PMの内容を述べる前に、前提として最低限踏まえておくべきことを、2つ書いておきます。
(これらは、「物理的実体」(PE) の観点から、まともな想像力がある者なら、当たり前に導くことができる内容ですが、忘却されやすく、また比較的重要なことでもあるため、このようにわざわざ「前提」(Premises) として抜き出しています。)
ごくごく当たり前のことですが、私もあなたも含め、全ての人間は、頭脳的にも、肉体的にも、能力限界 (Capacity/Limits of Abilities) を抱えています。どんなに優秀に見える人間も、どんなに万能に見える人間もです。
この当たり前のことが忘却されるとどうなるか?
「個人崇拝」や「過剰期待」という「特殊帰属」(Special
Belongingness) や「没入的堕落」を生むことになるわけですね。
学者、宗教家、有名人、Idol、Athlete、経営者、技術者、芸術家、富豪、名士、先輩、親・・・どれもこれも能力限界 (Capacity/Limits of Abilities) を抱えた、何の変哲も無い人間に過ぎません。もちろん、歴史上の人物もそうです。そんなものにいちいち「特殊帰属」(SB) してはいけません。不毛 な結果が待っているだけです。
また、このPMが、あえて「必要最低限」の簡素な内容にまとめてあるのも、あえて「宗教」という体裁を採っているのも、人々の「能力限界」(Capacity/LA)、より具体的には「情報処理能力限界 」を踏まえてのことです。
我々人類の営みは、確定不可能性 (Uncertainty) にまみれています。
などなど。
物事の「適切」な程度、「適切」な価値観、「明確」「正確」な歴史的事実、「明確」「正確」な叙述真意・内面、「明確」な善悪などを、確定することは不可能です。
この当たり前のことが忘却されるとどうなるか?
これらについての「絶対に結論が出るわけない」各種の論争・対立に、あるいはその中における立場の固執に、無駄な時間・労力を費やす「没入的堕落」を生むことになるわけですね。
これらに根ざしたあらゆるcommunications --- 人文社会科学、右翼左翼論争、保守革新論争、人権論争、歴史論争、文化論争、作法論争、道徳論争、伝統論争、宗教論争などを含む --- は、究極的には全て不毛です。確定不可能性 (Uncertainty) の前で「戯れている」に過ぎません。