ここでは、人間社会の秩序を支えている条件について書いていきます。
世の中には、思想・哲学的営み/Communicationこそが、あるいはそれを支える意識・主観性・理性こそが、人間社会を支え、先導していると (いまだに) 素朴に考えている人達がいます。もちろん全く意味も影響力も無いかと言えば、いくらかはあるでしょう。しかし、現実社会を見れば分かるように、それは極めて限定的なものです。人間の営みは、そういうものとは別のものに支えられ、動いています。
そして実際、19世紀以降、そういう観点から、人間の営みや社会秩序を支えているものは何なのかについての様々な考察が始まります。
Freud (精神分析) の「無意識」、Marx(ism) の「生産様式」「下部構造」、社会学及び構造主義などにおける様々な意味での「構造」、生物学/神経科学における「遺伝子」「脳」・・・など。
しかし、どれも中途半端・限定的な (ものによっては「似非」の) 印象は拭えません。
そこで以下に述べるように、より包括的な説明が必要になります。
人間の営み、社会秩序を、言い換えれば制御性 (Controllability) について、注目すべき箇所は、以下の3つです。
1. 関係 (可能) 性 (Relation ) --- 物理的実体(PE) 【逃避不可能性】
┗主観性 (Subjectivity) --- 意識/認識された関係性
┣2-1. 共感 (可能) 性 (Sympathy )
┗2-2. 被害 (可能) 性 (Damage/Punishment )
最も包括的なのが、一番上の「関係 (可能)
性」(Relation) です。
もちろん、この関係性とは、物理的 (Physical)
な関係性のことです。
物理的環境および我々自身を形成している物理的実体 (PE)
性も、もちろん我々と離れられない関係にあるということで、意識するしないに関わらず、我々を制御 (Control)
しています。人間関係も、物理的に接触しているという点で、我々を、意識するしないに関わらず制御 (Control) しています。
裏を返せば、当たり前の話ですが、我々に物理的に接触できないもの、物理的に関係を結べないものは、我々の制御には関われない、影響を与えることができないということです。
また、これら物理的関係性は、(最も基底的には物理的実体(PE) の性質それ自体に還元されますし、強弱/優劣/先後の差異はありますが) 総合的に我々を制御しているので、「生産様式」や「遺伝子」など、部分的に抽出して全ての説明が事足りるものではありませんし、ましてや意識されてる範疇、Communicationの範疇で説明しきれるものでもありません。それが上で指摘した、「部分還元的」な従来的発想の不十分さですね。
また、言うまでもないことですが、この物理的関係性に支配されているという発想は、PMのP、すなわちPhysical、物理的実体(PE) に相当するものであり、PMを支えている発想でもあります。我々人類は物理的実体(PE) のみに制御され続けるし、それゆえに我々人類は、主観的にそこに収斂されていかざるを得ないし、その性質と向き合い、段階的に解明していかざるを得ない、現に人類はそうしてきたわけです。
次に、より限定的な絞り込みをして、「共感 (可能)
性」(Sympathy) について書いていきます。
第4項や第7項などでも触れているものですね。
人間の営みは、「共感体」「共同主観性」「共同幻想」に、それなりに支配されています。
家族、民族、国家、伝統、組織、偶像・・・。
そして人々は、その共感の対象に貢献しようと活動します。
逆に言えば、共感外の対象に関しては、無視・軽視・黙殺されます。
(とはいえ、物理的関係性を有する以上、全く影響を与えないわけではないことに注意。)
そのため、人々は「共感獲得Game」に精を出します。
冒頭で述べた思想・哲学的営み/Communicationも、そのひとつに過ぎません。
古典的なRhetoric(弁論術/説得術)
では、
を、説得の3大要素として挙げていますが、これももちろん「共感獲得」手段の一種です。
また、これはPMのM、すなわちMankindism(人類主義) を生み出し、それへの移行・収斂を生み出す重要な要因にもなるものですね。
