現在位置:
  1. asahi.com
  2. 北京五輪2008
  3. コラム
  4. 家族物語
  5. 記事

一人立つ、夢への舞台 サッカー・本田圭佑さん

2008年7月14日

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

拡大 マークの写真や図はクリックで拡大します

イラスト

写真「サッカーだけじゃなく、いろいろ2人で遊びましたよ」という本田圭佑さん(左)と兄・弘幸さん=東京都内、杉本康弘撮影

写真6月22日のバーレーン戦でプレーする本田圭佑

図拡大※クリックすると、拡大します

 本田圭佑(22)がサッカーワールドカップ(W杯)南アフリカ大会のアジア地区3次予選で日本代表デビューを飾った6月22日夜、兄弘幸(24)は東京都武蔵野市の公民館で、7月の舞台に向けて殺陣に取り組んでいた。

 昼はラーメン屋でアルバイト。夜は週5日、けいこに励む。試合があった日曜日のけいこは、午後1時から午後10時までの長丁場だった。切っては切られての演技を繰り返した。

 帰宅したとき、テレビのスポーツニュースは終わっていた。弟がフリーキックでシュートした姿も、ゴール前の絶好機を逃して頭を抱えた場面も見られなかった。

 けいこに打ち込んだ。それでよかった。

 高校時代の友人に勧められて、昨年6月に俳優の仕事を始めた。今年3月に初舞台を踏み、今度が2度目のチャンスになる。

 「そんなに甘くはないと思うが、1年で役者として食っていけるようになるという目標を立てた。期限は今月末。4月のオーディションでつかんだこの役はしっかりやりたい。演出家は『殺陣は安心して任せられる』と言ってくれている」

 俳優は第二の人生。「サッカーからの引退を決断したとき、弟にはなかなか言えなかった。2人の目標を果たせなくなってしまったのだから」

 一緒にW杯に出よう。

 兄弟はそう誓い合って育ってきた。

 大阪府摂津市の親元を離れ、弘幸は東京の帝京高校に入学。レギュラーになれないまま卒業したが、アルゼンチンの名門リバープレートの留学生テストに合格した。その後、プロ契約してアルゼンチン3部で約1年プレー。05年6月に帰国、Jリーグ1部の大分に入ることが決まった。

 サッカー人生の終わりは、大分との契約が決まった翌朝だった。練習で右ひざの前十字靱帯(じんたい)を切った。腕の立つ医者を探し手術を繰り返したが、思うようにプレーできる日は、もうこなかった。

    *

 代表デビューを飾った圭佑は翌朝、かすかに右足をひきずっていた。「試合の次の日はたいていこんなもの」。厳しいプロの戦いが続く。9月にはW杯へ向けた最終予選が始まる。その前に、8月の北京五輪は自信と実力を増すための大会になるだろう。

 弟は、兄が断念した道を一人で進む。

 小学校の卒業文集に「兄貴と2人でW杯に出て優勝。年収は40億円」と書いた。決勝ではブラジルを2―1で破ることになっている。

 「サッカーに打ち込んだのは、兄に勝つためみたいなものだった」。学校が終わると自宅近くの公園に行って2人で球をけった。中学で大阪府選抜に入るほどの素質を持っていた3学年上の兄にキックやドリブルで勝負を挑んだ。負けては泣いて家に帰った。長屋の8畳部屋で兄と布団を並べると、今度は競って大きな夢を語り合った。

 体育館の屋上から飛び降りて足をけがしたり、むちゃなことを試したり。やんちゃな子だった。だが、いつも兄の後ろをついて歩いていた。兄が中学へ上がってしまうと、部活に押しかけて一緒に試合に出ていた。

 2人を強く結びつけたのは、サッカーだけではなかった。

 兄が小学5年、圭佑が2年だった春。両親が離婚した。母が近所に別居するようになると、父の目を気にしながら2人は会いにいった。

 「いつ行こうか」と相談できるのは兄弟だけの時だった。

 サッカーで成功して家族に裕福な生活をさせてあげたい。兄弟で家族を喜ばせたい。母親が離れていたからこそ、「家族」が強い意志の礎になった。

    *

 「そんなん言ってもあのころの2人には、成功する見込みなんてなかった」

 父司(48)は、2人の息子を「一番になれ」と育てたが、甘い幻想は持っていなかった。「私は野球が強かった大阪の浪商高校の出身。将来はプロと目されて入学してきた同級生の剛腕投手が、秋には腕に入れ墨をして退部していた。才能があっても気持ちの弱い人間は生き残れない。それを実際に見た」

 圭佑は稲本潤一らが輩出したガンバ大阪のジュニアユース(中学)に入っていたが、ユース(高校)には進めなかった。石川・星稜高校でサッカーを続けたいと言ってきた。そこで、簡単にわかったとは言わなかった。

 「そのために金を出したいと思うようにお父さんを説得してみろ。将来のビジョンと熱意で口説いてみろ。そう言ったんです。弘幸が帝京に行かせてくれと言ったときも、アルゼンチンに留学したいと言い出したときも同じでした。気持ちを確かめたかったからです」

 圭佑は、星稜高校では1年生から試合に出た。しっかりした技術があった。しかし体が細く、足が遅かった。朝5時に起きて、チームの朝練習の前に8キロのランニング。ウエートトレーニングも続けた。

 そのころアルゼンチンでプレーしていた弘幸とは、電子メールで連絡を取り合っていた。「アルゼンチンでやっていけそうだ」という強気の言葉を読んだ。

 「兄貴はそう書いて自分に言い聞かせているんだと思った。そういう強い気持ちさえあれば、なんでもできる。おれも負けていられない」

 1年生で全日本ユース選手権で準優勝。3年生で全国高校選手権ベスト4。卒業時にはJリーグクラブの争奪戦の末、名古屋に入団。世界ユース選手権に出場し、五輪代表入りが目前だ。

 ユースに上がれなかった挫折から、同世代のトップランナーに駆け上がっていった。いつも欠けていたなにかを背負いながら。少年時代は離れて暮らしていた母を。そして今は、サッカーをあきらめた兄の分を。

 母は広島市にいるという。弘幸が北京に試合を見に行けるかどうかは仕事次第。司は、はっきりと行かないつもりだと言っている。

 「本田家で五輪に出るのは圭佑が初めてじゃない。伯父の大三郎はカヌー・カナディアンペアで64年東京五輪に出た。いとこの多聞はレスリング・フリースタイルで84年ロサンゼルス、88年ソウル、92年バルセロナと3度も出たんだから。騒ぐことじゃない。だいたい、サッカーの世界一を決めるのはワールドカップなんだから」

 それでも圭佑には、五輪でプレーする姿を見てもらいたいという気持ちがある。だれにと聞くと、言葉を選んで「本田家のみんなに」と答えた。=敬称略

 (忠鉢信一)

検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内