山形虐待編
父母親へ

元警官、現職中に妻の両親を
         遺産目当ての監禁虐待事件!!
その概要


事件の流れ

 

 この事件は、私が北海道札幌で警察官として勤務し、その後退職して事業していた間の不在中に実家の山形市で起きた事件である。
 私の実の妹夫婦によって父親や母親に対して行われていた虐待事件で、平成17年10月8日に山形の実家へ戻って来て初めて明らかになったものであった。
 この虐待事件は、平成18年3月まで山形警察署の警備係長として勤務していた私の実妹の夫が中心になっていた。
現在この警察官は、退職金を手にし天下り先の自動車免許センターで勤務している。
実際に父母が監禁断食させられていたのは、この警察官が現役時代の平成13年ころから平成15年の天童警察署勤務時代のことでした。
 この妹の夫の警察官は、山形県南陽市のサクランポ農家の次男として昭和20年に生まれた。
昭和40年山形県警察学校を卒業し警察官を拝命した者であった。
 昭和48年に私の父親の紹介で妹が山形で見合い結婚したもので、私も当時北海道警察本部警備部機動隊に勤務し山形での結婚式に出席したものでした。
 
 私の母親は元々北海道へ移住して来ていた家系であった。
母親が最初の結婚で農家に嫁ぎ長男の夫を朝日マラソンでの事故で亡くした。
その後、戦争から帰還した次男と再婚したが肺炎で他界したことから、その嫁ぎ先の実家から子供二人を連れて飛び出し保険金で帯広近郊に農地を買って酪農家を営み暮して居た。
 しかし、年当時ランプ生活をしていたことからランプに入れる灯油にカソリンが含有していたのを知らずに母親が点灯したことから、次女 文子を火傷から亡くした。
 そんな悲しみに暮れていた母親のところへ無職でブラブラしていた無一文の男が舞込んで居座ったのが私の父親であった。
 この男は、山形市内の稲荷神社の神主の次男であった。
母親は、長女の娘と二人暮らしであったが無理やり関係を迫られて追い出すことも出来なく世間体もあって止む無く結婚したのであった。
 従って、私が生まれてから男が止む無く慌てて結婚届を出したものであった。
その男は、母親に対して「農夫は知らないので三年は、農作業を観させて貰う。」と言って居座り働かないので結婚までは考えてはいなかったと母親が今、話す。 
 その後、二歳離れて産まれたのが今回の事件の警察官と見合い結婚したところの私の実妹であった。
 父親の利雄は、生まれは山梨県の武田信玄の血筋で武田を姓とし、地元山形の中学校で現在の山形商業高校を卒業してから横須賀の造船関係の仕事に就職したのだった。
 その後戦争に巻き込まれ志願兵として満州からサイパンまで戦場を経験し帰還したばかりであった。
北海道のスケールの違う酪農の農作業は、父親には全くの素人でありことに馬牛の扱いが下手で常に母親が中心になって家族5人の先頭に立って酪農を経営していた。
養子の形で婿入りした父親は、ほどんど野良仕事もせずに朝から出掛けて釣などして遊び廻っていた。
 やがて長女の(一緒に同居していた母親の前の夫との間に生まれた子供)私と10歳離れていた姉が、直ぐ近くの酪農家へ嫁いだ。
 それにより昭和35年からは、家族が4人になった。 
私が小学校5年の昭和38年頃になって帯広近郊の酪農の農地も高騰し始めて市街化されて来た。
その我が農地も宅地になりそうな状況になって来た時に、酪農を嫌っていた父親が「山形の実家で神主をしたい。」と言い出した。
 その発端は、父親の父が山形で営む稲荷神社へ「父親が元気な間に一度顔を見に帰って来たい。」と言い出し一週間の旅行した以後からであった。
 母の所有する農地を売却させた上で神主を継ぎ優雅に暮そうとしていた父親が居た。
実の兄貴が神主の後継ぎをしているのにも拘らず毎晩母親を説得した。
その後、勝手に山形へ無理やり移住し乗り込んだ形になった。
 母親もシブシブと止む無く土地を売却し、子供二人と一緒に山形へ移住した。
以前から離婚を考えていた母親は、この移住に際して既に父親に対し、当時農機具代と家畜の売却した費用を当て財産分与をしていた。
 私は、中学から家出して別居し地元の工業高校を卒業した後、直ぐ東京のソニー系に就職した。
しかし直ぐ、辞めて帯広の病院で働き出した。
 しかし、間もなく道警公安の警察官に勧められて警察官へと転職した。 
 昭和50年に母親が、案の定夫 利雄が全く生活費を入れない事から将来を考えて札幌へ移住し私と同居し始めた。
 私も母親が札幌へ来たことも有り、また公務上での放射線被爆事故で大量の放射線を被爆したことから依願退職した。
 母親は、私と暮す家とアパートを札幌に建てる為に山形へ土地の売却に向かった。
帯広の農地の売却の代替地として山形市内に買った土地であった。
 その売却の為に戻ってから母親の悲劇が始まったのだ。
それ以降は、私には母親から一連の事情を聞くまで離れていたことから知りえなかった。

 私は、昭和49年に道警察本部の機動隊に所属し、当時過激派の仕掛けた爆弾処理班の仕事をしていた。
その処理訓練中に私は、妬みから放射線被爆被爆事故を負ってた。
それで母親が「札幌にアパートを建てるから、退職して身体の治療したら。」と勧められた。
 私も高熱の毎日なので、母親の勧めに応じ依願退職の形で辞めた。
母は、退職した直ぐ後に「山形の代替え地と借家を売却して来る。」と札幌から山形へ戻った。
  しかし、その売却に妨害して母親の預金や土地の財産を狙って奪ったのが、妹夫婦であった。
この娘夫婦は、札幌への移住に反対し毎晩戻った母親が居た稲荷神社に押掛けた。
 この移住に対して神主の父親も、反対し母親の土地へ勝手に建築業者へアパート建築の図面を契約して阻止した。
 その為母親は、土地の売却できなくなり止む無く新築後に纏めての売却を考えた。
 昭和55年までの間に、自宅用の建物と隣にアパートを並べて新築し、その建築業者に広告を出し売却を図った。
  しかし、この売却を阻止する為に稲荷神社社務所の生活から夫が、新築住宅へ移り居座った。
娘の妹夫婦も、その自宅用の建物の二階へ引越しをして居座り始めた。
 そして母親に対して、札幌への移住を断念するように娘夫婦と父親の三人で責め立てた。
その間、母親のアパート家賃収入を当てにし妹夫婦や夫で母親から無心した。
昭和51年から平成2年の母親が倒れるまでの間、母親がその無心の状況を隠れて日記に記録していた。
 昭和62年、妹夫婦は居座っていた実家の二階から出てた。
山形市内の中桜田に広い土地を買い家を新築した。
 しかし、その土地の購入に際し妹夫婦は、金銭的に全部の坪数が買えないと言い出し、母親に一部の土地を買って貰い将来買うからとの約束をした。
 母親は、妹夫婦が買わない場合に措いては貸家を建てる予定でいた。
その後、平成元年秋に家族会議で北海道移住が決定した。
しかし、その後に措いて妹夫婦の母親に対しての抗議が始まった。
 そして遂に平成2年2月17日、娘夫婦が毎晩押掛け遅くまで寝かせないで母親を責め立てた事が原因で倒れた。
そのストレスから糖尿病を悪化させ失明したのであった。

 それ幸と、その倒れた当日の深夜、娘の妹が実家の母親の寝床へと押掛けた。
寝ていた母親の枕元の全財産の入った「手提げ」を盗みに入った。
しかし、
 母親が気が付き「何する。」と言って手提げのベルトを引っ張った。
その手を叩いて手提げごと全財産を強奪して逃げた。
 その時、別の部屋で寝ていた父親は助けることも無くその騒ぎに対して一切知らぬ振りしていた。
母親は、この時にサイフの現金から預金通帳、家賃振込み預金通帳、土地の権利書、実印など全て奪われた。
 これから1円の所持金も無く母親は、札幌への逃避を監視虐待されて一切出来なくなった。


 それから以降は、娘夫婦によって拘束された。
私との電話連絡されないように妹夫婦の自宅に連れられて監視された。
その平成2年の秋には、母親から奪い盗った預金からお金を引き出して「離れ。」を建てた。
妹夫婦の中桜田自宅横に六畳二間だけの監禁用住宅には、風呂も台所も洗面所も無かった。
 当時は、「離れ。」の建物と完全に別に分離していたが現在は、自宅と続けて改装してある。
左手前建物の次の平屋の建物が平成2年に母親から強奪した金で建てた監禁場所の「離れ。」である。
 窓は、逃走防止の為に小さく二重にして高さを設けてある。
裏口には、狭く急な階段を設けて超えられない扉を設けてある。


