ここでは、PMについての理解をより深めてもらうために、その輪郭をより明確に炙り出すために、近代西洋思想-学問史をざっくり参照しつつ、その欠落部分 (とPMの関係) について書いていきます。(前項と多少ダブります。)
人間の思索対象・内容は、究極的に以下の2つに収斂できます。
つまり、この世界がどういうものかという思索だけでは不十分で、その中で感情/主観性を持った我々が、それをどう受け止め、消化し、感情・感覚を安定させながら生きていくかについて、考えが及ばざるを得ないわけですね。
そして下述するように、この二分は、言い換えれば、「主観性からの逃れられなさ」は、
などといった派生的なissuesを生み出すことにもなります。
さて、それでは話を進めていきましょう。
まずは上図で、全体のimageを掴んでください。
こういう関係になっています。
Francis Bacon (フランシス・ベーコン) [1561-1626] は、この主観性(Subjectivity) が孕む偏見・先入観・幻影・偶像(Idola/Idol) を、
の4つにまとめ、その上で、(ある絶対に確実なものと思われるものから、派生的に物事を規定していく従来的な演繹法(Deduction) ではなく、) 個々の経験情報から、共通部分を抽出し、情報の精緻化を図っていく帰納法(Induction) を提唱します。
の言葉にも表れているように、これにより、彼は人間がその偏見・先入観を超えて、自然/世界に対するより精緻な把握が可能になると考えたわけです。
対照的に、従来的な (数学的な) 演繹法(Deduction) に留まり続けたRene Descartes (ルネ・デカルト) [1596-1650] は、「方法的懐疑」(Methodical doubt) という大雑把な手法で以って、この主観性(Subjectivity) 自体をひとつの独立した実体と看做し、「機械的」(Mechanical) であると看做した「自然」(Nature) と区別して「物心二元論 (実体二元論)」(Body-mind dualism (Substance dualism)) を提唱します(そして、それを支えるものとしてAristotle (アリストテレス) の第一動者(First mover) 的な「神」が持ち出されます)。このかなり無理がある理屈は、様々な批判に晒されることになりますが、我々が物理的実体(PE) に関係無く自由に思考できている (そして振る舞えている) ように感じられるこの不思議さ、この主観性(Subjectivity) の不思議さを、あるいはその性質や限界を、議論の俎上に挙げる契機にはなりました。(他方で「機械的自然観」(Mechanical view of nature) は、物理的実体(PE) のimageを分かりやすくし、物理学(Physics) の発展に寄与することになります。)
彼への批判として真っ先に挙げられるのが、唯物論(Materialism) 者のPierre Gassendi (ピエール・ガッサンディ) [1592-1655] ですが、この批判を継承しつつ、John Locke (ジョン・ロック) [1632-1704] が、Descartesが万人の主観性(Subjectivity) が生まれ持っていると考えた「生得観念」(Idea innata/Innate ideas) を否定、経験に先立って何らかの観念を保有することなどあり得ないと批判します。言い換えれば、主観性(Subjectivity) の実体性を否定し、(経験可能な) 物理的実体(PE) への従属性を述べることで、一元論に差し戻したわけです。
以降、俗に英国経験論(British empiricism) と呼ばれる流れが続くわけですが、このLocke の物質一元論的な考えを、George Berkeley (ジョージ・バークリー) [1685-1753] は「主観性一元論」的な形に転倒させてしまいます。経験は主観性(Subjectivity) 内の出来事に過ぎない、主観的に経験認識されるものこそが存在しているものだと (そして、その経験を支えるのは「神」)。それに対し、David Hume (デイヴィッド・ヒューム) [1711-76] は、主観性(Subjectivity) の経験 (認識) 内容は、感覚がいい加減に結びついたものに過ぎないとして、主観性(Subjectivity) の確かさ (経験の確かさ) を否定します。
他方、大陸合理論(Continental rationalism) の流れでは、Descartes の二元論が孕む問題を、別の統合対象を持ち出すことで、一元論的に回収しようとし、Baruch De Spinoza (バールーフ・デ・スピノザ) [1632-77] が (Descartes自身もそうであったように、哲学的な文脈でよく持ち出される非伝統宗教 (非キリスト教) 的、「理神論」(Deism) 的な) 「神」を持ち出したり、Gottfried Wilhelm Leibniz (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ) [1646-1716] が「単子」(Monade/モナド) を持ち出したりします (「単子」の調和を支えているのは、やはり「神」)。
