たどりついた。つむりさんのところ。
親といういきもの大学4年で精神的な破綻を起こしたあと、未だに記憶が抜けている期間に、何か大切なことがあったのだろう。けどもそれが何だったのかとか、そういうのは、今となっては割とどうでもよく、今はただ、もうすぐ結婚して、本当に親離れしなきゃいけないのが少し淋しかったりする。自分が思っていた以上に「いい親子関係にある」ことを理解したのがここ数年だから、余計にね。親はいくら淋しいと思っても、子どもが自立するって言ったらそれを止める権利がない。
もっと喧嘩したらよかったし、もっとワガママ言ったらよかったし、もっと甘えたらよかった。
いつかいえるだろうか、断ち切れるだろうか、ここで。連鎖はなくなるだろうか、本当になくなるのだろうか、願っても祈ってもかなわないかもしれない。基準がないから。標準的な基準が何かがつかめないから、それでもトライアンドエラーだって言い聞かせて進むけれども確実なものなんて何もない。
まぁでも覚書は書いておこう。便宜上被害者とは書いていますが、あくまでも便宜上です。あえて毒親という名称は使いません。自分のこともまざってますが人のこともまざっています。相談されることが多いのと無自覚だけど…っていう人が結構まわりにいるので。何だろうね、類友?
- 全てにおいて間違っていると思い込まされる
- 人でなし、人間の出来損ない、性格が歪んでいる、性格が悪い、頭が悪い、白痴、愚鈍、鈍い、頭が悪い、トド、豚、田舎もの、ダサい、最低、死んだほうがいい、醜い、意地悪、底意地が悪い、生まれたときから幸せになれるわけがないと思った、出て行け、迷惑、誰にもすかれるわけがない、誰からも嫌われてる、要らない人間などが常套句
- 思い込むまで軟禁なり監禁なり暴力なりが行われる。完全に心のそこからそれを受け容れるまでは続気、そうやって価値観や判断基準や思考回路が作られる。
- これはだいたい二十歳になるまでは確実に続く(未成年という縛りがあるので)
- 同居を続ける限り三十代でも続く人は続くだろう
- 直接的な暴力に比べて表立って見えにくいところがあり、本人も理不尽ではなく自分が悪いと思い込まされているのでSOSを出さない傾向が強い
- 長期にわたるため、その価値観が刷り込まれてしまう。抜け出しにくい。しかも明らかに理不尽とは限らない場合もあるので線引きを自分ではできない。
- 暴力を受けるほうの人間は大体自分の何が悪いかを言える。何が悪いかはわかっている。それが世間一般的に見て正しいかどうかは別として、その関係性の中でそれは「悪いこと」であるというのは絶対的なものである。
- 基準は一貫していて暴力をふるう人間が考える「正しさ」にしたがっているかどうか
- その正しさは多くの場合暴力をふるう人間を気持ちよくさせるかどうか、だけである。このためぶれがない。
- したがっている限り害はなくむしろうまくいっているようにさえ見える
- 基本的に普段からボディタッチなどが多い
- テレビを見ていてどういう状況でどんな場面で笑うかということも神経をとがらせておかないと「正しくないこと」をしかねないという類のものである。さっと人がどこで笑うか、笑ったかどうかを判断することになる。それは非常に早いので普通のひとは気付かない
- 楽しいことをするのをためらうようになる。遊びに行くとかは心理的にストップがかかっていっても上の空になってしまうのでいけない。実際に行くとあとで大変になったりするのでどんどんいかなくなる
- 楽しいことをしている・楽をしている・遊んでいるなどは許されない場合が多い。だめだといわれなくても被害者本人が控えてしまうことが多く表面化はしにくい(忙しいから、お金がないから、親が厳しいから、門限があるからなどのいいわけはいくらでもある)。楽しんでいるんじゃないかと一瞬でも疑うと「そうである」となるのでそこから暴力は始まる。基本的に一瞬で血は頭に上るようだ。
