7. TP(一時目的) /Games

既述の通り、我々人類は、実態としても、規範としても、「人類主義」(Mankindism/人類の維持・発展) を「究極目的」(UP) とせざるをえません。
それはそれでいいとして、それ以外の「目的」や「活動・営み」をどう捉えたらいいのか、それについて少し書いておきましょう。

7-1. TP (一時目的)

人類主義」(Mankindism/人類の維持・発展) が、永遠に達成され切ることがない「究極目的」(UP) であるならば、それ以外の全ての「目的」(Purpose) は、「消費期限付き」の「一時目的」(Temporary Purpose) ということになります。

例えば、「いい大学に入りたい」とか、「金儲けしたい」とか、「伝統を守りたい」とか、「国家を発展させたい」とか、「人権を守りたい」とか、「環境を守りたい」とか、「好かれたい」とか・・・、それらは全て、特定の文脈(Context) でのみ限定的に成立する「一時目的」(TP) に過ぎません。
我々人間の社会的活動、言動、営みには、このように、どんなに些細・ウブなものであっても、必ず「一時目的」(TP) が潜んでいます。

 

(他方、いかなる文脈であろうとも、我々皆が「人類」(Mankind) という属性を共有し、その大きな文脈(Broadest Context) に位置づけられていることに変わりはありません。何人たりとも、そこから降りることはできません。ですから、我々人類にとって、「人類主義」(Mankindism/人類の維持・発展) は「究極性」(Ultimate) を帯びることになるわけですね。)

 

したがって、これら「一時目的」(TP) の「一時目的性」を、「消費期限」(Deadline) を、「限定性」(Limitation) を、しっかりと押さえておくことが重要です。

そうしないとどうなるか?
消費期限切れ」の「一時目的」(TP) にいつまでも自分を、そして他者を、盲目的に追い込む、不毛な「没入的堕落」を生むことになるわけですね。

逆に言えば、そういった「一時目的」(TP) に実存的に依存し、「没入的堕落」に陥らないためにも、そこから身を引き剥がし、ブレない、朽ちない、普遍的な視座・立場を獲得するためにも、「究極目的」(UP) としての「人類主義」(Mankindism) (を含む、「PM的なもの) が、要請されることになるわけです。

 

7-2. How to operate the Games (一時目的達成ゲーム)

さて、「人類主義」(Mankindism/人類の維持・発展)以外の全ての「目的」(Purpose) の、「一時目的」(TP) を踏まえた上で、さらに話を進めて行きましょう。
その「一時目的」(TP) を達成するための「振る舞い/作法」、言い換えれば「Gameの進め方」についてです。その主要な部分を、取り上げておきましょう。

もちろん、内容によっては、UP (究極目的) としてのMankindism (人類主義) や、PE (物理的実体) といった究極的・絶対的な参照物 (RO) を直接持ち出すのもいいでしょう。しかし、そうする必要性が無かったり、そうすることがふさわしくない場合も、あったりすることでしょう。

 

そのような場合に、まず使えるのが、第4項でも触れた、共感(Sympathy) を促す諸概念 (「公平」(Fairness)、「合理性」(Rationality)、「正直」(Honesty)、「前向き」(Positivity) 、「愛情」(Love)、「敬意」(Respect)、「忠誠」(Loyalty) など) や、それに基づく「振る舞い」(Behavior) です。

共通前提が希薄なAmerican (アメリカ人) 達が、何かにつけて「Unfair」(不公平) だの、「Respect」(尊敬) だのを、口癖のように言うのは、何も偶然ではありません。あるいは、伝統的な宗教・道徳の内容の大部分が、これらの概念(Concepts) を下敷きにしているのも、偶然ではありません。これらの概念(Concepts) に、ある程度普遍的な「共感(Sympathy) 喚起能力」があることを、経験的に学び取っているがゆえに、自然とそうなるわけです。