なお、上記のような近代哲学(Modern philosophy) の認識論(Epistemology/知識論) が始まった17世紀は、近代社会思想(Medern social philosophy) や自然科学(Natural science) が産声を上げた時期でもあり、これらは全く無関係というわけでも無いので、補足的に触れておきます。
■近代社会思想 (Medern social philosophy)
出発点は、ご存知Thomas Hobbes (トーマス・ホッブズ) [1588-1679] ですね。彼はBaconやDescartes、後述のGalilei などと関係・交流もあった人です。近代的communicationが、いかに狭い関係性の中で出発・展開していたかがよく分かりますね。そして、Hobbesの自然権(Natural rights) と社会契約 (Social contract) 概念を用いた論理を批判的に継承した上記のJohn Locke (ジョン・ロック) [1632-1704]、更にMontesquieu (モンテスキュー) [1689-1755]、Voltaire (ヴォルテール) [1694-1778]、Rousseau (ルソー) [1712-83] ・・・と継承・展開されていきます。
■自然科学 (Natural science)
この時代はまだ黎明期で、(Nicolaus Copernicus (ニコラウス・コペルニクス) [1473-1543]、) Johassnes Kepler (ヨハネス・ケプラー) [1571-1630]、Galileo Galilei (ガリレオ・ガリレイ) [1564-1642]、そして、Isaac Newton (アイザック・ニュートン) [1642-1727] といったように、天文学(Astronomy)、古典力学(Classical mechanics) の水準です。
なお、言うまでも無く、ここでは数学(Mathematics) が極めて重要な役割を果たしていますし、数学は上述の多くの哲学者達も含め、理性的なtoolとして共有されていました。(というか、当時はまだ役割分担や対象分類が不明確で、自然 (社会) も、社会も、形而上的なものも含め、万物をごちゃ混ぜで哲学(Philosophy) の対象としていた時代なので、当然と言えば当然です。)
そもそも遡れば、Platoに影響を与え、Idea論のきっかけを与えたのは、Pythagoras、すなわち数学(Mathematics)です。数学(Mathematics)の存在により、この世には人間に知覚できない何かが存在し、それに人間は(演繹的な)理性(Logos/Ratio/Reason)=数学(Mathematics)= 論理(Logos/Logic) を通して触れることができるというある種の妄想・確信・信仰心が植えつけられたわけです。そういう意味では、近代初期の大部分は、そのAncient Greeceの域をいまだ抜け出せていないということになります。
さて、Newton、Leibniz、Rousseau、Humeなど、様々なものに触れていたImmanuel Kant (イマヌエル・カント) [1724-1804] は、これらをまとめ上げるための、基礎付け的見解の必要性を感じます。そして、万能視されてきた理性(Vernunft/Ratio/Reason) を批判的に吟味することで、世界とそれに対応する理性を「現象界(Phenomenal world)-理論理性(Theoretische Vernunft/Theoretical reason)」「英知界(観念界(Ideal world)/形而上界)-物自体(Ding an sich/Noumenon)-実践理性(Praktische Vernunft/Practical reason)」に二分割しました。Aristotleの「質量」(Hyle/Matter) と「形相」(Eidos/Form) (= Platoの「Idea」) を引き剥がしたわけですね。
Descartesと、その後の大陸合理論(Continental rationalism) がそうであったように、物事を二分割すると、それを一つにまとめようとする者達が出てきます。Kantに対しては、「絶対者」を持ち出すSchelling (シェリング) [1775-1854]、「自我」を持ち出すFichte (フィヒテ) [1762-1814]、(絶対精神(Absoluten Geistes/Absolute spirit) に向けた)「自我の展開」を持ち出すGeorg Wilhelm Friedrich Hegel (ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル) [1770-1831] といったドイツ観念論(German idealism) の面々が、それに当たります。Hegelを除いては、大陸合理論(Continental rationalism) の反復を見るかのような、つまらないcommunicationですね。
