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孫虐待後、つきまとう親
中学3年の男の子の孫を養育している祖母です。孫は小学5年の時、実母と養父から虐待を受け、祖父母である私どものところに逃げてきました。
ところが最近、この母親が行事があるたびに中学校を訪れ、「私がこの子の母」と名乗るそうです。孫はそのたびに精神的ストレスを受け、1週間ぐらい不安定になります。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、カウンセリングも受けました。
「今は祖父母の自分たちが養育している」と言っても、孫の母親は「私が産んだのだから」と主張します。学校側も、実の親なので「帰って下さい」と言えず、対応に困っているようです。母親は再婚して小さな子どもがいるのに、わざわざ中学校にやってきます。孫は「母親のところには二度と戻りたくない」と言います。母親が来るたびに過去のことを思い出し、つらくなるそうです。孫の心の安定を図るためにはどうすればいいでしょう。(東京・I子)
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実の子を苦しめているなんて、許し難い母親ですね。お孫さんの心の安定をはかるには、児童相談所に相談するだけでなく、親の権利を主張できないようにするのが一番良いと思います。
親が親権を濫用(らんよう)し、子の福祉を害している場合、法律で、家庭裁判所が親権を喪失させることができると定めています。そして、子に親権者がいなくなった後は、申し立てにより、家庭裁判所が、親代わりとなる後見人1人を選任します。
そこで、あなた方が家庭裁判所に申し立て、親から虐待され逃げてきたお孫さんを保護している実情を明らかにすれば、養父と実母の親権を剥奪(はくだつ)して、祖父母であるあなた方のどちらかを後見人にすることが可能だと思います。
そうすれば、あなた方が法的に親と同じ立場となり、母親の干渉を排除できますから、安心してお孫さんを育てられるでしょう。詳しい手続きは、法律相談で弁護士に相談して下さい。
中学3年という難しい年ごろの子どもの面倒をみるのは大変だと思いますが、お孫さんの健やかな成長をお祈りしています。
(土肥 幸代・弁護士)
(2008年7月31日 「人生案内」 読売新聞)
恐怖の体験の記憶に苦しめられるPTSD(心的外傷後ストレス障害)について、「くじらホスピタル」(東京都江東区)の精神科医、上村順子さんに聞いた。
――どのような体験をした患者を診ることが多いのですか。
「子供の時に虐待を受けた人や、暴力をふるう夫から逃げてきた人、性暴力の被害にあった人など、心に深い傷を負った人を診ることが多くなっています。共通するのは、『自分は何をしてもだめだ』と感じるなど自己評価が低く、自分を責める気持ちが強いことです。自殺に走ろうとする人も少なくありません。治療は時間がかかり、持久戦になります。カウンセリングではまず、自分自身を大切に考えられるようになることを重視します」
――心の傷とは、どのようなものでしょうか。
「人の心は、衝撃的な出来事で傷つきます。時間の経過と共に回復することが多いのですが、恐怖や戦りつが大きいと、その体験は過ぎ去った記憶にならず、現在形のまま心の片隅に居座ってしまいます」
――PTSDの特徴であるフラッシュバックは、なぜ起こるのですか。
「フラッシュバックは、恐ろしい記憶が突然よみがえり、再体験する症状です。恐怖の体験を次第に受け止めていく過程とも考えられますが、鮮明な記憶による再体験は非常につらく、周囲の人の支えや医師の治療が欠かせません」
――安易にPTSDと診断する例も問題になっていますが。
「PTSDは、生死にかかわるような過酷な体験によって起こる病気です。ところが、ひどく怒られたといった、生死にかかわらない体験でも、不眠などの症状が出ると、PTSDと診断されるケースが出てきました。逆に、家庭内暴力などの訴訟に巻き込まれるのを避けるため、深刻なPTSDでも、診断をつけたがらない医師もいます」
――PTSDの患者に、家族や友人はどのように接したらよいですか。
「PTSDは、患者さんが孤立感を深めることで悪化します。過去を忘れたくても、いやおうなしに思い出してしまう本人に、『早く忘れなさい』などの言葉は禁物です」
「PTSDに陥ると、家から出られなくなることがよくあり、適切な治療を受けていない方が多くいる可能性があります。本人の心の傷に周囲が気づき、受診を促すことも大切です」
「ただ、見逃されがちなのは、患者さんの身に降りかかった衝撃的な事件や事故、災害などで、家族も心の傷を負った可能性があることです。そのような状態では、いつまでも過去の体験にこだわっているように見える患者本人に対して、イライラしたり、声を荒らげたりすることもあるかもしれません。家族に対するケアという視点を持つことも、PTSDの治療の重要なポイントです」
(佐藤光展)
(2008年6月20日 読売新聞)
阪神大震災以降、カウンセリング業界では「PTSD」が大安売りである。
なんでもかんでも患者の問題をPTSDに結び付けて説明しているような気がして仕方ない。
まあ、人間というのは多かれ少なかれ過去の亡霊とともに生きている部分は確かにある。
みんな、ネガティブな経験の記憶の影におびえながら、なんとか現在の日々を生きている。
