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2008年08月11日

まともな市民であれば誰も戦争など望まない


 まともな市民であれば誰も戦争など望まない

  10日のブログで私は書いた。

  胡錦涛に政治的器量があるのなら、世界が注目している北京五輪の場で、グルジアの即時停戦がなされるまですべての競技を中止しようと、呼びかけてみたらどうか、と。

  およそすべての戦争は指導者の政治的思惑なら引き起こされる。まともな市民なら戦争に賛成する者はいるはずがない、と。

  そのf二つを見事に世界に訴えたアスリートがいた。

  女子射撃エアピストルで銀メダルをとったロシアのナタリア・パデリナ(32)と銅メダルをとったグルジアのニーノ・サルクワゼ(39)だ。

  戦闘が激化している国同士の選手が表彰式の後、互いに歩み寄って抱き合った。そして報道陣の前でこう言ったという。

 「何事も私たちの友情は壊せない」

 「戦争を起こすのも止めるのも政治家。話し合って欲しい」、と。

 さらに記者から「彼らはあなたたちに学ぶべきだ」と声をかけられると

 「それができていれば戦争は起きない」と答えたという。

 同じ11日の新聞で、グルジアのサーカシビリ大統領は、政権基盤を強化するために攻撃をしかけた、欧米諸国の支持を期待し、また軍事力で圧倒的に有利なロシアが独立派支援のために軍事介入すればロシアへの国際非難が高まるだろうと計算して電撃攻撃したが、いずれも思惑が外れた、という記事があった(読売)。

 その一方でブッシュ大統領は、父や娘を引き連れて中国滞在を楽しみ、スポーツ観戦に興じ、その合い間に即時停戦と和解をよびかけたりしている。

 世界の反対を押し切ってイラク攻撃を始めた男が、そんなことを言っても説得力はない。

 プーチンはプーチンで、犠牲者が出ようとも軍事介入を止める気配はない。

  まさしく戦争は愚かな指導者によって引き起こされるのだ。

  誰も彼らの大量殺戮を罰せられないところに世の中の不条理がある。

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2008年08月11日

ギョーザ問題の正しい解決はありえない


 ギョーザ問題の正しい解決はありえない

 ギョーザ問題に関する中国側の通報を国民に隠蔽していた事が読売新聞のスクープで明らかになった。

 私は8日のブログで、その事に触れ、隠蔽批判は事実関係の判明をまって行なうべきだ、それより重要な事は、真相究明と責任者の処罰について、日中両政府が協力してそれを行なうべきだ、その事を福田首相は胡錦涛主席に毅然として申し入れることだ、と書いた。

 どうやらそのような期待は見事に裏切られる事になりそうだ。

 見ているがいい。政府、外務省は自らの仕事振りを国民にアピールするアリバイ外交に終始し、中国政府に対する申し入れなどは望むべくもなさそうだ。

 私がそう確信するのは11日の毎日新聞は「読む政治」という特集記事を読んだからだ。

 この毎日新聞の特集記事は、中国側からの通報を日本政府が一ヶ月も隠蔽していた事件の真相を見事に探り当てている。ジャーナリズム魂を感じさせる秀逸な特集記事である。

 その内容が事実であるという保証はもちろんない。

 しかしかつての同僚の顔を思い浮かべながらその記事を読んだ私には、そこに書かれている事は限りなく真実に近いと思うのだ。

 いずれ公表される外務省発の説明は、例によってたくみに嘘がちりばめられている。

 そんな説明よりも、この毎日新聞の記事のほうがはるかに真実に迫っていると思う。

 それを読むと、まず、福田首相が如何に情報不足であったかがわかる。

 そしてそれにもかかわらず、外務官僚を怒鳴りつけるでもなく、胡錦涛主席との首脳会談でも外務官僚の振り付けどおりにしか動かなかったかがわかる。

 せの責任者は高村外相である。これは私の体験から言える事なのだが、高村正彦という政治家は、実に外務省に忠実な政治家なのである。外務官僚の代弁者のような政治家なのであある。さぞかし外務官僚は高村外相の留任を喜んだに違いない。

 毎日新聞の特集記事の中の注目点をさらにいくつかピックアップしてみたい。

 福田首相が中国側からの通報があったことを初めて知ったのは、ザ・ウインザーホテル洞爺での胡錦涛主席との会談30分前に行なわれた、外務官僚らとの打ち合わせだったという。

 一週間も前に中国外交部から外務省に「正式な外交ルート」で知らされていたにもかかわらずである。

  注目すべきは中国側の通報の内容である。

 それは、中国でも発生していた被害者は4人、発生時期や場所まで特定した具体的な内容であったという。毒物混入も中国内で行なわれたことがほぼ確実となる重要な捜査情報だったという。

 中国が国内の捜査情報を他国に知らせるのは異例である。しかも中国側は一旦は混入場所を日本だと主張していた。メンツまるつぶれである。

 それにもかかわらず日本に通報したのは、福田首相との信頼関係を重視する胡主席のトップ決断だったという。

 その政治決断を、外務官僚が直ちに福田首相に通報することなく握りつぶしていたのだ。

 驚くべきは公表に対する外務省の対応振りである。

 「外交ルートで来た情報なので表には出せない」、「捜査中の中国の意向を尊重するのは当然」(外務省幹部)などとと勝手に決め込んで、官邸と警察庁にしか知らせなかった。

 しかも隠蔽に走った。

 外務省はさぞかし新聞スクープにあわてたに違いない。

 それでも、6日午後5時の記者会見で、町村官房長官に「コメントはしない」と言わせて隠蔽を続けようとした。

 ところが中国側は異例の速さで日本の報道機関に事実関係を認めていた。

 あわてた外務省は中国側に「問い合わせに答えていいのか」と確認し、中国側の返答をまって公表した。

 しかも総理の代弁者である町村官房長官が外務省の振り付けどおり「コメントできない」とバカ正直にしゃべらされている、その時に、外務省の木っ端役人(報道官)が記者会見で、手のひらを返して公表していたのである。

 こりゃあダメだ。

 日本外交は救いようがない。

 そんな外務官僚の言いなりになっている政治家はもっと救いがたい

 

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2008年08月10日

調査報道に私財を提供する人たちがいる米国の偉大さ

 調査報道に私財を提供する人たちがいる米国の偉大さ

  皆さんはリクルート事件を覚えているだろうか。

  1988年に発覚した戦後最大級の一大疑獄事件である。

  値上がり確実のリクルートコスモス社の未公開株が、江副浩正会長から政・官・財・メディアなどにばら撒かれ、この国の支配階級がその地位を利用して錬金術に奔走していたという醜態が白日の下に晒された事件である。