また、このドイツ観念論(German idealism) とは別に、Hegelとは対照的に、盲目的な (方向性も終 着駅も無い) 「生きんとする意志」(Wille zum Leben) を持ち出すArthur Schopenhauer (アウトゥル・ショーペンハウアー) [ 1788-1860] などもいます。
さて、ここまでの流れを一旦まとめておきましょう。
見てきたように、この近代黎明期は、自然科学が未発達で、Christianity
(キリスト教) の影響(脅威も含め) が大きい時代状況、その他様々な社会状況も手伝って、概ねくだらない話が多いですね。情報や議論は、弁証法(Dialectic)
風に言えば、ある「叩き台」(These/Thesis/正/定立/即自/An sich)
があり、それと衝突する物事/それではうまくいかない物事(Antithese/Antithesis/反/反定立)
が出現し、吟味/反省/肯定/否定/取捨選択/総合/統合などが繰り返されることによって、深化・洗練されていきます。したがって、周囲にくだらない「叩き台」(参照物)
しかなければ、くだらないcommunicationばかりになるのは、しょうがないと言えばしょうがないわけですが。また、同調圧力(Peer Pressure)
により、ある考えが封殺・抑圧されたり、ある考えが担ぎ上げられたりというブレも要因として挙げられますね。いずれにしろ、時間を経て取捨選択・深化・洗練が進むのを待つ他ありません。
さて、先に進みましょう。19世紀に差し掛かる頃から、形而上的なものと決別しようとする流れが強まるなど、ようやく話が面白くなってきます。
まず3rd Earl of Shaftesbury (第3代シャフツベリ伯爵)
[1671-1713] に始まる、(Hobbesのように人間の利己性(Selfishness)
ばかりに目を向けるのではなく) 人間の感情的利他性に目を向けるモラルセンス学派 (Moral sense
school) にも列せられるHume周辺では、「共感」(Sympathy)
概念が強い影響力を持っていました。古典派経済学の祖でもあるAdam Smith (アダム・スミス) [1723-90]
も、その一人です。そんなHumeの影響下から、Jeremy
Bentham (ジェレミー・ベンサム) [1748-1832] やJohn Stuart
Mill (ジョン・スチュアート・ミル) [1806-73] らの功利主義 (Utilitarianism) が確立します。これはKantの義務論(Deontology)
的道徳観とは対照的ですね。
また、このBenthamの「法と道徳の分離」の発想によって法実証主義 (実定法主義/Legal positivism)
が確立し、教え子であるJohn Austin
(ジョン・オースティン) [1790-1859] の主権者命令説(Sovereign command theory) に引き継がれます。
一方、USAでは、Charles Sanders
Peirce
(チャールズ・サンダース・パース) [1839-1914]、William James (ウィリアム・ジェームズ) [1842-1910] らによって、Pragmatism (プラグマティズム/実用主義)
が始まります。
(Peirceは記号論 (Semiotics) の祖でもある。)
Charles Robert
Darwin (チャールズ・ロバート・ダーウィン) [1809-82] が進化論 (Theory of evolution)
を確立したのもこの時期です。
また、超音速(Supersonic)
で有名な、実証主義
(Positivism) 者/科学哲学(Philosophy of
science) 者としても知られる、そして後にEinstein (アインシュタイン) やウィーン学団(Vienna
Circle)/論理実証主義(Logical positivism) にも影響を与えるErnst
Mach (エルンスト・マッハ) [1838-1916]
や、実験心理学(Experimental psychology)
の祖であるWilhelm Wundt (ヴィルヘルム・ヴント) [1832-1920] も、この時期の人です。