妹夫婦が「離れ。」と呼んでる監禁用建物へ直ぐ、無理やり母親を監禁した。
父親も娘夫婦に協力する立場を取っていたとから母親を助けようともしなかった。
 しかし、遺言を言わせた後に直ぐ老人施設へ入居させられているが、それまでは母親と一緒に監禁状態で立てないほどの食事しか与えられていなかったと母親の証言から判った。
妹夫婦は、両親に対して「私達の言う事を聞かないと承知しない。」と脅していた。
「札幌の亨君が来ても、一切余計な事を言うなよ。」とも強与し脅迫していた。
そして遠方から私や親戚の者が実家へ立寄りそうになった時には、中桜田から母親や父親を松山の実家へ戻していた。
そして実家で付き添い介護を妹夫婦がしていたように装っていた。
平成5年に私は、東京に出張し帰りに事前に電話し実家に立寄った。
当時母親が実家の奥の間のベットで寝かせられていた。
 しかし、この時に異常なほどベットを高くして布団に母親が寝かせられた上、そこへ妹が片手を母親の胸に入れていた。
後で、隠れて母親の脇を見たら抓られた痕が付いていたのを私は、確認している。

 平成7年札幌で自営していた「北海道警護サービス」や「日本特捜探偵社」の会社の本社事務所としていた。
実家へ移転し私は、両親を見る為に山形へ帰った。
 しかし、
 妹夫婦は、母親と一切逢わすこも無く、又父親とも単独で私と一切逢わす事が無かった。
妹夫婦が「母親が札幌へ帰れと言っている。」と伝言していると言い直接逢って話もさせなかった。
後に、判ったが父親に対しても「亨を札幌へ帰らせれ言え。」と妹夫婦から強与され反対させられていた。
 その理由は、以前から妹夫婦に「亨君は、大勢の人から多額の借金しているから、関わり持ったら財産を全部取られるから追い返せ。」と騙されていたことが親戚関係者の証言から私は知った。

その頃、
 父親は、既に神主も鈴木と言う他の神主へと引き渡していた。
そして、既に昼間から茶の間の食卓のテーブル下で真っ暗にして寝るなどの異常な行動していた。
 私は、この父親の状況や妹夫婦がビッチリ押掛け「札幌へ戻れ。」居座っていることで大騒ぎになって来たので止む無く又、札幌へ事務所を元の本社へ戻した
 当時の母親は、眼の治療し徐々に歩き回れるようになっていた。
妹夫婦の監視や無一文で自由な行動を取られなかったし、私が山形へ来ていた事も知らなかったと母が言う。
平成10年ころには、父親もボケが酷くなり「離れ。」へ連れられて母親と一緒に監禁監視される状態だった。
その頃から既に、父親の預金通帳や株券、恩給年金も盗まれていたことが判った。
そして、親戚や職場に措いても「息子が親の面倒を見ないから私達が世話している。」と言い触らしていた。
 全て、父親や母親に替わって妹夫婦が郵便物など管理していた。
当然、私の母親へ送っていた色々な物は全て略奪していた。
 従って、私には親戚関係の一切冠婚葬祭などの連絡も無かった。

 平成12年の西暦2000年問題で、コンピューター誤動作の恐れから富士銀行山形支店から私に連絡が来た。
母親が私名義で380万円預金していた。
380万円が「父親が来て渡せと言って聞かないので、卸に来て欲しい。」と言う内容の連絡が来た。
 私は、山形へ来て銀行で事情を聴くとにした。
母親が「三人の子供さんに、平等に同じ金額を預金されていたお金です。」と言われ卸して帰った。
妹にも連絡されたらしく、同じく母親から受け取ったが、それに不服で父親から400万円を盗ったことが後で、判った。
この頃から、札幌の私の身辺で次々と色々な出来事が起きた。
その一つに、特定郵便局ビルの三階で構え住宅を兼ねて事務所を借りていたが、その一階の入り口に放火され、電話回線が焼かれたのでした。
 その為に、補償問題で結局事務所を豊平区の平岸へ引越しすることになりました。
その他にも急に嫌がらせのさまざまな事案が多く有りました。
平成13年の12月始めに、母親との連絡が全く取れないことから、帯広の私の父親違いの姉に電話をした。
 姉との話から、母親がお盆過ぎから姉の家に来て居ることが判ったので、直ぐ私は帯広へ向かった。
母親は、姉の家の以前地下だった部屋が棟上されて一階に改造されてた。
そこへベットや生活用品を揃えて生活していた。
姉も一緒にベットを置いて世話していた。
それは、母親が札幌へ逃げないようにする為だったことが後で判った。
久しぶりに私は、母親と逢い「札幌へ早く戻って暮そう。」と話した。
喜んで「このまま直ぐ札幌で暮したい。」と母が言った。
師走なので私は、ゆっくり母親と温泉や以前の酪農して居た場所など母親を姉と連れて楽しんだ。
その間に母親の態度が変なので問詰めたら、妹夫婦から財産の入った土地の権利書などや実印を盗られてた。
 しかし、その時には監禁されていたことや暴力を受けていた事は言わなかった。
公証人役場へ連れ回されたので逃げて来た事は、話していた。
それを聴いた私は、山形へ調査に行くと母に言ったら「私も行くと姉が言って二人で山形へ向かった。

母親の土地など調べたら自宅建物が父親との共有になり、又山林が父親名義になっていたので驚いた。
山形での一日目は、お墓へと二日目に初めて妹の自宅と「離れ。」を姉から案内された。
妹が自宅に居て私は、「母親から盗ったものを返せ。」と怒ったが、「預かっただけだ。」と言い話が食い違った。
そこへ姉が仲裁に入って「私に任せな。」と言うので私は30分位離れていた。
 結局、後で返すとの事で、姉と帯広へ帰った。
後で、最初から姉と妹は電話で話し合って居たので私が騙されていたことが母親から聴いて判った。
 この後、私は札幌へ戻り母親からの頼みから妹に対し、アパートの今まで盗っていた家賃の返還や盗った金品全てを内容証明付きの書面で求めた。
妹から全く返答が無いので妹の夫が警察官なので、勤務先の天童警察署所長に連絡した。
効果があって、12月30日午後6時過ぎに父親を同行し妹夫婦が帯広の姉宅へ飛んで来た。
 しかし、土地の権利書と実印だけを置いて30分も居ないで帰った。
この時、私はには父親から自宅の共有名義のことから山林の名義が、母親の名義に全部なっていないことに関して聴きたかった。
だが、父親が姉の家に入るなり「25万亨、返せ。」と怒鳴って繰り返していた。
私は、父親から借りていないので、父親の叫んでいることが判らなくボケが酷くなっているので何も聴けないで帰した。
 その後、正月明け落ち着いてから札幌へ私は、戻って不動産の仲介業者に頼んでバリヤフリーのマンションを探して契約し帯広へ戻った。
 
 姉の家に、母親を迎えに来たと入ると、姉が「母さん札幌へ行かないって。」と言い、母親と逢わせようとしなかった。
私は、姉を母親の替わりのように信じていたので「母親の本当の意向なら、それなら仕方が無い帰る。」と言った。
札幌へ帰ろうと時間待ちしていると、姉が「母さんが如何しても最後だから駅まで見送りをしたい。」と言うので一緒に送る。」と言い送って貰った。
その帯広の駅で、母親と別れる時に私が耳元で「元気に暮しててね。」と言うと「亨、山形へ戻ったら●●●に殺される。」と言った。
 私は、そんな冗談をと言って分かれた。
その後、母親が「余計なことを亨に言った、この口が悪い。」と言いながら姉から拳骨で頭を3回と口の横ホッペタを抓られた。
母親は、拳骨も抓られたのも本当に痛かったので、「お前、娘が親に何する。」と言い返して泣いたと私に、後で話した。
翌日、食事もしないで山形へ無一文のまま飛行機に乗せられ戻され、それを待ち構えて妹夫婦が迎えに来て又「離れ。」に監禁した。

 それから「帯広に嘘言って行ったし、亨君に余計な事を喋った。」と妹夫婦が怒って「一週間食べさせないから。」と言われた。
妹の夫警察官から、母は背負っていたナップサックを引き取られ叩かれた上に、又権利書し実印を盗られた。
その後、6日間何も食べられなく過ごし帯広から一食もしていなかったので、三日目には目まいして動かれなかったと母が言う。
監禁から6日目の午後3時過ぎに、50過ぎの女がお茶を湯の御に一杯入れて差し入れしてくれたと言う。
その女が白い歯を出して笑ったので判ったが、平成13年の初夏に妹夫婦から公証人役場へ連れ回された時の証人の妻だったことが判った。
 それから母親は、意識をうしなってしまい気がついたら山形大学の付属病院のベットの上で治療を受けていたと話した。
私が平成17年10月に来た時には、既に平成16年10月に山形徳洲会病院へ転院されていた。
その山形の公証人役場へ連れ回された時の話は、妹夫婦が母親に「全財産を●●●に全部遣ると公証人の前で言え。」と脅された。
母親が「札幌の亨に渡すから、お前等などに遣らない。」と公証人の先生に言った事から、公証人役場を出た後で叩かれた。
 その時に、大嶋夫婦の証人妻が白い歯を出して観て白い歯を出し笑っていたと言う。
その暴行の場所は、公証人役場の近くであったが判らなく、そこからすぐ自宅戻され「離れ。」に、監禁されていたと私に話した。
この証人夫婦は、後ほど平成14年96日、同じ公証人役場で口答遺言公正証書を妹●●●と父親との証人であった事が判った。
大嶋証人の夫婦は、公証人役場の側で居酒屋を開店している事から、その店内と私の推測で考えられた。
この断食監禁虐待事件で私は、平成19年に山形警察署に私が届け出たのが数日遅く時効になっていた。
父親は、わたしが平成17年10月8日山形へ移住して来た時には、既に数年前から「さくらパレス」と言う妹の自宅から近い老人施設に居た。

