2008年 8月11日(月) ■I'm looking for me, you're looking for you. We're looking in at each other and we don't know what to do. ■午前五時五十分に目覚める。今日は団子虫のように丸まって、内観する。 ■珈琲を淹れ、飲む。新聞を読んだり、昨日書いたノートを見返したりする。 ■酷いな、こりゃ。すると、然る有徳の御仁より報せ有り。 ■出勤間際であったので、仔細を検討する暇はなかったが、委細了解する。 ■自転車を漕ぎ、社を目指す。仕事の席に着く。ダウンからの復活を寿がれる。 ■午前中は伝票整理をする。お盆進行の有する、独特な間合いであった。 ■お昼休み。近所の定食屋さんに行く。上役さんの言う通り、野菜を多く摂った。 ■帰り道、猫を抱え、バイクを運転するDちゃんと出会った。「おお、元気?」 ■「田舎に帰るんで 猫を預けに行く途中です それじゃ また!」 ■仕事の席に戻る。休み前の滑り込みを狙う電話が多かった。 ■「図書目録」改訂作業の、事務的な段階に移る。ちょっと面白くないかな。 ■それでも、楽しいことに変わりは無い。贅沢を言うようになってはお仕舞いだ。 ■製作のおいちゃんと話しをする。このラインの話から、いつも生き甲斐を貰う。 ■モノを造る工程に携わっていられる境遇に、心底感謝する。 ■定刻となり、社を出る。「お疲れさんです!」 ■帰宅する。湯を浴び、粘りつく汗を流す。それから、夕餉の支度を整える。 ■晩酌をしながら、今日は本は読まずに、文を書く。Nobody 氏へ。 ■文を書いた後、調べものをする。切が無いのは、承知の上で。 ■調べもの癖は、ガキんちょの頃より、自覚してはいるのだが。 ■しかし、それは歳を経るごとに、甚だしくなっていることも。 ■今宵もまた、パレスチナ地方の古代色について、調べている。 ■それでどうなるかなんて、後先も考えずに、調べている阿呆。 ■The Whoの『The Story of The Who』を聴く。 『The Seeker』 written by Pete Townshend
饒舌性ボレロ症候群を封印し、ただ文を書き、本を読む。 そして、音楽を聴く。阿呆か。 踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン、か。 もうそんな季節か、我が祖国では。 んなぁこたぁ兎も角、この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 ■そんな気、絶対無いって、絶対に。俺は明日から踊り倒すわ。 2008年 8月10日(日) ■Starbuck's sharpening his harpoon. ■午前九時十五分に目覚める。久し振りに、よく寝た感を得る。 ■内観する。残暑の太陽は既に昇っており、じりじりと私の身を焦がす。 ■珈琲を淹れ、飲む。本を読んで、時の経過を忘れる。 ■午後二時三十分頃、軽食を摂る。会社で貰った、小さな鉄管ビールも呑む。 ■ドアの鈴が鳴る。出てみると、誰も居ない。残暑白昼の怪である。 ■レコード棚から、長いこと聴いていなかったレコードを、何枚か引っ張り出す。 ■どれもこれも、私の血肉のようなものである。 ■ゲームもせず、また漫画も殆ど読まずに、音楽を聴き、本を読み、酒を呑んできた。 ■其処に、有り得たであろうもう一つの人生を、夢想したりはしない。 ■私はこの点について、後悔はしない。それは有り得ない。 ■中途半端な気持ちではなく、私はこれらのことを行ってきた。 ■それ以外のものは、私では有り得ない。これは肯定では無く、また否定でも無い。 ■これは、「今私が此処に在る」という直覚以外の、何ものでもない。「Ego sum cogitans」 ■其処には一切の推論の形式は見出されず、絶対によって常に媒介される、個物が在るのみ。 ■それは、「類‐種‐個」、それから「実体‐属性‐様態」の三つ組み、である。 ■あるいはまた、「普遍‐特殊」、それから「無限‐有限」の関係性、である。 ■私は、個的な死を自己の否定的媒介とし、それを絶対による否定的な働きであると看做す。 ■そして、安易に直接的な類的普遍に高められ、肯定されることを善しとしない。 ■だから、「危うい自己肯定論者」による批判は、とんでもない、見当違いも甚だしいものである。 ■彼の批判は、哲学の自己本位的非社会性、観念的独善性の、最たるものであろう。Pfui! ■直接的にして安易な「気分(Stimmung)」に基づく彼の自己把握は、お目出度きものかな。 ■水平的概念の羅列だけでは理解し難い、他者と自己との関係が、此処に赤裸々となる。 ■相対者と相対者のあいだで繰り広げられる、持続的にして、積分的な、無際限の交流が。 ■お前には、その交流を果たす、覚悟など無いのだろう。ならば私を批判する資格など無し。 ■この、安易な有限の四角四面の遊戯に沈む、「危うい自己肯定論者」よ。 ■貴方が羨ましい、その呑気な姿勢が。私には無理だな。 ■これは、神と私とのあいだで、常に改められる、刹那的で、微分的な、非連続の連続では無い。 ■これは、持続的な積分的交流であり、またより一層深まる謎として、私に暗い影を落とすものだ。 ■「X は 別に X の儘でもイイんだっ! 要はそれを中心として、どれだけ考え抜くかだっ!」 ■御師匠様の御言葉を反芻する、蝉時雨のなかで。堕ちて行く勇気を、我に。 ■生死交徹的自他相入の交互態を思う。それは、死者生者ともに交わる実存協同の世界である。 ■「無即愛の象徴としての実存協同の世界はまた、宇宙論的な視野において見ることもできる。それは絶対無とも言うべき天空において無数の星々が相互に照らし合い、合図し合って一つの配置(星座)を描き出しているような感がある。」(『御師匠様』) ■ところで、私は私を誉める人間を信用しない。ついこのあいだ、そういうことがあった。 ■「俺なんかを誉めるようなヤツぁ どうせ大したことは無い」というのも一理有る。 ■「人を誉めるような人間は その一方で 人を貶す人間である」というのも有る。 ■しかし、その最大の理由は、「毀誉褒貶に左右されたくない」からである。 ■誉められても、貶されても、最低限の感謝の意だけを持って、あとは一喜一憂したくはない。 ■但し、以上のことは、御師匠様を除く。 ■浅ましく思えるほど、私は、御師匠様にだけは、身も蓋も無く、認められたい。 ■そして叱られれば、その欠点を見出し、更なる改良に努めたい。 ■少し違うかも知れぬが、以下の文章を思い出す。 ■『歎異抄』第二条(私訳) 「皆様方が、十余ヶ国の境を越えて、ご自身の命を掛けて私を訪ねてきたその目的は、ただ極楽に往生する道を問い質そうとすることに尽きるでしょう。ところで、私が念仏以外に往生の道を知っているのではないか、あるいはそれを解き明かしている文章を知っているのではないか、と思し召されているのであれば、それは大きな誤解です。もしそうであるならば、南都(奈良の諸寺)や北嶺(比叡山)には優れた学者さんたちが大勢御出でになりますから、そのような方々にお会いして、往生の重要点を充分にお聞きになるべきです。私親鸞にあっては、『ただ一筋に念仏して弥陀に助けて戴くべし』、という善き人のお言いつけをこの身に受けて信ずる他に、何か特別のことなどありません。念仏が浄土に生まれる真の原因であるのか、あるいは地獄に落ちるべき行為であるのか、私は一切存じません。たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても、私は決して後悔致しません。なぜなら、その他の行に励んでおれば仏に成る筈の者が、念仏をすることによって地獄に落ちたというのであれば、『騙された』という後悔もあるでしょうが、私はどのような行も成し遂げられない者でありますので、結局の所、地獄こそが決められた住み処なのです。弥陀の本願が真実であるならば、釈尊の教え説かれたことが虚言であってはならないのです。仏の教えが真実であるならば、善導の解釈が虚しきことを述べるものであってはならないのです。善導の解釈が真実であるならば、法然のお言いつけがどうして空言でありましょうか。法然のお言いつけが真実であるならば、親鸞が述べる趣意もまた、虚しいことであってはならないのではないですか。結局の所、愚かな私の信心とはこのようなものであります。事がこうなったからには、念仏を選択して信じ奉るか、それとも捨て去って仕舞うかは、皆様方のご判断です、云々。」 ■「命を掛けて」というのは単なる比喩ではなく、当時の旅というものの過酷さを物語る、真の労いの言葉であろう。東国より上洛した門弟たちは、正に自己の命を賭してその師に問うのである。それは極楽往生の方法を問うという聊か短兵急なものではあったにせよ、自己の信の揺らぎを恐れての行動であり、その宗教的生を生きる上での切実な懊悩からのものであった。しかし聖人は、「念仏を選択して信じ奉るか、それとも捨て去って仕舞うかは、皆様方のご判断です」というように、或る意味、つれないと思えるほどに突き放し、最終的な決心を各人に委ねるのである。しかし、宗教的信に関する問いに対しては、これは当然の答えであろう。何故なら、如何に師とはいえ、それは無理強いするようなものでは無いからである。結局の所、宗教的信というものは理論だけでは解せないものであり(無論、理性の働きは、内に働く推進力として重要ではあるが)、それは連綿と続く先師たちの法脈を信じ、行為するということを通してしか証示され得ないものである。その内実を伝えようとして、聖人は「とても地獄は一定すみかぞかし」と述べたのである。 ■さて、湯を浴び、汗を流し、夕餉の支度をする。どうでもイイや。 ■晩酌をしながら本を読む。睡魔が襲って来たら、それが就寝のときだ。 ■Mountainの『Nantucket Sleighride』を聴く。 『Nantucket Sleighride (To Owen Coffin)』 written by Felix Pappalardi - Gail Collins
Nantucket:嘗て捕鯨基地であったマサチューセッツ州にある島。ナンタケット島。小説『白鯨』の舞台。Quakerが多いことで知られる。 『白鯨』:"Moby Dick" by Herman Melville. Sleighride:コカイン中毒のこと。「橇乗り」だから、ダダ滑りに中毒にのめり込むの意か。だからこの歌は、メルヴィルの『白鯨』そのものをなぞったものではなく、その作品世界に彷徨うコカイン中毒者の心象風景を描いたものである、と言うことができる。その証左として、以下に幾つかの点を挙げる。 Captain Ahab:Moby Dick に片足を喰われた義足の男。事実上の主人公。この歌には出て来ない。 Starbuck:一等航海士。珈琲屋の Starbucks の名前の由来となった架空の人物。以下の件がおかしい。 「スターバックは銛を研いでいる(Starbuck's sharpening his harpoon)」 彼はエライさんであり、銛討ちでは無いから、銛なんか研がない。 Owen Coffin:『白鯨』とは直接関係の無い、実在した人物。コネチカット州知事を務めた政治家 Owen Vincent Coffin(1836-1921)では無い。。彼はナンタケット島を基地とする捕鯨船のキャビン・ボーイだった。1819年、彼が乗り込んだ船は巨大な鯨に襲撃され、沈没した。突然海に放り出された船乗りたちは、命辛辛、救命ボートに乗り移った。直ぐ近くには、ポリネシア東部に位置するマルケサス諸島があったのだが、其処は当時、食人族が住む島であったので、彼らは已む無く、遥か遠方のペルーを目指した。年を跨いだ1820年、食料も尽き、死人の肉も食い尽くされたボートの上で、餓えた者たちのために身を挺する者を籤引きによって選定することが決められた。同時に死刑執行人も籤で選ばれることとなった。そこで当たり籤を引いた Owen Coffin は、約束通り自らの身を食料として捧げた。Owen の伯父である Captain Pollard は、その肉を食すことを断固として拒んだという。それでも尚、Owen の死後、彼だけでなく、別の男もまた当たり籤を引いた。