はじめに

 これは羽田沖日航機墜落事故を経験した私の体験談です。極めて特異的な事故でした。最近、当時の記憶がだんだんと薄れています。しかし事件が風化しないよう、記録は残した方がいいと思ってインターネット上に公開することとしました。拙劣な文章ですが、お許し下さい。

    


     

羽田沖日航機墜落事故体験記

    

 1982年2月9日。この日は私にとって生涯忘れられない日となった。予備校生であった私は、東京の大学を受験するため福岡空港午前7時25分発の羽田行き日本航空DC-8機に乗り込んだ。
 恥ずかしながら今回飛行機に乗ったのはこの世に生を受けて2回目であったので、飛行機を予約するときからかなり慎重になっていた。同時刻の東京行きは日航機と全日空機があったが、当時飛行機事故といえば全日空の方が有名であったので迷わず日本航空を選んだ。これがそもそも間違いのもとであった。
 その日朝5時に時計の音で目覚めた私は、予約しておいたタクシーに乗って福岡空港に向かった。車内ではタクシーの運転手さんと受験で東京に行くことなどを話しながら過ごしたが、なんといっても一番の話題はホテルニュージャパンの火災のことであった。実は墜落事故の前日の2月8日には、あの横井社長で有名なホテルニュージャパンの火災があったのである。私はテレビのニュースで炎から逃げまどう宿泊客の姿を息を呑んで見ていたが、それはあくまでもひとごとであって、まさか翌日に自分がこんな事故に巻き込まれるとは思ってもみなかった。
 空港に着いた私は日本航空のカウンターへ向かったが、既に搭乗手続きが始まっていて、数人が並んでいた。まさにこの順番が生死の分かれ目となった。
 私の座席ナンバーは6-A。前から6列目の左端の窓際の席であった。搭乗して機内を見渡すと、ほとんどが背広姿のビジネスマンだった。この便はいわゆる「ビジネス便」と呼ばれていて、東京-福岡間を日帰りで往復する人もいたようだ。離陸は全く平常通りで特に異常は感じられなかったが、一つだけ気になることがあった。それは機長の挨拶がなかったのである。以前飛行機に乗ったときは「私は機長の○○です。現在の羽田空港の天気は快晴。この飛行機は○時○分羽田空港に到着予定です」などといったアナウンスがあったように記憶していたので、「今日はないな」と思いつつ、「無いなら無いでいいのかな・・・」と妙に納得していた。隣に座っていた人はもう何回も飛行機を利用しているのか、慣れた感じで新聞を読みながらくつろいでいたようだ。しかし私はあまり落ちつかず、快晴の青空が広がる窓の外を眺めていた。
 午前8時30分頃には既に高度は下がっていて、関東上空にさしかかっていたと思う。徐々に降下していき、海に浮かぶ船が大きく見えてきた。いよいよ着陸である。少し緊張していたので、何度もベルトの締め具合を確かめたようにおぼえている。更にぐんぐん高度が下がっていき、窓からのぞくと眼下に東京湾、前方に空港が見えた。「おかしい」と思い始めたのはこのときからである。急に離陸する時のような「ゴオーッ」というエンジン音(後で考えると、これが「逆噴射」の音だったようだ)がしたかと思うと、今度は急に機内が静かになった。と同時に機首が急激に下がり、前のめりのような格好になったのである。普通、飛行機の着陸は機首を少し上げて後輪から先に着地するが、この時は丁度ジェットコースターが滑り落ちるような感じだった。私はずっと窓の外を眺めていたので、みるみる海面が接近するのがわかった。乗客のざわざわする音は聞こえたが、着陸寸前の一瞬の出来事だったので悲鳴などを聞いた記憶はない。「危ない!」と思ったが叫ぶ暇もなかった。「ドドーン!」。猛烈な衝撃だった。海水や機体の破片、座席、或いは乗客であったかもしれないが、前から一斉に色々なものが飛んできて私にぶち当たった。私は目の前が真っ暗になり、それからはほとんど気を失ったようだ。
 とにかく「苦しい」という意識だけが残っていた。これがぎりぎりの救出につながったように思う。息ができず力の限りもがくとすぐに顔が海面にでた。どうやら海中に放り出されたらしい。といってもその時は墜落したこと自体を理解できなかった。眼鏡はどこかに飛んでなくなっていたし、顔がむくれて目がなかなか開かない。海水(ヘドロ)をたらふく飲んでいたらしく、まともに呼吸ができず、めいっぱい嘔吐を繰り返した。とにかく近くにあった機体の破片らしきものにしがみついていた。しばらくして徐々に回りが見えてきた。私の左側に機体が着水しており前方に主翼が見えて、回りは機体の破片が散乱していた。不思議なことにこのときまだシートベルトをしていた。座席ごと海の中に飛び出していたのである。もがいてすぐ顔が海面に出たのは、水深が浅かった(浅瀬であった)ことと、座席に浮力があったのか、座席に座ったまま体が浮き上がるような格好になっていたためだった。
 墜落地点は空港まで数百メートルのところであったので、まず進入灯に機体が衝突し、墜落の衝撃をある程度緩和していたようだ。墜落の時私が聞いた衝撃音もこの進入灯に衝突したときの音だったのだろう。もしこれより前の地点で墜落していたら、進入灯という”クッション”もなく、大破して深い海に沈んでいたかもしれない。また、これ以上先で墜落していたら、岸壁か滑走路に激突して爆発炎上していたに違いない。まさに不幸中の幸いだ。