 そして、平成17年12月4日に私が父親に午後3時20分から10分程度逢って話し帰った後、直ぐに妹が逢いに来ていた事が判った。
妹が約2時間父親の個室に妹が居て、午後6時近くに帰った30分後に担当の介護士が心肺停止している父親を発見し妹に電話したと言う。
私と逢った時には、一週間前に腰を骨折しベットで寝て動けない状態でも、風邪も治り元気に話していた。
それが死因は、呼吸不全と言う診断である事から不自然死で、私は司法解剖を担当医に嘆願したが聴きいれられなかった。
 妹に、二時間も居た当時の状況を説明を聴いても一切答えない。
父親の葬儀に措いても、親戚関係者の全員を私の居る実家から遠く離れている西蔵王のホテルに全員送り込み立寄らせ酢に帰した。
私は、葬儀の3日間一人で父親の遺体を守り一睡も出来なかった。 親戚の方々が「借金して失踪したと●●●夫婦から聞いていたので連絡しなかったし、年賀も出さなかった。」と教えてくれた。
母親に、この状況を話したら「爺ちゃんは、口を塞がれたか無理やり何か飲まされて殺されたのだ。」と言う。
なお、父親が他界する二日前の12月1日の同じ時間帯に父親と話をした時に「●●に騙されて全部盗られた。」と教えられた。
それに対して、私は「何を盗られた。」と聴いても答えなかった。
次の日に妹から電話が夕方あったので聴いたら「爺ちゃんボケているから。」と切った。


私は、平成14年の12月9日札幌での借家損壊での損害賠償請求の訴訟をするのに3年目の時効が近かった。
その為に、札幌地方裁判所への提出期限が迫っている事から必死に書類作成に忙しく5日に札幌へ向かう予定で居た。
私の訴訟に対し、妹が「そんなの辞めな。」と辞めさせようとしていた。
それは、妹が訴訟される被告の大家に対して「壊して欲しい。」と150万円を支払って頼んでいたのでいたからであった。
平成18年に入って、妹がアパート家賃の引渡しも無く母親の一切の権利書や実印などの返還をしないので私が母親と相談し請求した。
 しかし、母親の強奪した金品も父親の預金通帳など一切、返還に妹夫婦が応じなかった。
母親が妹が返さないので怒って「全部、婆ちゃんの財産の名義を変え渡すので公証人の先生を、このことを録音して聴かせて呼んで欲しい。」と言った。
私は、録音機器を買って母親の意向を録音して山形公証人役場の公証人 三浦宏一氏に聴かせた。
公証人は、「確りしているから構成証書を作成するので証人二人を揃えて欲しい。」と言われた。
 私には、直ぐ山形で頼めれる人が居ないと答えたら、公証人から大嶋夫婦の紹介を受けた。
その作成前に、公証人が私に母親の実印の改印と住所が妹のところへ勝手に移動されているので戻して欲しいと言われた。
私は、改印の証人に大嶋夫婦の夫に頼み実印を作った。
住民票の取り戻しは、山形市役所の住民課 鈴木 淳一担当官が直接母親から事情聴取して戻した。
この時に、既に大嶋夫婦から妹夫婦に連絡され妹が知って、山形地方裁判所へ母親の成年後見人手続きを申立てた。
 私は、公証人と2月3日以降に作成する約束をして、札幌地方裁判所に損害賠償請求の訴訟を遅れながら起していたので第一回目の公判に行った。
 
その後、帰ったら山形家庭裁判所に妹が相続を妨害する為に母親の山形徳洲会病院の内科担当医から認知症の診断書を取っていたことが判った。
それで公証人での遺産相続公正証書の作成が出来なくなって妹の審判裁判の被審問人にされた。
妹の申立が却下され弁護士が選任された。
 母親は、その選任弁護士に直接逢って意向を伝え遺産を私に全部渡して名義を変えようとしたが弁護士は、逢う事も無かった。
私は、平成18年3月に直ぐ妹を調停に掛けたが全く代理弁護士を立て応じなかった。
その後、母親の弁護士の解任の手続きを妹の恐喝や暴行を容認していたり意向を聴き入れないことで解任手続きを取った。
平成18年10月に突然、妹の代理弁護士から父親が平成14年に口答遺言の公正証書を作成している内容と目録が届いた。
 私は、何故他界した後の間がない期間に言わなかったか憤慨していたが、預金金額も少ない事から、遺留分の請求訴訟もしなかった。
母親は、平成19年1月まで入院先の病室内に措いて妹夫婦から「私達の言うとおりに言え。」と脅され暴行を受けていた。
 この後、平成19年2月に妹が「実家の建物は、父親が全額出資していた。」として建物明渡し請求訴訟を山形地方裁判所に起した。
それにより仮執行が行われたが私と、二階に住む●●洋子さんは、そのままの居住が認められた。
その事を母親が全て私に告白した事から、私は毎日早朝から夜の面会許可時間まで警護にあたった。
 突然、平成19年9月13日の私が帰った後の深夜に後見人弁護士が退院させて、妹夫婦に搬送を頼んで母親を現在の特別老人ホームに入居させた。
 
私は、母親が一番恐怖を感じている妹夫婦に搬送させた事案で裁判所に抗議し解任を早急に求めた。
平成19年12月に解任請求の山形家庭裁判所の判決が下り棄却された。
平成19年12月3日、山形地方裁判所から「建物明渡し請求」の判決が下った。
 しかし、建物明渡し請求訴訟に関しては、母親と父親の金銭貸借が口答だけなので証拠も無く抗告しなかった。
私は、弁護士解任に対しては、すぐ即時抗告したが仙台高等裁判所の判決も棄却された。
平成20年1月に、私や●●洋子さん共に実家建物から隣の母親のアパートに、それぞれ引っ越し明渡した。
平成20年現在までに措いて、妹の警察官夫婦が父親から騙したり盗んだ金額は、スーパー定期預金していたのを総額2750万円以上になっている。

 母親からは、「離れ。」の自宅横の建物や日記帳から子供二人の大学費用から新車の自家用乗用車まで全て盗んだ預金から引き出し使い込んでいることが判った。

      母親の富士銀行預金から
           現在  調査中
           平成2年から平成17年12月までのアパート家賃全額
      父親の郵便貯金と山形拓殖銀行県庁支店預金
           総額  約 3100万円
           年金から軍人恩給など
 全て、強奪していた事が判明した。
その他に、私を困窮さらる為に私の札幌地域まで様々な工作をし、水戸市の荻谷昭夫と言う名のヤクザ系の男を使って働かしていたことが明らかになってた。
この妹夫婦が母親や父親を虐待監禁し、預金通帳など全財産を盗んで使い込んでいた。
これが事件の概要である。
これらの詳しい経過を、それぞれの事案に添って順次致します。
   
       

母親が札幌を離れ山形へ戻った直後から、
 妹夫婦による無心が始まっていたのだった!!

            <昭和50年から平成2年の倒れるまでの母親が記載していた生活日記が実家屋根裏から発見され発覚>

  母親が札幌の南区川沿地区で私と生活する為のアパートや家を建てる土地を探したことから、山形の土地の売却に向かった。
 しかし、その戻るのを何より待ち受けていた夫婦が居た・・・それが妹夫婦だった。
 山形へ戻るなりビッチリ実家に頻繁に出入りしての孫をダシにしての無心が始まった。
 元々、実家から何かと無心していた妹であったが結婚してからは事に酷くなっていた。
  それに耐え兼ねて、小学校もろくろく通わなかった為に字を書くのを苦手にしていた母親が日記を書き始めていた。
 へそれは、私からの勧めもあったのだ。
 山形の母親と頻繁に電話連絡を取り合っていた私は、母親から「○○○が家の物を味噌から米まで何でも持って帰るし、金もせびって困っている。」と相談を受けたので、「全部貸した金や物を物を記録して書き込んで措くことだ。」とアドバイスしていたことがあったのだった。
 その後、直ぐに母親が日記を付けていたと話した。
一度、○○○に日記帳を発見されて捨てられたことから、その後に気を付けて実家の屋根裏に隠していたと言う。
 そして私が助けに来てくれたら教えようと思っていたと言い教えて貰ったのであった。
昭和51年から平成2年までの母親が書いた
富士銀行から毎年貰っている家計簿に日記を記載していた。
 昭和52年に娘夫婦に家計簿の日記を発見され読まれて怒られ捨てられたので無かっ た。
 その後は、天井に隠して夜中に夫にも感知されないように書き込んだと認知症にさせられている母親が証言している。
この家計簿は、預金している家庭に一冊しか毎年暮れに富士銀行から送付されるもので、市販のものと異なり私が改竄することは不可能である。

この家計簿は、見開きで一週間分の記載に
なっている。
 従って、見開きの下の段に記載されている
内容は、左片面が4日以内の用件で右片面は、3日間の内容になっている。
14冊の家計簿のどのページを
 開いても、妹の武田夫婦が実家に泊まったり立ち寄り現金を父母のどちらかに借りたり、酒から色々な物を持ち帰っていた内容であった。
 多額な金額なのは、自家用車の購入代から、車検代まで父親や母親から無心していたことが記載されていた。
 なお、この無心内容の全てを山形家庭裁判所に纏めて報告している。

 私が、「父親や母親から金品を無心していた。」と妹が家庭裁判所に上申書を提出していたことから、その反論として、 この妹夫婦が父母から無心している詳しい内容を
 山形地裁や山形家庭裁判所に報告している。

娘夫婦で遺言の
強与・暴行事件

公証人役場へ連れ回し全財産渡さない
と怒り罰に一週間 断食の虐待介護!!