船乗りたちは、その儀式により生を存え、やがて別の捕鯨船に救助されたという。当初の二十名のうち、生き残った者たちは、僅か八名であった。Captain Pollard を含む幾人かはナンタケット島に留まり、余生を過ごしたと伝え聞く。 Felix Pappalardi:Mountain のベーシスト。この曲の作曲とヴォーカルを担当している。Eric Clapton が在籍していた Cream のプロデューサー、アレンジャーとしても知られる、当代屈指の音楽家であった。 Gail Collins:Felix の妻。この曲の共作者であり、アルバムのアート・ワークも手懸けている。1983年4月17日、夫の Felix を銃殺し、逮捕されたが、それは事故であったことが認められ、1985年4月に仮釈放された。 たかだか5〜6分の曲のうちに見出される、さまざまな物語。 瞬間的に、イオニアン・スケールが登場する。其処は、目茶目茶煌めいている。 楽典なんかは、とうに忘れて仕舞ったから、説明はできない。思い返そうとも思わないが。 老練な水夫が時計(Khronos, Kairos)を見遣り、酔って寝るイマージュは、何処かで読んだ気がする。 「生活の時」と「選びの時」。「円環する時」と「永遠の今としての時」。 だが老練な水夫は、魂を水で濡らし、子どもに手を引かれなければ歩けなくなる(Herakleitos)。 それはワザトなのか、天然の故か、はたまた厭世的なものからなのか。 また、食人族を避ける者たちが、食人をするという皮肉。「生きる」とは、こういうことなのか。 そんなこたぁ兎も角、この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月9日(土) ■Heartbreaker. ■午前六時二十分に目覚める。軽い痛みを頭に感ずるが、大したことはないだろう。 ■内観する。所有という概念に、私は囚われているのだろうか。ま、大丈夫だろう。 ■珈琲を淹れ、飲む。それから一章分だけ読書をする。断片的な文献狩猟活動だな。 ■午前十時過ぎに出社する。重役みたいだな。おいちゃんとマダムしか居なかった。 ■一人だけで事務所に陣取って、単純な事務作業を、地味に、淡々とこなして行く。 ■「花火大会の季節ね」 「うん 昨日の夕方 山の向うでポンポン上がってたわ」 ■「序でに雷様も ゴロゴロと唸ってはったわ」 「それはイヤやわ 私 怖いわ」 ■お昼休み。近所の定食屋さんに一人で行く。今日は空いていて、ゆとりがあった。 ■真夏の豚汁に、七味唐辛子をテンコ盛り入れて、汗を掻きつつ、御飯を頬張った。 ■暑いときほど、熱いものを食べなければ、昨日のように、ダウンして仕舞うから。 ■仕事の席に戻る。ホンマは煙草を吸ったらアカンとこで、おいちゃんと吸い吸い。 ■「旨いわぁ 止められへんわぁ」 「同感です 先輩」 この時代逆行者どもよ。 ■単純な事務作業を続ける。本に関する仕事に携わっていることに、喜びを感ずる。 ■マダムに珈琲を淹れて貰って、食後の睡魔と闘いながらも、地味に作業を進める。 ■「お先に」 「お疲れさまです ご馳走さまでした」 「おほほほ さようなら」 ■年齢からして、お二人は私の父母のようである。果敢無い擬似的な親子関係だな。 ■定時と相成る。おいちゃんと「おつかれさん!」と言い合って、社の門を潜った。 ■自転車に跨り、汗だくになりながら、ペダルを漕ぐ。夕焼けの空を楽しみながら。 ■紅く染まった雲を見上げながら、ペダルを漕ぎながら、いろーんなことを思った。 ■早く要求通り金を渡して晴晴したい。もう一度、この大空を思う存分楽しみたい。 ■そして、危うい自己肯定論者を無視したい。もう一度、純粋に論理を展開したい。 ■富は積もらぬ。富は散華のように、散り行くのみ。富を積まずに、徳を積め、か。 ■帰宅する。湯を浴び、世俗の塵芥を洗い流す。夕餉の支度を整え、晩酌を始める。 ■止観。本覚。無念。私は仏をも殺す。太平の惰眠を貪る「理解したがり」を殺す。 ■Heartbreaker 殺す。己を殺す。逢仏殺仏。Spinozaさんは、神を殺したのか否か。 ■一人死ね死ね団みたいなものである。暗い日記は、今日で最後だ。もう厭きたよ。 ■Grand Funk Railroadの『On Time』を聴く 『Heartbreaker』 written by Mark Farner
井上陽水の『傘がない』の元歌である。どちらも素晴らしいのだが。 俺はマジで 俺はマジで あの人無しじゃねぇと 生けて行けねぇ。 生母の眼の色なんか気にしねぇ。あの人のことなんか気にしねぇよ。 「俺はもう泣かねぇよ 俺は生きるぜ 飛んでる限りはな」ですな。 「あの人」や「背後世界」について悩める記事は、今日でお仕舞い。 金銭貸借に関する協議には乗らねぇよ。ただ私は、要求を呑むだけ。 稍あって、この歌を聴いて、思うところあって、この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月8日(金) ■Monkberry Moon Delight! ■午前五時四十六分に目覚める。頭が砕けたかのように痛む。 ■今日まで騙し騙し来たが、とうとうダウンである。病床に臥す。 ■内観する。頭が砕け切って、自分の心に突き刺さるイマージュから逃れ得ず。 ■珈琲を淹れ、飲む。職場に夏風邪と告げ、欠勤を願い出る。了とされた。 ■眠る訳でなく、ただ床に臥し、心臓の音を、拍動を、確かめていた。 ■お昼過ぎ。無理矢理にトーストを口に捻じ込む。珈琲をがぶ飲みする。 ■再び臥す。納めるべきを納め、修めるべきを修める。だから、私に構うな。 ■午後三時過ぎ。小康を得た。水を飲み、汗を掻き、内観をした。 ■少しだけ音楽を聴いてから、洗濯に出掛ける。遠雷が見える。 ■拙論を読み返し、己が身に応えさせる。量子物理学から見られた宗教哲学を思う。 ■これは私の独創などでは無く、既に八十年前に構想されていたものである。 ■だがそれは、永遠の未来派の如く、批判すらされなかった、非業の思想である。 ■私が生きているうちに、接木をしておきたいと、思った。 ■夕刻。