  その後日本の政治は大きく変わることになる。

  この事件が発覚したきっかけは、朝日新聞横浜支局社会部の調査報道であった。

 一新聞の調査報道がここまで世の中に影響を与えたのである。

 しかし、その後なぜか良質の調査報道は見られなくなった。

 今日では大手新聞は政府の広報役を担っているかのごとくである。

 そんな日本の報道の現状に衝撃を与えるような記事を見つけた。

 8月5日の朝日新聞の特集記事がそれである。

 その記事は、最近米国で、調査報道に取り組む非営利組織が次々と立ち上がり、新たな調査報道の担い手として目立つ成果を挙げ始めた事を紹介している。

 たとえばその一つとして昨年10月にニューヨークで旗揚げした非営利の報道機関「プロパブリカ」というのがある。

 カリフォルニアの資産家夫妻が向こう3年間にわたり、年千万ドル(約10億円あまり)を寄付してできた組織であるという。

 「市民への裏切り、権力濫用、弱者からの搾取に焦点をあて、独自報道に取り組む」事が目的であるという。

 予想をはるかに上回る1200人もの求職者が殺到。中には、ピューリッツアー賞を受賞した報道にかかわった記者や編集者もいるという。

 主筆はウォールストリート・ジャーナルの編集長を16年間つとめたポール・スタイガー氏だ。

 そのスタイガー氏は語る。

 「ネット時代になって『意見』の情報源は豊かになったが『事実』の情報源が縮小している・・・」と。

 その通りだ。

 ネットの世界では、このブログを含め、意見や評論は山ほどある。

 しかし百の意見より一つの事実の発見こそ、重要なのである。

 05年にスタートしたカリフォルニア州の「サンディエゴの声」もそんな調査報道の非営利組織だ。

 その「サンディエゴの声」がサンディエゴ市警察本部長の答弁の嘘を暴いた。

 本部長が議会発表した犯罪統計では治安がよくなったように見えたが、実際は逆だった。

 記者は情報公開制度を使って直接にナマの犯罪発生統計を入手し、答弁の嘘を証明したという。

 米国が羨ましい。

 調査報道の重要性を認識し、それを行なう者達に私財を惜しみなく寄付する篤志家があらわれる国。

 「地を這ってでも調査報道を発信する」と言って、優秀な記者がどんどんと集まってくる国。

 「新聞社が縮小し始め、調査報道が減る中、ジャーナリズムが公の仕事であることに、オペラやホームレスにお金を寄付してきた人たちが気づき始めた。私たちは、新しい調査報道をつくることができる」

 そう断言する30歳の編集者の声がまぶしい。

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2008年08月10日

戦争に対してあまりにも無力な国際社会


 戦争に対してあまりにも無力な国際社会

  世界の首脳が平和の祭典を祝っている時にグルジアで紛れもない戦争がはじまった。

  それにもかかわらず誰もそれを止められない。

 世界を動かすブッシュもプーチンも、平和の祭典を主催する胡錦涛も、無力である。

 国連安保理は停戦決議すら成立させる事が出来ず、事務総長の姿はまったく見えない。

 この事は、21世紀の今日においても、国際社会は戦争を回避することができないという現実を我々に突きつけた。

 事態は極めて深刻である。

 しかし、だから平和主義は無力だ、軍事力は必要だ、憲法9条は改めるべきだ、と考えるのは、大きな間違いである。

  軍事力を持つからこそ戦争が起こるのだ。紛争を平和的に解決しようとせず安易に軍事力に訴える事になるのだ。

  軍事力に訴えるから相手に負けない軍事力を持とうとする。その結果米国、ロシアの軍事的対立の構図が冷戦後も変わることなく続き、いまやそれに中国が急速に仲間入りをしつつある。

  あらゆる戦争は彼らの代理戦争になっていく。 

 日本が軍事力を少しばかり強化してみたところでどうにもならないのだ。

 日本の憲法9条の先駆性は、いまこそ、その正統性を持つ。

 今度の戦争は民族紛争、国家分離紛争が原因であると言われている。それはその通りだろう。

  しかし、民族紛争、国家紛争のすべてが、そのまま戦争に繋がる事は決してない。それどころか戦争に繋がらない紛争のほうが圧倒的に多い。

  およそあらゆる戦争は、指導者の政治的思惑で起こされるものなのである。

  今度の戦争も、親米化を急ぐグルジアのサーカシビリ大統領と、それを許さないロシアのメドベージェフ大統領(プーチン首相)の政治的思惑で引き起こされたものである。

  そしてその遠因は、冷戦後もなおロシアを包囲しようとする米国の敵対政策がある。

 東京新聞をのぞく今日のすべての各紙はこの問題を取り上げている。こぞって関係者すべて自制を求めている。

 しかし真っ先に和平に向けて動かなければならないのは米国とロシアの指導者だ。

 もし中国の胡錦涛主席が、「グルジアの戦争が停止されない間は五輪のあらゆる競技を停止する」、と呼びかけたらどうだろう。

 間違いなく世界はそれを歓迎する。戦争は停戦となる。

 残念ながらそこまでの器量は中国にはいまだ持ち得ない。

 どうしたら世界から戦争をなくすことが出来るか。

 それはわからない。

 しかし一つのヒントはある。

 世界の多くの国に勤務してきて確信するのは、戦争に賛成する一般市民などいるはずはない、ということだ。

 指導者が政治的に正しく振る舞い、決して紛争を戦争にさせない、という決意があれば、戦争は起こらないのだ。

 そのような指導者を一般国民が選べるような政治体制の国が一つでも増えれば、戦争の可能性は少なくなる。

 世界の国民が手を繋ぐことだ。手を繋いで戦争を始める指導者を選ばない事だ。

 その中心に日本の憲法9条の精神がある。

 日本の政治指導者の中から、憲法9条を世界に広めようと本気で行動する人物が生まれてこない事が残念でならない。

 