 


父親が平成10年頃に入ってから少しずつ認知症の度合いが酷くなり掛かっていた。
父親の「離れ。」から逃走の心配は無かった。
確りしていた母親を札幌へ逃避させない為に、平成13年には両親二人を「離れ。」に完全に監禁した。
 その二人に対して一日の食事を母親の糖尿病を理由にして業者へ委託していた。   
一日二食のスプーン3杯程度約50グラムのお粥に味噌汁を湯のみ茶碗に一杯に限定して頼み込んでいた。
なお、食事の時間やオムツの交換の時間を午前10時と午後5時にしていた。
全て業者を使って配達させたり最低の介護をさせていた。
 これらは、母親の告白証言から明らかになった。
 介護や配食の業者の方も母親が助けて欲しい。」と言っても信用されなかったと母親は言う。
最低の食事の待遇監禁から一週間もしない間に空腹から直ぐ眼が回って立てなくなった。
ベットで二人共、歩く事も出来なくなった。
父親は、ガラス割って逃げられるのに助けなかったのはボケて一日中「25万返せ。」と叫んで居た。
最初は、ベットの下に潜って居たと言った。
二人は、ベットへ横たわる日々を過ごすようになって、その後には排便排尿にも立てた。
業者のオムツの介護を受けさせられた。
 風呂に関しても妹が必ず監視し妹の自家用車やデーサービスの車両を呼んで妹が監視に付き添った。
一ヶ月に一回程度同じところへ連れて行かれて介護業者に洗ってもらった。
妹の娘からは一度も風呂も食事も介護して受けたことが無いと母親は告白している。
 ただ、指爪や足の爪切りに対しては、「私の言うことを聞かないと承知しないぞ!!」と脅された。
業と深爪されて痛くて何度も泣いたとがあったと告白している。
そして耳糞に関しては、わたしが母親の何年も一度も掃除していない詰まっている耳掃除をして証拠にした。   
 意図的に、ボケたようにするのに聞き取れなく詰まらせていたことが判った。


 

父母への虐待の一方!!
私にも保証人の立場を利用悪意 !!


山形の土地を売却に帰ったまま帰らないので札幌でそのまま待っていた。
その後間もなく私は、母親から300万円を借りて身体の楽な喫茶店を買い営業した。
放射線被爆の後遺症で毎日熱のある身体で治療しながら働いていた。
昭和53年4月に3件に店を増やしていたが、全ての喫茶店を売却した。
そして、その資金でボデーガードの警護会社と探偵調査事務所を創業し始めた。
探偵社の業務の一環として「ペット探索」を北海道で始めて事業に組み込んだ。
その為に、犬猫の保護施設が必要になった。
止む無く手間が掛かるので営利業務からボランティア活動に切り替えた。
「北海道犬猫救護センター」の「ニャンコ先生の家」と名称を掲げた。
約50人のボランティアさんを集めて施設を運営した。
それが丁度、平成5年ころから本格化して平成7年頃には、保護団体としても認められた。
北海道のテレビや新聞などマスメデアで取り上げられて保護施設の犬猫が増え出した頃である。
当時、札幌市中央区の特定郵便局のビル3階で本社の事務所があった。
他に北海道内に3支所と東京池袋に支所1ヶ所設けていた。
そろそろ任せられる所員も多くなったので私は、実家二階を事務所を本社を移動した。
だが、父親や妹の妨害で又、戻し営業した。
この時から、私の身辺に色々な妨害問題が起きたが妹夫婦が絡んでいたことが後で判った。
 平成10年頃から、インターネットでの誹謗中傷から徐々におおくなった。
ボランティアが集まらなくなって施設の維持管理も難しくなった。
新篠津村から施設も札幌へ分散して戻し、又保護施設を移動することになった。
移転に際しての時期に、丁度山形の私の実妹夫婦から手紙が来たりしていた。
その理由は、「両親の財産のことで話し合いたい。」とのことでの電話や手紙であった。
 このころから既に、父親の財産のスーパー定期預金を妹夫婦は、盗っていたから気にしていたことが判った。
そんなやり取りの中で、私は妹に借家の保証人を頼んだ。
簡単に引き受けて貰い豊平区霊園駅近くに床の抜けている古い家を不動産紹介で大家と逢うこと無く借りた。
この場所は地下鉄に近いけれども既に床が抜けて雨漏りする欠点から何年も借り手が無く放置していた家であった。
当然、犬猫の飼養も治療などをすることの許可を得ての契約書であった。
 しかし、1ヶ月経過したころから直ぐ頻繁に110番通報や大家へからの近隣の苦情が来たとの電話が何度かあった。
そんな何者かの嫌がらせが始まった。
近隣の人からの話で、この借家の大家さんが問題でヤクサ系の人と聴いた。
「早く出る方が利巧だ。」と教えて貰った
一ヶ月後経過してからクザ風な男が来た。
「大家だが、床や雨漏り直す金を出して出れ。」と真っ赤なボルボに乗って来た。
ボルボの赤に、赤い靴を履いて現れて来て、「お前とは話にならない保証人から金取る。」と言った。
私は、妹夫婦に相手にしないように連絡して措いた。
その後、直ぐ勝手に妹夫婦が相談も無く大家に60万を支払処理したと言って連絡が来た。
そこから次の引っ越しする際も、妹が保証人になって遣ると言い保証人になった。
後の借家も家主が壊すほどの雨漏りする家だからと貸した家だった。
貸した大家も借家の庭に来て犬が欲しいと見に来ていた。
ある日突然、同じ人から110番通報が一日10本も苦情が来ていると通知警察からあった。
施設は、隣近所が駐車場で犬猫の騒音も臭いもしなかったのに誰かの嫌がらせだった。
そんな時期に、大家の弟と名乗る電話で借家の土地にアパートを建てると言って来た。
また、少し経過したら弟さんから契約無効なので家賃を姉に払わないで立退きを要求して来た。
私は、直ぐ大家に電話したが今まで通りに支払って欲しいと言われたが、家賃を分割にして様子を見た。
 その後、急に大家が態度が変わって来たと思ったら犬猫の苦情からの「建物明渡し請求」の訴状が届いた。
裁判では、和解となり犬猫保護施設を見つけて、引越しが全部終わったら鍵を渡す事で話が決まっていた。
その後、何故か保証人の妹が札幌に来て、借家の大家と逢っている情報が入って来ていた。
 そして借家を私が出張して留守の間で犬猫を移動した後、直後に勝手に建物全部損壊させられた。
それが、平成14年12月9日だった。
裁判の中で、妹から「150万を支払うから壊して欲しい。」と大家に頼んでいたことが判った。
私は、全ての家財道具と探偵機器や警護機材にパソコンとデーターを失った。
 当然、依頼者に対しての違約金の支払が生じた。
 こんな事から、母親から貰った380万円も無くし、それ以上に支払に借金を抱えた。
それから仕事が機材も無くし家出人や盗難車の探索などの仕事が中心になった。
必然的に社員も減らし収入も少なくなり、保護している犬猫のエサ代に困った。
札幌市の大通りで街頭の寄付金集めながら盗難車や家出人の探索をした。
 更に、犬猫施設を南区の藤野へ移動しても嫌がらせの110番苦情が連続した。
そこも大家へ直ぐ苦情が行き又、引越しを止む無くされた。
札幌市から離れ北広島市のトタンの作業場を保護施設にした。
 しかし、そこは半年で積雪になり潰れてしまい又、札幌市内の盤渓へ引っ越した。
そこは、盤渓のそば屋がボヤで飼っていた犬猫を引き取ったところの娘さんが以前借りていた借家であった。
 もう水道もないボンプで沢の水を使用していたようであったが、もうポンプも壊れていた。
壁も剥がれていたり雨漏りもしていた壊す予定の家だった。
その家を股貸しの形で一万円で借りて施設にした。
この頃は、既に里親に犬猫を貰われて行き数は、減っていた。
ここから茨城の水戸市の荻谷昭夫こと「遠くのご隠居」がネットの掲示板に現れたのでした。
妹から「150万を支払うから壊して欲しい。」と大家に頼んだことが判った。
 この平成14年12月の借家損壊事件の頃から北方ジャーナルの嘱託記者の小笠原が付き纏い始めた。
その記者の記事の私の写真が、山形の実家に置いてあった中学時代の写真で誰にも渡していないものだった。
 未だに、その男が掲示板を別に立ち上げて誹謗中傷しているので内容をご覧下さい。
私は、もう犬猫の保護活動もしていないのに全く無関係な妹との問題に加担している。
 この男から、●●洋子さんが札幌で私が損害賠償請求の裁判中に自宅で傷害を負された。
札幌白石警察に訴えた男であった。
その時の精神的な後遺症から私が、警察の勧めで山形に呼んで警護をしている。
 その為に、監視カメラなどを設置した。
この男に、私も公判に出頭する時に待ち伏せられて拉致されるところをした。
後に、この男の水戸市から札幌へ乗って来た車は、トヨタランドクルーザーだった。
札幌地方裁判所で私も白のRV車で見ている。
その車は、妹夫婦から新車を買っても貰っていたことが判った。
妹と荻谷は、深く関係していることが判った。