職場に電話をする。仕事の進捗状況を伺う。 ■「鬼の霍乱やな 顔が悪いって あの子が言うてたわ ようよう寝とき」 ■「あの仕事は 上海君が休みなんやったら 僕がするって 社長が言うてたよ」 ■職場での燻りは治まり、思い違いもまた、小康を得たようである。善かった。 ■帰宅する。湯を浴び、粘り付く病の汗を流す。夕餉の支度をし、晩酌をする。 ■此処最近に限っても、この日記での文字量の多さは、尋常では無い。冷静に分析せねば。 ■饒舌性ボレロ症候群は、分析に値する症例である。 ■いや、分析なんて必要無い。私は阿呆で、文字好きで、心配性の、タダの男だ。 ■今日もまた、自己の死ではなく、他者の死から観られた自己の生と死を思う。 ■永遠のイマージュに溶け入る、自分の生死を、見届けよう、遠雷に咆哮しよう。 ■永遠へと向かう欲望によって、悪しき欲望を絶とう。私は悪しき欲望だらけだからな。 ■生の果てに死が在るのでは無く、生の遠近(おちこち)に死が在る。 ■私は宗教が解からない。その即非の論理が解からない。ただ、その前に立ち竦む男だ。 ■ただ、近しい者の死に我の生を思い、我の死を近しい者の生に思うだけである。 ■何れ私も死ぬ。だが、環境は死んだが、私は死ななかった。慙愧の念。死ねばいいのに。 ■生き残った私は、形骸に鞭を打ち、仕事と研究に、身を粉にすべし。 ■Paul McCartneyの『RAM』を聴く。 『Monkberry Moon Delight』 written by Paul McCartney
「Monkberry Moon Delight(尽きせぬ喜び)」 Paul McCartney の狂気が、私を慰撫する。 『知性改善論』より。 「日常の生活において頻頻と生起するものはどれも空虚であり無常であることを経験が私に教えた後に、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれらによって動かされる限りでなければ、それ自体ではいかなる善をも悪をも含まないということを知ったとき、ついに私は決心した(constitui)。すなわち、真の善であり、また我々がともに与り得るものであり、そして他のすべてを捨て、ただそれによってのみ、魂が働きかけられるようなものが存在していないのか、否むしろ、それを見出し、獲得したならば、絶えること無き最高の喜び(laetitia)を永遠に享受するようになる(fruerer)ものが存在していないのか、私は探究することを決心したのである。」(TIE, p.5) 私は狂ってはいない。この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月7日(木) ■立秋 この空だけがいつだって味方だったんだ。 ■午前七時半に目覚める。頭が痛い。割れるほどでもないが、不快だ。 ■夏風邪のようだ。兎も角も、内観する。上手く行かない。 ■珈琲を淹れ、飲む。出勤するかどうか迷うが、迷うなら行けと思った。 ■自転車を漕ぎ、社を目指す。仕事の席に着く。伝票類との対話。 ■同僚さんが「顔色 悪いですよ 土色ですよ」と仰られた。 ■私にはそれが「顔 悪いですよ 瑠璃色ですよ」と聞こえた。 ■ま、そう大して、変わりはあるめぇ。 ■館主が色々と私の仕事に横槍を入れるので、社長さんに報告する。 ■お昼休み。近所の喫茶店に一人で行き、ライス・カレーを食べた。 ■悩むことは無い、ただ前を向いて、眼前の事物のみを凝視しようと思った。 ■仕事の席に戻る。学会販売用のチラシを拵えたりする。 ■店頭に立っていると、顔馴染みのUさんが、お客さんとして来ていた。 ■「上海さん お久し振りです!」 「え? あっ! 久し振り! 元気?」 ■「私 結婚しました 上海さんもご存知のH君と」 「へ〜 オメデトウ!」 ■「一度 遊びに来て下さいね 北海道」 「有り難う 末永く お幸せに!」 ■デスクに戻り、電話の応対をする。不思議な御縁が、電話でもあったりする。 ■北陸のとある寺院様からのお電話。通常のように、問い合わせとして対応する。 ■「御請求額が 注文した分とは可成り違うのですけれども 何かの御間違いでは…」 ■「それは 十三年前に振り込まれた金額からの 差額分でございます」 ■「十三年前… ああ それは十二年前に亡くなった 私の父が振り込んだものですね……」 ■「人様に迷惑を掛けてはいけないと、何時でも何処でも多めに支払っていた父でございました…」 ■「私どもは それを馬鹿なことだと 常々 思っていたものですが……」 ■「………………………………………………………(涙声)」 以下、翻訳。 ■「有り難うございます 今 亡き父を通して 御仏の教えに触れさせて頂きました」 ■「お盆を前にして 今改めて 父の姿を思い出しました 有り難うございました」 ■彼に何があったのかは知らない。私は何もしていない。ただ仕事として、顧客に対応しただけだ。 ■他者と接する仕事は、内でも外でも、色々とある。 ■学部時代の恩師に関する企画、進行するのか? 私はどうなるのか? ■エライさんたちから話があると呼び出された。眼を瞑り、彼らの前に出向いた。 ■私の社内での位置が、早くも変わるということであった。私は静かに耳を傾けた。 ■何だかよく判らない部分もあるが、仕事として受け容れようと思った。 ■終業時間を過ぎた頃、社長に呼び止められる。そして、暫し話しをする。 ■死を思う人間に対し、仕事を多くし、また重くする事態を、不思議に思う。 ■「死を思う」と言っても、それは必ずしも自死を意味しない。私の精神は、それほど柔では無い。 ■それは、死からの照射によって、今生の生を観るいう意味である。この点、誤解無きよう。 ■「お先です」と告げ、社を出る。頭痛が酷くなっていた。 ■帰宅する。汗に塗れた服を脱ぎ捨て、湯を浴びる。そして夕餉の支度をする。 ■晩酌をする。自己の死ではなく、他者の死から観られた自己の生と死を思う。 ■死んだ祖母と祖父、それから一日も早く死んで欲しい、一度も好きになったことのない生母へ。 ■(私訳)『書簡十七 スピノザからピーテル・バリングへ』 親愛なる友よ。 