- 被害者にお金を持たせない傾向は強いような気がする。お金を持たせる→好きなことに使う→許せない、なのだろうと思うし、溜め込んで反抗するのに使われる・金を払えといって困らせることができないからだろうとは思うが。
- その基準を絶対正しいと信じている限りあるいは正しさに従えなかったときに素直に自分が悪いと認めた場合被害はない。
- 怒らせたときとそうでないときのギャップが非常に激しく、戻ったときの反応はむしろ親しげであり理解がありそうである
- 外部との価値観の違いに気付いたときに混乱する
- それまでの基準に従うと自分が悪いからだということになるのでそう思い込む場合が多い
- 逆に自分は絶対に悪くない何があっても悪くないとなる場合もある。これはそれまでに刷り込まれた価値観を壊している状態であるがわりと危険。
- ほぼ20年間で作られた世間一般的にみると明らかに異常な価値観を壊すのは非常に労力が要りかつ暴力をふるう人間の邪魔が確実に入るので困難を極める
- よくあるのが出て行けといって追い出す(本当に身包みはいで放り出す場合もある)→どうにかやっていこうとするが貧乏だったり手段がなかったりなどして非常に苦しむ→いわれたとおりにしていれば以前の「まだましな」生活があることをほのめかす或いは目の前にちらつかせる・帰ってこいなどといいはじめる→ここで戻ってしまう場合が多い(まぁでも頭かち割られるくらいなら飛び出したほうがよいとおもうのだが…
- まれにさらに暴力をふるう側の人間にさらに悪いことが重なって、うまくいかないのは出て行ったからだ、何かしらのけちをつけたからだなどという理不尽なことをいってきたりする→こうなると大体収まらないのであらゆる手段を使って生活や人間関係をつぶしにかかってくる場合が多い。
- 職場に電話をかけて解雇するように頼む、学校に退学願いを出す、家にいた頃から付き合いのある人間にないことないことふきこむ、恋人と別れさせる、勝手にアパートなどを引き払う(大体保証人になっている・なってもらうしかないので)、バイトを勝手に断る、学費を出さない、今までに(大体二十歳までに)かかったお金を返すように強要する(しかも一括)など
- 何かの加減で逃げられた・収まった(治ることはないのだろうと思う。基準が違うから)場合でも価値観を変えない限り同じことを被害者自身もしかねないという危険性が常にある
- これは悲しいことだが事実である
- まず価値観が世間一般からみれば異常であるということにきづかなければならない
- 次にその異常な価値観を粉々にくだかなければ絶対に解決しない
- 再構築は二十歳をすぎてからではかなり厳しいものがある。二十歳をすぎた大人には面と向かってはっきりとそれはいい、それは悪い、それはやってもいい、それはやらないほうがいいなどといちいち指図してて取り足取り教えてくれるような奇特な人間はまずいない
- また一度価値観を自分で壊すという作業を自分自身で行っているので誰か一人の意見を聞いてそのとおりやる、ということはまず、できない。疑いが必ず混じりこむ。
- それでも価値観を壊すという作業をできるのならまだましなほうだとは思う。一時的に楽なほうに流れた(つまり主従関係に再び戻るというプロセスを経た)場合、この作業をしないままになってしまうので自分の価値観が以上であることに気づかないままである。
- そんなばかな20年間の間に自分は何かおかしいんではないだろうかと思う場合もあるだろうと言えるのかもしれないが、すべてにおいて間違っている価値観ではない。なぜなら暴力をふるう人間が気持ちよくなるため、楽になるため、正しいと認められるための価値観を植えつけられるので世間向けにはよい顔をできるようにはなっていて本人もうまくやれているような実感が得られており対外的にも「いい子」とされる場合が多いので価値観を強化してしまう。
- ちょっと扱いづらいところがある・暴力をふるう人間にしか関係ないことについては異常に基準がきびしい(あるいはさだまらない)・相手を怒らせた場合の非はすべて自分にあると思い込んでいればその関係は維持されるし問題は起こらない
- 暴力の程度がそんなに激しくない場合は共依存かもしれない
