概念がありません』というひとことにショックを受けました。
これがまったく字面どおりの意味で、それが施設で育ったことが原因で起こることなのであれば「施設で育つこと」自体がイコール「子供への虐待である」という主張に頷けます。

ナツさんが挙げられたような里親のもとで酷い虐待に遭うケースはあるでしょうが里親のもとで幸福になるケースもありそう。しかし施設で育って不幸になるケースは多くあり、幸福になるケースはとても少ないのではないか、そんなふうに感じました。


投稿者 : ナツ at 2007年12月 5日 20:31

●sinolaさん
>年間中絶数が公称30万、実数100万ということで、日本はとんだホロコースト社会
すみません。主旨と関係ないとは思うんですが、ちょっと気になったので・・・。
30万の方は統計があるのでともかくとして、100万のソースは何でしょうか。わたしは2chのコピペ以外ではみたことがありません。そういうのは大抵都合よく作られた(どこかの宗教や団体の)プロパガンダのための捏造なので、確実なソースを見るまでは、ちょっと鵜呑みにはできないです。

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/hotnews/archives/219514.html
米国疾病対策センター(CDC)の統計では、米国の人工中絶率(比率)は20%強、日本とほぼ同程度とのことです。ただし米国はキリスト教圏で、しかも近年はファンダメンタリストがブッシュの背後に控えているので、中絶に対する風当たりが強い。(中絶医はテロの標的となるほどです)その事情から考えると、闇中絶があるとすれば日本の比ではないと思います。日本は宗教的禁忌がないので、世界的に見れば合法的に中絶しやすい環境にあります。

「他国に比べて日本はホロコースト社会だ」みたいな言説はいったい何なんだろ?とわたしは日頃から考えています。誰が得するのだか知らないけど最近妙に多くて、うさんくさいなあと。

ともあれ、これらの問題に比べれば、はてな村の騒動など牧歌的だというのは同意です。比べてもあまり意味がない話ではあるのですが。


●marinekoさん
>すごく不適切な表現なのだけれども、「別世界をのぞき見ている」気持ちになりました
わたしもです。なんだかSFの世界のような。わたしは子供の頃に両親が離婚して片親で育ったけど、とりあえず「母親の愛情」だけは知っている。でもそれすら与えられたことのない子たちにとって、「親」とはまさに想像上の生物でしかないのだ、ということがよくわかりました。
昔のアニメや物語にはよく「孤児院」が出てきましたが、養護施設というと、そのイメージでしか捉えきれない。意地悪な先生もいれば優しい先生もいる、厳しい寮生活のような。でも、そのイメージをいくら悲惨にしてみても、やっぱり現実にはほど遠いんだろうと思う。寮と違って施設の子には帰る場所がないんですものね。

>フォスターペアレントみたいに
これ、わたしもチラッと考えました。でも以前ドキュメンタリーで、「孤児を裕福な家庭に一週間ほど滞在させて家庭のぬくもりを与える」という試みを紹介していたことがあるんです。それは中国の話だったんですが、一週間の間に美味しいものを食べさせてもらって遊びに連れて行かれて甘やかされた子供は、施設に帰るときに、例外なく大泣きしていました。「良い子にするから、もっとここにいたい」と。見せつけて期待させて突き落とす、こんな残酷なことがあっていいのかと思った。
それでも個人的に繋がりのある大人が施設の外に一人でもいることの方が、子供にとってはよいことなのかな。決して手に入らないものでも。どちらがよいのかよくわかりません。


●つるさん
>傷つく、という概念がありません
他にも、「あやす」という言葉がわからない、とも書いてありました。子守歌も知らなかったし、「寝かしつける」という言葉も意味不明だと。すべてネットで調べてやっと理解したそうです。
それでも頭では分かっても感覚的には理解できないのだろうと思います。わたしが、「施設で育つ」ということを想像でしか理解できないように。