母親セツが帯広の娘へ逃避


 平成13年の10月ころ「離れ。」で監禁されていた母親は、「このままなら娘夫婦に殺される。」と思った。
何とか嘘を言って逃避を謀った。
それで最初に結婚し死に別れた先夫の長女が北海道帯広市の酪農して居た。
側に嫁ぎ住んでいるので娘を口実に利用した。
妹に母が「婆ちゃんが死ぬ前に一度、逢って措きたいので帯広●子に逢わせて欲しい。」と頼み込んだ。
渋々と妹は応じて帯広へ飛行機で同行し連れて行ったと母が言う。

この帯広の父親違いの私の姉は、仲が良くい。
警察官時代から、頻繁に出入りし実家のように泊まりに行っていた。
この頃は、暫くお互いの連絡が無かった。
平成13年12月に始めに私から姉に電話した。
母が帯広に居る事が話から判った。
それを聴いて直ぐ、私は帯広の姉の家へ札幌から向かった。
そして久しぶりの母親との対話をすることが出来た。

帯広の姉の家は、帯広市内の競馬場近くに位地し、同じ酪農家の隣へ嫁いだ。
早くから住宅や商店街の開発が進み土地が高騰していた。
帯広市内でもニトリ家具などの大手が店舗を出して、姉の家は土地成金になっていた。
母親は、何とか帯広の娘の家へ逃避したが山形の娘と帯広の娘が共謀していることを察してた。
私が母親に逢いに帯広の姉の家に着いて泊まっても姉も同じ部屋にベットを置いて監視していた。
姉が必ず監視している状態の中なので、母親も山形の娘夫婦から財産を奪われた事情をなかなか話さなかった。
しかし、様子がおかしいので私が母親を問い詰めた。
母親が「土地の権利書や預金通帳、実印など盗られた。」と話した。
それを聴いてから直ぐ、姉と私は山形の土地が売却されていないかなどの調査に向かった。
それまでの間、母親や姉と帯広の温泉や母親が最初に結婚して苦労した帯広市音更などへ泊り掛けで楽しんだ。
この時はすっかり回復し糖尿病も良くなって太って杖を突いて一人で食事も排便も自分でしていた。
 妹夫婦は、この頃は既に脳梗塞で下半身付随になっていたと裁判で申立ていた。

 

山形の妹夫婦と帯広の姉が事前に共謀して
姉が私と山形調査へ同行!!

 


  私が母親から土地の権利書や預金通帳、実印など盗られていることを聴いた。
母親の頼みから財産の入った手提げを取り戻す為や土地が売却されていないか等を調査に山形に向かった。
帯広の姉も「私も一緒に行く。」と言い出して同行した。
山形へ着いても直ぐ、私達は妹夫婦の自宅へは行かないで山形駅前近くのホテルに宿泊した。
市役所で土地が売却されていないかの調査から始めた。
ホテルでの姉からの話で初めて母親が妹夫婦の隣に「離れ。」を建て母親が生活していたことを知った。
既に我が家の家のお墓を山形の市内に建てていたことが判った。
一日目にお墓を姉から案内された。
母親の土地が売却されていないことや松山の実家の建物が父親との共同名義で登記されていない事が判った。
母親の山林が父親の名義で登記されている事も調査から私は知った。
調査も終わり最後の山形を離れる日に、妹夫婦の山形市中桜田の自宅へ姉から案内されていった。
妹と逢って母親から盗んだ手提げのガバンの要求をしたが、拒否された。
その理由は、預かって欲しいと頼まれたと言って返さなかった。
姉が割り込んで来て「私が話しするから二人にさせて欲しい。」と言い出した。
私は、姉を信じて任せておいた。
妹と約30分程度話していたが結論がでないと「後で母親へ届ける約束をしたから帰ろう。」と私に姉が言った。
私も、それに応じて帯広へ帰った。
この時、姉の案内で廊下続きになっている「離れ。」の建物を初めて見た。
母親が暮して居たと言う部屋には、バリヤフリーも施してなく台所も風呂も無い部屋だった。
また監禁用に考えたのか窓も茶の間に一箇所しか無い部屋であった。


  

ボケた父親を同行して妹警察官夫婦が帯広へ
母親へ土地の権利書と実印を返還へ




 山形から帯広へ姉と戻っても妹夫婦から返還に来る連絡が無かった。
母親と相談して妹警察官夫婦に対して内容証明の手紙を郵送し返還を求めた。
一週間が経っても返事が無いので、妹の夫の警察官が勤務している天童警察署長に連絡した。
山形県警本部の友人を通して相談して返還を求めて再び要求した。
平成13年12月30日の午後6時30分ころ突然、父親と妹警察官夫婦の三人が帯広の姉の家に来た。
母親の土地の権利書と実印だけを投げ捨てるように置いて30分もしないで立ち去った。

 母親の土地の権利書と実印だけを投げ捨てるように置いて30分もしないで立ち去った。
父親が「25万円貸したの返せ。」とか「25万円を貸せ。」とか訳の判らないことを何度も叫んでいた。
後で、25万円は「釣堀の工事費」と判った。
妹は、母親に「婆ちゃんが預かって欲しいと頼んだから預かっていたの忘れた。」と言って母を責めた。
母親は、盗んだと主張していた。



母親の札幌へ行きに脅し
母親へ山形へ帰ると 強与!!



その後、私は母親の居る帯広へ札幌から向かった。
平成14年1月の末までに間に、三往復した。
母親は、写真の奥のトイレ通路の右にベットを置き寝ていた。
姉は、私の横で寝ていた。
母と話する時には、必ず姉も側で聞いていた。
母親と札幌で一緒に暮らす準備などの話などした。
私は、札幌へ正月休みのあけるのを待って札幌へ戻った。
不動産屋を走り回りバリヤフリーのマンションを探した。
帯広へ戻った。
 

 この時には既に私が母親から離れている機会を利用し妹夫婦と姉とが結託していた。
母親を脅し「亨が札幌から来ても札幌へは行かないと言え。」と強与した。
「札幌へ行ったら、必ず 亨 の居ない留守に行って酷い目にあわせるから覚悟していな。」とも言った。
妹から何度も姉の携帯電話に掛かって来て姉が、母の耳元に着けて聞かして脅した。
後で母親から告白された。
私は、マンションを契約して帯広へ母親を迎いに行った。
姉が「婆ちゃんは、お前と一緒に札幌へは行かない。」と言っていると私に言った。
 「逢わないと言っている。」と嘘を言い私に逢わせようとしなかった。
母親は、姉の家の以前地下室だったところを桁上げして一階へして改装していた。
部屋に姉と一緒に寝ていたが、母親を二階へ連れ去り鍵を掛けて逢わせようとしなかった。
私は、諦めて札幌へ帰る為に時間待ちをしていた。
二階に居た姉に、母が「もう死ぬまで逢えないので最後に亨を見送りさせて欲しい。」と頼んだ。
母と一緒に送って行くと姉が二階から降りて来た。
姉は、運転する自家用車に無理やり母親を同乗した。
帯広駅へ三人は、向かった。

見送りの帰りに母親が帯広の娘からも
拳骨や抓られる暴行をされた!!

 帯広駅構内で母親が歩くのが遅いと姉の娘が、母親の車椅子を借りて押し私の乗る列車を待った。
その際に、母親が札幌へ戻る私に「山形へ帰ったら山形の娘に殺されるな。」と不意に話し出した。
私は不信に思った。
「婆ちゃん冗談でも良いけれど、もう生きて逢えないかもしれないね。」と涙くんで言い返した。
「母さんが札幌へ来て暮したくないと言うなら俺も仕方が無い帰るさ。」と私が言った。
「元気に何時までも長生きしてね。」と手を振って時間前に、車椅子に乗っている母親と車椅子を押す姉と別れた。
ホームに入らない前の通路で、別れホームに向かった。
 母親は、最後に助けに来て貰えると信じて私に言った。
別れて手を振り見えなくなったところ、直ぐ人目に付かない場所に車椅子姉が移動した。
姉が、「余計なことを喋って。」といきなり拳骨で3回頭を叩き、その後で母の口元をおもい切り裂けるほど抓った。
母が、「痛い。」と言い「親に向かって何する、この馬鹿者。」と叫んだ。
母親が娘の●●を怒ったと言う。
後、直ぐ山形へ連れ戻された。
一週間も口が腫れて痛かったと告白している。


 

帯広への逃避と息子へ話したことに対しての
母親へ厳しい妹警察官夫婦の制裁

 
 帯広へ逃避した母親を又脅して札幌の私と暮そうするのを娘の警察官夫婦が妨害した。
山形へ帯広の姉の家から食事もさせないで姉は飛行機に無一文で母親を乗せ送った。
 それを山形空港まで山形の娘の妹警察官夫婦が待ち受けた。
そして、母親が山形へ着くなり直ぐ妹夫婦は、自宅の「離れ。」へ入れた。
母親が背負って持ち帰った土地の権利書と実印の入ったナップサックを取り上げた。
再び又、妹警察官夫婦が手に入れた。
その後、母親に対して「私達に嘘を言って帯広へ逃げて、この恩知らずが許さない。」と言った。
更に「亨へ余計なことをベラベラ喋って罰として一週間何も一切食べさせないからね。」と言い再度監禁した。
当時、同じように父親も「離れ。」に入れられていたと母親が告白する。


息子が必ず助けに来ると信じて
待ちに待った・・・と涙流す母



 母親は、帯広から何も食べていなかった。
平成13年の夏に公証人役場で娘警察官夫婦から公証人へ言うとおりのことを言わなかった罰られた。
この時にも一週間の断食をさせられたが、今回は最初からお腹が空いていた。
三日目には全く立つ事も喋ることも出来なくなったと告白した。
「きっと帯広駅で亨に山形へ帰ったら殺されると言って別れたので、必ず迎えに来て助けてくれる。」と信じた。
私に涙を流しながら告白した。


公証人役場の時の証人夫婦の妻が
断食6日目に母へお茶の差し入れ!!




