『組で「清め塩の廃止」にとりくむ』
ここ大阪府吹田市を含む地域は、昔の地名は三島郡といいました。それで、ここの浄土真宗本願寺派のお寺は大阪教区島下組を組織しています。お寺は二十八カ寺あります。
一部の寺だけで「清め塩は廃止しましょう」といっても、門徒の方も地域の方も聞いてくれません。だから島下組で統一した運動をしたい、ということで、相談してまいりました。島下組で統一した運動にするためには、十年かかりました。
島下組でいろいろ相談しているうちに、仲間がだんだん増えていきました。ちょうど十年前に組で予算を積み立て、葬儀というものを見直してみようという研究チームを作りました。それで六年前に島下組の基幹運動推進委員会で、『浄土真宗の葬儀のしおり」という冊子を門徒さんと葬儀社にむけて作りました。それとポスターを作りました。そのポスターは「浄土真宗のお葬式に清め塩がないのは、寺側からのお願いです」という内容で、あちこちの葬儀式場に張っています。清め塩がないことで、葬儀社や遺族の方に苦情がいかないように、私たちが責任をもってすすめています、と明らかにしたわけです。
『新しい街の寺院として』
吹田市の中でもここ千里は、新しい街です。千里寺も私の祖父が住職を始め、私は三代目の住職です。だから最初は、門徒さんがゼロで、信徒さんだけでした。
門徒、信徒について簡単に説明しましょう。正確にいうと檀家というものは、もうないんです。一九七一年一明治四年一、宗門改制度は廃止され、同時に国の法規にもとづいた檀家制度は一応なくなりました。
今の本願寺の規則では、檀家といわず門徒といいます。
信徒といういい方もします。たとえば千里寺の門徒とは、お葬式とか法事とかの仏事を千里寺がさせていただいているお宅です。千里寺の信徒とは、もともとのお寺は他にあるけれど、大阪に出てきたので毎月遠くから住職を呼ぶことはできないから、ふだんのお参りをしてください、しかし私は他のお寺の門徒ですという方のことです。
現在は、信徒の方のお葬儀もお世話します。また以前のように、門徒の名簿を作って、あんたがここに入るならば、向こうの寺の名簿から名前をぬきなさい、とかいうような厳しい区分けはだんだんなくなっています。なんとなく向こうの縁はなくなるし……ということでしょう。
千里は阪神地域のベッドタウンとして、人口がまだまだ増えている地域です。今では、マンションの街になっています。マンションが建つと、ものすごい勢いで人口が増えます。すぐに小学校が一校建ってしまうぐらいなんです。
ここに引っ越してこられた方がたは、電話帳から自分の宗旨のお寺を探して電話をして門徒になる場合と、お葬式からスタートして縁ができて門徒になる場合が多いんです。
そのなかでも、お葬式をきっかけにして、という方が圧倒的に多いんです。
『葬儀にともなう経済関係』
先ほど島下紅で「清め塩の廃止を統一意見にするには、十年かかった」ということをお話ししました。なぜ、それだけ時間がかかったのかというと、いくつかの理由があります。
一つは、寺側の事情です。お葬式のお布施などは、寺の維持・管理など経済的に必要不可欠なものなんです。だから、門徒や信徒が減るような波風のたつようなことはしたくないという気持ちがあったからだと思います。それは、二つ目の理由にも関係しますが、経済的なことは、やはり寺の存続にかかわることなんです。
二つ目は、葬儀社との関係があります。変な話ですが、お寺の住職が葬儀社のきげんをとらなければいけないような状況があるんです。今は八割以上の方が、病院でしか死ねない時代です。病院でだれかが亡くなると、まず看護婦さんが家族の方に「早くご遺体を引き取ってください」とプレッシャーをかけます。家族はおろおろしはじめます。
すると「人間のご遺体は特別な車でしか運べません。これは葬儀社がもっていますから、とにかく葬儀社をどこか頼まれますか?」などとたずねられます。家族はいろいろ考えて気が気ではありません。だから病院側の申し出に、「お願いします」と言ってしまう。そこからが問題なんです。
病院へくる葬儀社は、病院と契約している場合もあれば、いくつかの葬儀社を入れている病院もあります。そこから葬儀社が主導権を持ちます。
ほんとうは、ご遺体を家に運んだ段階で、いったん断ることができるわけです。しかし葬儀社は、そんな気のいいことをしていたら商売になりませんから、ご遺体を運ぶ車の中から、葬儀の段取りの話をどんどん始めるんです。すべてが決まった最後に、葬儀社は「お寺さんは、どうなさいますか?」とたずねます。お寺とおつきあいのない方が多いので、「おつきあいがないんですが……」などと、おっしゃいます。「ご宗旨はなんですか?