- 暴力をふるう人間の人間性は絶対といっていいほど変わらない。なぜなら価値観が違うから、自分が悪かったかもとか思わない。もし例え思っていたとしてもそれを解消するための価値観がまた違うので「私が悪いことをした原因になるようなことをしたのを反省させなければならない」という思考回路である可能性は非常に高い
- 話し合いは無意味である
- まず覚えていない
- 記憶は捏造されるものである
- 記録媒体を使っていても記録に残っていても改ざんしたと言い募られる→そもそも主従関係にあったのでよっぽど強く出ても冷静に反論しても最終的にはマインドコントロールに持ち込まれるか、もしくは被害者側が変わらないということをよくわかっている場合は記録しようという気にすらならない(あきらめてしまう)
- 暴力をふるう人間の中では暴力をふるうという行為自体は正当化されているのでいくら常識などで第三者が説得したところで理解できない
- 価値観の再構築は非常に時間がかかり、さらに疑念が常に頭にあるので通常よりもさらに長い時間がかかる。
- どんなに細かくくだいても刷り込まれた無意識下の行動などは制御できない場合があり、しかも自覚がないので矯正がしにくい
- これが連鎖と呼ばれるやつだろうと思うが、実際に抜け出すことは難しいとは思う。それでもできるって信じるんだけれども、嘘でも無理でも信じ込まないとやっていけないから。
- 自分の感情に自信が持てなくなる。笑うのとか怒るのとかそういう直感的なものですら影響を受けていたのではないかと疑い続けるし、それがそれまでの「正しさ」から見て間違ってるんじゃないかと一瞬思ってしまうのも同時に対処しなければならない
- まぁだから感情を表現するときにそんなに気を張ったり気にしたり気を配ったりとかしなくていい相手というのは貴重だし楽なんだけれどもなかなかいるものではないわな
- 抜け出るまでのプロセス
- 自分が100%悪い→自分は100%悪くない→何がいいか悪いかわからない・判断できない→やっぱり自分が悪かったかもしれない・自分に問題があるのかもしれない・自分はこんなにがんばっているのに誰もわかってくれない(揺り戻しにあいやすい)・自分がこんなにがんばってるのに周りは全然努力してない(似たような境遇の人を攻撃しやすい)→やったこと自体は悪くないが方法に問題があった・相手にも非があるが自分も反省すべき点はある・自分は悪くないとは思うがここは我を通さないほうがうまくいくので特に意見は言うべきではない適当に妥協すべきである・正しいことだけが全てではない・虫が悪いときもあるだろう・常識的に考えるとあまりいい状態ではないが一時的には仕方ないので適当に発散しつつうまくあしらえばよい→その次はしりませんまだ。
- 行きつ戻りつしながら少しずつステップを踏んでいく感じか
- 問題
- 暴力をふるう人間が根本的に変化せずにそこにいるということ
- いつ終わったか本当に終わっているのかという判断ができないこと(そもそもずっといつ火がつくかはわからないし火がつかない限りは良好な関係のようではあるのでもう大丈夫というラインがわからない
- 暴力をふるう側の人間があわよくばと狙ってるようにしか思えないということ
- 揺り戻しが常にあるということ
- しかもそれは機嫌がいいだけなのか罠なのかがはっきりとわからないということ
- 少しでも理不尽なことがおきると他人に対しても疑惑の目を向けてしまうということ
- ひどい場合は世間一般的な基準というのすらも疑い始めるときもある
考えてるレイヤーが違うんじゃないかといったのは抜け出るまでのプロセスのどこにいるかっていうことなんだけどそもそも状況が違う場合は比較しようがない。