あなたのこの前のお手紙(私の思い違いでなければ先月二十六日付のもの)、無事落手しました。それは私に少なからず悲しみと不安を引き起こしました。けれども攻撃者たちが最も強くあなたに襲いかかったときに、運命の、いやむしろ世論の心無い攻撃を軽蔑することを知っていたあなたの思慮深さと心の強さを思えば、そうした感情は確かに静まりました。それでもやはり、日ごと私の不安は増します。ですから私はあなたに、私たちの友情にかけて、私に向けてより詳細な手紙を書くことを懇願し、切願します。 あなたがお手紙のなかで言及しておられるもののうち、前兆(omina, pl./omen, sg.)に限って、すなわち、あなたのお子さんが亡くなられるその少し前、病の床に臥しておられた頃に発せられたような泣き声を、お子さんがまだ健康でお元気であられた頃にもあなたがお聞きになったという、そういった前兆に限ってですが、私の考えではそれは本当の泣き声ではなく、単にあなたの想像ではなかったかと存じます。それと申しますのも、あなたが聞こうとして起き上がり、身構えたときには、それらを前ほど明瞭に聞き取ることはなかったけれども、その後に再び睡眠に入ったときには明瞭に聞き取ったと、あなたが仰られるからです。確かにこのことは、その泣き声が純粋な想像であったことを物語っています。想像力は、あなたが聴覚を一定の場所へと振り向けようと起きたときよりも、束縛されず、自由であるときの方が、一定の泣き声をより有効に、またより生き生きと想像することができたのです。 私は今述べたことを、この前の冬にラインスブルフで私に起こった他の出来事によって確かめ、また同時に説明することができます。或る明け方のこと、空が白みかけてきた頃、私はとても重苦しい夢から醒めると、夢のなかで私に現れた像(imagines, pl.)が生き生きと、しかもまるで本物であるかのように眼前にちらついたのです。また特にそれは、私が以前には見たこともない、色の黒い疥癬にかかったブラジル人の像でした。この像は、私が気をそらそうとして目を本やその他のものに据えたとき、大部分消失しました。しかし、私がふたたび目をそうした対象から転じ、注意を欠いて他のものの方へと据えると、その黒人の像はすぐにまた元のように生き生きと、おもむろに頭の辺りに消え去るまで、繰り返し現れました。〔そこで〕私は、私にとっては視覚に関して私の内部の感覚において(in sensu meo interno visus)生じたことと同じことが、あなたの聴覚において生じたのだと申し上げます。けれども原因が遥かに異なっていましたので、あなたの場合には前兆となり、反対に私の場合には前兆ではなかったのです。このことからして、続いて私が言おうとする物事は、明晰に捉えられることでしょう。 想像力の結果(effectus, pl.)は、身体の性状(constitutio)からも、精神の性状からも生起します。冗長を避けるために、差し当たり経験だけに基づいてこのことを私は吟味します。我々は、熱や身体に関するその他の変調が譫妄の諸原因となること、また粘着質な血を持つ者たちは、とかく争闘、煩労、虐殺、その他そうしたものを想像しがちなことを、経験を通して知っています。またさらに我々は、想像がただ心(anima)の性状だけから決定されることを知っています。というのは、我々の経験によれば、想像はすべてにおいて知性の足跡を追い、そうして知性がその証明を連絡し、また相互に結合するように、秩序に従ってその像(imagiones, pl.)と言葉(verba, pl.)とを連絡し、また相互に結合するものであるからです〔(E5P1)〕。したがって、想像力が〔知性の〕足跡から何らかの像を形成しないということについて、我々は理解することがほとんどできないといった有り様なのです。このような次第で私は、身体的な原因から発出する(procedere)想像力の結果のすべては、決して未来の物事(res)についての前兆ではありえないと申し上げます。なぜなら、そうした結果の原因は、いかなる未来の物事をも含まないからです。しかし、精神の性状から生じる想像の結果、あるいは像は、確かに或る物事に関する未来の前兆となりえます。なぜなら、精神は未来に有る何らかの事柄を予感することができるからです。ですから、人は自分にとって、あたかもその物事が現存しているかのように、確りと、また生き生きと想像することができるのです。 私はあなたに類似する例を引用します。父親が自分の息子をとても愛しており、そして父親と愛する息子とは、あたかも一つのものであるかのようになっているとします。ところで(私が他の機会に証明しましたことと同様に)思惟のなかには必然的に、息子の本質の諸情態についての、およびそこから帰結する事柄についての観念が存在しなければなりませんし、また父親は自分の息子と一つのものであることにより上述の息子の部分であるのですから、父親の心(anima)が必然的に息子の観念的な本質とその諸情態、ならびにそれから帰結する事柄を分有することは当然のことなのです。これは私が他のところでより詳細に証明したことです〔(E2P17CS)〕。 それから、父親の心は、息子の本質から結果として生じる事柄を観念的に分有するのですから、父親は(私が申しましたように)時折、息子の本質から結果として生じる事柄のなかから或るものを、それらが自分に対してあたかも現前しているかのように、生き生きと想像することができるのです。無論これは、次の諸条件が満たされる限りのことです。 一、息子の人生の経歴において遭遇するであろう出来事が注目に値するものであること。 二、それが容易に想像されることができるものであること。 三、この出来事が起こるであろう時間がそれほど遠くないこと。 四、最後に、身体が善い性状にあること、ただ健康の点においてだけではなく、その上に自由で、外部から諸感覚を乱す一切の心配と厄介事から解き放たれていること。 我々が一般にこれと類似の諸観念を喚起することどもを考えれば、それはこの物事に与することもまた可能であります。たとえば、もし我々がこの人、またはあの人と話をしている間に、泣き声を聞くとすれば、同じ人間について再び考える場合に、その人と話をしていたとき耳で知覚したその泣き声が、記憶のうちに現れることがよくあるものです。 親愛なる友よ、以上があなたのご質問に関する私の意見です。あまりに簡単に過ぎることを私は認めますが、これもできるだけ早くあなたに手紙を書いてもらうきっかけになるようにと思ってのことなのです云々。 フォールブルフ、一六六四年七月二十日 ■Spinozaさんらしい、いや、Spinozaという名前とは関係無い、生死論である。 ■生き死にとは、超個人的な事柄である。だから前兆も、意味有ることなのであろう。 ■フィッシュマンズの『空中キャンプ』を聴く。 『すばらしくてNICE CHOICE』 作詞/作曲 佐藤伸治