さて、この頃、欧州では、Franceの度重なる革命や市場経済による社会疲弊が深刻化し、近代社会は次の段階に移行する必要に迫られ、そのための思想・理論が求められていました。そこで出てきたのが、実証主義(Positivism) を唱えるAuguste Comte (オーギュスト・コント) [1798-1857]、Emile Durkheim (エミール・デュルケーム) [1858-1917]、 社会進化論(Social Darwinism) のHerbert Spencer (ハーバート・スペンサー) [1820-1903] などに始まる社会学 (Sociology)、Owen (オーウェン) [1771-1858]、Saint-Simon (サンシモン) [1760-1825]、Fourier (フーリエ) [1772-1837] らの空想的社会主義(Utopian socialism)、Proudhon (プルードン) [1809-65]、Bakunin (バクーニン) [1814-76] らの無政府主義 (Anarchism) 、そしてHegelを、唯物論(Materialism) 者であるLudwig Feuerbach (ルートヴィヒ・フォイエルバッハ) [1804-72] 経由で批判的に継承したKarl Marx (カール・マルクス) [1818-83]、Friedrich Engels (フリードリヒ・エンゲルス) [1820-95] らのマルクス主義(Marxism)、科学的社会主義(Scientific socialism)、共産主義 (Communism) などです。
一方、Hegel (-ian) に対峙するものとして、唯物性・科学性を持ち出すFeuerbach/Marxらの流れとは別に、Schopenhauerに近接した、あるいはその影響を受けた、人間の個別性や無目的性に焦点を当てる、つまりは主観性(Subjectivity) への関心に注力・耽溺するSoren Kierkegaard (セーレン・キルケゴール) [1813-55]、Friedrich Wilhelm Nietzsche (フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ) [1844-1900] らの実存主義 (Existentialism) が生まれます。
一方、後の構造主義(Structuralism) の祖となる (Pragmatismの祖であるPeirceと並んで記号論(Semiotics) の祖となる) Ferdinand de Saussure (フェルディナン・ドゥ・ソシュール) [1857-1913]、数理論理学(Mathematical logic) や分析哲学(Analytic philosophy) の祖となるGottlob Frege (ゴットロープ・フレーゲ) [1848-1925]、同じく数理論理学(Mathematical logic) の祖となるGeorge Boole (ジョージ・ブール) [1815-64] らの業績も、この頃のものです。
このように、19世紀からは、従来の観念的なものを排除し、実証主義(Positivism) 的方向、つまり物理的実体(PE)
へと流れていく大きな流れと、逆に主観性(Subjectivity) に特化した実存主義(Existentialism)
の流れに、きれいに収斂していきます。そして両者は、既にMarxismの「下部構造決定論」などに現れているように、「物理的実体(PE)
(あるいはtoolとしての言語(Language)/数学(Mathematics)) による主観性(Subjectivity)
の規定性・支配性」というtopicによってつながれることになります。
一方で、「主観物理化(音声化/文字化/表出)
tool」としての言語(Language) や数学(Mathematics) の性質 (ひいては、それらに支えられる理性(Logos/Ratio/Reason)
の性質) が 吟味されたり、両者が数理論理学(Mathematical logic)
という形で結びついたり、また既に述べたように主観性(Subjectivity) との関わりが吟味され始めたりと、「第3の対象」として立ち現れてきます。
冒頭の図の3つが、ようやくきれいに出揃うことになるわけですね。
さて、それでは20世紀に入りましょう。
ざっと羅列気味にいきます。
まず、自然科学 (Natural science) については、Albert Einstein (アルバート・アインシュタイン) [1879-1955] の相対性理論 (Theory of relativity)、Erwin Schrodinger (エルヴィン・シュレーティンガー) [1887-1961]、Werner Heisenberg (ヴェルナー・ハイゼンベルク) [1901-76] らによって確立された量子力学 (Quantum mechanics) などの物理学 (Physics) 的な成果をはじめとして、様々な分野で進化・発展してきます。工学 (Engineering) も様々に発達し、社会環境に様々な変化をもたらしながら、人類の生活を便利で快適なものにしてきます。
次に英米 (墺) 系哲学の流れ。
数学(Mathematics)/言語(Language) 関連では、Bertrand Russell
(バートランド・ラッセル)
[1872-1970]、Ludwig Wittgenstein
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン) [1889-1954]、Alfred North Whitehead (アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド)