浄土真宗ですか。
それでは千里寺さんといういいお寺を知っていますから、紹介してあげましょう」となります。それでお寺が決まってしまいます。この場合、いちばん強い立場にあるのは、葬儀社の、お寺の指名権を持っている先端社員なんです。
だから、葬儀社にお葬式についてきついことをバンバン言うような住職の寺は紹介してやらない、ということになります。逆にいえば、葬儀社にいつも付け届けをしているお寺もあります。または、お葬式を紹介してくださったら、お葬式のお布施は高額で、たとえば十万円、二十万円というふうな額ですから、そこから五万円を紹介してくれた葬儀社の担当の方にあげましょう、ということをしている寺もあります。
こういう問題が、葬儀社と寺との関係にあります。門徒さんは、そういうやりとりがあることを知らないんです。
『お葬式にともなう「けがれ」意識とは?』
吹田市の浄土真宗のご門徒のお葬式でも、こちらが何も言わないと、会葬のお礼の中に「清め塩」を入れますね。
それと、斎場から帰ってきたら、お家の玄関に塩を葬儀社がサービスでまいてます。その塩を踏むことによって、斎場まで行った「けがれ」が落ちるといいます。
以前に何度か、とても貴重な経験をしました。近畿地方の昔ながらの村の共同体が残っている地域から、お葬式に招かれたときのことです。
お葬式は、お墓の横にちょっとしたお飾りをし、短時間でお勤めをして、終わります。土葬でも火葬でも、お墓から帰るときは、履いていた草鮭をそこに捨てて、裸足で帰るんです。足跡がつかないように、という意味のようです。
帰り道は、行った道とはちがう道を通って帰ります。あるいはお墓でお棺を、ぐるぐる回すんです。死者が目をまわして帰ってこないように、という意味でするそうです。それらは、すべて亡くなった人を、けがれているとみなしているように思えました。とにかく「行ってしまえ、帰ってくるな」というようなものです。死者をおそれ、「けがれ」とみなす儀式は、仏教の教えの中にはないのに、風習としてきちっと入ってきているということを実感しました。理由などいちいち言わないで「こうするものだ」と言って、そういう風習が伝わってきているんです。そこには、「なぜ、そういうことをしなければいけないのですか?」とたずねることさえ「悪いこと」とする村意識の一面があります。
ふりかえって考えてみると、そういう意識は、新興住宅街のここらへんにもあります。ただ、斎場が公営になり、葬儀社が取り仕切るようになっていますから、はっきりと見えないだけなんです。
私が清め塩を廃止したというと、京都の本願寺に匿名で電話をして、文句をいうわけです。「吹田市の千里寺の住職は、清め塩を廃止すると言っているが、本願寺はどんな教育をしているのか。そんなことはするなと、千里寺に言っておけ」という電話があったという話が残っています。
それほど抵抗が強いんでしょうね。
直接、本人に言いたいことは言わないで、隣のお寺の住職に「うちの住職は清め塩の廃止を言っているんです。困りますから、なんとか言ってください」と言った門徒の方がいました。私がうれしかったのは、隣の住職は「いや、そちらの住職が正しい。わしは思っていても気が弱いから、言えないだけだ」と言ってくれた。あれは、うれしかった。
私は清め塩はいけないという理由は、何度も何度も説明しています。その説明をされると、言い返す根拠はないわけです。仏教は清め塩を使ってしかるべきだという根拠をもっておられたら、正面から「住職の意見はおかしいですよ」といらっしゃるでしょう。たいがいの場合、理屈では納得するんですが、気持ちが納得しないんです。だから私以外の人たちに、話すんでしょう。人間って、理論で納得しても気持ちが納得しないといけないんだなと、清め塩に関するやりとりで実感しました。