目に見える暴力とくに身体に傷が残るのとか、しょっちゅうガラスが割れるのとか明らかにやせ細るとか顔の皮がむけてるとか青あざができてるとか、骨が折れたとか耳が千切れてるとかそういうのは第三者にわかるので介入されやすい。普段良好な関係の場合で不定期にランダムにやってくる上のような場合は外部からの介入はまずない。絶対をつけてもいいくらいない。価値観を固定されてしまうので変わっていくことが非常に困難であり、変わること自体が苦痛であり、変わった後でも恐怖(自分が同じことをするかもしれないという恐怖)は常につきまといかつ連鎖という実例を自分の目で見ているので自分自身を信用することもできない。
結論から言ってしまうと価値観が安定しないと、人格としても安定しない。感情或いは人をベースとした価値観なので、不安定である場合が非常に多い。また、世間一般からみると異常な価値観なので、自分の中の価値観とそれはおかしいといわれる狭間で消耗することが多い。
あとすげー類友なんだよな…周りにサンプルがごろごろいる…。特に母親→娘というのは多いらしいけど。前にメインアカウントでまじめなこと書いてた頃にはそういう知り合いが何人かネット上のつながりでできた。母親の嫉妬というらしい。自分の夢を子供に負わせるんだけど、子供がそれを実現させると嫉妬して過剰に過小評価+過剰攻撃するというやつ。あと子供のままでいさせたがるんだよね、扱いやすい子供のままで。だから服装や髪型やそういう外見を構いだしたときに火がつきやすい(映画のキャリーなんかもそうだと思うんだがあれは)かといってあまりにも醜い格好をしているのは世間体が悪いのでそれはそれであげつらってこきおろす。自分に似ている子供にそれをしがち、なのかな。これはよくわからん。だいたい父親の影は薄いか非常に弱いか。
まぁそれでもどんな場合でも生きていくんだけどさ。気付かずにいる人も多いけどさ。それはそれでいいんだろうかと思うときもあるし、どうなんだろうと思うときもあるし、それはだめだといいたくなることもある(が価値観の押し付けというのこそ忌むべきことだとしてストップがかかる)が、まず自分のことからだといずまいを正す。
人付き合いするときは、あまりにもよくわからないとそれだけで疲れてしまったりはするし、わかっていてもわからない気がして揺れ動き続けるし、あと類友なので気付いてないけどどっぷり漬かりこんでる人と親しくなってしまってひどい目に会ったりもするし一人でいっぱいいっぱいなのになんで二人になってんだよと切れ始めることもあるしまぁ人生というのはよくわからない。
その中で予定調和というのは大事にしたいと思う。表情を気にしなくていい相手というのは大事にしたいものだと思う。気楽にいれる相手というのはそれがいつあらわれるかはわからないしどれだけ仲良くなるかはわからないんだけれども、大事にしたいものだと思う。闘うのは一人でするから、安心できる場所があるならそれだけでいいよ。
自分を物差しにすると毒親になるよ。
毒親持ちの喪女5
203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 12:06:13 ID:rueq5R5D
幸せ恐怖症の呪いを持った母親が、自分自身で幸せになろうとせず、
愛情を装った根回しなどで見返りを求め、子供達に自分のご機嫌をとらせようとする行為で
家庭をグチャグチャに破壊してしまったのが我が家である。
この家庭の反面教師として学んだことは、自分自身で幸福になって良いということだ。
他人を操作しようという「見返りを期待した御機嫌伺い」では人は幸福になれない。
人は見返りを期待せず、思いのままに振る舞って良いのだ。
そして、一人の時には、心の中に設置された母親の呪いの監視カメラに人生を監視されずとも良いのだ。
堂々と生きればいいのだ。
リスクを取って、真の自由を目指す。
自分自身は自分で幸福にすれば良いのだ。
毒になる親
その方法が何かはわからない。だけども不幸になるのも現状維持も変わっていくのも自分の手でしかできない。救いの手は外側からしか差し伸べられないけれども、自分の檻や殻や柵を壊すのは内側からしかできない。難しいけれど、困難だけれども、長い時間がかかるけれども、人生はきっとそれより長いから多分間に合うだろう。断ち切るんだ、そして幸せになるんだ。なればいいんだよ。