新 日本古典文学大系 明治編

特色



特 色
文学がもっとも輝いていた時代の沃野へ

「新しい古典」としての明治文学
 今をさかのぼることおよそ100年,小説執筆を開始する以前の夏目漱石が文学研究を志して英国留学に発った.いわく「余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり」(『文学論』序).彼が果たしてどのような時代的制約のなかで思考し,先行する「文学」としてどのようなものを念頭に置いていたのか――21世紀の今となっては,それを想像することは難しい.社会・風俗・習慣がすっかり様変わりした「近代以降」を生きる私たちにとって,漱石以前の時代はすでに遠い彼方にあり,はっきりとした像が結びがたくなっているからである.
 本シリーズは漱石が作家活動を始める直前までの文学,つまり明治30年代前半までの文学作品を扱う.この時代は,やがて現在につらなる文化や制度が生み出されていく過程として,様々な試行錯誤がなされていた時代でもある.この変転著しい時代の文学的現象を十分に味わい,また理解するためには,文学研究の成果に裏打ちされた精確な“読み”が必要ではないだろうか.明治の文学をもういちど私たちに引き寄せるために「新しい古典」として位置づけ対象化するゆえんである.

近世から近代へ――その連続と断絶の諸相を反映した各巻構成
 古代以来の漢詩文と和歌,この文学の二大潮流は,時代による変容を重ねつつ江戸時代に流れ込む.他方,芭蕉によって芸術性を高められた俳諧,広範な読者を獲得した読本・洒落本・人情本等の戯作や,歌舞伎・講談など,この時代に興隆したジャンルも多い.
 そういった様々な文学の流れは,明治維新後もおおむね引き継がれて行く.たとえば文明開化の世をむかえても依然として知的な韻文とは漢詩であり,また表現の主要な器として漢文が優越的であった.それは明治初期の政治小説,さらには西洋文学や聖書などの翻訳においてさえ,それらの文体が漢文訓読体を踏襲していることからも明らかである.外・漱石など文豪たちにとっての教養の源泉となっていた漢詩文の流れを正確におさえ,また漢文がもっていた表現の多様性をたどることは,明治期の文学を理解するうえで不可欠の要素となる.
 一方,長い鎖国の時代が終わり,怒濤のごとき西欧文化の流入が始まる.海外への渡航体験をもとにした見聞録,あるいは翻訳を通じた西欧文明への接触は,これまでにない表現上の試みを刺激し,内容においても外来の新たな概念が如実に反映されるようになる.なかでもキリスト教思想の摂取は,自然観や人間観に大きな影響を与えただけでなく,文学者の主観や視野そのものに大きな転回をもたらした.
 「近世的なるもの」の持続・衰退と,「近代的なるもの」の胎動・成熟とが重層的に折り重なっていた時代である明治を,その連続と断絶の混淆体としてとらえ,ダイナミズムに溢れる諸相を明らかにすること――それが本シリーズの目的となる.日本文学史上特異な多様性を持つこの時代にふさわしく,これまでにない新しい視野から,明治文学を読み解くための多面的な各巻の構成と作品選定がなされている.

時代性に即した読みと注釈
 風俗,言葉,時代背景――明治の文学を味わうことを難しくしている大きな要素の一つに,私たちにとって様々なものがすでに疎遠になり,あるいは逆に自明のものになっているということが挙げられる.
 髪形・着物・道具など,現在の生活ではすでに失われてしまった風俗は多い.たとえば口一葉が描き出す,それぞれの運命を甘受する女たちの容姿.そして二葉亭四迷が冷ややかに列挙する,開化の世を我が物顔で闊歩する男たちの髭.それらを時代の文脈の中に置いて読むことで,明治の世を生きる登場人物のたたずまいが生き生きとよみがえり,繊細な作品理解が可能になる.
 また,日本語がもっとも変革の波にさらされたのがこの時代であり,斬新さと混沌とがこの時期の文学に色濃く反映されている.前代からの流れのうえにある言葉と,新たな流入物を受け止めるために苦心して編み出された言葉の同居.そして,教化と啓蒙の要請による規範的な「国語」の整備がなされる過程として,表記法や字遣いが揺れ動きつつ均質なものに収斂されていく時代の文学には,同時代だけでなく,明治以前からの表現を念頭におく必要がある.
 近代ジャーナリズムの誕生,活版印刷の本格的導入,国語・国字改良問題,速記技術の確立,政府による包括的な教育制度の開始……これらの歴史的な背景が文学作品に及ぼした影響関係を念頭におくことも重要となる.
 時代の特殊性を視野に入れ,近代文学や近世文学の知見だけでなく,様々な分野における研究者が協力し,時代性に十分即した読みを可能にするために,これまで磨き上げられた古典解釈の方法を近代の文学に応用した注釈,それは今までにない試みといってよいだろう.
『八十日間世界一周』 『即興詩人』


本 文
底本には原則として新聞や雑誌の初出掲載か,単行本の初版を採用する.
本文は,活版印刷が導入され,なおかつ表記法が揺れ動いていたという時代性に鑑み,改行,括弧,仮名遣い,送り仮名,振り仮名,句読点など,可能な限り底本のかたちを損なわないよう努める.
ただし,次の点については読みやすさを考慮し,工夫する.
 ・旧字,異体字,俗字,変体仮名は通行の字体に改める.
 ・読みにくい漢字には,原文と区別できるかたちで振り仮名を付ける.
 ・原文の清濁は補正する.
 ・漢文で記されているものは,読み下し文を掲げ,同時に原文も併載する.
底本の挿絵はすべて収める.

注釈・補注・付録・解説
語句の解釈にとどまらず,原文を味読するために適切と考えられる注釈を心がける.
近代文学のみならず,近世文学,あるいは広く関連諸分野の協力を得て,最新最高の研究成果を反映するよう努める.
巻末に,作品の内容に応じた補注,付録,解説など,関連資料を豊富に付ける.また,各作品の前に簡単な作品ガイドをつけて,鑑賞の手引きとする.
毎巻に別刷の月報をつける.

造 本
A5判・上製・貼函入.堅牢な製本とした.
題字は三藤観映氏の筆である.



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