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2008-08-13

ポニョ見て泣いた。これは宮崎駿が見てきた夢じゃないか。

深夜の六本木に「崖の上のポニョ」を見に行った。久しぶりに映画見て大号泣した。

やー、もっと「おもしろい」「つまらない」のあたりで悩む映画かと思ってたし、

前半はケタケタ笑ってたんだけど、まさか最後に泣くとは思わなんだ。


ということで自分なりの感想。

もちろん、オレが「感じたいように感じた」話なので、あしからず。

あと、ネタバレ含みまくりです。

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5歳の頃、見ていた風景

映画を見始めるとすぐ、幼い頃に見ていたものがやたら出てくることに気づきます。

それが日常的なものと、頭の中で思い描いていたものがごっちゃになって出てくるから、

小さい頃の自分をリアルに思い出せる気がしてくる。

あー、いろんなものに憧れたり、何気ない毎日が好きだったりしたなーと。


海に舟のおもちゃを浮かべること。

助手席に乗って送り迎えしてもらうこと。

車の窓から見える流れる景色。

丘に上がる船の迫力。

自分しか通れない抜け道

お母さんと行くスーパーへの買い物。


おばあちゃんに自分の宝物のカブトムシを見せたら、驚き、喜んでくれると思ったのに、

「気持ち悪い!」って言われちゃったこともあったなあ。

まさにポニョを見せるシーンのように。

5歳の頃、夢見ていたもの

「憧れ」「好きなもの」「お気に入り」って意味では、

モールス信号を使えるようになりたいとか、

お気に入りの帽子をかぶって、船長になりきったりとか、

大雨の中、車でぶっちぎってみたかったり、

当然、間一髪で波をすり抜けるし、

自分だけの舟を浮かべて運転したり、

ずっとずっと昔の、化石みたいな魚をカッコイイと思ったり、

その暗号みたいな魚の名前が言えちゃうとか、

当時の息づかいを残したまま海に沈んだ街とか、

ジャングルを舟で進むとか、

女の子に「今、(男のオレは)忙しいから」とカッコつけたいとか、

そして、1人の女の子を守ってみたいとか。

お母さんが大好きだとか。


「あーあー、そんなこと思ってたなぁ」と懐かしく思いながら見てました。

だってほら、物語中盤で街の人達が乗った船からエールを送られるシーン。

あれなんか、まさに「男の子の夢」だよなぁーと。

ケアセンターへ人を助けに行くという冒険・使命を応援されるわけで、

一人前として扱われたい、それ以上に頼れる戦力として期待されたい、というさ。


でも、ひとつだけ引っかかって。

今の子どもって「船長」には憧れない気がするんですよ。

するとこれって、船とか飛行機とか、でっかい鉄の塊系が大好きな、

宮崎駿の子どもの頃の夢なんじゃないかなぁと。

未知のものを「そういうものだ」と受け入れてた頃

おもしろいなーって思ったのは、

宗介にとっては「大きな魚の群れ」に見えている嵐の海も、

リサ(宗介の母)にとっては「しつこい波ね!」でしかないこと。

そうそう、子どものときって、見間違いでもそう見えてしまうと、

「ああ、大嵐って大きな魚が群れで来ることなんだ」って思い込んだりするんだよなーって。


全然関係ないけど、自分は小さい頃、「ガソリン=海の水」だと思い込んでた(笑)


でも、「そういうものなんだ」と素直に受け入れることが子どもの頃って多いし、

この映画もまた、そういう映画なんだと思う。

大嵐の翌日、水面が床上浸水ギリギリだったのも理由なんてなくて、

「たまたまそういうことだった」ってだけのことで。

いつの頃からか自分らは、いろんなものに意味とか理由を必要とするようになっちゃったけどね。


子どもの頃、雲とか波の上を走るってのもできそうだと思ってた。

あれはポニョだからできるわけじゃなくて、「子どもの頭の中ではできてたこと」なんだと思う。

小さい頃って、この世界のルールがわからないから、

ちょっとだけの知識で「これもできるんじゃないか」って漠然と思ってて、

そんな子どもの空想を、アニメーションできっちり表現してくれた映画だった気がする。

宗介が今を生きる5歳児になるとき

終盤、ポニョの魔法がとけて舟が小さくなったとき、

同時に、宗介の(あこがれの象徴だった)帽子が小さくなり忘れられたとき、

物語は宗介が大人へと成長する話に変わっていきます。


そして今まで「5歳児・宮崎駿の思い出」を体現していただった宗介が、

「今この時代を生きる5歳児」の体現へと役割を変えていったのもこのあたりかなと。

楽しげな夢の世界から一転、

やたらリアリティのある暗いトンネルが現れ、先に進むことを強要するのは、

5歳の宮崎駿に対してではなく、今の子ども達にだと思うからです。


その後、宮崎駿の思いを体現する役割はフジモトが近いのかなー。

でもそれは5歳児じゃなくて70歳近い宮崎駿の思いであって。

老婆達が走るシーンがあるじゃないですか。

あれはもう、宮崎駿の母親に対する願いだったんじゃないかなと。

元気でいてほしい、できることなら自由に走らせてあげたかったという。

おわかれ

物語の終わりの頃、ポニョママが宗介に、

「この子が元々おかしな姿だったと知りながら、一緒に生きていけますか?」と尋ねるシーンがあります。

この約束は、ものすごく説明口調で、だけど簡潔な言い回しがゆえに、この映画の中でもっともリアルで、

これから先、自分とは生い立ちが違う人とも一緒に歩いていって欲しいという、

映画の世界だけでなく見ている観客にも向けたセリフだなーと思った。


このシーンの頃から、「老人・宮崎駿」の夢というか、思いのようなものががにじみ出てくるような感じがしてた。

最後、フジモトは宗介にポニョを託します。

フジモトがなんと言ったか、ちゃんとは覚えていないんだけど、

宗介に謝った上で、「こんなポニョだけど、これからも仲良くしていって欲しい」と伝えてたと思います。

そしておそらく、フジモトは二度と宗介やポニョには会わないはずです。


このセリフが、自分よりも先に行ってしまう宮崎駿からの、

「今の大人達が変にしてしまった世界で、それを託すのは申し訳ないけれど、

 君たちで仲良くこれからの世界を生きていって欲しい」という、

お別れの言葉な気がしちゃってさ。


お別れの言葉は、涙が出るんだな。

人と会えなくなるのはさみしくて。

泣いた理由はもう、ホントそんなもんなんだけど、

なんつーか、別れが近くて、しかもハッキリお別れを言われるのって悲しいな。



宮崎駿は、小さい頃、こんなことに憧れてて、

こんな風景が好きで、

お母さんが好きで、

それは年取っても変わらなくて、

そして、今の子ども達には、問題を抱えながらも仲良く一緒に生きて欲しいと願ってて、

そして、彼の中では完全に若い世代に「託した」んだろうなぁ、と。


そんなことを映画を見ながら思ってた。

この映画は宮崎駿が「小さい頃から今まで生きた中で見てきた夢」なんだと思う。

そして、これからの生きる世代には、

キャッチコピーでもある「生まれてきてよかった。」という思いを、

半径3メートル以内の人達に分けて欲しいという願いが込められているんだと思う。

おとなり日記