【125】 紫禁城の黄昏 考察   (紫禁城の黄昏 上巻下巻
     (RFジョンストン、(訳)中山 理、祥伝社)       2007.12.27 完成


「紫禁城の黄昏」は、要点として、


@ 満州は清王室の父祖の地であって、清皇帝の溥儀が満州に帰って満州国を建てたのは、シナ政府(辛亥革命によって誕生した国民党政府(中華民国政府)や、のちに成立した中華人民共和国)の主権の及ぶところではないということ。


A リットン調査団が、「満州では1931年(満州事変)以前、独立しようという動きはなかった」とする報告書を出したのは間違いであるということ。


B 紫禁城を追われた溥儀が、日本公使館に逃げ込み、後年、満州国皇帝の座に就いたのは、彼自身の意志によるものであること。(溥儀は、東京裁判で「日本の軍部に強要された」と証言している)

…などの諸点を明らかにしています。 


 この「紫禁城の黄昏」は、渡部昇一上智大教授が指摘されているように、この内容が公になれば東京裁判の成立根拠(訴因)がなくなるとして、証拠申請がなされながら採用されなかった書籍です。 英国人のジョンストン氏が、現場に居合わせたものとして、上の@ABの諸点などを明記していることは、歴史を検証するための大きな根拠であろうと思います。


僕が知りたかった


(1) 「南下するソ連の脅威の防波堤として、満州族が父祖の地に建国した「満州帝国」を後押ししたのは、中国への主権侵害であったのかどうか」については、上の@・Aのように、
 … 秦の始皇帝の時代から明の時代にいたるまで、万里の長城よりも北の城外の地でした。満州は満州族である清王室の父祖の地であって、清朝の成立によって 満州は清の一部となったのです。だから、清皇帝の溥儀が満州に帰って満州国を建てるのを日本が後押ししても、中国の主権侵害にはなりません。そもそも、満州の地は、シナ政府(辛亥革命によって誕生した国民党政府(中華民国政府)や、のちに成立した中華人民共和国)の主権の及ぶところではないのです。


(2) 「辛亥革命によって清朝が倒され、ラストエンペラー溥儀が馮玉祥の反乱軍に紫禁城を追われたとき、日本公使館が彼をかくまい、8年後、満州皇帝に擁立したのは、当時の国民政府が宣伝し、東京裁判がそのように断罪し、戦後の日本がそうであると信じ込んでいるように、日本が彼の身を拉致して日本公使館へ置き、嫌がる彼を、満州族の人々の意に反して行ったことなのかどうか」については、上のBのように、
 … ジョンストン氏は、紫禁城を追われた溥儀が、日本公使館に逃げ込んだのは、溥儀側の要請(ジョンストン氏自身が交渉に当たっています)を日本公使が受け入れたのであること明記しています。
 また後年、満州国皇帝の座に就いたのは、(南次郎陸相へ満州国皇帝に即くことを請う文書が残ってもいるが、)彼自身の意志によるものであることを、「皇帝溥儀は、シナの政府への忠誠をことごとく拒み、シナの宗主権の要求もすべて拒絶することを全世界に知らしめるために、帝号と身分を継承し、「大満州国」(満州民族の国)の皇帝となったのである」と記し(溥儀は、東京裁判で「日本の軍部に強要された」と証言している)、彼を迎える満州の人々の様子を「北へ向かう皇帝の列車はあちこちで停車し、地方官吏や人々が君主のもとへ敬意を表しに集まった」と綴っています。


 以上のように、日本の昭和史に対する、僕の疑問のひとつは解決しました。もちろん、そのほかにもたくさんの事実(この頃の満州は事実上ロシアの支配下にあったこと、シナの民衆は南京政府を全く信用していなかったこと、シナの軍隊は盗賊のようなものであったこと…など)が記されていますが、それらは皆さんそれぞれに読み取っていただくこととしたいと思います。


 敗戦から東京裁判を経て、中華人民共和国の市民となった溥儀が、さまざまな反日宣伝に使われ、大きな役割を果たしたことは、入江曜子氏の「溥儀」(岩波新書)に綴られていますが、その内容につきましては、別に記すことにします。


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