大阪の野音で、スーツにネクタイで、彼らが掲載された雑誌を売っていたことを思い出す。 汗をダラダラと流しながら。 全然売れなかった。空しく声を張り上げていた。彼らの音響の方が、絶対的に大きいなかで。 「すばらしくてNICE CHOICEな瞬間 そっと運命に出会い 運命に笑う そんな時はいつでも暑かったんだ この空だけがいつだって味方だったんだ そっと運命に出会い 運命に笑う」 この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月6日(水) ■貸本屋のある田舎町 ■午前五時三十七分に目覚める。息を整え、内観する。 ■朝露の一滴一滴のうちに働く分子のすべてに自己を託す。 ■季重ねを重ねに重ね、分子から原子へ、亜原子へ。 ■エネルギーの増大と減少に、往相還相の働きを重ね合わせつつ。 ■量子物理学から見られた真宗学。 ■ハイブリッド体でありながら、しかも猥雑なシンクレティズムでは無い、何ものか。 ■珈琲を淹れ、飲む。それから、自転車を漕ぎ、社を目指す。 ■仕事の席に着く。今日も今日とて、伝票整理に追われる。 ■上役のおっちゃんと紫煙会談を重ね、然ることについて対策を練る。 ■「エエやないか あんなショーモナイ奴 掛かってきなはれや」とはこれ如何に。 ■お昼休み。チベット仏教研究者さんと、いつもとは違う店に行く。 ■豚汁とサラダでお腹を満たす。一汁二菜。これくらいが丁度良い。 ■仕事の席に戻る。何やらヤヤコシイ電話ばかり掛かってくる。 ■この暑さゆえ、全国的に発狂者が、一時的にせよ、増加しているのではないか。 ■そんなことを空想する私自身が、発狂者なのかも知れない。 ■遠雷ではなく近雷ゴロゴロ。「その杖に落ちるんやないの?」とからかわれる。 ■雷に打たれて死ぬというモチーフは、Marquis de Sadeの小説中に生かされていたか。 ■自然法爾を嘲笑う Sade の哄笑は、私の杖を嗤うか、隻脚を嗤うか。 ■そんな腹からの笑いは、自然を盾にした、不自然である。 ■鷲がその禿頭に亀を落とし、死んだ Aischylos の方が、まだ私の好みである。 ■終業時間となり、社を出る。行きつけのお医者さんのところに行く。 ■先日受けた血液検査の結果を聞く。γ-GTが下がっていた。他も異常値無し。 ■自転車通勤をする前、それから内観をする前、四月の頃は、140くらいあったがのだが。 ■今や60くらいである。この数字はマヤカシだと思うから、一喜一憂の仕様も無い。 ■お医者さんと雑談を重ねる。暇な医院だ。「あのお婆さん 死んだんや」 ■だから私生活上のことも、俎上に載せる。「また 一緒に 呑もうか」 ■「救われへん魂は 君一人で充分な筈や もう抱え込むなや 君は自滅野郎やなぁ」 ■「帰ってこいや この町に」 「近いうちに この町に戻って来るわ 必ず」 ■比喩的な意味で、私はこの町に帰ろうと思う、心底。 ■帰宅する。湯を浴び、世俗の塵芥を洗い流す。穢れた自分は洗い流せない。 ■夕餉の支度を整え、晩酌を始める。能動相でなく、受動相でもない、中動相を欲する。 ■日本語のような曖昧語で説明するのでは無い、中動相を欲する。 ■たとえば、「風の音が聞こえる」 この主語は誰だ? お前は誰だ? ■「私がペダルを漕ぐ」でなく、「私がペダルに漕がれる」でも、いいじゃないか。 ■というのは、責任逃れではない、有責任の、言辞に努めているからだ。 ■それでも足りなきゃ、memento mori. ■井上陽水の『氷の世界』を聴く。 『小春おばさん』 作詞・作曲:井上陽水
それとも、この都を、離れようか、いっそのこと。 この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月5日(火) ■傘がない ■午前七時半に目覚める。寝過ぎだな。シャワーを浴び、汗を流す。 ■珈琲を淹れ、飲む。それから内観する。「生まれてこなければよかった」。 ■それを打ち消してくれるのは、研究しかないのではないかと思った。 ■幾許かでも学会に貢献することができれば、其処に私の存在意義も… ■などという卑しい考えは棄て、自転車を漕ぎ、社を目指す。 ■仕事の席に着く。午前中は伝票整理に追われる。完全にお盆進行である。 ■軽く眩暈を覚えながらも、完遂を目指す。何だかフラフラする。 ■お昼休み。チベット仏教研究者さんと一緒に御飯を食べに行く。 ■軽く夏バテ気味なので、野菜をちゃんと摂るよう心掛けた。 ■仕事の席に戻る。此処に私というものが生かされている感覚を得た。 ■「生まれてこなければよかった」とは、自分を当てにしている醜態である。 ■上役のおっちゃんと暫し紫煙会談。面倒なことに巻き込まれたことを報告する。 ■「了解した。仕事だけちゃんとしていれば良い。心配すんな。」 ■私が所属する狭い社会でも様様な人間関係が有り、そしてまた厄介事も存在する。 ■書店のおいちゃんとヘラヘラと笑い合う。そして終業時間を迎える。 ■皆と「お疲れさま」と言い合って、社を後にする。 ■いつものお店に立ち寄り、いつものようにライス・カレーを注文する。 ■カレーの匂いのうちに、ふと三十年以上前の家庭環境を見出した。 ■より正確には、過去の記憶に私が見出され、生け捕りにされた。 ■そのモノクロームの記憶が、私の胸を乱暴に締め上げる。私は息を呑む。 ■「生まれてこなければよかった」と、また思った。ライス・カレーを手早く喰った。 ■帰宅する。湯を浴び、髭を剃る。そして晩酌の準備をする。 ■チビチビと焼酎を舐めながら、自分のうちにあるショーモナイ感覚と付き合う。 ■朝まだき 露に潤う 夏野菜 ■井上陽水の『断絶』を聴く。 『傘がない』 作詞・作曲:井上陽水