★「根切り」(ねぎり) について

上記のような共感(Sympathy) 獲得に向けた、感情的(Emotional/Pathos) な振る舞いを支えているのが、「根切り」(ねぎり) です。
「根切り」とは、「根拠切り」のことで、(本心は別として) 自分の主観的な根拠がそこで断たれている、思考の限界がそこである、素朴にそれを信じきっている、かのように自己演出することです。「カマトトぶる」「キレる」も、その一種です。

幼児が、親の同情を引くために、その下心を隠して過剰に泣き喚いてみせるのが典型なように、この「根切り」は、幼少から万人が持ち合わせているものであり、対人Communicationにおいては不可欠なのものです。

このような「根切り」をされた相手は、それに悪質性や重大性が感じられない場合などは特に、「仕方ないなぁ」と、それを受け入れたり、黙認したりする方向に流れがちです。

人間社会においては、往々にして、その時代その時代に支配力(Hegemony) がある組織なり、なり、思想・作法なりに「つけ込む」ことが、目的達成には手っ取り早かったりしますが、そうやって「つけ込む」にしても、これらが必要になるわけですね。

 

また、これと並んでよく用いられるのが、情報(Information) の「大量化」(Increasing)、論理(Logic) / Rule / 手続き(Procedure) / 組織(Organization) の「複雑化」(Complications) による、「排除」(Exclusions)、「飲み込み」「包括」「巻き込み」(Inclusions)、「誘導」「絡め取り」(Inductions) です。

さらに、もうひとつ、「参照物」(RO) 作成・操作による、「Communications」の作成・操作なんてのもありますね。Mass mediaや、広告業などが典型です。

もちろん、より直接的には、「」(Money/金銭/賃金/報酬) や、「暴力」などによる「脅迫」(Threat/Menace) が用いられますね。

上述した共感(Sympathy) 狙いの振る舞いが、比較的「弱者」が用いることが多いのに対し、これらは比較的「強者」が、「立場/権益/秩序 防衛・拡大」的に用いることが多い手段です。

 

また一方で、Communication/Discussion/Logic における普遍的な作法 (Manners) としての、

  1. 比較 (Comparison)
  2. 代替 (Alternative)

の2つも、ある程度使えます。
要するに、自分の考えを批判・非難してくる相手に対し、そう主張するだけの「比較内容」や「代替案/行為」を求めるわけです。それを提出できない意見・主張は、まともな批判の要件を満たしていないわけですから、無視したり、突っぱねたりして構わない、ということになります。これにより、情報・労力をだいぶ縮約することができるわけです。

くだけた例を出せば、

「なんで俺だけ言われなあかんねん」
「だったら、おまえがやってみろや」

なんてのが、典型ですね。(笑)

先ほど例としてAmerican (アメリカ人) を出しましたが、こういうGamesは、現実の社会/世界において、実際に行われていることです。そういう風にして、この世界は動いています。こういうGameの作法に疎いと、いい「カモ」にされるだけになります。

 

さて、下述することにもなりますが、このように、我々人類の営みのほとんどは、「政治」(Politics) 的営み (Political Games) です。
「政治」(Politics) 的営みとは、「集団的意思決定」及び (それに向けた)「勢力獲得」的営みのことです。
そして、それは当然、「物語」(Mythos) 的性格も多分に孕んでいます。

もちろん、「政治」(Politics)/「物語」(Mythos) 的営みそれ自体に耽溺・没入することの不毛さは、馬鹿でも分かるでしょう。ですから、我々はそれに耽溺・没入しないために、「究極目的」(UP) としての「人類主義」(Mankindism) を含む、「PM的なものを必要とします。

しかし、それは現実に行われている「政治」(Politics)/「物語」(Mythos) 的営みを、拒否・無視・否定・超越することを意味しません。むしろです。「政治」(Politics)/「物語」(Mythos) 的営みに積極的に関わり、commitし、上手く立ち振る舞うためにこそ、究極的に上位 (Meta) で、究極的に安定した、普遍的恒久的視座・立場・指針・目安・動機供給源として、「PM的なものは要請されるわけです。

言い方を換えれば、PMの立場は、

  1. PE/UP (Mankindism) で構成される「PM
  2. TP/Politics/Mythosにまみれた「Games

という「2段構え」で、人類を捉えることを推奨する立場だということです。

 