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2008年08月09日

小泉新党が動き出すという、冗談のようで、冗談ではないかも知れない話


 小泉新党が動き出すという、冗談のようで、冗談ではないかもしれない話

  どうせたいした話を書いているわけではないのだから格好をつけるわけではないが、政局を書くのは気が進まない。

  なぜか政局の事を書くと文章が卑しくなっていく気がする。書いている自分が嫌になる。

  そう言いながら書きたくなる。所詮は根性が卑しいのだ。

  わが愛読紙の8月9日の日刊ゲンダイに小泉新党が動き出すという記事があった。

  福田自民党に切り捨てられ、出番のなくなった小池百合子や中川秀直などが、このままでは腹の虫がおさまらない、というのだ。その気持ちはわかる。

  自民党総裁選に小池百合子を押し立てて頑張る。それでだめなら自民党を離れて新党で次回選挙を戦う、という。

  私は福田首相が内閣改造を行なった8月1日のブログで、小泉政治が終焉した、だからこのブログも役割も終わった、と書いた。

  それの思いは今でも変わらない。今更小泉改革でもないだろう。

  これからの政局は、不況と生活苦を前にして怒る国民をどうなだめるか、という事を中心に回っていく。

 自民党と民主党のどちの政策が国民にアピールするか、それを競い合う選挙になる。

  小泉元首相は政策を語る能力はない。彼が無責任な事を好き放題語れたのも、首相と言う権力を握っていたからだ。その権力をためらいなく振りかざしたからだ。

  権力を手放した無能な政局の政治家と、やはり政局をあやつって生き延びてきた小池百合子や中川秀直などが、そしてそれに武部や竹中が集まってきても、もはやまともな国民は相手にしないと思う。

  しかし、それは常識的な考えだ。

  政治には常識は通用しない。今の国民は常識では考えられない反応を示す。

  私は小泉新党は次の理由で、ひょっとしたら動き出すのではないか、と実は思っている。

  一つにはこのままでは自民党は終わりになる可能性が高いという事である。

  仮に自民党が残ったとしても、もはや自民党の中で小泉一派は中心的勢力にはなりえない。

  そうだとしたら、このまま自民党に残る意味はないのだ。

  ついこの間までマスコミに追われて有頂天になっていた誇りもある。

  二つには、前の選挙で生まれた大量の小泉チルドレンが黙って落選するより動き出したいと思うだろうからだ。
  彼らの大多数は間違って当選した連中だ。しかし彼らは政治家になった。政治家の甘みを味わった連中はつまらない奴ほど執着心が強い。現職の政治家の強みを活かしてなりふりかまわない行動に出てもおかしくない。失うものは何もない。

  三つ目に、そしてこれが重要なところであるが、小泉元首相がその気になって小池百合子や武部や中川や竹中平蔵と組めば、そして杉村大蔵や佐藤ゆかりやなんかを寄せ集めれば、メディアはさわぐ。政策なんか関係ないのだ。面白ければいいのだ。

  ここまで日本がめちゃくちゃになっているというのに、しかもそれがことごとく小泉偽改革によってもたらされたものであるというのに、そんな動きについていく国民がいるのか、と思うかもしれない。

 しかしそれがありうるのだ。

 国民はバカばかりだ、と言ってしまってはおしまいだが、言ってしまう。

 日本国民はそこまでダメになってしまったと私は思っている。

 さすがにかつてのような数の当選者は望めないかもしれない。

 しかし、社民党や国民新党などをはるかに上回る当選者をだすに違いない。

 あるいは自民、民主についで第三の勢力になるかもしれない。

 問題は、小泉元首相がそのような新党の先頭に立って次回選挙を戦うか、である。

 私はそれはないと思う。

 しかし私の政局判断はよく外れる。

 よく考えてみたら、小泉元首相には恥ずかしいなどという言葉は存在しないのかもしれない。

 再び権力に囲まれて有頂天になりたいのかもしれない。
   
 小泉新党こそ小泉氏の真骨頂かもしれない。

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2008年08月09日

乗り越えられない戦後

 乗り越えられない戦後

 8月9日の東京新聞に次のような言葉を見つけた

 ・・・毎年八月になると実感する。日本の戦後は終わることなく、歳月だけが過ぎていく。広島、長崎の原爆はもちろん、憲法9条、日米安保、そして靖国問題などなど、私たちは、戦後を乗り越えていないのだ・・・昭和の戦争が歴史的に決着をつけられないまま、延々と戦後が続く現状がある・・・

 これは政治学者や歴史家の言葉ではない。「アートで表現するYASUKUNI展」を評する美術評論家の藤田一人という人の言葉だ。

 その展覧会のどこを見てそのような感想を藤田氏が感じたかは私にはわからない。

 しかし、私はまったく別の出来事から、藤田氏と同じ感慨を抱かざるを得なかった。

 それは民主党「核軍縮促進議員連盟」会長の岡田克也副代表が、8日長崎市で記者会見し、日本の非核三原則を韓国、北朝鮮に広め、北東アジアに非核地帯を設ける事を目指す「非核兵器地帯条約案」を発表したという記事を見つけたからだ。

 これは、米国による核の傘に依存した日本の戦後の安全保障体制を「やむをえない」とする自民党との違いを際立たせる狙いであるという。

 しかし、それは大きな勘違いだ。そうでなければ日米安保体制を否定できない民主党の、意図的な平和外交ジェスチャーでしかない。

 そもそも韓国、日本、北朝鮮の三者だけの非核など北朝鮮はおろか韓国さえも賛同するはずはない。
 
 核兵器廃絶は米国抜きでは無意味なのだ。

 米国との関係がよければ他のどの国との関係がよくても意味がない。米国との関係が悪ければ他のどの国との関係がよくてもダメだ、という歴史的な迷い言を国会で堂々と語ったのは、あの小泉元首相であった。

 これが、滑稽なまでに間違いである事は言うに及ばないが、こと核兵器に関してはそれは正しい。

 米国が参加しない核兵器廃絶は意味がなく、米国が率先して提唱する核兵器廃絶は、それを拒絶する国はない、のである。

 東アジアの非核は中国の非核なしには意味がなく、中国の非核は米国が率先してこれを提唱して初めて現実的なものとなるのだ。

 目指すべきは米国の核兵器廃絶なのだ。それなくして戦後を乗り切ることはできない。

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2008年08月09日

ワーキングプアの悲惨さと小泉偽改革の罪


 ワーキングプアの悲惨さと小泉偽改革の罪

  小泉偽改革によって格差社会が加速し、ワーキングプアが急速に増えた。

  もはやその事を正面から否定できるものはいない。

  しかし、ワーキングプアの悲惨さの本質と、それをもたらした小泉新自由主義の真の罪について、ここまで単純、明確に指摘した文章はない。

 8月9日の日経新聞経済コラム「大機小機」は言う。

  ・・・経済的な「欲」ばかりに焦点を当てた政策は、人間の生きがいだけではなく、社会の活力や安全まで奪うおそれがある・・・ワーキング・プアの悲惨さには、低賃金(だけにあるのではない。それ)に加え、強いられる仕事のひどさも影響している。生きがいか、収入か、の選択ではなく、楽しみも誇りも感じられない労働と、その代償として支給される(ものが)最低限の賃金しかないでしかない(という二重の意味の絶望である)ということだ・・・