日本では(先進国はどこでも同じでしょうが)、里親になるために厳しく審査が行われているようです。主に虐待や児童買春関係の疑いについて徹底的に調べられるとか。これは里親の認定要件の中にも明記されています。(厚生労働省)
つまり、それだけ「そっち目当て」で子供を引き取ろうとする者が多いから成立した要件と思われるわけです。それを考えると暗澹たる気持ちになります。


投稿者 : sinola at 2007年12月 6日 00:51

上に書いた数字についてですが、メモによると『赤ちゃんの値段』(図書館で借りました)に書いてあったもののようです。そうですね、本に書いてあるからといって信用できるわけではないと僕も思います。ご指摘ありがとうございます。

「誰が得するか」・・・まあ、普通に考えて左翼勢力でしょうか。いや、宗教右翼かな・・・。ちなみに児童養護の「業界」におけるイデオロギー的な勢力地図は描くのがとても難しい印象をもっています。右派左派入り乱れて凄い論争が繰り広げられており、そのうち二項対立など意味をなさなくなるというか(焦点が人間の原点である子どもなだけに)。

僕の自己評価は中道路線(穏健左派)ですが、「中絶100万」を鵜呑みにしてしまうメンタリティがどういう性質のものなのか、ちょっと反省してみたいと思いました。


投稿者 : ナツ at 2007年12月 7日 01:29

●sinolaさん
>「中絶100万」を鵜呑みにしてしまうメンタリティ
何ヶ月か前にも、「日本の女は子殺し」という2chのコピペを貼られまして、その中にも、米国より子殺しが多いだの日本女は犯罪者だのと書かれていたんですよ。それでそっち方面のデータを調べたりして。実際には確たる根拠がないということがわかったんだけど、信じちゃう人が多いですよね。

児童養護をめぐってのイデオロギー対立なんてあるんですか。何だかなあ・・・。「子供がどうすれば幸せになれるか」だけを重視すれば、イデオロギーの枠なんかどうでもいいように思えるんですけど。


投稿者 : marineko at 2007年12月 7日 18:38

とても印象に残る、そして大切なことだと思ったので、ナツさんのエントリをとっかかりに、MariaさんとLeiさんのブログも紹介させてもらうことにしました。ご報告しておきます。

http://fragments.marineko.moo.jp/?eid=753852


投稿者 : 山中馬のすけ at 2007年12月13日 22:50

なんだかケニアのダダーブ難民キャンプみたいな話ですね。。
こんな施設ばかりではないと思うけど、でも確かに「善意により運営されてるイメージ」の団体はそれが隠れ蓑になって却って不正が横行しやすいという構図はなんとなく分かる気がする。
子供たちの生活全般を預かる以上99人が真面目に働く職員だったとしても一人でも悪意をもって接する人間がいれば台無しになってしまうわけで、本来これほど周囲がしっかり監督していかないといけない団体はないはずなのに暖かい目で見守る振りをして関知せず内情に蓋をしてしまい、結果的に施設を孤立させているのが問題の根源のような気がします。
悲しいけど人間は権力だけを与えられてもそれをちゃんと見張る存在がいなければどんどん歪んでいってしまう生き物のように思います、国でさえ三権分立により相互に監視し合うことで辛うじてバランスを保ってるのに雇用関係により雇われてきた大人と寄る辺を持たない子供が集まった施設で大人の側を監督する力が弱ければ中には捻じ曲がった環境の施設が出来上がるのもむしろ必然だと思う。
嫌な見方かもしれないけど「善意の施設だから大丈夫なはず」ではなく「閉じこんでる分問題が起こりやすい」っていうのを前提に行政や地域が施設との距離を縮めて風通しを良くしていくことが子供たちを守る現実的な方法なのかもしれません。


>中絶100万
確か年間の出生数がそのくらいだったはずだからさすがにありえない数字ですね。。(;´Д`)
戦後すぐの頃の記録と混同されたのかもしれません



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