PMの名称 (「Physical Mankindism (物質人類教)) にも示されている通り、PMが立脚するのは、
の2つです。
人類がいくらでも妄想的に生み出すことができる、とりとめもない「観念」(Idea)、「物語」(Story)、そして、そういったものに立脚した「主観性」(Subjectivity) (さらには、それらを反映した、実体を伴わない空虚な「言語(論理)/数学」的表現/Communicationそれ自体)、それらをcontrol しようと試みたり、それらに擦り寄って「共振」してみたところで、不毛です。時間と労力の無駄です。そういう無駄を繰り返す刹那的な人々を、我々はどれだけ目撃してきたことでしょうか。
とりとめもない「観念」(Idea)、「物語」(Story)、「主観性」(Subjectivity)
は、同じように、とりとめもない「観念」(Idea)、「物語」(Story)、「主観性」(Subjectivity)
によって永遠に崩され続けます。同時に、top
pageでも書いたように、「自然科学の発達」と「Globalization
(地球規模調整)」、総じて「社会環境変化」によっても、崩され続けます。
そして、人間の「能力限界」(Capacity/LA)
ゆえに、それは忘却され続けます。
ですから、そんな無駄を反復したくない人々は、いかなる「観念」(Idea)、「物語」(Story)、「主観性」(Subjectivity) の持ち主であろうとも逃れることができない、そして我々を支配している、厳然たる唯一絶対の実体である「物理的実体」(Physical Entity)、そして、ほとんどの人類が、己の存在性格上、直接的であろうが、間接的であろうが、意識しようが、意識しなかろうが、積極的であろうが、消極的であろうが、関わらざるを得ない、飲み込まれざるをえない、支援せざるをえない「人類自身」(Mankind) (-の維持・発展)、この2つにのみ立脚せざるを得ません。
この2つ以外は、究極的には「どうでもいいこと」です。「おまけ」です。「戯れ」です。
そういったものに、刹那的に「没入」する人々は放っておけばいい。この2つの「根幹」に縛られながら、それを意識もできぬまま、無邪気に戯れる立場に、自らを追い込んでいる哀れな人々なのだから。そんな人々にいちいち「擦り寄った」り、「共振」するのは不毛です。
もっと露骨に言いましょう。「馬鹿は放っておけばいい」。
そんな馬鹿どもですら従わざるをえない、この2つの「根幹」を、しっかり押さえておくことが重要です。