 その通りであると私も思う。

 そのコラムは更に次のように続ける

  ・・・聖域なき改革を大義にした社会保障の削減によって、保護の網の目からこぼれ落ちた母(父)子世帯や高齢単身者にも言える。経済的な貧しさに加え、人間的きずなの維持も困難になり、社会的な関係の中で何とか生きてきた人間が、(今)激しい孤立感に苦しんでいるのだ・・・

 そして小泉偽改革の罪を次のように喝破してみせる、

 ・・・もし、痛みを伴った小泉純一郎元首相の改革の効果が、(その改革の成果ではなく)、景気の循環的回復の結果に過ぎず、国民生活の改善よりも犠牲の方が大きかったとするなら、改革は国民に対する裏切りだったと言える・・・人間ではなく経済合理人を前提にした小泉改革には、社会が求める安心と安定への配慮が欠けていた・・・


 この的確な記事を、匿名でしかかけないところに、大手新聞の限界を見る。

 

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2008年08月09日

中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪後の中国の対応を見てからだ

中国ギョーザ問題で福田政権の責任を問うのは五輪後の中国の対応を見てからだ

  今から思えば、6日の読売新聞の中国ギョーザ問題に関するスクープは近年まれに見る大ヒットであったことになる。

  中国ギョーザ問題は、正しい日中関係を構築できるかどうかの試金石になりつつある。

  民主党が、中国政府からの通報を遅らせた事を批判する談話を発表したという。

  それより少し前には、不公表にした経緯を国民の前に明らかにすべきと、国会での追及姿勢を明らかにした。

  国会での真相追及は徹底して行なってもらいたい。そうすべきである。

  しかし、不公表とした事を、今の時点で直ちに「情報隠蔽である」と声高に糾弾する事は、政局に絡めた性急かつ軽率な対応である。

  その事を今日のブログで書く。

  8日福田首相は北京での胡錦涛主席との首脳会談で、ギョーザ事件の徹底究明と情報公開を求めたという。

  これに対して胡錦涛主席は、できるだけ早く解決する、全力をあげる、と約束したと言う。

  この約束の実行こそ五輪後の日中関係の最大の課題である。

  その成り行きを最後まで徹底して監視し、その結果を俟って日中双方の政府の責任に迫る、これこそが正しい対応なのである。

  情報公開でもっとも注目されるべきは、サミット前の中国側の通報が、どのタイミングでどのように通告されたのか、それに対し日本政府は、どのレベルの判断で、どのように応答したのか、それが正確に公表される事である。

  もし中国側が単に公表を差し控えて欲しいと言って来ただけであったなら、そして、それに対し日本政府が何も注文をつけずに、中国側が嫌がる事をする必要はないと考えて不公表にしていたとすれば、外務省と福田首相はいくら批判されても批判され過ぎる事はない。

  もし中国側が、約束した五輪後の公表において、それでも中国側の非を認めないようであれば、胡錦涛主席の中国は厳しく非難されるべきである。

 そして、真相がどちらにあるかは五輪後の日中双方の対応を見れば直ぐわかる。

 8月9日の日経新聞は日本政府高官が「五輪が終われば、中国側は捜査結果を公表するかも知れない」などと他人事のように言っている。

 同じく8月9日の産経新聞では、ギョーザ事件は北京五輪での首脳会談では「取り上げられない」(外務省関係者)方針だったが、日中両国の「隠蔽」が発覚したので、急遽主要テーマに浮上した、と報じている。

 このような報道を見る限り、五輪後の中国の対応は期待はずれに終わる事になると思う。

 その時福田首相はどう対応するかだ。

 それでも胡錦涛に厳しく迫ることが出来ないのなら、その時こそ福田首相を厳しく追及しなければならない。

 胡錦涛主席の中国を厳しく批判しなければならない。

 その時に向けて国民の関心を集中するためにも、今は隠蔽、隠蔽と騒がない方がよい。

 五輪後の日中双方の対応を注視していきたい、と冷静さを装った方が迫力がある。

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2008年08月08日

 日中両首脳の外交力が問われている


 日中両首脳の外交力が問われている

  昨年から育てたブルーベリーがたくさん実をつけた。それを摘み取ってこれからジャムをつくろうとしている。私の夢だった。上手く出来たら真っ先にそれを食べるのはもちろん自分である。最高の贅沢だ。

  その合間にこのブログを書いている。

  そう書けば、片手間のブログと読者は思うかもしれない。

  しかし、このブログは、私が今までに書いてきたどのブログよりも最も気合を入れて書いている。

  中国製ギョーザ問題の正しい解決が今こそ問われている時はない。

  福田首相と胡錦涛主席の二人の外交力が試されているのだ。

  その外交力の先には日本と中国の国民の未来がかかっている。

  今度の中国ギョーザ事件で最も糾弾されるべきは、事件が起きた原因である。

  それが事故であれば事故の原因を突き止め、改善策を講じればよい。

  それが人為的に引き起こされた事件であれば、その卑劣な犯人を見つけて処罰するのだ。

   中国側が、中国でも同じ商品での中毒事故がおきていた事を日本側に通報していた事が明るみになった。

   それを受けた日本政府が、中国側の要請にもとづいて公表を控えていた事を認めた。

   その事で、日中双方の政府の対応が批判されている。

   その事については、すべての真相が明らかにされるまでは正しい評価は下せない。

   もし中国側が事件の真相を未来永劫封印しようとして、公表を控えるよう要請してきたのなら、とんでもない話だ。

   それを受けた日本が、中国との関係に波風を立てたくないからといって、バレなければそうした方がいいと、事実を隠蔽しようとしていたのなら、もっと大きな問題だ。

   しかし、日中両国政府が、いずれ公表することになるが、その最善のタイミングを見計っていたとしたら話は別だ。

   つまり、どちらに責任があろうとも真実を明らかにしよう、そしてその真実を日中両国民に正しく公表し、責任を認め、そしてこれをきっかけに改善していこう、しかし、公表のタイミングは最善の時を選ぼう、と話し合っていたのであれば、話はまったく別である。