7-3. Types of the Games (ゲームの種類)

さて、分野/内容ごとに、Gameの種類をざっくりと見ていきましょう。

まず、Natural Sciences/Technologies的な、Physical Entity (物理的実体) の性質を解明したり、活用したりする営みがあります。もちろん、大学にしろ、研究機関にしろ、企業にしろ、組織的(社会的) な営みである以上、それ以外の付随的な性質も孕むわけですが、これ自体は、厳然たる絶対的な物理的実体(PE) に適合するか否かで判断可能なものであり、(ある程度) 一方向に、深化/進化/高度化していくことになります。

 

さて、それと対比されるのが、「言語/数学」的営みと、「人文/社会」的営みです。
これらの特徴は、上記の「物理的実体」(PE) に向けた営みと異なり、「とりとめもない」「底が無い」という点です。

「言語/数学」は、「物理的実体」(PE) に寄り添い道具(Tool) として利用される限りにおいては有用ですが、そこから離れてしまえば、それ自体は「空虚」です。

(「自己言及のパラドクス」(Self-referential paradox) (「エピメニデスのパラドクス」(Epimenides paradox)、「クレタ人のパラドクス」(Cretan paradox)、「嘘つきのパラドクス」(Liar paradox))、「ゲーデルの不完全性定理」(Godel's incompleteness theorems)、Ludwig Wittgenstein (ウィトゲンシュタイン) の「言語ゲーム」(Language game)、Jacques Derrida(デリダ) の「散種」(Dissemination) などに示されているように、「言語/論理/数学」的営みは、「」を巡って必ず壁に突き当たります。当たり前です。「言語/論理/数学」自体に、元々「」など無いのだから。「言語/論理/数学」は、そもそも人間が参照している「物理的実体」(PE) を切り取り、表現するための「道具」(Tool) として生まれ、人間が「物理的実体」(PE) の中で、それを参照しながら育んできた「感覚」(Senses) (=「理性」(Reason/Rationality)) を背景として、運用されているものに過ぎません。したがって、「言語/論理/数学」に「」を与えることができるのは、厳然たる唯一絶対の実体として「端的」に存在し、共有されている「物理的実体」(PE) のみです。
こういう当たり前のことが分からず、「言語/論理/数学」、あるいは「理性」それ自体が、「実体」(Entity/Substance) として存在しているかのような錯覚/錯誤に陥ると、数学派(M1) 的な、間抜けな「没入的堕落」の果ての不毛な「戯れ」に行き着くことになります。)

したがって、これ自体を目的とした営みそれ自体も「空虚」ですし、下述する「人文/社会」的営み目的で使われてしまうと、単なる「詭弁」や「終わり無き論争ごっこ」の道具にも成り下がります。

「人文/社会」的営みは、このWebsiteでも書いてきたように、「人類主義」(Mankindism/人類の維持・発展) という、最も外側に位置している「普遍的原理以外は、「何でもあり」です。各人の「刺激」(Stimulations) 欲求 (「~欲」)、「生存本能」(Survival Instinct)、「保身」(Defensiveness)、「能力限界」(Capacities/LA) や、「確定不可能性」(Uncertainty)、「同調圧力」(Peer Pressure)、「調整」(Adjustment) などが絡まり合いつつ、当て所もなく、どこまでも「差異化」(Distinctions)、「忘却」(Forgettings)、「反復」(Repeats/Revivals/Recycles) が、際限無く繰り返されるだけ。上記のような、物理的実体(PE) を対象としたNatural Sciences/Technologiesのように、深化/進化/高度化が積み上げられていくわけでもなく、「荘厳な建物」を努力して作り上げたと思ったら、別の文脈(Context) /主観性(Subjectivity) の到来により、即座に突き崩される、風化させられる、そんなIronical (アイロニカル) な「戯れ」の営みです。文字通り「諸行無常」。絶えざる「刺激」(Stimulations) 供給と、その裏返しとしての、絶えざる「安定」(Stability) 供給、そんな機械的な運動がただあるのみです。