[1861-1947]、David Hilbert
(ダフィット・ヒルベルト) [1862-1943]、John
von Neumann (ジョン・フォイ・ノイマン) [1903-57]、Kurt Godel (クルト・ゲーデル) [1906-78]、George Edward Moore
(ジョージ・エドワード・ムーア/G.E. Moore) [1873-1958] など。
Pragmatism (プラグマティズム) 及びそれに関連した(社会)心理学 ((Social) psychology)、社会学 (Sociology)、記号論(Semiotics) の流れとしては、William James (ウィリアム・ジェームズ) [1842-1910]、John Dewey (ジョン・デューイ) [1859-1952]、George Herbert Mead (ジョージ・ハーバート・ミード/G. H. Mead) [1863-1931]、Charles W. Morris (チャールズ・W・モリス) [1903-79]、Herbert Blumer (ハーバート・ブルーマー) [1900-87]、Erving Goffman (アービング・ゴフマン) [1922-82] など。
論理実証主義(Logical positivism)、言語哲学(Philosophy of language)、分析哲学(Analytic philosophy)/ポスト分析哲学(Postanalytic philosophy)、ネオプラグマティズム(Neopragmatism/言語プラグマティズム/Linguistic pragmatism) などの流れとしては、Rudolf Carnap (ルドルフ・カルナップ) [1891-1970]、Willard van Orman Quine (ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン/W. V. O. Quine) [1908-2000]、Donald Davidson (ドナルド・デイヴィッドソン) [1917-2003]、Hilary Putnam (ヒラリー・パトナム) [1926-]、Saul Kripke (ソール・クリプキ) [1940-]、Richard Rorty (リチャード・ローティ) [1931-2007] など。更に科学哲学(Philosophy of science) に連なるものとして、Karl Popper (カール・ポパー) [1902-94]、Thomas Kuhn (トーマス・クーン) [1922-96] など。
更に、日常言語哲学 (Ordinary language philosophy/日常言語学派) としては、John Langshaw Austin (ジョン・ラングショウ・オースティン/J. L. Austin) [1911-60]、Paul Grice (ポール・グライス) [1913-88]、Gilbert Ryle (ギルバート・ライル) [1900-76]、Peter Frederick Strawson (ピーター・フレデリック・ストローソン) [1919-2006]、John Searle (ジョン・サール) [1932-] など。
Bentham、John Austinに始まる法実証主義 (Legal positivism) と、言語哲学(Philosophy of language) を接合した法哲学者として Herbert Lionel Adolphus Hart (ハーバート・ライオネル・アドルファス・ハート/H.L.A. Hart) [1907-92]。
心理学(Psychology) 関連としては、Ivan Pavlov (イワン・パブロフ) [1849-1936]、Edward Thorndike (エドワード・ソーンダイク) [1874-1949]、John Watson (ジョン・ワトソン) [1878-1958]、Burrhus Skinner (バラス・スキナー) [1904-99]、Max Wertheimer (マックス・ヴェルトハイマー) [1880-1943]、Wolfgang Kohler (ヴォルフガング・ケーラー) [1887-1967]、Kurt Koffka (クルト・コフカ) [1886-1941]、Clark Hull (クラーク・ハル) [1884-1952]、Edward Tolman (エドワード・トールマン) [1886-1959]、Frederic Bartlett (フレデリック・バートレット) [1886-1969]、Jean Piaget (ジャン・ピアジェ) [1896-1980]、Lev Vygotsky (レフ・ヴィゴツキー) [1896-1934]、Donald Hebb (ドナルド・ヘッブ) [1904-85]、Jerome Bruner (ジェローム・ブルーナー) [1915-]、Herbert