   その真相はいずれ明らかにされなければならない。

   しかしより重要な事は公表を遅らせたことが明らかになった、それ以降の日中両政府の対応である。

   福田首相は胡錦涛主席との首脳会談でなんとしてでも伝えるべきだ。

   原因を日中が捜査協力してつきとめよう、そしてその結果を公表しよう、その結果たとえ中国側に責任があったとしても、中国はそれを認めなければならない、それは長い目で見たら中国にとって正しい事だ、日中関係にとっても正しい事だ、この事件をきっかけに、より強固な日中両国の関係を目指していこう、もちろん日本側に責任があった場合も同様である、大切なことは日中両国民の信頼回復だ、と。

   胡錦涛主席はそれに応じるべきだ。政治的に如何に困難であろうとも、中国が国際社会に受け入れられる大国になるためには、避けて通れない試練と心得るべきである。

   日中両国の将来を見据えた時、中国が民主国家として政治的、経済的に発展していく事は、互恵であり、不可欠なことである。

   そのために日中が協力して友好関係を追求していくことは、双方の指導者の責務である。

   日中間には克服しなければならない歴史問題がある。

   それにくらべればギョーザ問題は小さい問題だ。

   しかし小さい問題であるからこそ正しい解決が望まれる。

   この小さい問題で正しい解決ができなければ、どうして歴史問題が克服できようか。

   何かと批判される福田首相である。

   いつまでたっても支持率の上がらない福田首相である。

   しかし見方によっては福田首相はいくつかの歴史的チャンスを与えられているのかもしれない。

   それを活かすも、失うのも、政治家福田康夫の器量である。

   五輪参加選手達が頑張っている時である。

   その選手達に負けずに、福田首相は本気になって仕事をしなければならない。

   

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2008年08月07日

田中康夫の政治感覚に期待する


 田中康夫の政治感覚に期待する

  日刊ゲンダイの連載に田中康夫の「奇っ怪ニッポン」というのがある。

  その8月7日の指摘は私のそれとまったく同じだ。

  すなわち、侮り難し、福田改造内閣!である。

  田中康夫は喝破している。

  政権交代がすべての民主党は、小泉、安倍「似非構造改革」から決別した福田「仕事師内閣」を決して甘く見てはいけないと。

  これは私の認識と一致する。

  見ているがいい。福田改造内閣は「地方」対策に心血を注いで来るだろう。

  消費税はもはや福田改造内閣の主張ではなくなる。凍結なのだ。

  テロ給油法の再延長にはもはやこだわらない。

  中国憎しの右翼とは一線を画し、靖国参拝を封印し、戦略的互恵関係に邁進する福田自民党政権は、民主党との違いが見えなくなってくる。

  それはまた寄り合い所帯の民主党の弱点をつく、おそるべしヌエ的自由民主党の真骨頂である。

  この事を正面から言い当てている田中康夫の政治感覚は見事だ。

  そのような政治感覚を持った田中康夫は、民主党でも自民党でもない。
 
  ましてや左翼では決してない。

  新党日本はいまのところまったく音なしの構えだ。

  マスコミも田中新党日本の事をまったく報じていない。

  しかし、この政治感覚を持った田中康夫である。

  総選挙を睨んだ新党の動きや政界再編の動きの中で、このまま音なしで終わるはずはない。

  あらゆるしがらみから脱した田中康夫の政治感覚に、私は期待する。

   新党日本の動向に注目する。

  

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2008年08月07日

スポーツは人間賛歌だ

 スポーツは人間賛歌だ

  いよいよ北京五輪が明日からはじまる。しばらくは選手の活躍に熱中しよう。声援を送ろう。

  なぜスポーツは素晴らしいのか。

  それは虚飾のない世界だからだ。

  自分の体一つで勝負する世界だからだ。

  一瞬の勝負のために長く、苦しい練習を積み重ねてきた。

  それにもかかわらず勝てる保証はない。
  
  その不安と戦いながら勝負に挑む。

  そこに我々は感動を覚えるのだ。

  我々凡人はそのような競技に参加できるはずはない。

  しかし、だからこそ、自らをそこに投影して、その感動を共有する贅沢を味わうのだ。

  友達が自転車を買ってもらった時、私には親からもらった脚があると言って、友達の漕ぐ自転車の後を追って走り回ったというマラソンの野口みずき。貧しさに負けなかったけなげな心意気がそこにある。

  台所にはいつもバーベルがあったという重量挙げの三宅宏実。64年の東京オリンピックで銅メダルをとった父の三宅義行が、顔面を崩してバーベルを持ち上げた瞬間の写真を見ながら、私は大学受験に励んだものだ。

  田村で金、谷で金、ママで金、という名言を語ったやわらちゃんこと谷亮子。ママでこそ金を取ってもらいたい。

  女性だけではない。私が期待する一人は柔道の石井慧だ。一本勝ちで金メダルをとるのは格好がいいかもしれない。しかし勝つためには組み技でも、時間稼ぎでもいい、格好悪いと批判されてもかまわない、と言い切って金メダルを取ると公言する、その覚悟がいい。

  北京五輪が無事成功に終わる事を祈る。

  勝っても負けても、選手達が無事にその練習の成果を発揮できる事を願う。

  何でもかんでも中国を批判し、北京五輪の問題ばかりを騒ぎ立てる連中も、しばし選手達に声援を送ることに反対は出来ないはずだ。

  日本の見苦しい政争も北京五輪の間は休戦だ。そんな政争は、五輪参加の選手達の活躍の前には、あまりにも卑小である。

  スポーツにはいかなる批判も封じる力がある。そこには人間賛歌がある。

 

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2008年08月07日

日刊ゲンダイの悩み


 日刊ゲンダイの悩み

 どうでもいい話だけれど、思わず苦笑せざるを得なかった話を一つ。

 私の愛読紙に日刊ゲンダイがある。一頃私も少しだけ連載寄稿していた事がある。

 だからゴマをするわけではない。日刊ゲンダイの基本スタンスが気に入っているのだ。

 なにしろ日刊ゲンダイは政権批判に徹している。

 今は福田政権批判の一色だが、その前は安倍政権、そしてその前は小泉政権と、一貫して時の政権批判を行なってきた。

 民主党が政権をとれば民主党を批判することになる。

 現実的にはありえないことだけれど、共産党が政権をとればもちろん共産党政権批判だ。

 そして、それはそのまま私の基本的スタンスでもある。

 権力は腐敗する。だから権力者そのものが批判の対象なのである。

  ところがそこには大きな問題がある。

  長所はまた欠点でもある。ぶれる事のない一貫した政権批判は、同時にまたワンパターンの政権批判を繰り返すことになってしまう。

  8月6日の日刊ゲンダイに福田改造内閣は小泉改革路線の否定であるという記事があった。

  世間では同じ清和会に属するよしみで福田首相は小泉元首相の意見を聞いたり相談したりする仲だと思われているが、実はそうではない。今度の改造人事で、福田が小泉を嫌っている事がはっきりした、と書いている。