 平成14年9月6日、父親が口答遺言の公正証書を妹との間で作成した。
その大嶋夫婦の妻でもあり、又母親が平成13年夏に山形公証人役場へ妹夫婦に連れ回され時の証人だった。
その妻の方が監禁されている「離れ。」へ6日目の午後3時過ぎに突然現れた。
湯のみ茶碗に一杯のお茶を持って来て一緒に断食させられて寝かせられていた父親と二人に飲ませて帰った。
この時には、もうお茶も自分で飲めなかったと母が告白した。
 この時に一杯のお茶を飲んでからは記憶が無くなり気が付いたら山形大学の付属病院と後で判った。
「ピーポーピーポー」と一日何回も救急車の来る病院だった。
 平成16年に山形大学付属病院へ再入院したらしく平成14年度の入院資料は、5年以上経過している事から無かった。
私が調査してもそれ以前のことは判らなかったが、平成16年に入院した診断書は、入手できた。
この大嶋夫婦の夫は、母親の実印を改印するにあたっても証人で私は、2万円を払った。
 その妻であった。
母親の財産をで公証人へ行った時に、公証人が証人二人として紹介した夫婦でもあった。
父親の平成14年の口答遺言の時の証人でもあった。
 妹とは、その関係から何年も知っている関係の夫婦であった。

 

山形徳洲会病院へ転院させられ、更に、
共に移動した
その看護師等や担当医へ賄賂を!!


 山形徳洲会病院が開業したのが平成17年10月である。
それに合わせて母親は、山形大学付属病院から母親の担当看護師や介護士と共に転院させられていた。
 従って、妹夫婦は山形大学付属病院の時から母親の担当看護師や介護士達に賄賂を使っていた。
その賄賂を使っていた事は、妹自ら渡しに母親へ逢いに平成17年10月9日山形徳洲会病院へ向かう時に言った。
「この病院は、特別に看護師や担当医に多額のお金を包んるから退院させられない。」と私に話した。
「だから亨君が勝手に退院させようとしたり、外出させる事は、私達の許可がなければ出来ない。」ことも言われた。

 

父親が他界前に 「騙され全部盗られた。」と
私へ告白!!

 平成17年12月1日、他界する二日前である。
時もの時間午後3時20分ころ私は、父親が入居している「さくらパレス」の二階個室へ入った。
一週間前に転んで腰を骨折しベットに寝ていたが、風邪も良くなっていた。
 「邪も良くなったから元気だと伝えて欲しい。」と母へ頼まれた。
そして、洗濯物を取りに行って又父親の部屋へ戻った。
私が「何か食べるか。」と聴いたら「いらない。」と言った。
暫くして父親が「亨は、札幌へ帰らないのか。」と聴いて来た。
「何言っているの、もう山形の実家へ戻って住んでいるから帰らない。」と答えた。
 父親が「●●に騙されて全部盗られたわ。」と私に言った。
私は「何盗られた。」と聴いたが父親は、何も言わなかった。
父親もボケているから何か盗られたのを気にして言ったのだろうと私は、思った。
直ぐ母親へ伝えるからと父親の個室から立ち去った。
妹に、次の日夕方電話が私の携帯に来たので出たら、「何も無かった。」と言った。
 その時に、私は妹に聴いた。
「爺ちゃんの物何か取ったのか、怒っていた。」と言った。
妹は、「ボケた人の言う事だ。」と言って切られた。


妹が帰った30分後に父親が逝った・・・が、
その父親は「呼吸不全」での不自然死だった!!


  平成17年12月3日の日も同じ、山形の桜田「某パレス」の老人施設の個室へ入れられていた。
 認知症で少しボケた父親に、私息子が午後3時15分ころ何時ものように洗濯物を取りに行った。
 「何か食べるか?」と私が聴いたら、父親が「○○が食べさせてくれたのでいい。」と答えた。
 私は、「今日、来ていったの。」と聴いたら、「昼前に来ていった。」と答えた。
 当番でもないのにおかしいと私は思ったが、それ以上は聴かなかった。
  私が「婆ちゃんへ何か話がないか?」と聴いたら、直ぐ
 「婆ちゃんに腰も風邪も治ったので何でも無いと言って欲しい。」と頼まれた。
 洗濯物を引取り後に、直ぐ母親の入院している某病院へ向かった。
 母親に、父親の伝言を伝えて私も札幌地裁へ器物損壊の事件の訴状を準備する関係もあって
 そうそうと母の入院先の病院を出て自宅へ戻った。
  しかし、その頃に妹が入れ替わり父親の老人施設へ行っていたのである。
 妹から電話で午後6時過ぎに父親が心肺停止していることの連絡を受けてから
 直ぐ、私が老人施設へ向い着いて父親担当の係りの女性介護士から、
 妹が私と交替で直ぐ父親の個室へ一人で来て約2時間も居てから帰ったことを聞いた。
  それが5時30分ころだったと聞いた。
 その約30分後に担当係の女性が介護へ回った時に異常を発見し既に心肺停止していたとを確認していた。
 その日は、私の当番日で洗濯物などの届け回収や様子を交替するのが以前からの妹と約束であった。
  今まで私の当番日に妹が父親や母親のところへ一度も替わりに来ていったことなど無かった。
 しかし、その日に限って娘が二回も出入りしたことは、不自然でおかしかった。
 ことに、
  妹は、自宅でも手作りの食事が少なく買い物の惣菜が多く、まして父親や母親の洗濯物も全て業者に出してた。
 漬物なども漬けない家庭的な主婦でなかった。
 母親の以前からの証言からも妹の自宅では、一度も食事などを食べた事も無いし、風呂も入った事も無いと言った。
 私も一度も妹や夫の警察官の○○との食事を妹の自宅では無かった。
 そんな妹が、一日に二度も父親の老人施設に出入りしていたことが不思議で元気な父親が「呼吸不全」とは、誰が  聴いてもおかしい。
  そして妹夫婦から「爺ちゃんが死んだ事は、当分婆ちゃんには内緒にして欲しい。」と言われた。
 これに関しては、私も少し期間を経過してから徐々に話そうと考えていた。
 葬儀が終わってから我慢できなくなって私が母親に対して父親の葬儀から一連の事実を話した。
  母親は、話を聞かされるとすぐ「爺ちゃんは口を塞がれて殺されたのだ。」と言い切った。
 他界するまでの一連の事実を親戚関係者に話をしようと思って居たが一切実家へ立寄らせる暇なく妹夫婦が一人一 人見送りまでしてそうそうと帰した。
 私が父親の司法解剖を検死医師に申出でも妹夫婦が妨害してそうそうと火葬してしまった。
  平成17年12月9日までに、私は札幌地裁へ器物損壊で損害賠償裁判の訴訟を起すために札幌へ向かおうとして  いた矢先の出来事であった。
  父親の突然の他界によって結局は、訴状提出が遅れて結果的には敗訴した。
 妹は、再三「今更訴えて何になるの・・・止めなさい。」と言っていたが・・・・この裁判で妹が大家に対して「壊しても構 わない。」と壊させていた事が明らかになった。  

 

「札幌の兄が事業失敗で借金し失踪した。」と
近隣住民や親戚に妹夫婦が嘘を触れ歩き発覚!!

父親や母親をも騙していた!!

  平成5年に山形へ本社を移転した時には、既に山形市の知人や親戚などに、嘘を広めていた。
この娘夫婦は「兄は事業に失敗して行方不明になって連絡が付かない。」と言い回った。
「兄が父親や母親を脅して毎月札幌へ送金させ、そのお金で遊んで生活している。」など言い触らしていた。
口だけの嫌がらせのそれだけではなかった。
私を親戚に「来ても絶対に信用しないで追い返して欲しい。」と頼んでいたことが判った。
それに依って、親戚関係者からの年賀状や冠婚葬祭が一切平成に入ってから私へ来なかった。
 それどころか父親や母親に対しても嘘の電話番号を教えて騙し同じような事を言い振らしていた事が判った。
平成18年9月になって父親は、平成14年に騙されて「全財産を○○○の妹に渡す。」との公正証書を作成していた事が代理弁護士を通して連絡が私にあった。 

 

アパート家賃預金通帳の引渡しや契約書の返還を
妹が拒否!!



