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絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件で東浩紀氏寄稿

2008年6月12日18時19分

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写真無差別殺傷事件が起きた秋葉原の電気街では、多くの警察官が見回りをしていた=11日、細川卓撮影写真東浩紀氏

 東京・秋葉原で8日、1人の青年が一瞬のうちに7人もの命を奪った無差別殺傷事件。衝撃的なこの事件について、ポストモダン思想からオタク文化まで、幅広い表現活動を展開する批評家の東浩紀氏(37)に寄稿してもらった。

     ◇

 去る8日、買い物客と観光客で賑(にぎわ)い、アニメ・ゲーム文化の中心地である東京・秋葉原で残虐な事件が起きた。死者7人を出した無差別殺傷事件である。

 筆者は一報を自宅でネットで知った。第一印象は「ついに起きたか」だった。

 むろん、事件発生を予想していたわけではない。しかし最近の秋葉原については物騒な報道が相次いでいた。パフォーマンスが過激になり、規制強化が囁(ささや)かれていた。

 他方で若い世代のあいだでは、日本社会への絶望や不満が急速に高まっていた。昨年の論壇の話題は「希望は戦争」と語る若手論客の登場だった。そして、アキバ系と言われる若者文化の担い手と、絶望した労働者やニートの層は、意外と重なっていた。

◆象徴的な土地

 つまりは、いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。

 筆者はいま「テロ」という言葉を使った。多くの読者は違和感をもつだろう。テロといえば普通は、何らかの政治的主張を伴った、強い信念のもとでの行動を意味する。今回の凶行にそんな主張があったのか、と。

 確かに通常の意味での政治的主張はない。容疑者はネットに大量の書き込みを残している。そこには身勝手な劣等感ばかりが綴(つづ)られている。社会性のかけらもないように見える。

◆疎外感募らす

 しかし、逮捕後の調べのなかで、容疑者が職場への怒りや世間からの疎外感を長期的に募らせたうえで、計画的に凶行に及んだことが徐々に明らかになってきている。そこに窺(うかが)えるのは、未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話ではなく、むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒りである。不安定な雇用に悩んでいたという報道もある。

 容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸や経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。無辜(むこ)の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。しかしその幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない。だから、筆者はこの事件をあえてテロととらえたいと思うのだ。

 容疑者はむろん厳罰に処すべきである。犯罪の計画性と残虐性は明らかであり、情状酌量の余地はない。また、このような事件は二度と起きてはならず、容疑者を英雄視することは許されない。ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ。

◆不可避の社会

 しかし、テロリストを厳正に処罰することと、テロが生み出される背景を無視することは異なる。私たちは彼のような「幼稚なテロリスト」を不可避的に生み出す社会に生きている。犠牲者の冥福のためにも、その意味をこそ真剣に考えねばならない。

     ◇

 あずま・ひろき 71年生まれ。著書に『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』(ともに講談社現代新書)ほか。共著に『自由を考える』『東京から考える』(NHK出版)など。

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