 ここまでは私の考えとまったく同じだ。

 ところが日刊ゲンダイはあくまでも現政権の批判に徹している。

 だから小泉偽改革から決別した事さえも福田批判につなげなければならない。

 そこが私と日刊ゲンダイの違うところだ。

  私は、今の日本の政治や経済の崩壊と国民生活の困窮の責任は、5年半もの長きにわたって繰り返された小泉偽装改革のせいだと思っている。日本を米国に売り渡した対米従属外交のせいだと思っている。

 だから、少なくとも今度の改造内閣で明確に小泉一派を排除した事は快挙だと思っている。

 おそらく日刊ゲンダイの編集者や記者も内心そう思っているに違いない。

 しかし日刊ゲンダイはあくまでも現政権の批判に徹するという方針を固めているに違いない。

 福田政権を批判し続けるしかないのだ。

 日刊ゲンダイの悩みがそこにある。

 愛読者の一人として同情を禁じえない。

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2008年08月06日

 中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力


 中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力

 今日6日のビッグニュースは何といっても読売新聞のスクープである。

 一面トップで、あの中国の「天洋食品」社のギョーザが、事件後に回収されたにもかかわらずそれが中国国内で流通し、それを食べた中国人がメタミドホス中毒を起こしていたと報じた。

 関係筋が5日明らかにしたというこのスクープは、もし事実であるとすれば大きな外交的意味を持つ。

 不明のままに終わろうとしていた毒入り中国ギョーザ事件が、中国での混入の可能性が強まった事で、再び動き出す事になるからだ。

  断っておくが私はこの問題で再び日中間が緊張関係になることを願っているのではない。

  日中間が互恵平等の正しい関係になっていくためにも、その試金石としてこの問題を正しく解決して欲しいと願うのである。

  読売新聞の報道によると中国側がサミット直前の7月はじめに外交ルートを通じて日本側にこの新事実を通告してきたという。その際、中国での混入の可能性を示唆したという。

  面子を重んじる中国が自ら通告してきたのだ。今までの中国では考えられなかった事だ。

  小泉元首相の下での事件であったなら、それでも中国は通告してこなかったに違いない。

  間違いなく福田外交の功績だ。日中関係は正しい方向へ変化しつつある。

  これを契機に日中両国の捜査協力が進み、原因の究明がなされ、責任の所在が明らかにされ、そしてその責任を批判し合うのではなく、今後の対応策について協力関係に発展させてもらいたい。

  それが出来れば、日中関係はさらなる時代に発展していくに違いない。

  中国ギョーザ事件に望まれる日本の外交力である。

  禍転じて福となすのたとえである。

  折から4日にはウイグル自治区では邦人記者が武装警察官に暴行されると言う事件が起きた。

  直ちに抗議した日本政府に対し、中国警察は謝罪し、中国外務省は遺憾の意を表明した。

  これも今までにはなかった中国側の対応である。

  これまでの日本の対中外交といえば、何かと騒ぎを大きくしないという慎重な対応に終始してきた。

  その対応を一概に否定するものではない。

  何かが起きた時、まず冷静に情勢判断を行ない、その初動態勢に慎重である事は外交の要諦である。

  しかし中国の反日的対応を恐れるあまり、言うべきことも言わず、事実を抑え込んで物事の沈静化を

図るこれまでの日本外交は、慎重と言うより怠慢である。

  五輪を控えた中国は今、かつて経験した事がないほどの試練と向かい合っている。

  中国と言う国が、責任ある国際国家、民主主義国家として世界から認知されるために避けては通れ

ない試練である。

  その中国を日本は支援していかなければならない。

  しかし支援するということは中国との間に波風を立てる事をおそれ言うべき事まで黙ってしまう事ではない。

  時には激しく自己主張し、あるいは相手の非を指摘していかなければならない。

  そのことによってまた中国も学ぶのである。

  その時一番重要なことは、中国への思いやりであり、中国の安定、発展、民主化は日本にとっても有益であるという現実的な認識である。

  過去の過ちに報いるという謙虚な気持ちも必要である。

  日本もまた中国の発展と競い合ってみせるという自負心もあってもいい。

  あけてもくれても中国の非ばかりを唱える事は、国益にとって何のためにもならない。

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2008年08月06日

核廃絶と日本の外交力

 
核廃絶と日本の外交力

 今日8月6日は広島に原爆が投下された日である。8月9日の長崎の原爆投下とともに、日本人にとっては決して忘れてはならない日である。

 今日のブログでもやはりこの問題について書かざるを得ないと思う。

 6日の各紙の社説は、さすがにこぞって核兵器の問題を取り上げていた。

 しかしその内容は様々だ。

 東京新聞は政治論を離れ、ヒロシマ、ナガサキの悲しい体験を「伝えたい、語りたい」と題して、平和とは、一人一人の小さな意思の積み重ねであると、詩的、情緒的に訴えていた。

 その社説に異存はないが、格段のコメントはない。

  産経と日経の社説の特徴は、「北の核を許さぬ決意新たに」(産経)」、「核拡散への監視を緩めるな」(日経)などとと、原爆記念日にかこつけて北朝鮮の核を叩いていることだ。

 日経の場合は、それでもインド、パキスタン、イスラエルなどの核保有にも言及し、核不拡散の枠組み作りの重要性と日本の責務を訴えている。

 しかし、産経新聞に至っては北の核一色だ。

 「(核全廃を訴える事も)大切であるが、日本が直面する最大の脅威国は北朝鮮の核である」とし、「(昨年のヒロシマの平和宣言には北の核に対する警告のメッセージがなく国民に失望感を与えた」とし、「米国が軽々に指定解除をしないように、さらに働きかけを強めて欲しい」などと主張する。

  「核全廃を訴える事も大切だ」、などと言わず、いっその事、米国が核を独占して世界のならず者を抑え込め、と書いたほうがわかりやすい。

  前置きはそれぐらいにして、私がこのブログで指摘したい事は、これから書くことである。

  読売、毎日、朝日の社説は、いずれも、昨年1月のウオールストリートジャーナル紙に掲載されたキッシンジャー、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、サム・ナン元上院軍事委員長の共同寄稿に言及し、核廃絶のチャンスであるとしていた。