引用した音源は2007年のものである。 だけど、「君」って、誰? この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい 2008年 8月4日(月) ■親友交歓 ■午前六時に目覚める。水を飲み、内観する。 ■子どもの頃、よく感じていたことがぶり返してきた。 ■「生まれてこなければよかった」という、あの感覚が。 ■珈琲を淹れ、飲む。身支度を整え、自転車に跨り、社を目指す。 ■アレコレと、何でも屋さんのように、業務をこなす。 ■迂闊な私ではあるが、こうした状況に、段段と悩むようになってきている。 ■仕事が終わって、悪友との待ち合わせ場所に向かう。親友交歓。 ■我々、泥酔ブラザーズの長男坊と次男坊は、焼酎が置いてある店に入った。 ■小松菜とお揚げさんを炊いたもんとかだけをアテにして、焼酎を呑み捲くる。 ■会話らしい会話もあるにはあったが、すべてはロック・グラスのうちに溶けて行った。 ■「なぁお前 クヨクヨすんなや!」 「してへんて! ウッサイなぁ!」 ■一升以上は呑んだであろうか。まぁ、どうでもイイや。 ■「お!」 「またな!」 私は名犬リンティンティンのように帰宅する。 ■狭い部屋で大の字になり、直ぐに寝入った。朝なんか来なけりゃいいのに。 ■音楽一切無し。 2008年 8月3日(日) ■I wanted to be a spaceman, that's what I wanted to be. ■確か暁に目覚めた筈。誰とは無しに、おはようさん。 ■内観する。盆槍した頭が、やがて覚醒へと至り、そしてまた盆槍とする。 ■珈琲を淹れ、飲む。全身に痙攣のようなものが走る。気にしない。 ■本を読む。ノートはつけられない。気にしない。 ■と、自分に言い聞かせていたら、一休さんって、ホンマは凄いんやなと思った。 ■「ホンマは」とは失礼な物言いだが、それは実感として、そう思った。 ■軽食を摂り、一服する。すると、何者かが「ピンポ〜ン」と鈴を鳴らす。 ■外の様子を伺うが、誰も居ない。ま、これは気の所為だろう。気にしない。 ■大冊を一気に読んだので、少し眩暈がする。でも、それは心地の良いものである。 ■気がつけば、夕刻。急いで洗濯に出掛ける。家主である道具屋さんと雑談する。 ■「世の中 一寸先は闇やね 明日をも知れぬ身やね 人間ってもんは」 ■おっちゃんが、急にこんなことを言った。その真意は、計り知れぬが。 ■帰宅し、洗濯物を干す。今は昔。祖母のお手伝いをしたことを思い出した。 ■もう三十年以上も前のことだ。遠い遠い、セピア色の思い出だ。 ■大したことでは無いが、祖母は私に一通りの家事を教えてくれたんだと、改めて思った。 ■田舎の長男坊であり、それなりに秩序は叩き込まれたが、何故か家事だけは教えてくれた。 ■風呂に水を溜めること、焚き付けの火を熾すこと、薪を焼べること。 ■作物への水の遣り方、洗濯物の畳み方、米の焚き方に、鰹節の削り方に、味噌汁の拵え方。 ■どれも大したことは無く、〈生活〉という名で、この身体に刻み込まれている。 ■湯を浴び、身に纏わりついた塵芥を流す。そして、夕餉の支度をする。 ■晩酌をする。いろんなことに、うんざりした。生きていることが、ヤになった。 ■Nilssonの『Son of Schmilsson』を聴く。 『Spaceman』 written by Harry Nilsson
「哲学なんて、もうどうでもいいんじゃないか。」 「それが虚勢としか、他に受け取られないのであれば、もうどうでもいいんじゃないか。」 「闇から光への歩みなんか、信じなくてもいいんじゃないか。」 「どうせ死ぬ身だ。考えたって仕方が無い。」 「今のままで生きろよ、ボチボチでエエやないか。」 己と対峙し、自問自答する、今日この頃。 この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月2日(土) ■Cry if you want. ■何時が覚醒時間なのか、よく判らない。兎に角、何度も目が覚めた。 ■恐らくは、昨夜、珍しく一滴もお酒を飲まさなかった所為だろう。 ■年に一度か二度、あるかどうかのことである。馴れないことは止めておこう。 ■内観する。寄る辺無き人世において在ることを、一切を、放下しようと欲望する。 ■珈琲を飲みながら、本を読む。未だ考えたことの無い領域に入ろうとする。 ■書くことは、未だ後でも良い。今はただ、少しでも考えを深めたい。 ■一書を味読してから、また珈琲を淹れ、飲む。 ■それから、私へのアンチテーゼであることを声高に自称する文章に触れる。 ■事が起こる前に、予め書かれていたような反省文、もしくは総括文だ。 ■何があっても、それで事足れりとしたいとしか思えぬ一文だ。省察が足りぬ。 ■繰り返される、誤れる実体的な自己に基づく、警句めかした立派な言葉が並ぶ。 ■Friedrich Schleiermacher, あるいはその末裔のような、精神成長論者たち。 ■仰る通り、未だに過去の教訓から何某かのことを汲み取れるほど、私は立派では無い。 ■解かっちゃいるけど止められない、そんな自己に翻弄されている。 ■しかし、筆者のような意見には、もう飽き飽きしているというのが、正直なところである。 ■お前の文章は、否定と肯定の真の意味を知らず、その上っ面だけを撫ぜているだけの、タダの駄文だ。 ■方法としての dialektik に盲従し、またその真の意味を考察したことさえ、一度も無い者の駄文だ。 ■あるいはまた、「私は理解している」と装うことで、事足れりとしたがる、お目出度き者の駄文だ。 ■筆者は、文章を読む力が欠けているとともに、自己把握の能力において、劣である。 ■文章の劣なることは、敢えて指摘せずとも、自明の理である。いつも文意がはっきりとしない。 ■これは当の本人も認めることであろうから、敢えて指摘しなくても良いことかも知れぬ。 ■ともあれ、記述されているほどに、また単純に肯定し得るほどに、自己とは容易きものに非ず。 ■自己とは底無し沼のようなものだ。だから筆者お得意の「言った、言わない」論争は無益なことだ。 ■こうした態度は、自己に託して何某かを得んとする、自己頼みの業である、無益だ。 ■筆者の夢想する、Archimedesの定点の如き自己に獅噛み付くことを、私はしない。 ■なぜなら、それは苦しい、非常に苦しい、無益な労苦であるから。 ■気づいているくせに、Friedrich Schleiermacherよ。 ■とは言え、他者を非難することを善しとせず。それによる自己肯定を、私は悪しきものと看做す。 ■これは飽く迄も、論理批判でしかないことに、留意されたし。 ■論理批判よりも、人格批判を得意とする者は、〈自信〉とは何かに思い至らざる者だ。 ■この筆者には、常に他者を自己よりも下位の者、あるいは醜い者と看做したがる癖がある。 ■あるいはまた、途方も無く、上方に存在する者と看做したがる癖がある。 ■Nietzscheをなぞっただけだな。しかし、Nietzscheの本意は、其処には無かったけれども。 ■それもまた、自己に託して何某かを得んとする、自己頼みの業である、〈自信〉の無さの現れである。 ■こうした〈強さ〉よりも、私は〈弱さ〉を自覚する道を歩みたい。 ■Friedrich Schleiermacher, 貴方の自己肯定は、章魚が自分の足を食むようなものだ。 ■Friedrich Schleiermacher, 貴方の感情理解は、磨り硝子に映る赤腹のようなものだ。 ■Friedrich Schleiermacher, 貴方の歴史感覚は、円ではない円を求めるようなものだ。 ■円環する時間に思いが至らぬ限り、在りもしない自己への妄執に囚われるか。 ■私はただ、テクストに沈潜し、影現するイマージュに思いを致らしめる。 ■「本願ぼこり」を善しとせず、また「気づき」無き者を憐れむか。 ■俺は真剣だぜ、全く以て。確固とした覚悟が無いなら、俺に就いて書くな。 ■そしてその下手な論理を自己に対して振り向けた方が良い、お前のために。 ■下手に論理めかして俺を貶めるのなら、俺はお前を殺すぜ、論理で以てな。 ■現成公案 原文(清澤満之「絶対他力の大道」より) 「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。只だ夫れ絶対無限に乗託す、故に死生の事亦、憂うるの足らず。如何に況んや之より而下なる事頃に於いてをや。我等は寧ろ只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。」 現代語私訳 「自己とは他でもない、絶対無限の妙なる働きの上に乗せられて、運に身を任せ、自然有るが儘に、この現前する境遇に落ちて在るもの、これである。それはただ、絶対無限の上に乗せられているものである。だから、死ぬことや生きることは、憂うほどのことではない。〔更に言えば、〕どうしてこれより以下のことについて憂う必要があるというのか。私たちはむしろ、ひたすら絶対無限が私たちに与えてくれるものを楽しもうではないか。」 ■此処から始まる、自己把握。これを読めない者は、この文章を論うべからず。 ■よくよく言っておく、これは貴方を、彼を、汝を非難するものではない。 ■それから、ただ「背後世界」と対峙する文でもない。Caute! ■そういうことに私は、ホトホト疲れ果てた。これはタダの、Friedrich Schleiermacher批判だ。 ■The Whoの『It's Hard』を聴く。 『Cry if you want』written by Pete Townshend
私は泣かずに淡々と金を振り込む、自分が設定した刻限で。他人のことは関係無い。 金を稼ぎ、飯を喰い、酒を呑み、本を読む。 この歌が大好きだ。 ■赤塚不二夫さん死去。 これでいいのだ。 ■やっぱり、浴びるほど、焼酎を呑んで、おやすみなさい。 2008年 8月1日(金) ■Just Like a Woman. ■午前五時に目が開いた。おはようさん、今日の地球よ。 ■大欠伸を一つ噛ましてから、内観する。ダサダサの予感がするな。 ■珈琲を何杯か淹れ、がぶ飲みした。水分がかなり不足している。 ■自転車に跨って、えっちらおっちらと会社を目指す。既に汗だらけだ。 ■仕事の席に着く。多勢に無勢で、電話応対に追われ捲くる。 ■お昼休み。炎天下をものともせず、えっちらおっちらと御飯を食べに行く。 ■チベット仏教研究者さんと一緒にいつもの定食屋さん。そしていつものおかず。 ■喇嘛のようだと言われた。私は喇嘛なんかやないよ、タダの研究するおっさんや。 ■仕事の席に戻る。矢張り多勢に無勢で、営業部門の仕事に従事する。 ■自分の社内での位置に、或る種の戸惑いを覚えつつも、仕事だけは真面目にする。 ■どうなんのかなぁ、将来的には。 ■厄介な揉め事に巻き込まれて、何処にも居場所がなくなるやも知れぬからな。 ■上役さんや同僚さんたちとワイワイ言いつつ、終業時間を迎える。 ■「お疲れさま」と言い合って、職場を後にする。 ■帰りに、いつものお店に寄って、いつものようにライス・カレーを注文する。 ■新しい月が始まり、また一つの週が終わった疲労感に包まれる。 ■えっちらおっちらと帰宅する。湯を浴び、汗を流す。新陳代謝だけは良さそうだ。 ■さて、久方振りに現前した「背後世界」が、私から心を略奪しようと試みる。 ■羅刹は内に在るだけでなく、他者としてこのように、外に現実のものとして在る。 ■貪愛瞋憎愛欲に狂える心によって、確かに私は羅刹となっていたのだと思った。 ■Bob Dylanの『Blonde on Blonde』を聴く。 『Just Like a Woman』 written by Bob Dylan
「Mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa(我が咎、我が咎、我がいと大いなる咎).」 この歌が大好きだ。 ■浴びるほど、珈琲を飲んで、おやすみなさい。
阿頼耶識 ↓ |