 墜落の衝撃のため、機体は前から4列目と5列目の席の間で真っ二つに折れていた。あとで聞いた話だが、私が救出されたのは右の主翼の後ろだった。どうやら事故機は、はじめ進入灯に衝突した際に、6列目の左端に座っていた私をこの折れたところから機外へ放り出したあと私の上を通過し、私が右の主翼の後ろまで移動した時点で着水したようだった。
 時間が経つにつれて徐々に自分のおかれた状況がわかってきた。墜落したらしい。全身に激痛を感じた。体に力が入らない。その時どこからかふりしぼるような男性の声がした。「たすけてくれ・・・。」声がする方向を見ると、私と少し離れたところに私と同じように2人ほど海に投げ出された人がいて声の主はその中の一人だった。その人は血だるまになって顔をしかめながら機体の破片につかまっていた。もう一人は気絶しているのか絶命しているのか、顔を海面につけたままただ浮いていた。そのとき初めて恐怖感がこみ上げ「自分はこのままでは死ぬなぁ」と思った。2月の厳寒の海であったので海水はとても冷たく、体温が急速に奪われていく感じがした。まもなく悪寒がはじまり、体の震えが止まらなくなった。右手で顔を拭うと、右手が真っ赤に染まった。顔面からかなり出血しているようだ。このとき私の頭の中は、恐怖と絶望感で一杯だった。
 私にとって長い長い時間がながれ(実際は十数分だったらしい)、だんだん手に力が入らなくなってきた。そのとき突然右前方から小舟が現れた。「だいじょうぶかー」小舟にのった男性がこちらに向かって叫んでいる。「ここです!たすけて!」私も大声で叫ぼうとしたが声に力が入らない。しばらくしてその小舟は私の近くに浮かんでいたさきほどの乗客を救助しはじめた。人間なんて哀れなもので、その乗客を救出している最中も、私は早くたすかりたい一心で「ここにもいる!たすけて!」と連呼していた。「大丈夫、いま助けるから待っていなさい。」その乗客の救助が終わると、小舟が私の方に近づいてきた。私の目の前に舟がくるとその男性は私を海中からすくい上げてくれた。「たすかった!」私は地獄から這いあがった安堵感で、涙が出てきた。
 実はこのときこの舟の男性にはろくにお礼もいわず、その名前すら聞いていなかった。その後十数年間、私はことあるごとに「命の恩人の名前すら知らない」という後悔の念に悩むこととなったのである。
 舟に乗った私は空港がある岸まで運ばれ、その後救急車で「高野病院」という都内の病院に搬送され入院となった。全身打撲と数カ所の骨折で中等症との診断だった。私の真後ろ、右後ろ、そして右前の座席の乗客は残念ながらお亡くなりになった。前と右横の乗客も重傷を負っていた。出発の朝、福岡空港に着くのが数分でも早かったら・・・、またはタクシーがあと一つでも信号にひっかかっていたら・・・。おそらくわたしの搭乗手続きの順番はずれて、座席番号が変わっていただろう。運命の分かれ道というのは案外気にもかけないささいなところにあるようだ。
 事故から数年間は自分が乗っている飛行機が落ちる夢を何度もみた。そのたびにうなされ、夜中に汗びっしょりになって目が覚めた。しかし最近はその夢に変化が出てきた。飛行機が落ちる夢はいまだにみるのだが、その飛行機に自分は乗っておらず、落ちていく飛行機を自分は地上で眺めているのである。おそらく少しずつ私の中の事故による精神的なダメージが癒されているのだろうと思う。
 事故から何年たっただろうか。平成6年、テレビ東京の「草野仁のTVアゲイン」という新番組の企画で、羽田沖日航機事故の生存者について取材をしたい旨の連絡が私にあった。この際、私が命の恩人の名前さえ知らないことをお話しすると、ありがたいことに番組のスタッフがこの人を捜してくれたのである。その方はH.Mさんという名前で、羽田に住んでおられた。番組で再会を果たしたのであるが、とても親切であたたかい方だった。命を助けて頂いたうえに、十数年間もお礼すら言わなかった私の不明を責めもせず、「憶えているよ。たすかってよかったね」と声をかけていただき、握手して頂いた。「あぁ、あのときの手だ。」このH.Mさんの手の感触を不思議なことに私の手は憶えていた。海中から助け出して頂いて以来の感触だった。
 H.Mさんは救助隊の方でもなく、一般の市民であったにもかかわらず、真っ先に現場に救助に行かれた方だった。事故直後の現場は油が漏れており、いつ爆発するかわからない状況だった。しかし、他の人がためらう中、H.Mさんは自分の命もかえりみず、浅瀬の危険な海で私たちを救助していただいた。H.Mさんがいなければ私は確実に死んでいただろう。本当にいくら感謝してもしつくせないほどの恩人である。この場をお借りして、改めてお礼を申し上げたいと思う。
 日本航空については事故のことや機長の管理責任について多くの不満が残っているが、事故後の私に対する交渉態度には逆に敬服している。特に私を担当していただいた方(名前は忘れたが、当時岩国支店の支店長をされていたように記憶している)には何度となくご足労頂き、本当に感謝している。品のある方で丁寧に説明していただき、さすが日本航空だなと思った。もし可能であれば、もう一度あってお礼を申し上げたい。
 また、最後になりましたが、事故後たくさんの方からお見舞いと励ましのお言葉・お便りを頂きました。かさねて心からお礼申し上げます。

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