 私が平成17年10月山形の実家へ移住した。
一週間してから妹が父母の収支関係の説明をした。
 「12月から父母の関係の金銭収支を全て引き渡すから。」と言い約束し帰った。
その後、アパートの入居者に挨拶の通知した。
その12月末になっても一切連絡も無いので平成18年の年明けてから内容証明の書面を送った。
 しかし、応じるどころか父親の遺骨を渡せと言って来た。
家賃振込み口座を変えて、アパートの入居者に書面通知した。
 それを知った妹が、直接入居者に電話で請求し早く家賃の振り込ませていた。
仲介の業者も妹でなければと事情を話しても断られた。
母親に対する脅しや嫌がらせが以前より酷くなって来た。
私は、仕事も無く生活に困窮して来ていた。
 母親が怒って「全ての財産の名義を亨に渡す。」と言い出した。
母が「行けないから、録音して公証人の先生に頼んで欲しい。」と言うので私は、録音機を買った。
母親が私に頼み、その母親の話の録音テープを持って山形公証人役場へ頼みに行った。
早速、母親の意向を録音して山形公証人 三浦宏一先生に聴かせた。
妹夫婦が返還を拒否していることを話した。

母が息子への全遺産相続に、
妹が成年後見人手続きで妨害!!

 

 この妹夫婦の一連の経過に対して、母親が怒った。
全ての財産の名義を亨に渡すので録音テープで録音して公証人の先生に頼で呼んで欲しいと母親言った。
その母親の話の録音テープを持って山形公証人に役場へ頼みに行った。
山形公証人役場の 三浦宏一先生が母親の録音テープを確認して母親の意向が確りしているので認めた。
 最初に、母親の実印の改印や妹夫婦から勝手に母親の住所の住民票が中桜田の妹自宅へ移動されていた。 
元へ戻すように勧められた。
その後口答遺言の公正証書を作成することを言われ、その証人に大嶋夫婦が紹介された。
それに依って、私は母親の改印や住民票の取り戻しを終了した。
私が札幌地裁の建物損壊損害賠償請求訴訟公判から帰った後作成することにした。
平成18年2月5日ころ作成することを公証人と約束していた。
  しかし、その証人から妹に連絡されて妹が直ぐ平成18年2月3日ころ、住民票を又自宅に戻したりした。
山形家庭裁判所へ母親の担当医に母の「認知症」の診断書を書かせていた。
母親の成年後見人の手続きを妹が申立てした。
 公証人と母親との口答遺言の作成も中止になり、直ぐ成年後見人の審判裁判が開始められた。

 


その剥がされた足爪を痛めつける娘!!



 私の居ない隙を狙って実娘○○○が母親の入院病室に来て、母親に「痛い足擦ってあげる。」と聴いて措きながらみに堪えている母親の爪を剥がされた足の親指をわざと無理やり触って痛めつけて帰っている。
 母親は、「触るな、帰れ。」と怒鳴っても・・・・・辞めないで通って来るので、今日7月26日私に告白した。
早速、看護主任の○○さんへ言ったが・・・・「内の職員が消毒か包帯を取替えに行ったのを間違ったのでない。」その次には、何と「妹さん来ているの見た事が無い。」と言う始末である。
 昨日も「看護主任の○○さんと妹さんが何か長話をしていたですよ。」と某患者の家族が教えてくれているが、その証拠が取れない。


 


入院病室へ妹が夜中来て母親を脅し!!



 今度は、母親の入院先へ深夜来て「インターネットに有る事無い事何でも書いているから止めれって言え。」と脅しに来ている始末であった。
 この前、家庭裁判所の調査官が入院先に来て母親から直接事情を聴いて帰ったが如何受け取るか問題である。
 後に、全く母親と私の狂言で証拠にもならないと問題にもされなかった。
日本の司法って・・・・私も元司法に関与していた人間だか疑問だらけである。
「医師」「看護師」「介護士」の言い分が認められて「事実」は全て消されて行くのが現代社会の流れかも・・・・????


 

 院内虐待発覚


母親の足の甲が真っ青なことから
妹が看護師や介護士を使って
院内虐待していた実態が判った!!

  

 平成18年11月15日午後5時15分、母親の足の甲や上腕部の打撲痕を私が発見した。
母親が私から問詰められそれが発端で事件の全貌が発覚した。
平成18年1月に母親が全財産を移行するために公証人を頼もうとしたら認知症患者にさせられた。
平成14年9月に認知症でボケている父親から口答遺言の公正証書を騙した作成していた。
 「亨君の電話は、失踪しているから連絡出来ない。」と父親や母親に嘘を言っていた。
 父親には、「亨君は、多額の借金が有るから、私達に預けないと盗られる。」とでも言ったのだろうと母親が私に話している。
母親にも、同じことを言っていたと母親が告白した。
「実家には、戻りたくても戻れないほどの借金を抱えてに逃げている。」
 「係わり有ったら、親だから支払義務が有るから、来ても知らない勘当したと言え。」
 「17年も私たち面倒を見たのだから、当然全部の財産を貰う権利がある。」
など言っていたと話し、更に母親は、「娘の●●●の口の上手なことは、天才的な女だ。」と母親が誉めた。
母親の左足の甲の部分が真っ青に鬱血していた。
既に、一週間は経過している状況であり、母親の話から
薄暗い部屋に無言で急に病室へ入って来て寝ていたところを
後ろから抱き抱えられて車椅子に乗せられた途端、足の甲を
思い切り踏み付けられたと言う。
 母親が名前を聴いても一言も声を出さないで居なくなったと話す。
背中に当たった感触から女の介護士か看護婦だったと言う。
 <山形徳洲会病院7階南棟730号室病室にて平成18年11月15日
午後6時30分ころ 息子 川窪  亨 撮影>
母親の足の甲の部分は、親指が変形している
ことから、車椅子に乗せた後で床に足を置かせて
から意図的に踏み付けたもので甲全体が鬱血し
ていた。
 妹が「亨君に札幌へ帰れと言え。」と言われたのに
母親が言わなかった事から仕返しに誰かにやらせた
ものだと母親が私に言った。
 このような事は、私が山形へ来てからは、亨に言えと
言われた通りの事を言わなかった後で妹に母親が
怒られて頻繁に業と介護士や看護師から
壁やベットに叩きつけられたり、腕を青くなるほど
抓られたり暴行を受けていたと話す。
 父親の遺言の証人夫婦が、母親に頼まれて私が公証人へ行った今回の公証人が紹介した証人も
同じ●居酒屋の大嶋夫婦だった。
そのことから直ぐに、母親が全財産を息子 亨へ渡す事を妹夫婦に連絡したことから発覚した。
私も裁判所から妹が母親の後見人手続き申込みに関しての被審問人の立場での回答を求められた。
公証人は、現在の公証人とは違っても証人が同じ証人を紹介していることが問題であると私は思います。
帯広への母親の逃避の一件を報告した関係から妹の申立を却下された。
弁護士●● ●○氏が選任されたものである。
 この問題は、後に裁判を掛けてハッキリさせるべきことに母親も私も考えている。
このように病院内での虐待事実も母親が教えてくれた。
この実態を私は母親に替わって、多くの皆さんに知らせる義務がある。
弱い立場の患者は、他の病院へ転院したくても医師の紹介状がなければ相手にしてくれない。
患者を認知症にした担当医も許されない。
悪意の持っている子供が居たら、歳を取る前に財産のある人は、川窪家のようなことになる。 
何億の金額ならば、簡単に引き受ける殺し屋も多い時代。


監禁虐待事実の隠蔽工作!!


 


 母親は、娘夫婦に対して「ケムシ」「マムシ」と呼び捨てし、最近は「悪魔」とあだ名を付けている。
病院内では、直接言い争うと四人部屋なので他の患者に迷惑を掛けるので大きい声で「帰れ。」と言えないし怒ら
せて夜中に来て、口を塞がれても誰も気が付かないので殺されても捕まらないから、あまり言われないけれども・・・・「息子が24時間警護に付いてくれたら良いけれどもね。」と言う。
 朝昼晩に食事へ食堂に向かう途中に置いてあるイノシシの玩具と黒ブタの人形に対して「悪魔が来ないように親を叩くようなヤツに神さんのバチが当たるように・・・・。」と通る度に母親は祈っております。
そして「一週間も何にも多へさせて貰えなかった妹娘の夫婦には室蘭の刑務所に一生入れて下さい。」って恨んでいる。
 これに対して、後見人の弁護士は、全て私の作り話として聴きいれることも無い。


母が悪魔から離れて遠くで暮したい
人殺しは葬式にも一切呼ぶな!!


 
母親は、私が毎日特別老人ホームへ行くとよく言う。
「絶対に、あの人殺しのマムシをばあちゃんの葬式に呼ばないで密葬して欲しい。」と話す。
 そして、山形から早くマムシの来られない北海道でも連れて逃げて頼むから欲しい。」と言う。

 




妹の夫の警察官の工作手段は、
警備警察の工作手法!!