しかし重要なのは、「共同主観性」で全てを包括できるわけではないという点です。
我々を基底的に縛っている/支配しているのは、上述したように、物理的実体(PE)
です。主観的に否定しようが、この縛りからは何人たりとも逃れられません。裏を返せば、物理的実体(PE)
性を踏まえない、それに開かれていない、あるいはそれに反する主観性、思想、規範、哲学、宗教は、人類の歴史を振り返っても分かるように、必ずその矛盾・虚飾性が露になり、衰退し、淘汰されます。数多の物理的実体(PE)
性を踏まえない伝統規範、伝統宗教、あるいはそれに基づく新興宗教は、事実上「死に体」であり、淘汰されるのを待つのみの段階です。
最後に、「被害 (可能)
性」(Damage/Punishment)。
これは、客観的な「被害」ではなく、各人の主観的/認識的/予期的な「被害感覚」です。
したがって、それは各人の境遇・文脈により、異なります。
例えば、人を殺すこと (により自分が受ける罰) や、自分が死ぬことなどに、「被害感覚」を持たない者は、平気でその一線を踏み越えます。あるいは、一般人が何とも思わないようなことであっても、ある人間の信仰、規範意識、美意識、こだわりにおいては、苦痛、屈辱、侵犯、罰、つまりは「被害」になることもあります。
また、これは上述の「共感 (可能) 性」(Sympathy)
と密接に関わっています。
言い換えれば、主観的な「共感 (可能) 性」(Sympathy) の裏には、常に主観的な「被害 (可能)
性」(Damage/Punishment) が貼り付いており、「ある被害を恐れるから、ある共感に吸い寄せられる」「ある共感に吸い寄せられているから、ある被害を恐れる」といった具合に、「卵と鶏」のように、互いを支え合っています。
この観点から、どうして人類がMankindism (人類主義) に収斂されることになるのかを、試しに書いてみると、Globalization (地球規模調整) により、各民族の混交・一体化が進むことで、その複雑な関係性の中で、ある民族だけの優位性・独善性を主張することで招来される反応を恐れる、あるいは、ある個人・集団が人類の存続・発展を脅かすような振る舞いをすることで、自分達が (人類が) 巻き込まれるのを恐れる、そういった「被害感覚」から、「人類」属性と、その「維持・発展」を共感場所とせざるを得なくなり、「人類主義全体主義」(Mankindism Totalitarianism) に収斂されざるを得なくなるわけです。
以上で、我々人類がどのように制御 (Control)
されているか、その概要が分かっていただけたでしょう。
同時に、PMの内容についても、より理解を深めてもらえたと思います。
Websiteの冒頭で触れた「近代の成り立ち」を含め、ざっと人類史の流れを書いておくと、
といった具合に、大きな流れの中を、その制御性に沿って、ある意味自動的に進んできているわけです。そして、その流れは、これからも変わりません。PMはただそれを描写しているだけです。
そしてこれは、このPageの冒頭でも書いたように、真理探究を僭称して、いつまでも思想・哲学的「言葉遊び」「感覚遊び」に淫しているような者達に対する「批判」であり「死亡宣告」でもあり、「相対化」「辺方化」でもあります。あなた達がいかなる「言葉遊び」「感覚遊び」に耽ろうとも、人類はそれとは関係無く動いているし、行き着く先は決まっている、あなた達のやっていることは、「感覚遊び」としての文化芸術活動の一種に過ぎない、そのことを分かっててそうしているのならどうぞご自由に、と。
我々人類に選択肢があるとすれば、それはPhysical Entity (物理的実体) の解明や、Mankindismへの収斂のProcessを、相対的に「遅くするのか、早くするのか」「安定的なものにするのか、すったもんだなものにするのか」程度の差異を生み出すことぐらいです。
そして、そのProcessを「早く安定的なもの」にするにはどうしたらいいかも、既述済みですね。「PMを掲げながら、Mankindismへと押し流される「被害感覚」を醸成すべく混交を進めればいい」わけです。誰もこれからは逃れられません。