Simon (ハーバート・サイモン) [1916-2001]、George Armitage Miller (ジョージ・アーミテージ・ミラー) [1920-]、Allen Newell (アレン・ニューウェル) [1927-92]、Endel Tulving (エンデル・タルヴィング) [1927-]、Frank Rosenblatt (フランク・ローゼンブラット) [1928-69]、Daniel Kahneman (ダニエル・カーネマン) [1934-]、Amos Tversky (エイモス・トヴェルスキー) [1937-96]、Elizabeth Loftus (エリザベス・ロスタフ) [1944-]、John Robert Anderson (ジョン・ロバート・アンダーソン) [1947-]、James McClelland (ジェームズ・マクラレンド) [1948-]、David Rumelhart (デイヴィッド・ラメルハート) [1942-]、Steven Pinker (スティーブン・ピンカー) [1954-] など。
続いて、欧州大陸-仏独系哲学の流れ。
現象学(Phenomenology)
や実存主義(Extentialism) の流れとして、Edmund Husserl
(エトムント・フッサール) [1859-1938]、Martin Heidegger (マルティン・ハイデガー)
[1889-1976]、Karl Jaspers (カール・ヤスパース)
[1883-1969]、Jean-Paul Sartre (ジャンポール・サルトル)
[1905-80]、Maurice Merleau-Ponty (モーリス・メルロポンティ) [1908-61]
など。
精神分析(Psychoanalysis) の流れとして、Sigmund Freud (ジークムント・フロイト) [1856-1939]、Carl Gustav Jung (カール・ユング) [1875-1961]、Jacques Lacan (ジャック・ラカン) [1901-81]、Slavoj Zizek (スラヴォイ・ジジェク) [1949-] など。
構造主義(Structuralism) 及びポスト構造主義(Poststructuralism) の流れとして、Claude Levi-Strauss (クロード・レヴィストロース) [1908-]、Roman Jakobson (ロマーン・ヤーコブソン) [1896-1982]、Alexandre Kojeve (アレクサンドル・コジェーヴ) [1902-68]、Roland Barthes (ロラン・バルト) [1915-80]、Jean Baudrillard (ジャン・ボードリヤール) [1929-2007]、Jean-Francois Lyotard (ジャンフランソワ・リオタール) [1924-98]、Jacques Derrida (ジャック・デリダ) [1930-2004]、Michel Foucault (ミシェル・フコー) [1926-84]、Gilles Deleuze (ジル・ドゥルーズ) [1925-95]、Pierre-Felix Guattari (ピエールフェリックス・ガタリ) [1930-92] など。
社会学(Sociology) としては、Vilfredo Pareto (ヴィルフレド・パレート) [1848-1923]、Max Weber (マックス・ヴェーバー) [1864-1920]、Georg Simmel (ゲオルク・ジンメル) [1858-1918]、Karl Mannheim (カール・マンハイム) [1893-1947]、Alfred Schutz (アルフレッド・シュッツ) [1899-1959]、Talcott Parsons (タルコット・パーソンズ) [1902-79]、Robert King Merton (ロバート・キング・マートン/Robert K. Merton) [1910-2003]、Harold Garfinkel (ハロルド・ガーフィンケル) [1917-]、Howard S. Becker (ハワード・S・ベッカー) [1928-]、Peter L. Berger (ピーター・L・バーガー) [1929-]、Thomas Luckmann (トーマス・ルックマン) [1927-]、Niklas Luhmann (二クラス・ルーマン) [1927-98] など。
Marxism (マルクス主義) 関連では、Antonio Gramsci (アントニオ・グラムシ) [1891-1937]、Gyorgy Lukacs (ジェルジ・ルカーチ) [1885-1971]、Louis Althusser (ルイ・アルチュセール) [1918-90]、Antonio Negri (アントニオ・ネグリ) [1933-]、Michael Hardt (マイケル・ハート) [1960-] など。