  この米国の安全保障政策の重鎮らによる核廃絶呼びかけの重要性については、私は07年3月1日のブログで強調した。

  この呼びかけを千載一遇のチャンスととらえ、日本政府は彼らにアプローチをし、一緒になって米国政権を動かし、そして世界に呼びかけて核全廃を現実の動きにつなげろ、と提案した。

  日本のメディアもそれを訴えるべきであると書いた。

  残念ながら日本からは何の反応も出てこなかった。

  ところが世界は動いていたのだ。

  昨年に引き続き今年の1月にもまたキッシンジャー氏らは核兵器廃絶を提言している(毎日社説)。

  それに動かされて、今年の6月末、英国のハード元首相、ロバートソン前NATO事務総長ら4人が「思い切った核軍縮は可能であり、最終目標は核のない世界であるべきだ」との主張を英タイムズ紙に寄せた(朝日社説)。

  動きはOBだけではない。政府レベルでも新風が吹き始めた。

  ノルウェーは今年2月、シュルツ氏らを招いた国際会議を開き、ストーレ外相は「核廃絶には国際安全保障のあり方を考え直すことが必要で、国の指導者自身の取り組みが欠かせない」と強調した。

  今年6月、来日したオーストラリアのラッド首相は広島で核廃絶に向けた国際的な賢人会合の創設を提唱した。

  そして今、米国では、次期米国大統領を目指すオバマ氏が「(核のない世界という)ビジョンを現実にするために力を尽くすのは米国の責任である」と語り、マケイン氏が「思い切って世界の核を減らす時がきた」と、米国が指導力を発揮する決意を強調し始はじめている(いずれも朝日社説)。

  今こそ日本は全力をあげてその外交力を発揮する事ではないか。

  決して遅くはない。

  それどころか、米国ではブッシュ政権がイラク戦争の誤りを批判され、失意の中で退場しつつある。

  米国も欧州もその誤りから立ち直ろうとしている。

  イラク戦争で壊された世界の平和を本気で取り戻そうと模索している。

  そのような中で唱えられ始めた核兵器全廃だ。

  核兵器廃止は、米国がその気になれば出来る。

  米国が率先して核廃絶を行なえば、世界はこれに従う。

  その米国が、OBも、次期大統領候補も、核廃絶を言い始めたのだ。

  彼らが嘘を言っているとは思えない。

  どこかの首相と違って公約をあっさり翻すは思えない。

  そんな事をしたら世界から批判されて、たちどころに政治生命を奪われるであろう。

  核兵器廃絶は動き出すに違いない。

  唯一の被爆国である日本の首相が本気になってその動きを加速させない手はない。

  福田首相がこのブログを読むことを切に願う。

  そして指導力を発揮する事を願う。

  もし福田首相が米国を動かす事ができるなら、そして世界を束ねることが出来るなら、

  それだけで福田首相は歴史に残る名宰相となるだろう。ノーベル平和賞は間違いないだろう。

  北朝鮮もイスラエルもイランも、核を保有し続ける事はできない。核兵器を開発する事はできない。

  世界を敵に回しては生き残れない。

   福田首相。支持率の低下や総選挙の勝利に悩む必要はない。

   そんな事は取るに足らない瑣末な事だ。

   そんな事に人生を消耗するよりも、この地球上から核をなくすことに賭けて見ないか。

   誰もが出来ないと思っていたことが今目の前に現れつつあるのだ。

   私は決して冗談で言っているのではない。誇張して言っているのではない。

   おそらく今歴史は100年一度、あるいはそれ以上の転換期にある。

   それを感じ、行動に移すことが出来るかどうかが、政治家の器量である。

   外交の福田である。

   外務官僚からは歴史観のある想像力は決して生まれてこない。

   しかし彼らは命じればそれを忠実に実行する。

   彼らだってそうしたいに違いない。

   初めてやりがいのある仕事にめぐりあえるのだ。

   今こそ福田首相は外務省を奮い立たせ、核廃絶に向けての流れを現実のものとすべきだ。

   日本が行なわなくても、やがて誰かがそれを行なうに違いない。

   唯一の被爆国である日本が先駆けてそれを行なわなくていいはずはない。

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2008年08月05日

混迷する政局を楽しむ方法


 混迷する政局を楽しむ方法

  昨日のブログで政治家は政局に明け暮れている時ではないと書いた。

  しかし政治家は政局に明け暮れる。

  その理由は、政策どころの話ではないからだ。

  ただでさえ、政策を本気で実現する能力と志をもった政治家はいないのに、今は、たとえいたとしても、それどころではないのだ。

  選挙に勝ち残らなければならない。

  政権を死守しなければ終わってしまう自民党。

  政権が取れなければ分解してしまう民主党。

  その他の政党は少しでも政権に近いところに場所を見つけようと必死だ。

  メディアもまた政策より政争に飛びつく。

  難しい政策論よりわかりやすいからだ。

  皆が政局に走る。

  そうだとすれば、我々も政局を楽しむに限る。

  ましてや政治に影響力のない一般国民の我々だ。

  せめて政治家のなりふりかまわない権力争いと駆け引きを、嘲笑しながら眺めようではないか。

  それが政治に関係のない一般国民の特権だ。贅沢だ。

  さてその政局である。

  注目点はいろいろあるだろう。

  しかし、私が最も注目するのは、創価学会名誉会長の国会喚問問題と小泉改革一派の福田おろしの動きの二点である。

  いずれも政局と直に結びつく問題だ。

    5日の読売新聞が、国民新党の亀井静香代表代行が、「(矢野元公明党委員長問題を)臨時国会で取り上げざるを得ない。言論封殺の指摘があった以上、民主主義の観点から事情を聞く必要がある」と述べたと報じている。

