「和人社会」の問題点として、真っ先に挙げることができるのが、その回りくどさ、消極性、Balance/節度重視志向ゆえの、
の毀損であり、それゆえの社会停滞です。
それはもはや、誰の目にも明らかなほど、この国/社会/文明を蝕んでいます。
ただし、これは「和の体質」にも問題がありますが、他にも、もっと重大で根本的な問題が存在しています。
それは、物事を、どの方向に向けて、どういう基準で批判・改善していったらいいのか、判然としていないということ、言い換えれば、絶対的な価値基準の不在です。そしてこれは、欧州の神学依存の風土から分岐・派生してきた出自ゆえに、(いつか到達するであろうと妄想されていた) ある種の「真理」「本質」「理想」幻想にそれを投げ出したまま、現在事実上頓挫 (乱立) した状態にある近現代思想が抱えてきた根本問題だとも言えます。
したがって、社会停滞は、日本に限った話ではなく、欧米にも共通していますし、むしろ因果関係としては、欧米が真っ先に停滞し、それを愚直に後追い・模倣・お付き合いしている日本、という関係になると言えるでしょう。言い換えれば、幻想に酔って失敗した欧米に幻想を持って失敗した日本、そういう関係です。近代日本の知識層の大部分は、古代の遣隋使・遣唐使と一緒で、「今、大陸 (欧米) じゃこれが流行りですよ」と、模倣先の紹介/Localizingに情熱を燃やすだけのガキの使いみたいな人間ばかりですから、当然と言えば当然の成り行きです。
そういう意味では、「和の体質」に内在している「独自志向」は、必ずしも悪いものではありません。
しかし、「和」に埋没している限り、その「独自志向」の方向と基準は、「和の伝統」「和の文化」「Balance/節度」みたいなつまらないところに帰着してしまうので、役に立ちません。(それゆえに、LinoのWebsiteで書いているように、「和」に対抗する概念/Platformとしての「理」、そしてそれを支える「大理」、すなわちPMが必要になるわけですね。)
さて、話を進めましょう。
既に触れてしまってもいますが、このような状況下で、いかなる地域文脈や主観性にも囚われない、それでいて絶対に失敗しない、普遍的な価値基準は何か?
言うまでも無く、PM、より限定的に言えばMankindism (人類の維持・発展)
しかありません。
欧州が馬鹿げた神学風土の土地でなければ、こういう話がすんなり出てきていたはずですし、そうであれば、今日のように欧州のつまらない地域文脈に全世界が巻き込まれ、停滞するという事態は避けられていたでしょう。
いずれにしても、今日我々は欧州の地域文脈を相対化/辺方化しつつ、それとは別の、普遍的・絶対的な価値基準を以って進んでいかねばなりません。そして、このPMのみが、その道を切り拓くことができるわけです。