Cultural studies (カルチュラル・スタディーズ/カルスタ)、Postcolonialism (ポストコロニアリズム/ポスコロ) としては、Stuart Hall (スチュアート・ホール) [1932-]、Paul Gilroy (ポール・ギルロイ) [1956-]、Edward Said (エドワード・サイード) [1935-2003] など。
フランクフルト学派 (Frankfurter Schule/Frankfurt school) / 批判理論(Critical theory) としては、Max Horkheimer (マックス・ホルクハイマー) [1895-1973]、Theodor Wiesengrund Adorno (テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノ/Theodor W. Adorno) [1903-69]、Walter Benjamin (ヴァルター・ベンヤミン) [1892-1940]、Erich Fromm (エーリッヒ・フロム) [1900-80]、Jurgen Habermas (ユルゲン・ハーバマース) [1929-]、Axel Honneth (アクセル・ホネット) [1949-]、Norbert Bolz (ノルベルト・ボルツ) [1953-] など。
政治思想関連では、Carl Schmitt (カール・シュミット) [1888-1985]、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント) [1906-75]、Isaiah Berlin (アイザイア・バーリン) [1909-97]、Leo Strauss (レオ・シュトラウス) [1899-1973]、Friedrich Hayek (フリードリヒ・ハイエク) [1899-1992]、Robert Nozick (ロバート・ノージック) [1938-2002]、John Rawls (ジョン・ロールズ) [1921-2002]、Michael Sandel (マイケル・サンデル) [1953-]、Michael Walzer (マイケル・ウォルツァー) [1935-]、Charles Taylor (チャールズ・テイラー) [1931-]、Amitai Etzioni (アミタイ・エツォーニ) [1929-]、Alasdair MacIntyre (アラスデア・マッキンタイア) [1929-] など。
経済学では、John Maynard Keynes (ジョン・メイナード・ケインズ) [1883-1946]、Milton Friedman (ミルトン・フリードマン) [1912-2006]、Robert Lucas (ロバート・ルーカス) [1937-]、Edward C. Prescott (エドワード・C・プレスコット) [1940-]、Gregory Mankiw (グレゴリー・マンキュー) [1958-] など。
さて、20世紀に入ってゴチャゴチャしてきましたが、大まかに以下の5つに大別できます。
特筆すべき点をいくつか挙げていきましょう。
まず3の数学/言語に関して言えば、それまであまり意識されてこなかったこれらの限定的な道具性が、大分浮き彫りになりました。まず、通常の言語的営みにおいては、必ず生じる未規定部分/差異の不十分さ
(についての解釈者(Interpreter)
としての各人の主観性(Subjectivity) に依存した補足・穴埋め ---
各人の主観性(Subjectivity) 内の感覚とSignifiant/Signifier (言葉) との場当たり的な結合)
による際限無き拡散/刷新/再構築が問題になります。これを指摘したのが、後期WittgensteinやDerridaなどですね。それに対して論理実証主義(Logical
positivism)/検証主義(Verificationism)
的に物理的実体/現象に寄り添わせて範囲を限定することで、表現の確実性を担保する立場 --- 自然科学(Natural science) と合流する流れ ---
と、数理論理学(Mathematical logic)
のように緻密さ・精緻さを向上させていく流れが存在します。後者に関して言えば、上述の「Interpreter問題」から脱しきれていないこともさることながら、緻密さ・精緻さを向上させていけばいくほど、情報量が際限無く膨大になり、人間の能力が追いつかないという「情報処理能力限界問題」、またKant以前、つまり大陸合理論(Continental
rationalism) のように形而上的なものもごちゃ混ぜにした、あるいは実用性の無い思索に耽溺する「理性/数学の (形而上方面への)
暴走問題」なども孕んでいます。この後者2つの問題に、部分的に対処するのがPragmatism(実用主義)
の立場ですね。
そういうわけで、数学/言語についての営みは、