でもそれは人間だから仕方ない。鶏や猫みたいに、何でもかんでもすぐ忘れてしまえるという芸当は人間には難しい。
今現在の自分の性格やものの考えの多くの部分が、過去の出来事によって決定的に方向付けられている、そう感じることは確かにある。
一方、そのような過去から続く心理的な枷のようなものをうっとうしく感じて、なんとかその影響の外に出たいとするのも人間の性であろう。
そこに少なからぬ葛藤が生じる。
時に、心理的な枷のほうが強すぎると感じられて、どうしようもない敗北感と無力感にさいなまれることもある。
どうすればいいものやら?正直分りかねるが、一般的に言えることは、現在の自分だと思っているのは現在の自分がそうだと信じている自我イメージに過ぎないのであって、本当は自分というものはそれほど明確で明瞭な存在としてはない。
自我イメージとして想い描いているものより、実際にはもっと曖昧で矛盾した要素を抱えており、現実の自分というものは、自身が想い描いている自我イメージを大きく逸脱しているはずである。
過去の出来事と自我イメージとの間に因果的関係性を見出す事は確かに出来る。また、それによって現在の自分の心理を正しく認識し修正することも出来る。だからそのこと自体は無益ではないし、むしろ有益でさえある。
しかし、そこから逸脱している存在たる現実の自分というものも確かにあるのだ。
そしてこの現実の自分は、過去の出来事やその記憶からさえも完全に自由な存在なのである。
自我イメージだけでなく、こっちの現実の自分の存在も認めてやってほしいものだと感じる。
たぶん、人間は自分だけで生きているのではなく、自分が見聞きしたほかの人々の情報とともに生きており、また自分の心はそれらによっても形作られている。
偉人の伝記、童話や映画の主人公、友人、先生、そういう人々の情報を無意識に取り込み、コピーしながら自分の人格に取り込んでいる。
その意味で、現在の本当の自分が何によって形作られ、実際にどういう存在になっているかは自分にも容易に測り難い。
自分を小心な小悪党でどうしようもない屑だと感じていても、実際に何か目の前で危急の事態に出くわせば、目の前の人を救うために命を投げ出す英雄としての働きをなすこともある。両者は一人の人間の性質としては明らかに矛盾しているが、やはり一人の人間のなかに収まっている性質にほかならない。
そう思うと、人は鵺のような、スフィンクスの謎のような、やはり訳の分らない曖昧模糊とした存在に思える。
さて、近代産業革命は個人というものを明確に規定することから始まる。すなわち人間を周囲の環境や人々との関係性から切断して、個人としての自覚を促すことで、個人を度量衡の単位とした新たなる社会構造の改編を目論んだのである。
それで、現在の我々はやたら「自分」というものを強く意識するが、それが家系や村落といった血縁地縁の枠の中に内包されていた時代には、あまり個人の自覚は求められなかったので、「自分」というものをそれほど強く意識もしていなかった。つまり自分というのは、訳のわからない曖昧なもので、それは常に属する共同体から与えられる役目と同視されるものでしかなかった。
要するに、社会共同体から与えられる役目こそが「自分」にほかならなかったのである。(だから与えられる役目に応じて自分も変わる。)
一般的な事を言えば、そのように自分が役目と同視されている社会では、自分が自分の自我イメージによって規定される社会より、ストレスが少ない。
我々が現在、ことさらにPTSDなど過去の出来事と現時点での自分の心理的状態を関連付けて考えるのは、強く自我イメージを意識せざるを得ない時代性とも関係があることだ。
おそらく、現在の心理的問題を解決するアプローチには大まかに二つあるはずで、ひとつは現在の自我イメージを原因付けている過去の出来事を正しく理解し客観的に観察することで、自我イメージそのものの安定を図ること。
もうひとつは、自我イメージそのものの曖昧さに着目し、イメージを解体することだ。もともとそういうものは存在していない、したがってその原因なる過去の出来事にも影響されることはありえない、そういうアプローチである。
その結果、喪われる自我イメージの代わりのアイデンティティーとして何らかの社会的役目を与えるのである。
で、両者は実際のところそれほど隔たったアプローチなのではない。不幸な事故で心に傷を負った人が、やりがいのある仕事を見つけそれに打ち込むことで自身が癒されるというのは良くあることだと思う。
基本的にはPTSDも自我イメージも、それほど強大なものとして認識すべきではないと感じる。本来の自分がそういうものによって限定され囲われるほど矮小なものではないし、そもそも流動的で常に外部の要素と入れ替わっており、つまり自由なのである。
現代人はもっと自分を自我イメージの呪縛から解放してやってもいい。
誰かが、あるいは自分自身が「私は誰なのだ?」と問いかけるなら、「誰なのだと問いかけている(基準になる)私はどこにある?」と考え直せばいい。実際には、確固たる私なんてものは、イメージとして以外にはどこにもないのだ。
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だって会ってすぐに朮〒」レ直行して部屋に入った瞬間┐ェラだよwww まじビビったわ(^^;
だから俺も指入れてちょっと動かしてやったんだけど、それだけで潮ブッシャーーーー(゜д゜)!
結局俺何もやってないのに8マ ソくれたwwww この女ウマすぎたわwwwww