2008/8/9
満州国皇帝即位の陰に
歴史認識を覆す電報が存在した
歴史の真実 ラストエンペラー
ラストエンペラーで知られる清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を取り巻いたさまざまな思惑。溥儀は1934年に満州国皇帝に即位したが、現在言われるような「日本軍は中国侵略のために溥儀を引き入れようとした」という歴史に疑問符を打つ一通の「密電」が残されていた。歴史の認識を覆す資料をここに公開する。(福本晋平)
約20年前、大手新聞社の記者が夕刊1面掲載予定で1カ月間にわたる取材を続けたにもかかわらず、なぜか掲載予定日前日に急きょボツになったネタがある。そのネタが溥儀をめぐる一通の電報だった。
書籍やインターネットなどを見る限り、現在多くの人が抱いているであろう「日本軍は中国侵略のために溥儀を引き入れた」という認識を覆し、「ある日本人が個人プレーで溥儀の身柄を受け入れた結果、溥儀は日本軍に侵略の道具として利用された」と推測できる密電。
▲密電が挟まれていたアルバム。溥儀が紫禁城を追放された当時、北京の日本公使館付き武官だった陸軍中佐・竹本多吉の遺品である。
「中国侵略のために溥儀が担ぎ出された」という結果には変わりがないが、この推測が事実だとすれば、現在語られる歴史に大きな影響を与える ことになる。
密電は溥儀の側近・鄭孝胥(ていこうしょ)が天津の軍閥・段祺瑞(だんきずい)に援助を求めた電報への返電である。
当時、鄭と段は共に日本軍と親密な関係にあり、2人の間の通信には日本軍の電報ルートが利用されていた。その通信内容については当然日本軍が承知し同意するところであった。資料1がその密電だ。
電報にある「東交民巷」とは外国公使館区域であり、溥儀が日本も含めた外国に身を投じることがないように≠ニいう指示であった。
密電が送られたのは、溥儀が紫禁城を追われた翌日。この密電を見る限り、この時点で日本軍側には、言われるような 溥儀を中国侵略の道具として利用するために引き入れよう≠ニいう明確な意図はなかったと思われる。
▲愛新覚羅溥儀(右から2人目)と竹本多吉(右端)、左端は溥傑。1927年天津の張園で。
当時の中国をめぐる世界情勢は列強八カ国が互いをけん制し合う「八すくみ」の状態。清朝復興を願い、新たな身の置き場を探していた溥儀。しかし、先行き不安定な情勢の中で、どの国も彼の身柄に対して積極的な姿勢をみせようとはしなか った。
実際に溥儀は家庭教師・ジョンストンを通じてイギリス公館に保護を申し出たが、受け入れを拒否されている。
こういった状況で日本政府・軍が政策的に溥儀を引き入れようとしたとは考えにくい。背後にどのような勢力があったかはともかく、溥儀の受け入れは日本軍にとっては予期しない出来事であったかもしれない。
溥儀の身柄の受け入れを表明した日本。当然、中国国内に租界を設けている他国からの風当たりは強かった。
資料1
溥儀が紫禁城を追われた翌日日本軍のルートで送られた密電
「鄭孝胥へ 段祺瑞より。電見た 皇室のことは余が全力をもって維持保護すべく その財産もまた保全せしむ ただし宣統帝が東交民巷に入ることは中止するを可とすと考う、すでに馮の代表を上京せしめ適宜処置せしむべく命じたり」
この密電の存在はよく知られており、溥儀の自伝(とされる)「我が半生」(翻訳・新島淳良ほか、筑摩叢書)には次のようなくだりがある。「陳宝ちん(ちんほうちん)は日本軍から転送されてきた段祺瑞の密電 をもたらした。その電文には、『皇室のことは余が全力をもって維持し、かつ財産を保全す』とあった」−。奇妙なことに、当時の日本側の姿勢を示すともとれる「ただし」以下の後半部分は削られている。
MEMO 紫禁城を追われた溥儀
溥儀は1908年、当時強い権力を持っていた西太后によって、わずか2歳で皇帝に即位させられ、清朝の第10代皇帝(宣統帝)となって紫禁城で暮らすことになる。
1912年、孫文を臨時大総統とする共和制国家の中華民国が成立。このため、溥儀は退位することとなるものの、引き続き紫禁城で生活することが許された。
1924年11月5日、それまで紫禁城の中に限って宣統帝の座を保ってきた溥儀は、突然クーデターによって紫禁城を追われ、生家の醇(じゅん)王府に軟禁された。これで清朝は完全に息の根が止められた。
溥儀の側近たちが事態収拾のため八方に救援を求めているさなかの11月29日、溥儀は鄭孝胥やイギリス人家庭教師・ジョンストンの助けを借りて王府を抜け出した。
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