 逮捕監禁罪の時効は残念ながら5年で、この元警察官の妹娘夫婦二人を逮捕して刑務所へ送られないことにはなったが、このサイトで訴えることでの社会的な制裁を母親は望んでいる。
 私も札幌の借家の保証人になっていた妹娘が、貸主の大家に母親から盗んだ150万もの大金を渡して地方へ出張している間の平成14年12月9日の北海道の札幌の真冬最中に一日で全て損壊させ建物もろとも全て無くさせら
れた。
その裁判も器物損壊は時効が3年で訴訟前平成17年12月3日に父親の他界により葬儀と重なり遅れて却下され
て損害賠償金1800万相当を無にしたが傷害では物足りないし・・・これから民事でアパート家賃横領から全部返して貰う為の裁判を考えているが弁護士などの資金が必要であ。
 妹娘の夫は、警備工作の専門家で過激派学生や共産党を相手にしているだけあって全て計算ずくで手口が警察の工作方法が私には見え見えである。
 既に裁判所へ報告しているが今年の春先のある日の夕暮れ、毎日母親介護に息子が通勤している父親名義のオートバイに、何かブレーキにでも工作しようとたのか元警察官の妹娘の夫がこそこそと山形徳洲会病院の裏手に
隠して置いたのを探し、似合わないハゲ隠しの紳士ハットにスーツ姿で変装したつもりか・・・・寸足らずに似合わない格好でしたので私には直ぐ判った。

 普通、警備警察では、警察官の中でもエリート警察官が多いのに退職前でも警備係長止まりで警察署長にもなれない警察官は、北海道警察では、人間的に問題がある警察官であることは、全国的に何処も同じである。
 平成12年頃から、札幌で私は本業の探偵社の業務の一環としてペツト犬猫の保護活動をボランティアで保護施設を設けて「北海道犬猫救護センター」と看板を掲げ、「ニャンコ先生の家」と言う保護施設を創設し犬猫保護愛護
団体の代表者で活動していた。
この保護活動に対しても、妹の夫婦は目を付けて刺客を放した。
 それが私は、単に寄付金の利権争いの他の団体の嫌がらせと考えていたが、それは妹夫婦が工作していたことが判った。
 その犬猫保護施設への崩壊に至るまでの経過は、次のサイトで詳しく説明しているのでご覧下さい。

院内で又、傷害事件


また・・・平成19年7月22日(日)
朝食後に入院病室内で
母親の左足親指の爪が
看護師や介護士の手で剥がされた!!




 昨年平成18年11月15日に看護師か介護士の意図的な暴行によって母親セツの足の甲が真っ青になっていた事件から以降においても、他に私が問詰めた結果私の居ない間に妹夫婦による暴行事実を何度も受けていたことの告白を受けていた。
 しかし、
 それから以降は、母親の傍で一日中毎日警護をするようになり又、母親の身体も点検していた。
毎日の監視から夫婦による虐待行為の過去の全ての出来事を母親からいろいろ聴いた。
平成14年1月帯広から無理やり山形へ戻されて監禁され一週間の断食から脱水症になり、その原因で脳梗塞になったことから、より詳しく母から細かく聴きだした。
 ここ朝昼夜の母親への介護を止めて、夜の介護と警護だけにしていたら妹が直ぐ感知して早朝来て6日間続けて母親セツの病室へ入り込み睨み付けて直ぐ帰って行くことも母親から聞いた。

 「母親セツと私は、きっと何かが起きるので気おつけて措いた方が良いね。」と話していたばかりであった。
その何かが又起きた・・・・・7月22日正確には21日の夜から22日の7月22日の日曜日の午後3時過ぎに母親の足の左足親指の爪が剥がれて麻酔の注射を打たれていた。
母親の話では、「朝か・・・食事へ連れて行くのに部屋で車椅子へ乗せられる時に何者か声を出さないので判らないが、何でか頭が登るほど痛みを感じて叫んだ時には、爪が剥がされていた。」とのことであった。
○○看護責任者が「係りの者が介護扱いが悪くて注意して措きましたが・・・申し訳ありません。」と病室へ向かって行くと直ぐ詰所から追い掛けて来て謝りに来た。
 以前も、母親の足の甲が真っ青・・・・そして、今度は足の親指の爪が剥がされて・・・・・と不自然な事故であるように思う。
そして、必ず妹が何日か継続して母親の病室へ来ている時の後に暴行虐待が行われている。
 今回は、その間にテレビのイヤーホーンが妹○○○が帰った後に無くなっている。
以前は、壊されていたが今度は、持ち去っている・・・・・私が証拠として裁判所へ壊された状態を報告しているから
証拠を残さなくなった。
これで7回目のイヤーホーン事件である。
この事案に対しても後見人の弁護士にも報告しても何ら返答も無い。
それどころか病院に対して、外泊禁止から入れ歯の禁止、補聴器の使用など認められてないとの連絡をしている。
 母親セツは、平成14年1月以降に又監禁されて倒れ山形大学医学部付属病院へ緊急入院させられていた。
その後、その○○看護責任者も母と一緒の時期に、この山形徳洲会病院へ転院していることが判った。
 当時から事情を知っている患者の家族の話では、山形大学付属病院の中でも問題の看護師や介護士が、皆纏め一緒に転院していると話す。
患者を車椅子に乗せて食堂まで搬送するのに・・・・如何したら足の甲や親指の爪まで剥がれるほどの怪我を負わせれるのか、私が毎日しているので一番判り不思議でならない。
 母親の我慢強さには驚かされている。
それは私が小学校5年ころサイロにレントコーンを切り込みする時に、カッターの先頭になって働いていた母親がベ
ルトコンベーヤーに巻かれて親指を根元から切断しているのですが・・・・・その時より痛く感じたと言う。
母親は、23日は痛さでの疲れて食事した後は、直ぐ寝ました。
 多くの皆さんへ・・・・・この院内虐待を単なる事故として多くの看護師や介護士によって平然と閉鎖的な場所を利用して行われていることを知って欲しいのです。
 この画像は、7月22日から約三週間も経過して包帯を取り去ってからの画像である。
それまでは、母親が痛がってガーゼーの取り替えにも「痛い痛い」と騒いでいた。
 それを妹が私の留守を狙って来て、痛い足先を業と触りまくって帰っていたのであった。 


その剥がされた足爪を痛めつける娘!!



 私の居ない隙を狙って実娘○○○が母親の入院病室に来て、母親に「痛い足擦ってあげる。」と聴いて措きながらみに堪えている母親の爪を剥がされた足の親指をわざと無理やり触って痛めつけて帰っている。
 母親は、「触るな、帰れ。」と怒鳴っても・・・・・辞めないで通って来るので、今日7月26日私に告白した。
早速、看護主任の○○さんへ言ったが・・・・「内の職員が消毒か包帯を取替えに行ったのを間違ったのでない。」その次には、何と「妹さん来ているの見た事が無い。」と言う始末である。
 昨日も「看護主任の○○さんと妹さんが何か長話をしていたですよ。」と某患者の家族が教えてくれているが、その証拠が取れない。


 


足爪剥がした傷害看護士を隠蔽!!



  その病院の母の看護主任へ、「母親の足の爪を剥がした看護士さんから直接謝って欲しい。」と私が抗議して話したところ「私が責任者なので直ぐ謝っているのだから本人と逢わせる必要無いので・・・。」と反論して来ました。
 母親が「それは、可笑しい。」と聞いてたので言うと「上司と相談して来ますので。」と言って去った。
その後、30分ぐらい経過してから又、病室へ阿部さんが来て「今、面会場で待たしてますので来て下さい。」と言う
ので逢いに行きました。
 しかし、背の高い痩せた男性が待っていたので・・・・「お名前はと聴いてから、女の人ですから違います。」と言って帰って来た。
 その後も母親セツに何度も聴いても「太った女の人で、その側に阿部さんも居たらしく廊下の方から安部さんと誰かが呼んでいた。」と言う。

 未だに、まだ本人からの謝罪も無いし・・・・この事件後から阿部さんは廊下で合っても挨拶もしなくなった。
過失傷害でも警察へ訴えてハッキリしようとも考えているが後見人も知らぬ振り、その正義の警察も証拠主義で病
院内の出来事では立証が無理ですねと終わった。
 私が現在も警察官でその受けてたならば、少なくても直接被害者の母親から事情を聴いて参考報告書を提出していたでしょう。

 


突然、母親が入院先から深夜妹夫婦の手で
搬送され、特別老人施設へ移動させられた!!




 9月13日、私が帰った8時前以降の深夜に掛けて、妹夫婦が母親の後見人弁護士の指示で某入院中の病院から特別老人施設へ搬送された。
 妹夫婦の指示で母親が負傷したり嫌がらせを受けていると言う疑いが高いのにも拘らず、平等性を欠き弁護士が突然、特別老人施設への移動をさせた事は、問題である。
 従って、山形家庭裁判所から先日平成18年に成人後見人弁護士の解任を要求していたが棄却されたので、直ぐ仙台高等裁判所へ後見人弁護士の即時抗告を私がしました。
 母親の入れ歯や補聴器の購入を拒否したり、妹に洗濯物をさせるように指示されたり・・・・やっばりこの事件からも後見人弁護士が、妹夫婦から何らかの賄賂を受け取っているとしか私は、個人的に思う。
 その後、直ぐ今までの後見人弁護士の事務所が急に、山形裁判所近くの賃料の高いビルへ移転している。
裁判官や弁護士、検事も国家試験の司法試験が受かれば同じですから、私は、この後見人弁護士の妹夫婦に母
親を深夜搬送させたことを許可した裁判所の措置から、後見人弁護士の選任と裁判所との間で裏取引があると私は、個人的に思ってます。
 今、母親が一番恐れ嫌っている殺されかけた娘夫婦に深夜の搬送などさせる司法措置に断固抗議したが
裁判所では、弁護士の妥当な措置として片付けられた。
 今度の民間人が介入する裁判員制度に期待するより他に無さそう。

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