を抱えたまま、現実には物理的実体(PE) に寄り添った自然科学(Natural science) 的な範囲と、Pragmatism(実用主義) 的な範囲の「和集合」範囲における、情報保存・共有toolとして利用されるのが限界で、それ以外での範囲での利用は「戯れ」 --- 非実用的・形而上的なものもごちゃ混ぜの、音楽や画・映像など芸術活動と同等の、人間の脳に刺激(Stimulation) を与えるためのtoolのひとつ --- の域を出ないことになります。ただし、ひとつ付け加えておくと、Pragmatism(実用主義) に関しては、「何について」の実用性なのかが曖昧になっているので、ここを埋める「何か」が必要になるわけですが、それについては次節で下述します。
次に4の主観性(Subjectivity) 関して言えば、まず主観性(Subjectivity)
が「脳/神経機能/遺伝子」「言語」「社会性」など、広い意味での「構造」(Structure)
に縛られ、規定されているという点で、それらを無視した純粋な主観性(Subjectivity)
や、その完全な解放・自由などというものは存在し得ないという意味で、実存主義(Existentionalism)
という立場は、成り立ちません。(かつての人文主義(Humanism) 同様、ある束縛や恐怖に抗うための、批判的文化実践 (刺激供給)
上の立ち位置という意味では有効でしょうが。) 精神分析(Psychoanalysis)-臨床心理学(Clinical
psychology)、現象学(Phenomenology)、心の哲学(Philosophy
of mind) (の大部分) の類も、同様です。
主観性(Subjectivity)
の仕組みに関しては、認知科学(Cognitive science)
の中の、神経科学(Neuroscience/脳科学)-認知神経科学(Cognitive
neuroscience) と、実験心理学(Experimental
psychology)-認知心理学(Cognitive psychology)
の結節領域にて解明される他ありません。ただし、主観性(Subjectivity)
の仕組みはそれで分かったとして、その「器」に入れられる「内容」(観念/Idea)
に関しては、未規定なままです。これに関しても次節で下述します。
次に5の社会関連の話題に関して言えば、そのほとんど全ては、「Modernism/Marxism/Socialism/Nazismに代表される単純な理屈・拘束への対抗・牽制、その部分的精緻化」に終始しています。ここには、まず上述の3で述べた「情報処理能力限界問題」、あるいはその派生としての「未来状況予測不可能性」が関わっています。要するに、複雑過ぎる現実社会を、単純な理屈・理論で説明・統制・管理するのは不可能だということですね。また、「主観性不確定問題」、すなわち「万人の主観性が満足する社会状態など、そもそも存在しえない」という問題もあります。だからといって「何でもあり」にできるわけありませんから、そうであるならば、次善の策として、「究極目的」(UP)
を設定し、それに向けての「一時目的」(TP)
と「目的合理性」で社会を捉え、回していく必要があるわけですが、その「究極目的」が曖昧なままで、明確に存在していないという「究極目的不在問題」がそこで露になります。これには、近代思想
(西洋思想)
のその出自ゆえの、「理想状態幻想」「解放幻想」が関係しています。
そういうわけで、
を抱えつつ、様々な抑圧・解放を告発したり、仕組みを部分的に解明しつつ、「最低限これだけは言える/これだけはまずい」と牽制し合っているのが、20世紀的な社会についてのcommunicationというわけです。そして、そんなcommunicationを尻目に、「民主制」(Democracy)、「市場経済」(Market
economy)、「人権」(Human rights)、「(古典的/社会) 自由主義」((Classical/Social) Liberalism)
を下敷きとして、各所の「調整」で淡々と動いているのが、近代社会の実態です。
さて、ここでも「究極目的」の不在という問題が存在しています。これに関しても次節で下述します。
以上が、今日的な煮詰まった状態と言えます。
まず、前節の話をまとめておきましょう。
数学/言語に関しては、
の範囲での限定的利用が、情報表現共有toolとしての限界ですが、2が「何について」の実用性なのかが曖昧/未規定なままです。
主観性に関しては、
にその「性質」は還元されますが、そこに盛り込まれるべき「内容」(観念/Idea) については曖昧/未規定なままです。
社会に関しては、
により、運営されます (されるべきです) が、3の「究極目的」(UP) が曖昧/未規定なままです。
物理的実体(PE) 探求だけでは見えてこない (ように感じられる) これらの部分こそが、「最後に残された問題」というわけですね。
さて、ここまで書けばお分かりのように、この「最後に残された問題」に、物理的実体(PE) に依拠しつつ解答を与えるのが、このPM というわけです。
これにより、全ての問題に解答が与えられました。
あと我々に残されているのは、Processを相対的に早くするのか遅くするのか、安定的なものにするのか不安定なものにするのか、その差異だけです。