何が言いたいかというと、後者の分野/内容に関する/-におけるGames --- これが実際は我々人類の営みの大部分を占めているわけですが --- その「Ironical」で、「諸行無常」的で、「戯れ」的な性格を、しっかり踏まえておくべきだということです。これを踏まえていないと、Gamesを上手く立ち回れません。

 


 

さて、この項の、これまでの内容をまとめておきましょう。

  1. 一時目的」(TP) 性 
  2. (人文/社会) Gamesの「作法 (とりわけ「共感」(Sympathy) 獲得、「複雑化 」(Complications)、「参照物」(RO) 供給) 
  3. (人文/社会) Gamesの「性格 (とりわけ「刺激」(Stimulation) /「安定」(Stability) 供給) 

これらを踏まえていないと、「無駄骨を折る」ことになる、時に「人生を棒に振る」ことになる、総じて「遠回り」することになる、というわけです。

 ←→  (←→Symbol)

 

そして、こういった内容を「理解/認識」し、「受け止める」ためには、(絶対的に安定した物理的実体(PE) 性を基礎とした) より (究極的に) 上位の「Meta的な視座・立場」(宗教性) が、言い方を換えれば、「確固たる根っこ」が、必要になります。さもなくば、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」的な、浅田彰/宮台真司的な、Postmodernism的な、Nietzsche/Ancient Greece崇拝的な、間抜けな「戯れ」発想に留まり、終始するはめになってしまいます。

そして言うまでもなく、その究極的にMetaな視座を与えるものこそ、このPMというわけですね。「Post-Postmodernism」としても、このPMは要請されるわけです。

  1. Traditionalism/Nationalism/Modernism (没小理)
  2. Postmodernism (脱小理+α)
  3. Post-postmodernism [Physical Mankindism] (大理(極理) + Games)

 

さて、ここまで書けば分かってもらえるように、ここでも、前項のEPNの話と同様、PM的視座によって人文社会的営みの「Games」性が露になり (PM→Games)、その「Games」を上手くこなすためにPMが要請される (Games→PM)、そういう全体の構成・理路 (PM→Games→PM) が浮かび上がってくることになるわけですね。

 

7-4. Types of Humans (人間の種類)

最後に、前項とも関連しますが、便宜的な人間のTypes分類を、提示しておきましょう。

これは思考・嗜好・関心が、専らどのような刺激(Stimulations) と関連付けられているかによる、大まかな分類です。
場合に応じ、それぞれのTypeに合わせ、それぞれに対応することが大事です。

type-h.png

TypeAは、PMの内容を理解できる人々、あるいは既にそれと同じ思考をしている人々。
物理的実体(PE) により構成・支配されている世界及び人類の実態を認識しつつも、TypeDのような短絡的堕落に陥らない人々。
このTypeの人々に対しては、PMを直接 持ち出せば、ツーカーで通じ合えます。

TypeBは、物理的実体(PE) による構成・支配にまで考えが及ばず、自説や、その確信の根拠・原因にまで考えが及ばず、MathematicsやLogic (の戯れ) に没入・耽溺してしまう素朴な人々。数学派(M1) と同義。古典的な秀才/IntelligentsiaによくいるType。
このTypeの人々は、それぞれが依拠するLogicを利用した誘導的approach が有効。

TypeCは、伝統や社会・集団性に埋没する素朴な人々。
人類の中では、圧倒的に多数派。
このTypeの人々に対しては、それぞれが依拠する伝統性社会・集団性を利用した誘導的approachが有効。
(その一種が、前項で書いたEPN。)

TypeDは、利己性 (快刺激) に短絡的に没入してしまう人々。
疎外感を持っている者に多い。彼らに社会性を与えると、TypeC (StageC) に上昇します。
このTypeの人々に対しては、承認共感一体化など、感情的approachを通して、社会性 (集団的一体性) を植え込む (そしてTypeCにする) 手段が有効。

 

もちろん、物質的・科学的な、より精緻なapproachも採りうるわけですが、ここでは概念整理の意味も込めて、このようにざっくりと分類・説明させてもらいました。