  もし矢野元委員長の国会招致が実現すれば、公明党にとっては大きな痛手となる。

  覚悟を決めている矢野元委員長の国会発言は見ものだ。内容如何ではさらなる事態に発展するかもしれない。

  創価学会と何の利害関係もない一般国民の立場からすればぜひとも実現してもらいたい。

  確かに「言論の自由」は民主主義の根幹だ。

  政権政党の一翼をになってこの国を動かしてきた公明党、創価学会が、「言論の自由」を犯すような事をしていたのなら看過できない。

  昔から取りざたされては消えていく政教一致という違憲疑義の問題についても、この際はっきりと白黒つけてもらいたい。

  そのためには名誉会長の国会招致も必要になってくるだろう。

  創価学会、公明党にとっては最大の危機である。

  だからすべてに最優先してこの問題を回避しようとするだろう。

  みどころは民主党、国民新党がどこまで本気で追及するかだ。

  自民党がどこまで公明党、創価学会をかばうかだ。

  公明党は政権政党であり続けなければならない。

  政権政党である限り国会喚問をかわす事ができる。

  政権を手放したとたん状況は厳しくなる。

  だから、福田自民党で選挙が勝てそうもなければ福田おろしに走る。

  それでも自民党が勝てないと判断すれば自民党を見限って民主党との連立に向けて舵を切る。

  矢野問題はまさに政局そのものに結びつく。だから目が話せない。

   もう一つは小泉改革派の福田おろしの動きである。

  私は8月1日のブログで福田改造内閣によって小泉政治は終焉したと書いた。

  もはや誰もがそれを認めている。

   しかしその事と小泉一派の悪あがきとは別だ。

  面目をつぶされた小泉元首相とその一派がこのまま黙って引き下がるかかどうか。これが第二のみどころだ。

  すでに様々な事が言われ始めた。いわく小泉がかんかんになって怒っている。総裁選で小池百合子をたてて戦う。自民党を割って小泉新党をつくってキャスティングボートを目指す、などなどである。

  それはありうる話だ。福田改造内閣の支持率が上がらなければ、そのチャンスはひろがる。

  そして福田首相には思惑はずれだったろうが、支持率は大して上がらなかった。今後は支持率が更に下がっていく危険さえある。

  ここで重要な事はメディアが、福田おろしに加担している事だ。

 福田改造内閣を官僚支配、規制強化、ばら撒きの復活であり、増税内閣だとレッテルを貼っている。

  たとえば5日の日経新聞は経済コラム「大機小機」のなかで、「改革か、反改革か」という見出しの下に、小泉改革、福田反改革と決めつけている。

  あのときメディアは小泉改革を持ち上げて今日の日本の混迷を招く過ちを犯した。

  メディアはそれを認めたくないのだ。

  小泉一派もメディアも、「改革を後戻りさせるな」と叫んでいれば国民が納得すると思っている。

  国民もなめられたものだ。

  しかし、それは違う。

  改革か反改革かではない。本物の改革か偽物の改革かなのである。

  そして小泉改革はまさしく偽の改革であった。それもとんでもない偽物の改革であった。

  そもそも改革の本丸は、官僚支配の打破と官僚の無駄を排除する事にあった。

  ところがそれには殆ど有効な手を打つことなく、規制緩和の下に新自由主義を徹底して日本を格差社会にしてしまった、対米従属を徹底して日本を米国に売り渡してしまった。これが小泉偽改革の正体であったのだ。

  そしてその痛みが表面化、深刻化するのはむしろこれからだ。

  だから、小泉再登場は容易ではない。

  いくら「改革を後退させるな」と言って見たところで、「お前らに言われたくないよ」となるのである。

  メディアがいくら改革を進めろと言ったところで、今の政治では無理なのだ。

    国民にとっては不幸な事だ。

   しかし混乱を通じて新しい政治が生まれるのなら、そこに一縷の望みを見つける事ができるかもしれない。

  そう期待して思い切り政局の混迷を眺める他はない。

  どうせ眺めるしかないのであれば、思い切り楽しめばいいのだ。批評家になって勝手に批評していればいいのだ。

  政局は間違いなく混沌としてくる。

  間違いなく面白くなってくる。

  
  

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2008年08月05日

PCI社によるODA疑惑事件の真の責任者


 PCI社によるODA疑惑事件の真の責任者


  パシフィックコンサルタントインターナショナル(PCI)という建設コンサルタント会社の幹部らが政府開発援助(ODA)贈賄疑惑でついに4日逮捕された。

  5日の各紙はそれを一斉に大きく取り上げ、ODAを食い物にしたPCI社を、その社説で激しく批判している。

 しかし、どの記事も、その大きな取り上げ方の割りに、よそよそしい。迫力がない。

 なぜか。

 それはPCI社だけが悪事を働いているわけではないからだ。

 疑惑は大手商社のすべてに及ぶからだ。

 民間企業だけをいくら責めてみても、物事の解決にはならないからだ。

 真の責任者は政府の担当省庁であるが、その責任を本気で追求する気がないからだ。

 真の責任者とは誰か。

 それはODAを主管する外務省である。

 その外務省の監督下にある援助実施機関である。

 断っておくが、私は何も外務省や援助実施機関の誰かが賄賂をもらったり、法に触れる事をしていると言っているのではない。

 さすがにそれはないだろう。

 しかし、だからといって外務省や援助実施機関がその責任から逃れる事はできない。

 彼らはPCIをODAの担当企業として長年認めてきたのだ。

 不正疑惑が指摘されていたにもかかわらず動こうとしなかったのだ。

  私は外務省にあって長く経済援助を担当していたから言えるのであるが、そもそも日本のODA援助にはコンサルタント疑惑はつきものであった。

  なぜならば日本の援助政策の基本が、プロジェクト援助中心であり、相手国政府からの要請をまって行なう要請主義で出来ているからだ。

 すなわち、プロジェクト援助にはそれを作り上げるコンサルタント社の関与が不可欠である。援助案件はコンサルタント社が発掘、作成し、日本の援助が受けられやすい形に持っていく事が常態化している。

 そして、そのようにして作られた援助案件は、受ける側の政府が日本政府に要請してきてはじめて、日本政府がそれを援助対象として検討する事になっている。

 すなわち、日本の援助は日本のコンサルタント業者、援助を受ける政府、そして援助を供与する日本の三者による共同作業なのである。

 そして、残念ながら、援助を受ける国の殆どの政府は腐敗している。

 このPCI事件が新聞で報道されて以来、さぞかし外務省は内心びくびくしていたに違いない。

 外務省みずからが贈賄に関与していた事がばれるからではない。

 外務省の最大の武器であるODA(政府開発援助)に付きまとう構造的な問題点が世の中に知れ渡る事である。

 それを監督する立場にある外務省の担当職員や出先大使官の仕事のいい加減さが明るみに出る事である。

 そして、「外務省だけにODAをまかせるわけにはいかない」という声がまたぞろ頭を持ち上げ、新たな援助担当省庁を作るべしという声が再燃するという恐れである。

 これこそが外務省が最も避けたい事なのである。

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