配偶子(精子や卵子)・胚(受精卵)の提供を受けなければ、また、子宮を借りなければ妊娠できない、いわゆる扶助生殖医療と呼ばれているケースは、AID(非配偶者間人工授精)を除いてすべて、日本産科婦人科学会が会告により認めていない。すなわち、日本国内では事実上、AIDを除いて扶助生殖医療はできない状態となっているのである。 養子縁組が簡単に成り立たなくなった現在、不妊治療の進歩の中で、持てる人と持たざる人が助け合う相互扶助精神の下で成り立つ扶助生殖医療に、救いの道を選ぶのは必然的なことではないかと思っている。 いずれにしても、子宮のない人がいて、その人のために代償なくボランティアで産んでくれる人がいるならば、他人が干渉できる範囲は自ずと決まってくる。 最近、いろいろな分野で倫理という言葉が使われている。しかし、じっさいのところ倫理にかなっていることが行われているのか。日本産科婦人科学会の会告に反し、代理出産等を水面下でやっている医師達は、表向きはやっていないと公言している。にもかかわらず、倫理的に問題なしとして日本産科婦人科学会の中では大手を振って罷り通っている。これこそ倫理的に問題があることではなかろうか。 今回、最高裁は、アメリカで代理出産をした向井亜紀さんの親子関係を結局認めようとはしなかった。法律というものは、応々にして時代について行けない部分を有しており、新しい判例で不備を補いながら、運用されてきた。このように臨機応変に対応しつつ国民の幸福追求権を守るために法の運用をするのが、最高裁判事のすることではなかろうか。向井さんの場合は外国で行われたのであるから、いくらシンディーという人が産んでくれたからといっても、遺伝子診断により親子鑑定をすればよかったのである。あの判決によって子供の幸せは葬られ、誰一人喜んでいる人はいない。このように、国民を不幸せにするような人を、今後、法を運用する人として我々は認めておいて良いのかとさえ思う。 向井亜紀さんが会見の中で、素晴らしいことを言っていた。それは、「私にも父性と同じ関わり方をさせていただけませんか」と。子供が生まれた場合の届け出は、父親の場合は単なる認知でしかあり得ない。すなわち、このようにグローバル化した世界の中で、代理出産やAID、非配偶者間体外受精という方法が一般化されつつあるとき、新しい家族法として、母親も父親と同じように子供を自分の子として認知することにより親子関係が成り立つように変えるべきではなかろうか。そうすれば養子縁組の場合も、親が子として認知することにより親子関係が成り立つことになる。
|