『塩、電報読み上げ、焼香順アナウンスを廃止』
お葬儀で「電報を読まない」「焼香順のアナウンスをしない」「清めの塩を使わない」ということを始めて、今年で六年ぐらいになります。
それまで、会社の合同葬儀の裏で、銀行の秘書の方たちがどちらの電報を先に読むかでなぐりあいのケンカをしている場面にあいました。個人の方のお葬式でも、親戚中で一番うるさいおじさんの焼香順位をまちがえたので、きげんをそこねて他の親戚も連れて帰ってしまったということも聞きました。
そういうことがあって、私はお葬式ってなんやろな、と考えたんです。悲しみをともにする、浄土に生まれたことを確かめるという意味もあるでしょう。そういうことは、どこかへいってしまって、電報を読む順番、お焼香の順番で何でもめやなあかんねん、と。
以前は、お経が始まったら葬式の始まりで、お経が終わったら葬式の終わりでした。ところがいつのころからか、白い手袋で司会をする人がでてきて、電報を読んで焼香順をアナウンスしはじめたんです。それなら、やめてやろうという決心をしたんです。
それで、清め塩もない、焼香順のアナウンスもない、電報の読み上げもない、千里寺としての葬儀進行の方法を考え実施しています。最初は大混乱でしたよ。
そうは言っても、私は現代社会にとって葬儀社は必要な事業だと思っていますし、葬儀社の利益妨害をするつもりはありません。ただ葬儀社に、協力してもらおうと考えています。私は少しでも内容のある葬儀にしたいと考えているんです。
門徒さんに対しても、「清め塩は絶対使わない」ということだけは、ゆずれません。「電報を読まない」と「焼香順のアナウンスをしない」とは、折れる場合があります。
以前、中央市場で商売をしている方で、焼香順のアナウンスをちゃんとしないと、自分は明日から市場で商売ができないと泣いておっしゃる方がいらっしゃいました。そういう方には、お店をつぶすわけにはいきませんから、妥協します。しかし、清め塩だけはいけません。
三件ほどですが、残念でしたが、「清め塩がないという変なお葬式をするお寺は聞いたことがない。他のお寺に頼みますわ」と言われました。しかし、二十八カ寺は清め塩を使わないという約束をしていますから、それらのお葬式は、島下組のどのお寺でも引き受けませんでした。だから宗旨のちがうお寺がこられたそうです。たぶん葬儀が信仰の行事ではなく、社会儀礼になってしまっているんです。
『清め塩の問題と部落差別』
最近、部落差別と清め塩の問題には共通点があるな、と思います。塩をまくのは根拠がない、けどみんなが今までしてきたから、するんだという意識です。これは、人権教育・「同和」教育は小学校から受けているし、啓発も進んでいるし、部落差別はおかしいということはわかっているけれど、自分の息子の結婚のときは相手が被差別部落の出身かどうかの身元調査をします、という意識と同じだと思ったんです。
今は、おかしいと思うことは、部落差別や六曜についても、言っていくことが大事だと思っています。
今回はお話しできませんでしたが、葬儀との関係では法名の問題があります。これは浄土真宗本願寺派全体が内包してきた差別体質と深く関係しています。この法名について問題提起をした『ブックレット基幹運動No4
法名・過去帳」(基幹運動本部事務局編集 本願寺出版社発行)を、今年七月に発行しました。基幹運動推進のために一定の方向を打ち出したブックレットです。ぜひお読みください。
【たけだ・たつじょう 五年前から淨上真宗本願手派基幹運動本部で仕事をしている。「清め塩の廃止は、迷信だからという理由で始めたんです。今では、部落差別も六曜も、おかしいことはおかしいと言っていくことが大事だと思います」】