30代で独身の男兄弟が二人、一緒に暮らしている。
そもそもこれは家庭なのか。家族とは夫婦と親子、つまり性別と世代別のある人間同士の組み合わせで成立するとすれば、これは家族の概念にあてはまらず、ただの共同生活ということになる。
映画として面白いかつまらないかだけが問題でそんな詮索はどうでもいいようなものであるが、この映画は非常に変わった味わいを持っていて、その特色は、単なる共同生活みたいな生活形態をまるで家庭生活のような営みとしてやっているところからきている。
共同生活なら、共同の部分は協力するが、互いのプライバシーは尊重して、ある程度以上、互いに相手の内面などには立ち入らないということが暗黙の前提になる。
しかしこの間宮明信と間宮徹信という兄弟は、同じマンションに一緒に暮らしているだけでなく寝室まで一緒だし遊ぶのも一緒、反省会も一緒にやる。もしかしたら買い物も一緒かもしれない。
性関係を別とすればこれだけ一心同体であるカップルというのはちょっと考えられない。
同世代で子どもの頃から一緒という点で、これ以上はあり得ないほど相手をよく理解し合っている同士の家庭だ。
ただし、普通の家庭は、相互に理解しあえない矛盾の部分を抱えているからこそ葛藤もあるが発展もある。
この間宮兄弟の場合、ほとんど矛盾のないぶん、あるいは少々の矛盾は知らん顔をしてやり過ごせるだけ仲良しであるために葛藤もなく、したがって発展ということもない。いくら仲がいいといっても、どちらかが結婚するか転勤で遠くにいくだけで解消する「家庭」で、それで不都合があるわけでもない。
では、いつ解消しても構わないこういう擬似的家族を描いても、葛藤も発展もないのだからつまらないか、というと、この映画に関してはそうでもない。けっこう面白い。そこが不思議である。
間宮兄弟の一見いようなまでの仲の良さと夫婦のような暮らしぶりは、だから女性に対する臆病さの結果だとも言えるし、そう言ってしまうとネガティブにしか見えないことになる。
しかしもし現代社会が「家族の解体」という方向に進む一方で、人々の生活はバラバラな個人に分離されてゆくばかりなのだとしたら、とりあえずどんな間柄でもいいから一緒にやってゆける者だけで結びついて、それで良識を保ちつつ楽しくやってゆくというさまざまな実験が試みられていい。
間宮兄弟の場合、30代の男兄弟が、まるで新婚夫婦のように日々を楽しく退屈しないで過ごすために知恵を絞って仲良くやってゆく姿は、異様であるとともに感動的でもある。
というのは、これは家族の解体からくる孤独と退屈、目標喪失という現代病に対するけんめいの戦いと見えるからである。
やっていることのひとつひとつはほとんどナンセンスだ。共通に応援している野球チームの試合を一緒にテレビで見て、勝つと紙吹雪を天井に投げあげて、後で一生懸命紙切れを拾って掃除機をかける。
こういう面白がり方は、一緒に面白がるということに生理的・心理的・実利的な面白さを超えた、道徳感あるいはイデオロギー的な使命感のような動機なしには成立しそうにない。
つまりこれは、兄弟愛昂揚のためにあえて無理をして頑張って面白さを盛り上げているのである。
商店街をジャンケンしながら競争して歩くという趣向もそうで、兄弟愛を高める儀礼的な行動も楽じゃない。御苦労さま。
そこに笑いがあると同時に、さりげなく冗談めかして新しいモラルを模索していることの涙ぐましさもある。
塚地武雅のペーソスのあるダサさ加減は見事なもので身につまされる。
佐々木蔵之介も、女性をデートに誘って断られ、一生懸命何でもない顔をしているという、ちょっとした事件の演技が圧巻で、ともに現代のチャップリンである。
はじけるようなギャグとは違う、苦渋を秘めたギャグの連続であり、そこが面白い映画である。
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